第2話 欠落/6
外出届はつつがなく受理された。
「あの子を説得するつもりなのか?」
義肢を拒否したへディは、そもそも会ってくれるかどうかさえ分からない。むしろ先日は、ノフィのほうが孤児たちに近づくことを避けていた。自分の存在は毒になるから、と言って——どういう心境の変化だろう。
「成果を押し付けることはできない、と先生はおっしゃっていました。確かにその通りです。でも、先生がたはあの日のために大変な努力をされてきました。どんな思いで毎日研究を重ねていたか……その気持ちを、あの子は分かってはいないじゃないですか」
ノフィの言葉には、わずかに苛立ちが含まれていた。へディが激昂したのと同じように、彼女もまた研究に従事していた当事者として思うところがあったのだろう。
「押し付けることはしません。ただ、伝えたいことがあるだけです。それにじっと待っているのは、性に合いません」
やはり見かけによらず、ノフィは行動的な娘のようだ。ヴェイルがことに気付くまであまり時間がないということもあるだろうが、いつもより歩幅も広く、肩で風を切るように早足になっている。
「焦ると良くないぞ」
「焦ってなど……」
フレイセルの言葉に反応して、ノフィは勢い良く振り返った。だが、すぐに思い直し、間を置く。
「……そうですね。落ち着いた方がいいかもしれません」
「いやに素直だな」
「私はいつでも素直です」
そう言って、再び歩き出す。街の喧騒は遠くなりつつあった。行き交う人がまばらになって来たところで、フレイセルはノフィに尋ねた。
「君は、あの子のどこに共感したんだ」
「そのように見えましたか」
「ああ」
ノフィはいつものように、返答に時間を置いた。大事な話をするとき、彼女は発言する前に熟考する。あるいは、できるだけ誤謬のない表現を探す。フレイセルは急かすことなく、ノフィが話すのを待った。
「今まで当然のようにあったものを奪われ、その事実を毎日毎時突きつけられる……それに耐えられる人間は、多くありません。少尉も身近に感じておられるのでは」
フレイセルはネス少尉のことを思った。戦争の経験は、人々に深い傷を残している。ふさがったように見えて、痛みだけを長く残していく傷もあれば、いつまでもふさがらない傷もある。フレイセルの無言の肯定を受けて、ノフィは続けた。
「あの子は、今のままではどこにも行けません。足を得たとしても、他人と違うという疎外感は付きまとい続けます。その恐ろしさを想像するのは、そんなに難しいことでしょうか」
「……簡単なことでもないな」
簡単なことではないから、人はすれ違うのだ。感情を爆発させ、他人を傷つけ、傷つけられながら生きる。それは間断なく、深く考える暇も、傷を治すいとまもないほどだ。ノフィの話を聞かなければ、へディの態度を理解できないままに終わっただろう。
と、孤児院のある丘を前にして、ノフィが立ち止まった。ノフィとフレイセルが座って話していたあの長椅子に、へディが座っていたのだ。
へディは二人の姿を見ると、杖を片手に立ち上がって建物の中に入ろうとする。ノフィがそれを、待ってと声を張り上げて止めた。
「逃げないで」
へディが振り返った。困惑と、悲しみが入り混じった表情だった。
二人が追いつくまでの間、へディは言われるままにじっと待っていた。そしてノフィが抱えている荷物に気がつくと、首を横に振る。
「それは、いらない」
「それでもいい。でも、辛いことから逃げるにしたって、必要なものよ」
逃げてもいい、とノフィは繰り返した。
「だけど、いつかは行き先を見極めないといけない。袋小路に飛び込んだら、本当におしまい」
「そんなこと突然言われても、分からない」
「考えて。どれだけ時間がかかってもいい。その間は、立ち止まっていてもいいから」
頑なに心を閉ざすへディに、ノフィは熱を持って語りかける。やがてへディの瞳が、ノフィの表情を捉えた。
「他の人と違うことを受け入れるのは、大変なこと。でも一人で背負い続けないで。人は……『違い』を重ねて生きることもできる、私は、そう信じていたいの」
ノフィのつぶやきが、風の合間に揺れた。へディはしばらく、立ったまま考え込んでいたが、やがて小さく頷いた。話し声を聞いて出て来たのか、孤児院からアーニャが顔を出す。へディはそれに気づくと、幾分か落ち着いた様子で、ノフィに話しかけた。
「それを受け取るよ。……つけてくれるんだよね」
「少し痛いけれど……」
「平気。もう死ぬほど痛いことなんて、そうそうないだろうから」
へディはもう怯えてはいなかった。少し強い風が吹き抜けたが、彼女はまっすぐに立ち、ノフィを見つめていた。
そのあとノフィは慣れた手つきでへディの足に義肢を装着した。アレムにしたように淡々とした態度だったが、へディが両の足で歩き出すと、ほっとしたように頬を緩めた。
軽くなった鞄を手に孤児院を出て帰路につく道すがら、その足取りも来たときよりは軽くなっているように思えた。
「なかなか情熱的だった」
思いが通じる、その瞬間の立会人になれたことを、フレイセルは誇りに思った。そんな素直な感想を述べると、ノフィは照れを隠すようにぷいとそっぽを向いた。
「先生の真似です」
あの熱弁はヴェイルの影響だったらしい。はじめは全く似ていない二人だと思っていたが、今こうしてみると、情に厚いという共通点がある。あるいは、同じ時間を過ごすうちに変化が訪れたのか。彼女に関してまだ分からないことは多いが、少なくとも苦手だと思う必要はなさそうだ。
そう考えを改めたフレイセルの思考に、やや低くなったノフィの声が割り込んだ。
「へディさんにはああ言いましたけど、私も納得できていないことはあるんですよ」
「ん?」
声に、暗い影が差す。それは、あの時、長椅子に座って話をした時と同じ雰囲気だった。
「……私は恵まれています」
歩きながら、ノフィは語り出した。
「ベルジュ家に生まれ、優秀な親兄弟の薫陶を受け、女だからと抑圧されることもなく、ただ子を成すことを求められることもなく、ひとりの人間として尊重され、教育を与えられ、欠けたものは何一つなかった。これを『幸福』と言います。私も異論はありません」
異論はない、と言いながら、ノフィの声音からはやるせなさが伝わってきた。
「それでも、私はベルジュ家の娘として生まれたことを苦しく思ってしまう。あの人の妹でなければ、こんな思いをしないで済んだ」
そこまで言って、ノフィは立ち止まった。そして、ゆるりとフレイセルを振り返る。その、今にも泣き出しそうな表情に、フレイセルは驚いて足を止めた。
「あなたのことは、初めて会った日に調べさせてもらいました、ヴァイラー少尉。兄と同じ戦場で戦っていたそうですね」
心臓が跳ねた。そして、血の気がだんだんと引いていく。最も恐れていた現実を前に、フレイセルは言葉を失っていた。こんな状況を、想定していなかったわけではない。いつか尋ねられることになるだろうその問いを、ノフィは口にした。
「教えてください、少尉。なぜ、私の兄は帰ってこないのか。どうして、戻ってきたのがあなたなのかを」
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