第3話 境界/4

 どれほど時間が経っただろうか。久々にすっきりとした目覚めを迎え体を起こすと、部屋のカーテンは引かれ、ランプに明かりがともされていた。壁の時計を見ると、とうに日は落ちて、夕食どきになっている。

「おはようございます、ヴァイラー少尉」

 唖然としていると、ベッド脇の椅子に座って本を読んでいたミルテが声をかけてきた。

「皆さん食堂にお夕ご飯を食べに行きましたよ。起こそうかって話になったんですけど、ぐっすり眠っていらっしゃったので」

「……休憩時間が終わる前に起こして欲しかった」

「ノフィさんが、『少尉は最近よく眠れていないようだから、このまま寝かせてあげよう』と……」

「彼女が?」

 フレイセルは意外に思った。善意か皮肉か。思わず身構えるフレイセルに、ミルテは苦笑する。

「心配しておられましたよ。それと、夜番はドナート従士が引き継いでくれるそうです。少尉は今日はもうお休みです」

 方々に気を遣わせてしまったことに気づいて、フレイセルはこめかみを押さえた。国民の前で疲弊を顔や態度に出してはならないというメイエル中佐の言が脳裏に蘇る。全くもってその通りだ、明日から気を引き締めなければ。真剣な顔で眉を寄せるフレイセルに、ミルテはおずおずと尋ねた。

「……ちゃんと眠れましたか?」

「ん? ああ、眠れたよ」

 今日はもう休みだというなら、欲を言えばもう少しここで眠って行きたいくらいだと茶化して、フレイセルは起こした体をまた横たえた。ヴェイルの、薬草の香りがする。それを肺いっぱいに満たすと、不安や悩みが遠ざかっていく気がした。

「少尉は、本当に先生がお好きなんですね」

 指摘され、フレイセルはミルテの方を見た。ランプの明かりに照らされた横顔は穏やかに微笑んでいて、満足げだった。

「私も先生が大好きです。ノフィさんも、少尉のことも。みんな優しくて、私は夢の中にいるようです」

「……そうだな」

 同意見だ、とフレイセルは頷いた。幸せな夢を見ているような平穏——この部屋の出来事は、いずれも優しさに満ちていた。だからこそ、フレイセルはここを訪れてしまう。何度も、何度でも、癒えない傷を癒しに。

「ノフィさんが、」

 ミルテが静かに切り出した。

「少尉に、ひどいことを言ってしまったとおっしゃっていました」

 フレイセルは瞬きした。ノフィは、例の問いのことをミルテに話したらしい。

「少尉が一番つらい思いをしているのに、心ないことを言ってしまったと」

 なぜ帰ってきたのが兄ではなくフレイセルなのか、納得できないのだとノフィは言っていた。どこにも行けない悲しみと苛立ちをフレイセルにぶつけ、それでもなお答えは出ない。毎日その現実を突きつけられ、欠けた我が身を抱きながら、満ち足りていた日々との板挟みに喘ぐ。まだ少女である彼女には、酷なことだ。

「……ノフィさんのこと、」

「俺がいつか問われることを、彼女は口にしただけだ」

 ミルテが危惧しているほど、フレイセルはノフィを嫌っていない。少々、恐れているところはあるにせよ、真正面から話せないほどではない。だが、ノフィからの問いの答えが用意できないうちは、できるだけ避けていたいだけだ。

「俺は、答えを出さないといけない」

、」

 また、『どうして』だ。フレイセルは目を細めた。だが、その答えを導くのは容易い。眉尻を下げるミルテに、フレイセルは短く返した。

「生き残ってしまったから」

 それを聞いたミルテは、ぎゅっと口を引きむすんだ。溢れる、と思った瞬間、ミルテの両目から涙が落ちる。フレイセルは慌てて起き上がって、ベッドから身を乗り出しミルテの方へ腕を伸ばした。指先が白い頬に触れ、溢れた涙を拭った。

