第4話 亡霊/1
薬が効いて穏やかに眠るヴェイルの寝顔を、フレイセルは飽きもせずに眺めていた。熱は下がってきていて、魘されている様子もない。あまりに静かに眠るので、時々胸の上に手を置いたり、首筋に手を当てたりするほどだった。
どんな夢を見ているのだろう、とフレイセルはふと思った。ノフィやミルテが訪れる前、フレイセルのいない間、彼は、どんな日々を過ごしていたのだろう。
二人だけの研究室は、今やものも人も増えて、少し手狭になったように思える。フレイセルが初めてここを訪れた時は、閑散として、ヴェイル自身もどこか暗く沈んだ、翳のある人物に見えた。
フレイセルはヴェイルの灰色がかった髪に指を絡め、軽く梳いた。指通りのよい、柔らかで、この辺りでは珍しい色合いの髪だ。遠く、遠くの地から来たという彼は、己の来歴をそれ以上語らなかった。フレイセルもまた深く尋ねることはしなかった。過去に想いを馳せる時、ヴェイルの表情は寂しさと悲しみで曇るからだ。
——どうか、彼の夢が過去に縛られることがありませんように。
ヴェイルが常に皆を想うように、フレイセルは彼の眠りの安穏を祈った。その時、廊下を慌ただしく駆け抜ける音が聞こえた。
「ヴァイラー少尉! フレイセル=ヴァイラー少尉!」
それはフィルの声だった。今日はヴェイルの面倒を見ると伝えていたから、何か用事があってこちらに来たのだろう。フレイセルは声に急かされるように扉を開けた。
「静かにしろ、廊下は走るな。先生が休んでおられるんだ」
ちょうど扉に手をかけていたフィルは前のめりになって転びそうになった後、すぐに姿勢を正してフレイセルを見上げる。
「は、はい。失礼しました。しかし、その、緊急事態でして」
「というと?」
フィルは珍しく慌てふためいていた。フレイセルがまず落ち着くように言うと、フィルは深呼吸をして、少し間を挟んで淀みなく続けた。
「例の男が現れ、ノフィエリカ嬢がさらわれた、と」
は、とフレイセルは声を上げた。フィルが告げた言葉の意味を咄嗟に理解できず、思わず聞き返す。
「それは……事実なのか? そうだ、ミルテは?」
「ミルテさんはご無事です。男のことも、彼女が知らせてくれたのです。今、講堂前でお話を聞いているところでして」
「すぐに行く」
フレイセルは眠っているヴェイルを一瞥した後、静かに研究室の扉を閉めた。そしてフィルの後に続いて講堂前へと急いだ。そこでは、数人の衛士が泣きじゃくるミルテをなだめすかせていた。
「しょ、少尉」
ミルテはフレイセルの姿に気がつくと、フレイセルにぶつかる勢いですがりついた。しゃくりあげながら、助けてください、と繰り返す。
「ノフィさんが、連れていかれてしまいました。わ、たし、何も、出来なくって」
「ミルテ、落ち着いてくれ。ともあれ君が無事でよかった」
ミルテの全身をさっと確認しても、目立った外傷はない。それに安堵しつつ、ミルテの肩を掴んで軽く揺する。
「教えてくれ。何があったんだ?」
ミルテは泣くのをやめて、涙をぬぐいながら、途切れ途切れに話し始めた。
「ノフィさんと休憩していたら、魔術師らしい男の人が現れたんです。『モルダナ』を盗んだ人……その人は、ノフィさんのお兄さんだって言ったんですけど、ノフィさんは嘘だと。それで、男の人を追い返そうとしてくれたんですけど、かなわなくて」
「兄……?」
ノフィの話では、彼女の兄は北方戦争で死んだはずだ。それに、ノフィが男の主張を嘘だと断言したこと、男がノフィに手をかけずに連れ去ったことも気にかかる。
考え込んでいると、大講堂の扉が開いた。中から姿を現したのは、メイエル中佐と、ラドバウト教授、そして
「リズ=クライフ、天文科の教授だ。詳しい話を聞かせてもらおう」
肩で風を切って、リズと名乗った女はミルテに歩み寄る。彼女の鋭く威圧的な雰囲気に、ミルテはフレイセルの影に隠れたが、首根を掴まれて引きずり出されてしまった。
「私は意地悪はしない。ただゆっくり……いや、あまり時間はないから、素早く正確に、ことの仔細を順を追って話してもらいたいだけだ。正直、伝え聞いただけでは判断かつかなくてね」
「ご、ごめんなさ……」
「謝罪はいい。君のなすべきことをしたまえ」
しかし、ミルテは縮こまったままだった。ラドバウト教授が眉間を軽く揉んでいるのが端に見える。
「クライフ教授、気持ちはわかるが焦らないことだ。尋問ではないのだから」
ラドバウト教授にたしなめられ、リズはミルテの首根から手を離すと、難しいなと頤に指をかけた。代わってメイエル中佐がひとつひとつ丁寧に、ミルテの発言を拾い、追っていく。
男がノフィの兄の姿をしていたこと、しかしノフィは男が兄と同一人物ではないと言い切ったこと、男が何かことを企んでいること、エメドレア人への確執を匂わせたこと。それら全てがつまびらかになり、リズは腕を組んだ。
「なるほど。それで私が呼ばれたわけだな。ノフィエリカ嬢の兄、カレル=ベルジュは私の教え子だった。途中で衛士隊に進路を変更したのでよく覚えている」
「男は転移術を使うそうですが、召喚科では特別授業で、それでもさわりだけしか教えませんし、カレルさんが召喚科に出入りしていれば私が覚えています」
ラドバウト教授が補足し、リズが頷く。
「召喚術の成績は並だったはずだ。そもそも転移術自体、使い手は少ないだろう……となると……」
思考の末たどり着いた結論に、リズは苦々しい表情を作った。
「男は死霊術師の可能性があるな。だから『モルダナ』が盗まれた時点で総動員で男を探せと言ったんだ」
「死霊術師……?」
ミルテは首をひねった。それに、フィルが説明を加える。
「禁術である死霊術の使い手です。死霊術師は『禁忌を犯した者』として、アルムゼルダおよびエメドレアの敵として、見つけ次第捕縛することになっています」
「死霊術師ならば、死体を保存し、成りすますことも可能——かどうかは、聞いた方が確実だな」
リズはそう言って講堂内に戻っていく。より詳しい人間を呼んでくるつもりのようだ。メイエル中佐は手早く部下に厳戒態勢を敷くように伝えると、リズの後を追う。フレイセルも足早にそれに続き、リズの背中に問いかけた。
「死霊術の専門家がいるのですか?」
「ひとりいる。死霊術師のことは死霊術師に聞けということだ。まあ、今はくたばっているだろうが」
「……その方の、名前は?」
嫌な予感がして、フレイセルは尋ねた。リズは視線だけでフレイセルを振り返ると、知らなかったのか、と呟き、続けた。
「ヴェイル=アールダイン。我がアルムゼルダが保護する唯一の死霊術師だ」
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