第3話 境界/6
フレイセルの言う通り、街は人ともので溢れていた。路面列車も今日から運休で、車両を休憩所や店のように改装しているところもある。通りには露店が立ち並び、菓子や果物を売っているところもあれば、小物やアクセサリーなど装飾品を売っているところもある。
そして時々、人々の合間を縫うように、ちらちらした光が踊るように通り過ぎていく——精霊だ。霊素のみで構成される彼らは、はっきりと目に見えることはない。ノフィの裾を引っ張って、ミルテが興奮して尋ねると、彼女はなんでもないように頷いた。
「集っているのね。だから、意識を集中させなくても見えるのよ。もっとも、見えない人の方が多いのだけれど……ミルテ、あなた、この間まで霊素を観測するのがようやくだったのに、すごい上達ね」
「は、はい。ありがとうございます」
ノフィに褒められたという事実をすぐに飲み込めず、ミルテは何度も頷いた。ドナート従士の小講義のあと、人がどんな霊素を持っているのか見るのが楽しくて、ついそればかりしていたのだ。ラドバウト教授は靄のかかった小さな泉、ヴェイルは星のよく見える夜明け前の丘、そしてノフィは火の灯ったランタン——自分はどのように見えているのだろう、とミルテは思った。
想像を膨らませていると、ノフィが人気の少ない高台を指差して、少し休憩しましょうと言い出した。確かにずっと歩いているし、屋台で買ったものの整理もしたい。一も二もなく賛成して、ミルテはノフィの後をついていった。
高台から見下ろす街景は、美しかった。街の中心部である魔術学校から放射状に広がる大通りを、色とりどりの光が照らしあげている。柵から身を乗り出して歓声をあげるミルテに、ノフィは一言、落ちるわよとだけ声をかけて、ベンチに座って紙袋を並べた。
ひとつは食べ物の袋、ひとつは本や雑誌を詰めた袋、もうひとつは小物や装飾品の袋だ。ノフィはそれらを神妙そうに眺めて、小さく「買いすぎたわ」と呟いた。
「お店の皆さん、とにかく勧めてきましたから……」
とくに小物やら装飾品やらの店では、少女二人ということもあって話が弾んでしまった。魔術師見習いといえどもおしゃれなものに敏感な年頃なのだ。小さな宝石のついた首飾りや耳飾り、腕輪や指輪——ミルテは身につけるのに躊躇してしまうが、ノフィはまったく気負うことがないし、似合ってしまう。羨ましいなあとミルテがノフィの横顔を見上げていると、ノフィは腕輪の一つをとって、ミルテの右腕につけた。
「ノフィさん?」
「これはあなたのもの」
そして、手首を手で包むようにすると、呪文を詠唱する。ノフィの涼やかな声で紡がれる呪文は歌のようで、ミルテはつい聞き入ってしまう。ほどなくして詠唱が終わると、腕輪の内側に文字が刻まれていた。
「お守りよ。呪いや毒の類からあなたを守ってくれるわ」
「ありがとうございます……いいんですか?」
「魔術師としての嗜みよ。いつか自分でできるようになりなさい」
そう言って、ノフィはほかの装飾品も取り出して、同じように呪文を刻んでいく。
「これは、先生に教えてもらったの。鉱石魔術のひとつよ。触媒となる宝石や鉱石、金属に直接構築式を刻むの」
「む、難しそうです……」
「難しいわ。最初のうちは、たくさん壊してしまっていたもの」
「ノフィさんでも失敗することがあるんですね」
それは正直な感想だった。言ってから、彼女のプライドを傷つけてしまうだろうかとミルテは我に帰ったが、ノフィは微笑んでいた。
「私だって、失敗することくらいあるわ」
構築式を刻んだ指輪を、ノフィは手にとって眺める。少なくともノフィの指には余る大きさだ。
