第3話 境界/1

 雨に濡れた暗い森の中、木立の影に隠れて周囲の様子を伺う。ライフルは湿気っていて使えない。片手に持った軍刀がフレイセルの唯一の武器だ。それもねっとりと血に塗れていて、切れ味はあまり良くない。

 先行しすぎた。周りには味方もおらず、あるのは敵の死体だけだ。先ほど動かなくなったそれを見下ろして、フレイセルは呼吸を整えようとする。

 ——落ち着け。大丈夫だ。俺が敵を引きつけておけば、味方が後退する時間を稼げる。

 壊滅しかねない無謀な撤退戦を強いられ、誰もかれもが疲弊していた。その背中を、やつらは笑って狙ってくる。フレイセルは奥歯を噛み締めた。ちくしょう、くそったれ。裏切り者のイシュリア人め。

 ——だから、これは正当な報復だ。

 かち、と歯がしっかり噛み合った。心臓が高鳴る。血と脂にまみれた刃を服の裾で乱雑に拭う。昏い昂奮が、フレイセルの全身を満たしはじめていた。

 ——俺がやるんだ。みんなのために。

 ——俺いちばん上手に戦える。いちばん上手くやつらを殺せるんだから。

 口の端が上向きに歪むのを、理性が受け入れた。その瞬間、それまで沈黙していたイシュリア人の死体が一斉に動き出し、フレイセルの体を捕らえた。

 青白い顔で、赤く染まった体で、彼らはフレイセルにすがりつく。フレイセルはそれを払おうともがき、軍刀を振り回した。

 ——なぜ。

 恐怖と戦うフレイセルの頭の中に、少女の玲瓏な声が響く。

 ——どうして、戻って来たのがあなたなの。


「ヴァイラー少尉!」

 肩を掴んで揺さぶられ、フレイセルははっと目を覚ました。雨も降っていなければ、泥も跳ねていない。フレイセルは制服の上着を脱いで、清潔な白いシーツに横たわり、仮眠をとっていた。

「大丈夫ですか、少尉。お顔の色が優れませんよ」

 同じく衛士服を着込んだ少年が、心配そうにフレイセルの顔を覗き込んでいる。フレイセルはゆっくりと身を起こし、頷いた。

 それはしばしばフレイセルが見る悪夢だった。それに加えて、最近はノフィの問いかけがどこまでもまとわりついてくる。

 起きている間でさえ答えが出ないようなことを、寝ている間にどう考えろというんだ。フレイセルは頭を抱えたくなったが、人前であることを思い出し、呼吸を整える。

「心配をかけた、ドナート従士。もう大丈夫だ。それで、どうかしたのか」

 時計を見ると、まだ休憩時間中だ。たまたま戻って来たところ、魘されているのを見て起こしてくれたのかもしれないが、喫緊の知らせかもしれない。確かめるより先に、フレイセルは軍靴を履き、靴紐を結い始めていた。

召喚科ティトスの研究棟で騒ぎが起きているとかで」

「なんだと?」

 フレイセルはぱっと顔を上げた。少年もまた、緊張に顔をこわばらせていた。

 フレイセルの異動先は、アルムゼルダ魔術学校の警備隊だった。『モルダナ』窃盗事件で負傷した衛士たちの穴を埋める形で、だ。フィリベルト=ドナート従士は事件に巻き込まれた新人衛士のひとりで、復帰したばかりのフレイセルの補助役として働いている。二人はあの日のことを思い出し、まさか、という予感を共有していた。

「分かった、すぐ行こう。フィル、俺の武器を頼む」

「はい」

 靴紐を結い終わり、フレイセルは立ち上がる。フィルはベッド脇に立てかけられていたフレイセルのライフルと軍刀を抱えると、フレイセルの数歩後についた。これも補助役の仕事で、戦場帰りの衛士たちに義務付けられている作法だった。外傷回帰フラッシュバックや錯乱状態に陥った時、自身や他人に武器を使用しないよう、補助役にそれを預けておくのだ。