「……戦争が終わって、帰ってきた衛士さんたちを見てきました」

 伏せた榛色の瞳からはなおも溢れる。それは、いつも明るい笑顔にひた隠しにされていた感情だった。フレイセルはどうしていいか分からず、ただそれを両手で受け止めるしかない。黙って、その続きに耳を傾けた。

「みんな深く傷ついていました。大切なもののために戦って、そのために多くのものを失って、過去に囚われて。生き残ったのなら、なぜ生きていくのかを問うべきです」

「それでは、……彼女は納得しない」

「そもそも、ノフィさんが自分で決着をつけることなんです」

 ミルテは強く言い切った。涙を乱暴に手の甲で拭って、フレイセルを見つめ返す。そのまっすぐな瞳を振り払うことができず、フレイセルは溜息交じりに小さく呟いた。

「……見て見ぬ振りをしていれば、夢の中で幸せに暮らせるだろうに」

 ぬるま湯のような安寧に浸れる。フレイセルの言葉に、ミルテは首を横に降る。

「私は、守られてきました。先生や、周囲の人に」

 そして、ミルテは深呼吸を一つすると、意を決したように背筋を伸ばした。

「少尉、私は……私はイシュリアの生まれです。国境沿いの小さな村に住んでいました」

 その告白に、フレイセルは目をみはった。北方戦争に巻き込まれた孤児、ということは聞いていたが、イシュリア人だとは気づかなかった。彼女のエメドレア語はやや訛りはあるものの流暢で、エメドレアの伝統行事を知らないのも、田舎の出だからという彼女の言葉を信じていた。

「イシュリア人……君が?」

「はい。故郷が焼けて、悪い人にさらわれてエメドレアに来ました」

 戦争のどさくさに紛れてのは珍しい話ではない。だが、彼女が語る過去はフレイセルに衝撃をもたらした。

「先生に助けてもらっても、人が信じられなかった。エメドレアの人たちが怖かったし、憎かった」

 ぽつぽつとミルテは正直な感情を吐露する。膝の上に置かれた手はぎゅっと握り込まれ、スカートにしわを作っていた。

 彼女もまた、戦争によって深く傷つけられた者のひとりだった。戦争中、彼女の村を巻き込んだのは、フレイセルだったかもしれない。そうでなくても、フレイセルは多くのイシュリア人を手にかけている。怖い、憎い、という言葉に、フレイセルは慄いた。

 それに、ミルテは、「でも、」と続ける。膝の上で握り込んでいた手を解いて、フレイセルの手にそっと重ね、ミルテは語った。

「先生は私を生かそうとしてくれました。イシュリア人と分かっていて、私の心も承知していて、それでも庇ってくれました。それは、『見て見ぬ振り』なんかじゃなかった。私が今笑えるのは、私を守ってくれた人たちのおかげなんです。私がイシュリア人とわかっていて、それでも、私を生かそうとしてくれた人たちの……」

 過去は過去だ、とミルテは呟いた。重ねた手は暖かく、フレイセルの怯えを包む。

「だから、少尉。私はあなたのために、できることをしたいんです」

「……君は、」

 強いな、という言葉を、フレイセルは飲み込んだ。そんな一言で片付けていいはずがなかった。彼女の決意は尊いものだ。静寂に染み込む彼女の声が、フレイセルの胸にもしとしとと落ちてくる。

「……ありがとう、ミルテ。彼女とも、ゆっくり話してみよう」

 そう言うと、ミルテの顔が明るくなった。

 もしかしたら、ノフィがミルテに懺悔したのではなく、ミルテが後悔に沈むノフィを救い出したのかもしれない。今、過去に怯えるフレイセルをミルテが見つけ出したように、かけつけて、手を取って、連れ出したのかもしれない。

「ありがとう、」

 ミルテの手にもう片手を重ねて、目を閉じ、フレイセルは繰り返す。ミルテはほっと胸をなでおろした後、花が咲くような笑顔を浮かべた。

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