「特に先生の魔術は癖が強いから、私なりに解釈しなおして、完成させる。毎日学ぶことの連続で、楽しい……魔術なんて、味気のないものだと思っていたのに」
誰かに贈るものなのか、ノフィは大事そうにそれを小袋にしまって、懐に収める。ほかの装飾品は手持ちの小箱の中に入れ、ふたたびポケットに戻した。
「あなたは、どんな魔術師になりたいの?」
「わ、私は……」
急に話を振られ、ミルテは背筋を伸ばした。ラドバウト教授の授業は厳しいが、祝祭開けには修了する。その結果を、ヴェイルに報告しなければならない。
「私は……人を励ましたり、助けたり、支えになれる、優しい魔術師になりたいです」
「なら、
「ノフィさんは? どんな魔術師になりたいんですか?」
尋ねると、ノフィは口を噤んで、頬を赤くした。
「私は……先生の一番に、なりたいだけ。弟子だって、私一人で十分なんだから」
ノフィはバターを塗った蒸かし芋をひょいと口の中に放り込む。ミルテもそれを一つ口の中に入れて、ゆっくり噛み、ごくんと飲み込んだ。
「ノフィさんは、先生のこと大好きなんですね」
「……好きよ」
そう答えるノフィの声は柔らかく、澄んでいて、ミルテはどきっとした。まるで自分が言われたかのように錯覚するくらい、ノフィのささやきは甘かった。そんなミルテの心のうちなど露知らず、ノフィは続ける。
「みんなに優しくて、でも自分に優しくなれないひとなの。私は、そんな先生のそばに、誰よりも近くにいたい——だから、負けないわ」
ノフィが敵愾心を抱いている相手を、ミルテは知っている。フレイセルだ。フレイセルとヴェイルの間にある無言の信頼を、ノフィは羨ましいと思っている。絆は、一緒にいた時間の長さではないと、証明したがっている。
「そういうあなたはどうなの?」
「わ、私はそういうのは、全然、まったく」
一方でミルテは、ノフィのように、強く、繊細で淡く、純粋な思いを持っていない。ヴェイルのことは好いているが、ノフィほど情熱的ではない。
「あ……でも、こうしてノフィさんとお祭りを見て回れること、凄く嬉しいです」
まだ高鳴る胸を落ち着かせながら、ミルテは素直な感情を吐露した。
「最初は私、嫌われてるのかなって、思っていて……でもノフィさんは、自分の気持ちに正直なだけだって分かって、それからは、こうしてお話しするのが、楽しくなって」
ミルテがノフィと初めて出会ったのは、ヴェイルに引き取られて半月ほど経ったある日のことだった。ヴェイルの研究室を訪れたノフィは、その場で一言、弟子にしてくださいと言ったのだった。ミルテはお手伝いではなく弟子と勘違いされて、睨みつけられたのを覚えている。誤解が解けてからは多少態度は和らいだが、歯に衣着せぬ言動にたくさん振り回された。最近はそんな日常にも慣れて、それがないと物足りないくらいになっている。
「これからも……仲良くしてくれますか?」
「それはあなたの立ち回り次第よ」
ミルテの問いにノフィは素っ気なく答え、杖をついて立ち上がる。ミルテは整理整頓されて運びやすくなった紙袋を両腕に抱えて、自然と笑顔をこぼした。こんな何気無いやりとりが、ミルテは好きなのだ。
「そろそろ研究室に戻りますか?」
これだけ土産があれば、ヴェイルも退屈しないだろう。もちろん、フレイセルへの土産も買ってある。二人の顔を思い浮かべながら上機嫌で歩き出したミルテを、ノフィは杖を突き出して押しとどめた。
「ノフィさん……?」
ノフィは緊張した様子で通りの向こうを睨みつけていた。その視線を追うと、周囲がやけに静かなことに気づく。通りの向こうにはローブの男が一人、二人の行く手を阻むように立っていた。
「人通りが少なすぎるのを、警戒すべきだったわね」
