第4話 亡霊/4

 黒灰色チャコールの外套に袖を通し、剣帯をしめる。武装は側にいるフィルに預けたまま、フレイセルは大講堂の階段を駆け下りた。その背中を、ミルテが引き止める。

「どうした?」

 急いで追いかけてきたのであろう、ミルテは肩で息をしながら、これ、と自分の腕から腕輪を外すと、フレイセルの手を取ってそれをはめた。

「ノフィさんがお守りにくれたんです。持って行ってください」

「だが……」

「二人とも帰ってきてくださいね」

 フレイセルの手を握るミルテの力は強い。涙ぐむ少女の頭を、フレイセルはやや乱雑に撫でて、安心させるように笑った。

「先生を頼んだぞ。今、天文科の実験室で休まれているはずだから」

「はい」

 ミルテは最後に一度フレイセルを抱きしめて、それからそっと離れた。フレイセルは続けて何か声をかけようかと思ったが、フィルに急かされるまま、その場を後にした。帰りを待つミルテのためにも、男を止め、ノフィを救わねばならない。

 現場には規制線が引かれ、魔術兵装で武装した衛士たち十数人が物陰に身を潜めていた。研究施設だったというその廃墟は、傍目には静かで、中で何事かが起きているような様子は掴めない。

「中はどうだ」

 メイエル中佐が、蹲って機械をいじっている観測手に尋ねた。天文科の持つ〈十天儀〉と同じく、霊素の観測を補助する道具だ。観測手は機械のつまみを捻って観測範囲を絞りながら、報告する。

「地下部にノフィエリカ嬢と思しき霊素の反応があります。その側にもう一人水の霊素と……、……大きな塊が一つ、しかし、これは……なんだ……?」

 観測手が途中で言葉を濁し、メイエル中佐は眉をひそめた。

「正確に報告しろ。どういうことだ?」

。急に、渦のような……が現れました。十分に注意してください」

 衛士たちは顔を見合わせ、メイエル中佐の指示を待った。彼我の戦力差が不明瞭である中、闇雲に突入するのは危険だ。しかしここで手をこまねいているわけにもいかないことは、皆分かっている。

「準備はいいな」

 厳かに告げたメイエル中佐に答えるように、衛士たちはライフルを抱えて頷く。霊素弾と呼ばれる特別な弾丸を撃つために改造された特注品だ。魔術を行使する時と同じく、威力は射手の交感能力に依存するとはいえ、凝縮されたエネルギー体を撃ち込めるというのは大きい。エメドレアの衛士たちが一騎当千の兵力を誇ると言われるのは、こういった魔術兵装の実戦投入が進んでいるからだ。

 勿論、それで通常の装備が腐るわけではない。魔術によらない弾丸は未だ高い威力を誇る。フレイセルはフィルからライフルを受け取ると、着剣した。

「突入!」

 メイエル中佐の指揮のもと、フレイセルたちは建物内へ侵入した。埃っぽく、明かりもない中を、衛士たちは周囲の霊素の粗密を頼りに進んでいく。

「階段は?」

「こっちです」

「慎重にな」

 声をかけあいながら、地下へと続く長い階段を駆け下りる。やがて、観測手が告げた異常な事態を、衛士たちは目の当たりにすることになった。

 泥のようなものに覆われた体からいくつもの腕が伸び、ぎょろりとした目が瞬きをしている……その異様な光景に、衛士たちは思わず立ち竦んだ。訓練された兵士をもっておののく巨大な異形が、そこに蠢いていた。

 フレイセルは視線を走らせた。部屋の隅に、ノフィがぐったりと横たわっている。フレイセルはそれを見て取るや否や、駆け出していた。異形の腕が鞭のようにしなり、ノフィの体を打ち据えようと迫っていた。

「させるか——!」

 間に合わなければ、ノフィの体は両断されるだろう。嫌な想像を振り払うように、フレイセルはノフィと異形の間に滑り込み、銃剣を振り回す。刃は異形の腕をとらえ、そのまま切り落とした。

 泥と体液が床や壁に飛び散る。外套を広げてそれらからノフィを庇い、フレイセルはノフィの状態を確認した。

 切り傷や擦り傷がそこかしこにあり、服も所々破け、切れた肌から血が滲んでいる。ノフィはぼんやりとフレイセルを見上げて、目に涙をためた。

「おにい、さま……」

 フレイセルははっと息を呑んだ。その瞬間、いくつもの銃声が響き渡る。

「次弾発射用意!」

 衛士たちが隊列を組んで、異形に集中砲火を浴びせていた。高純度の霊素弾を撃ち込まれ、異形は苦しげにのたうっている。その後ろで、ローブの男が悔しげに二人を睨みつけていた。

「一旦離れるぞ」

 ここにいては邪魔になる。フレイセルは外套を脱いでノフィの体を包むと、肩に担いで走り出した。不規則に振り回される泥の腕をなんとかかわしきり、フィルが待機していた場所へ滑り込む。

「少尉! あの男、何か——」

 ノフィを下ろし、フィルの言葉を耳にした瞬間、フレイセルの体は反射的に動いていた。振り返りざまに銃を構え、男に一瞬で狙いをつけると引き金を引く。放たれた弾丸は泥の腕を掻い潜り、呪文の詠唱を始めていた男の肩を抉った。

「……お見事、です」

 その射撃精度に呆然とするフィルをそのままに、フレイセルは素早く排莢を済ませる。

「この程度では魔術師を無力化できたとは言えない。あと数発は撃ち込む必要がある。それより……あれはなんだ」

 フレイセルの銃口が、おぞましいうめき声をあげる異形に向けられる。ノフィがゆっくりと体を起こし、皆の疑問に答えた。

「男が右腕を供物に喚び出した怪物、この世の理の埒外の生き物です」

 召喚術による異界のものの召喚は禁じられている。それは、この世にどんな悪影響を及ぼすか分からないからだ。衛士たちが苦い顔をする中、フレイセルはぽつりと呟いた。

「だが、斬れたな」

「少尉?」

 低く感情を抑えた声に、フィルはやや怯えたようにフレイセルを見た。フレイセルは気にすることなく、軍刀を抜く。

「斬れるなら殺せる」

 その眼光は抜き身の刃のように冷たく鋭く、フィルは生唾を飲んだ。この場で北方戦争の前線を経験したものはメイエル中佐とフレイセルだけだが、それを思い起こさせるような雰囲気だった。対してメイエル中佐は、ぴりぴりと殺気立つフレイセルを抑えるように命令を下す。

「少尉、召喚されたものなら送還を試みることもできる。それよりもあの男を捕縛しろ」

「了解」

 フレイセルはすぐさま頷くと、再び戦闘の渦中へと飛び出していった。ノフィはその背中を引き止めようとして、寸前で思いとどまる。しかしフレイセルの横顔は、今まで見たことのない表情をしていたのだ。ノフィがざわつく胸を押さえていると、メイエル中佐がその肩をぽんと軽く叩いた。

「……大丈夫だ、お嬢さん。少尉はあの北方戦争を生き残った。人間との切った張ったは、あいつが適任だ」

 だからこそ心配なのだ。ノフィにもわかっている。北方戦争で、彼は多かれ少なかれ人を殺してきた。感情を抑え、なんとか辻褄を合わせて勘定した結果、あんな表情をするのだ。

 それまで目をそらしていた現実を前に、ノフィは体を震わせた。フレイセルを恐ろしいと思う気持ちがないわけではない。それ以上に、彼をそんな風に変えてしまった出来事へのやるせない思いが、ノフィの胸を締め付けた。

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