第3話 境界/5

 しかしいざ話す時間を取ろうとすると、これが難しかった。フレイセルが休憩しに研究室を訪れると、ノフィは講義に出ていて不在であったり、ノフィが研究室に戻る頃にフレイセルが外を警備していたり、予定が合わないまま、祝祭ミュールの時期がやってきてしまった。

 この時期はフレイセルも仕事で忙しい。なにせ国中の人間が、律儀にも古式に則って七日間も浮かれ騒ぎをするのだ。祭りに乗じて良からぬことを考える輩への牽制やら、行列の警護やら、迷子の引率やら降ってくる仕事は衛士隊だけでは対応しきれないのが現状だ。

 そんな中、一日だけ、フレイセルは休みを得た。仕事も大切だが、この時期は仕事以上に大切なことがある。逸る気持ちを抑えきれず、フレイセルは駆け足になっていた。ノフィはどうだか知らないが、祝祭を知らないミルテは今頃慌てふためいているかもしれない。

「先生!」

 挨拶も惜しんで研究室の扉を開けると、予想通りの光景が広がっていた。ソファにぐったりともたれ、ミルテの呼びかけにも反応を示さない。ノフィも、彼女にしては珍しくおろおろとしていた。

「ヴァイラー少尉、先生、突然倒れて」

 ミルテが泣き出しそうな顔でフレイセルを見上げた。それを、フレイセルは落ち着かせようとゆっくり続ける。

「大丈夫だ、ミルテ。祝祭が終われば落ちつく」

「どういうことでしょう……」

 ノフィも困惑した様子でフレイセルを見た。彼女もまた、事情を飲み込めていないらしい。濡れたタオルを用意しているあたり、ひとまず発熱に対応しようとしたのだろう。それを受け取って一度机の上に置くと、フレイセルは二人に事情を説明した。

「この時期は人とか精霊とか、とにかくいろんなものが集まって騒ぐだろう。その霊的な波を、先生は受け取ってしまっているらしい」

 星の霊素と感応する交感能力の高さが、こういう時あだになるのだという。フレイセルも詳しいわけではないが、以前ヴェイルからそのような説明を受けた。それをそのまま伝えると、ノフィはすぐに理解したのか、頷く。

「二重霊素の交感能力は抜きん出ていると聞きます。人より多くのものが見えたり聞こえたりしてしまう——その能力の高さから気が触れる者さえいるというのは、こういう理由だったのですね」

「なんだって?」

 物騒な言葉にフレイセルが聞き返すと、ヴェイルが身じろぎした。皆の視線が集まる中で目を覚ましたヴェイルは、熱に浮かされたようにぼうっとしていた。そして自分がソファに寝かされていることに気づくと、ぱちりと目を瞬く。

「ああ……すみません。具合が悪くなることは、分かっていたので、ベッドに行こうとしたのですが」

 呼吸は細く、途切れ途切れだった。祝祭の時期には体調を崩すということをフレイセルは知っていたが、今回は特に重いような気がした。いつもの笑顔はなく、ただ苦痛に耐えるように眉根をわずかに寄せている。それでもゆっくりと体を起こして、ノフィとミルテを見やった。

「私は少々出かけるには難がありますので……二人で巡ってきてください」

 どうやら二人はヴェイルを祝祭に誘おうとやってきたらしかった。しかしこの様子では連れ出すどころではない。面倒を見ようとする二人の気遣いを断って、ヴェイルはフレイセルを見る。

「いつも、フレイセルさんがいてくれるんです。だから、大丈夫ですよ」

「さすがに毎日とはいかないが、まかせてくれ。薬もある」

 できればヴェイルが倒れる前に駆けつけたかったのだが、こればかりは仕方ない。二人は顔を見合わせて思案していたが、ノフィが先にフレイセルを振り返った。

「……何か、気晴らしになるものを買ってきます」

「そうですね。お土産、期待していてください」

 気遣わしげなノフィに、ミルテが明るく続ける。そして、ちらちらとヴェイルの様子を伺いながらも研究室を出て行った。ノフィと話すのは、また別の機会になりそうだ。

 扉が閉まると、ヴェイルは糸が切れたようにソファに再び倒れ込む。フレイセルは荷物を置いて、ヴェイルの体を抱え上げるとベッドに運んだ。

「ありがとうございます、フレイセルさん」

「気にしないでください」

 ヴェイルの体は、思ったよりも軽かった。義肢の開発に伴って寝食を犠牲にしていたせいだろう。いたわりながらその体をシーツの上に横たえて、呼吸が楽になるようにシャツのボタンを緩める。それからノフィが用意してくれたタオルで、軽く汗を拭き取った。