 風をきって歩く二人の姿を、学生たちが何事かという表情で追う。二人は緊張した面持ちで現場に到着し、そして——

「君は、本当にやる気があるのか! こんなことは初歩の初歩だぞ!」

「ご、ごめんなさいラドバウト教授! わざとじゃないんです!」

 人だかりができている小講義室前に飛び出して来たのは、煤けた服のミルテだった。

「……ミルテ?」

「あっ、ヴァイラー少尉。こんにちは」

 ラドバウト教授が投げたのであろう教書が散らばる中、へたりこんだミルテがフレイセルを見上げ、軽く腕を上げて敬礼する。その背中に、ラドバウト教授の声が鋭く飛んだ。

「ミルテ! 途中退室は認めていない!」

「ひゃい!」

 騒ぎの正体を前に、フレイセルは気が抜けた。やがてラドバウト教授が廊下に出てくると、フレイセルたちの姿を見咎めて、首をかしげる。

「おや、君はいつかの……お仕事ご苦労様。どうかしたのかい」

「い、いいえ……講義中、失礼しました」

 あまりの騒がしさに通報を受けたのだとも言えず、フレイセルは曖昧に言葉を濁した。ラドバウト教授は野次馬たちをぐるりと見回して、しっしと手でそれを遠ざけながら、そのうちに興が削がれたのか、腰に手を当てて眼鏡をかけ直す。

「まったく。今日はこの辺りにしておこう。ミルテ、課題を出すから週末までに目を通しておくように」

 そう言って、ラドバウト教授はミルテの前に分厚い書物を遠慮なく積んでいく。一冊、二冊、三冊……中には辞書かと思うものもある。ミルテは座り込んだままそれを見つめ、恐る恐るラドバウト教授の顔を見上げた。

「ぜ、全部……ですか?」

「当然だ。ノフィエリカ嬢はこのくらい平気でこなしたぞ」

「ノフィさんと一緒にしないでください!」

 ミルテの悲鳴は聞き入れられることなく、講義室の扉は閉められた。学生たちはミルテに哀れみの視線を送りつつも、それぞれの日常へと戻っていく。やがて、廊下にはフレイセルとフィル、そしてミルテが残された。

「……どうしたんだ? 一体……」

 フレイセルは思わず尋ねた。ミルテは服や頬についた煤を払い、積まれた本を抱えて立ち上がった。

「その、先生が、『どんな魔術師になりたいかを、ラドバウト教授のもとで学んで決めなさい』って仰って、入学前に初歩的な魔術を教えてもらっていたんですけど」

「初歩的な……?」

 フレイセルはミルテが抱えている本を一冊手にとって、ぱらぱらとめくった。それを後ろからフィルが覗き込む。魔術に疎いフレイセルには内容の難易度がいかほどのものかは判断できなかったが、フィルはうわあと声を上げ、首を横に振った。

「一回生どころか、読み書き計算の段階の子が読むものじゃないですよ。それこそノフィエリカさんとか、魔術師の家の生まれで小さな頃から魔術を学んでいて下地ができている、そういう子向けです」

 どうやらラドバウト教授は、一から丁寧に教えるよりも十を紐解かせる教育方針らしかった。ヴェイルに教えてもらったほうが良いのではないかとフレイセルは考えたが、そういえばヴェイルはここのところ研究発表の準備で忙しいことを思い出した。先日の霊素技師の話を、街の職人や医師向けにするのだという。

「さっき教えていただいたのは火をつける呪文で、まず蝋燭をつけてみようってことになったんですけど、マッチを使ったほうが早いし、しかも爆発させちゃって……」

 煤けていた理由が分かって、フレイセルは苦笑した。ヴェイルに魔術を習おうとしていた自分も同じようなことをしでかしていた。ヴェイルは怒鳴ったりはしなかったが。

「フィル……さんは、魔術にお詳しいんですか」

 ミルテに話しかけられ、フィルは姿勢をただした。

「フィリベルト=ドナート従士です、ミルテさん。そうですね、衛士は魔術兵装を使いますから、基礎的な魔術は会得しています。ヴァイラー少尉のように魔術を使わない人は珍しいですよ」

「俺の場合は使わないんじゃなく、使えないんだがな。才能がなくて」

 頭をかくと、では、とフィルが明るく笑った。

「小官が基礎の基礎からお教えしましょう」

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