ノフィが悔しそうに呟く。喧騒は遠く、巡回の衛士も、ぱらぱらと通り過ぎていた人々も今はいない。人払いの魔術がかけられていることに、ミルテはようやく気がついた。
「唇の傷、欠けた左薬指——あなたね、『モルダナ』を盗んだ魔術師というのは」
ミルテは思わず後ずさった。ヴェイルや衛士たちが手も足も出なかったという魔術師が、今目の前にいる。恐怖に駆られたミルテとは対照的に、ノフィは一歩前に出た。
「これは好機よ。私たちを御し易いと見て現れたのなら、返り討ちにしてあげるまで。下がっていなさい、ミルテ。魔術師との戦い方は心得ています」
そう呟くや否や、ミルテは杖から剣を抜きはなった。ノフィは背筋を伸ばし、堂々とした歩みでミルテを庇うように立つ。それを見て、男はゆっくりと口を開いた。
「……ノフィエリカ」
少女の名を呼んだたった一言に、ノフィは雷に打たれたように動きを止めた。その声は、ノフィの聞き慣れたものだったからだ。ノフィは目を見開き、剣先がわずかに下がる。
「お兄様……?」
ミルテは耳を疑い、ノフィと、そして男とを交互に見比べた。男は目深にかぶっていたフードをあげ、顔を晒す。それに、ノフィの声は震えた。
「そんなはずは。兄は……兄は北方戦争で死にました」
「死体は戻らなかっただろう。僕はなんとか生き延び、そして戻ってきたんだ……」
優しげな声で近づいてくる男に、ノフィは、しかし、毅然とした態度で剣を突きつけた。
「嘘です」
それは虚勢でもなんでもなかった。ノフィの声にはっきりと怒りが混じる。
「兄の顔で、体で、なんてことを。兄は魔術師でもありましたが、専攻は
ノフィの怒りを受けて、男は肩を落とした。先ほどまでの柔和な雰囲気は霧散し、おどろおどろしい、得体の知れない気配がひたひたと男の影を覆っていた。
「……小娘一人、うまく騙せるかと思ったが」
そう吐き捨てた瞬間、ノフィの姿がミルテの目の前からかき消えた。ミルテは思わず手を伸ばし、ノフィがいた場所を探る。しかしそこには何もなく、代わりに男のそばに、まるで引き寄せられたかのように、ノフィの体が移動していた。
転移魔術だ、とミルテにも理解ができた。男は逃げる際にもそれを使ったという。応用すれば、遠くのものを手元に引き寄せることなども容易い。ノフィは剣を握った手を掴まれ、宙に持ち上げられていた。
「離しなさい!」
「協力してもらうぞ、エメドレア人の兄妹よ。我が悲願の成就のために」
ノフィが空いた片手で男の腕を掴み、炎矢の呪文を詠唱しようとする。しかしノフィの手がその軌道を描ききる前に、男はノフィのみぞおちに拳を入れた。ノフィは気を失い、その手から剣が滑り落ちて乾いた音を立てる。
「ノフィさん!」
思わず叫ぶと、男はミルテの方を向いた。その眼差しに、ミルテは『殺される』と直感したが、男はミルテに手を下すことはなく、気絶したノフィを小脇に抱えて、口を開いた。
「そちらの娘はイシュリア人か。俺の言葉を聞く気があるなら、すぐにこの街から出て行け。俺も、血を知らぬ同胞を巻き込みたくはない」
「何をするつもりなんですか?」
ミルテの問いに男は答えず、ノフィを連れて姿を消した。一瞬の出来事にミルテは驚き、弾かれたように二人がいた場所へと駆け出して、途中でつまずいた。
「いたっ……」
膝を擦りむき、その痛みに目の前が滲んだ。周りを見回しても、そこにいるのはミルテだけだ。
「だれか……」
細い声が、遠く、祭りの喧騒にかき消される。ミルテはうつむき、肩を震わせて、嗚咽をこらえた。
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