 ヴェイルはおとなしく目を閉じて、されるがままでいた。指先一つ動かす気力も削がれているようだった。弱りきった体を前に、フレイセルは肩を落とす——代わってやれるものなら喜んでそうするのに。

 フレイセルはヴェイルの体を毛布で包むとベッドに椅子を寄せて腰掛け、植物科エレニスからもらってきた薬を白湯に溶いて薬湯を作りはじめた。

 薬は眠るためのもので、それはヴェイルの症状を和らげるにはとにかく意識を落とす他に対処法がないということを意味していた。これを、七日間続けなくてはならない。面倒を見ると言っておきながら出来ることはほとんどない事実に、フレイセルはもどかしさを覚えた。

 薬粉が玉を作らないようかき混ぜながら冷ましていると、ヴェイルがふと目を開けて、フレイセルに微笑みかけた。

「難しい顔をしていらっしゃいますね」

「あなたのことですよ」

「それは、すみません」

 フレイセルがヴェイルを責めるつもりもないことは承知済みで、彼は苦笑する。

「でも、顔色が良くなりました。きちんと、眠れているようですね」

 フレイセルはヴェイルを見て、この人はまた他人のことだと呆れながらも、笑って返した。

「可愛らしい『お手伝いさん』の助言のおかげで」

 あれから、夢の中でノフィが泣いていることはなくなった。相変わらず戦場の夢は良く見るが、酷いものではなくなってきている。ミルテが声をかけてくれなければ、今頃限界まで追い詰められていただろう。

 ミルテに、ノフィ——二人の少女の存在に、フレイセルの日常は時にかき乱され、時に穏やかに流れる。はじめはその唐突な変化に驚いていたが、それにも慣れ始めた。

「帰ってきて、最初は驚きました。俺の椅子なんて、ないように思えて」

 フレイセルは正直な感想を述べる。寂しかったと付け加えると、ヴェイルは曖昧に微笑んだ。

「一年前、ここには私がいて、あなたがいて、そんな場所でしたね。あなたは、私の話を……良く聞いてくれました」

「理解できていたかというと怪しいですけどね」

 魔術の講義は小難しく、実践もさっぱりだったが、ヴェイルが語る魔術の可能性は、フレイセルの心を何度も揺り動かした。人のために、幸せのために使われる魔術が、ヴェイルの指先によって、唇によって紡がれる。それに、フレイセルは夢中になっていた。

「先生とおしゃべりしている間は、時間を忘れました」

「私もです」

 フレイセルは薬湯を片手に、ヴェイルを助け起こした。薬を口にして、苦いですねと笑う彼を見守る。その間にも、フレイセルはぽつぽつと感情をこぼした。

「……あまりに賑やかなので、時間がすぐに過ぎてしまう。追いつけないかと思うほど……こんなに近くにいるのに、遠くにいるようで」

 ヴェイルの手が、フレイセルの手に触れた。フレイセルの目を覗き込むヴェイルの表情はどこか不安げだった。

「大丈夫ですよ、先生。俺が帰るのはいつだって、先生のお側です……だから、先生」

 フレイセルはヴェイルの手を取り、小さく囁いた。

「もし……もし俺が化け物になってしまったら、その時は」

 言い終わらないうちに、フレイセルはヴェイルに抱きしめられていた。空の器が絨毯の上に転がる。細い腕から確かな力が伝わってきた。

「あなたは、私の大事な教え子です。守ってみせます」

 ヴェイルの言葉に、フレイセルはややあって頷く。そして、薬の効果でうとうとと舟を漕ぎ始めたヴェイルの体を、そのままゆっくりベッドに戻した。

 ——教え子、か。

 やがて眠りに落ちたヴェイルの寝顔を見つめながら、フレイセルは胸の内のもやもやとした感情をもてあましていた。

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