第3話 境界/3

 悪夢に魘される日々が続き、フレイセルはヴェイルの研究室で休憩時間を過ごすようになっていた。ヴェイルがそばにいるというだけで、不思議とゆっくり眠れる。そういうわけで、フレイセルは今日も茶菓子を手土産に研究室の扉を叩いた。

「はい……、あなたですか」

 顔を出したのはノフィだった。以来まともに顔を合わせていなかったため、フレイセルはややたじろいだが、ノフィはいつも通りの剣呑さで中に引っ込む。扉は開けられたままだ。研究室から締め出すつもりはないらしい。

「どうぞ、フレイセルさん」

 柔らかな声がフレイセルを促す。それに引き寄せられるように、フレイセルは扉をくぐった。

「失礼します、アールダイン先生」

「はい、いらっしゃい、フィリベルトさん」

「フィル……」

 後をついてきたフィルを振り返り、フレイセルは首を横に振った。

「休憩時間まで俺に付き合う必要はないんだぞ」

「小官も楽しいお喋りの輪に加わりたいんです」

 フィルはそう言って、暖かい空気が逃げないよう、研究室の扉を閉めた。フィルがこうしてフレイセルとともにここを訪れるのは二回目で、当然ヴェイルが客人を拒否するはずもなく、研究室は一気に手狭になる。

「賑やかですね」

 そういうヴェイルの声には嫌味も皮肉もない。それを横目に、フレイセルは眠気をこらえきれず、茶菓子を机の上に置いてふらふらとベッドに向かうとそのまま倒れ込んだ。一度ソファで居眠りをしてからヴェイルにベッドを使うように言われ、それからヴェイルの厚意に甘えているのだが、これが疲れた体に効果覿面なのだ。

 先生の匂いがする。そんなことを頭の隅で考えながら泥のような眠りに引き込まれる直前、遠慮のない力で襟を引っ張られた。

「ヴァイラー少尉? 何をしているのですか」

 体を起こすのも気だるく、首だけ動かして声の主を見上げる。ノフィが目をすがめてフレイセルの襟を引っ掴んでいた。

 緑色の瞳としばし見つめ合う。逸らそうとしても、うまくいかない。彼女の目はいつもそうだ。逃げ出したい時も、誤魔化したい時も、見るものを捕まえて離さない。

「ああ、いいんですノフィさん。私が使うように言ったんです」

 フレイセルが口を開く前に、彼をベッドから引き剝がす勢いのノフィを、ヴェイルが慌てて引き止めた。ヴェイルは二人の間に漂うただならぬ空気に気づいたが、今すぐに問いただすことはせず、ただ、横になったフレイセルの肩にそっと触れる。

「フレイセルさん、お休みの前に。香りの良い茶葉を買ったので、よかったら一杯いかがですか」

 せっかくですから、という言葉に、フレイセルはなんとか起き上がる。ミルテが運んできた紅茶からは、ヴェイルの言う通り甘く爽やかな、気が落ち着く香りがした。

「うっかり零さないようにしてください」

 ノフィは素っ気なく言うと、ソファに座った。フィルも腰を下ろして、茶菓子の包みを開ける。

 物流は順調に回復していた。日用品はもちろん、嗜好品の入手にも不便はない。地方から取り寄せたのだと言う茶葉は、林檎と蜂蜜を思い起こさせた。

「戦争に巻き込まれた村や町も復興が進んでいるようですね。この調子なら、今季のミュールは自粛せずに済みそうです」

 フィルが紅茶を一口飲みくだし上機嫌に告げる。それに、ミルテが首を傾げた。

「ミュール?」

 おや、とフレイセルは思った。ミュールはエメドレア全国で年二回催される伝統的な祭だ。フィルも不思議そうにミルテを見て、続けた。

「創造の姉妹神、レリアとオリアの祝祭です。収穫を祝ったり、大精霊に豊穣を祈ったりするんですよ。七日七晩続けるんですが、前期は戦時下でしたから延期されたんです。ご存知ないですか?」

 フィルの問いに、ミルテは慌てて首を横に振った。

「私、……田舎の出なので、そういうのまったく知らなくて」

「そうなんですか、楽しいですよ。屋台もたくさん出ますし。僕たち衛士は巡回やら警護やらで忙しいですけど」

 それから、とフィルは思い出したように付け加えた。

「このお祭りでは生きている人に混じって亡くなった人も参加すると言われていて——」

 その途中で、ノフィが手を滑らせた。ティーカップがソーサーに触れて音を立てる。幸い割れたり溢れたりはしなかったが、皆の視線がノフィに集まった。

「迷信です。そんなの」

 ノフィは小さく息を吐いた。そして机の上にカップを置くと立ち上がり、本を借りてきます、と足早に研究室を出て行った。突然のことで皆一様に言葉を探す中、フィルが申し訳なさそうに肩を落とす。

「……僕、何かまずいことを?」

 フィルの疑問に答えるべきか黙っているべきか、フレイセルは迷った。ヴェイルは目を伏せて沈黙を貫いている。その様子からして、彼も事情を知っているのだろう。フレイセルもまたその沈黙を守ることにした。

「幽霊が怖いとか、そういうことじゃないか」

 そんな当たり障りのないことを言って、サイドテーブルに飲み干したカップを置き、ベッドに横になる。

「怖がらせるつもりはなかったんですけど……」

 フィルの声を最後まで聞かないうちに、フレイセルは眠りに引き込まれた。瞼の裏にノフィの横顔が浮かび、消える。彼女は、今にも泣きそうな表情をしていた。

 なぜ、という彼女の問いかけがフレイセルを苛む。納得できていない、と彼女は言っていた。肉親である兄の死を、受け入れられていないのだ。そして生き残ったフレイセルに、納得できるだけの理由を問うている。

 フレイセルもまた、自分一人だけが生き残ってしまった、その理由を探している。あれだけ人を斬り、血を浴びて、内に化け物を飼いながら得たものが己の体ひとつとは。フレイセルではない、他の誰かの帰りを待っていた人々も多くいたはずなのだ。それに、自分はどう答えるべきだったのか——

 思考の泥に溺れる体が、不意に温もりに包まれた。悪夢は過ぎ去り、穏やかな静寂が訪れる。

 誰かが、優しく頭を撫でた。おやすみなさいという囁きに引っ張られるように、フレイセルは微睡みの底に落ちた。

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