第2話 欠落/5
整えられたベッドの上に鞄を置いて、中に私物を詰め込む。隣のアレムのベッドはとっくに片付けられていて、彼がいた痕跡は何一つない。そしてフレイセルのベッドも、すぐにそうなることになっていた。
六人用の病室に残っている衛士は、もうフレイセルと、あと一人だけだった。
「ネス少尉」
鞄を背負い、フレイセルは窓際のベッドで読書する青年に声をかけた。神経をやられて右半身が動かなくなってしまった彼は、明日にも別の病室に移される手はずになっている。
夢を抱くなと語った彼を、誰も責めることはできない。彼はそれを望めぬ体にされてしまった。ネス少尉はフレイセルが返答を待っているのに気づくと、本を閉じて顔を上げた。
「俺は今日付けで正式に本務に復帰する。これでお別れだ」
おそらく、二度と会うことはない。アレムはともかく、彼がまた衛士服を纏うことはないだろう。本人もそれは分かっていて、それまでの時間を、殻に閉じこもって過ごしている。
「そうか。おめでとう、俺はあんたが羨ましいよ」
枯れた声でそう告げる彼の顔は暗い。臆することなく発せられた言葉に、フレイセルは目を伏せた。
「確かに、俺は他に比べて怪我も軽かった……」
「そうじゃない」
ネス少尉は窓の外に視線を投げた。冬が近づき、木からは葉が落ちつつある。
「失ったものは大きく、得たものはなく、あとはただ朽ちるだけ……なのに、なぜ、お前は違う?」
フレイセルには返す言葉がなかった。あの戦場を経験して帰還し、なぜ迎え入れてくれる場所がお前にはあるのか、と、ネス少尉は言ったのだ。答えは、幸運な巡り合わせ以外に何もない。望む未来を引き寄せることができるなら、どんなにいいだろう。だが現実はそうではない。
あるいは、現実を否定しようと足掻くこともできるだろう。だが、ネス少尉にはそれさえできない。幸せを得ることなどできないと、幸せを得る資格などないと、そう結論づけなければ耐えられない。納得ができない。ネス少尉の置かれている状況は、過酷で、どうしようもなく孤独だ。
「……少尉。俺は、あれから君の言葉を、ずっと考えていた」
フレイセルはそんな彼に、ゆっくりと染み込ませるように言葉を紡いだ。
「俺たちは変わってしまったし、戦場を知らなかった頃には戻れない。俺たちは人殺しで、命を奪って、そして、生き残ってしまった」
幸か不幸か——それを運命と呼ぶならば、あまりにも残酷だ。善良な人々の前に立って、側にいるのに少しも近い気がしない奇妙な感覚を、フレイセルは思い出していた。
「俺たちが幸せになることは許されないのかもしれない。いつか裁かれる日がくるのかもしれない。それでも、」
フレイセルは息をついた。ネス少尉の視線をまっすぐ受け止めて、自分の気持ちを素直に吐き出す。
「それでも、そんな俺たちを愛して、心配して、幸せになって欲しいと望んでくれる人たちの、その気持ちまでは、踏みにじれない」
尊い、祈りにも似た思いを、フレイセルは否定したくない。どんな人々でも幸せであって欲しいという願いに、フレイセルの生は守られているのだ。ならば、そう、フレイセルはその時に確信を得た——俺が生きる意味は、そんな風に祈ってくれる人々を、敬愛する先生を、支えることにある。
「……それだけだ。じゃあ」
また、という言葉は必要ない。返事もなかった。幸せを享受することをネス少尉が受け入れらる日が来たら、道が交わることもあるのかもしれない。時間をかけて、フレイセルの言葉がゆっくり彼の心に染み込んで、傷痕を埋める日がきたら、その先でまた出会うこともあるかもしれない。
いずれにせよ今はお別れだ。ネス少尉に敬礼し、フレイセルは病室を出た。
誰もいない廊下を少し早足に通り過ぎて、兵舎へ向かう。実生活を送る家を持たないフレイセルにとっては、寮というのは実にありがたい制度だ。一緒に寝起きする同僚が誰になるのかはまだ聞かされていないが、こちとら魔術学校時代から相部屋という共同生活に慣れ親しんできた身だ。心配はいらないだろう。
そんなことを考えながら療病棟を出て、正門をくぐったところで、フレイセルは呼び止められた。
「ヴァイラー少尉、少しよろしいですか」
杖をつき、よそ行きの外套に身を包んだノフィが門の外でフレイセルを待ち受けていた。
「……何か」
何かしたかな。フレイセルは記憶を掘り起こして思い当たる節がないか探った。
そこにいるのはノフィ一人だけだ。ヴェイルならともかく、彼女一人に声をかけられる用事などそうそう思いつかない。何かしでかしたのかと考えるのが順当だ。そして、ヴェイルを巡って一種の敵愾心さえ抱かれているフレイセルにとって、ノフィがこのあと何を言いだすかは非常に重要なことだった。
緊張するフレイセルに対し、ノフィはゆっくりと向き直った。
「少尉は今日、非番だそうですね」
「誰に聞いたんだ?」
「それは……乙女の秘密です」
衛士の勤務日時を知り得る情報網が乙女の秘密などという可愛らしい単語に包まれてたまるか。騙されんぞと身構えるフレイセルをよそに、ノフィはこともなげに続ける。
「ちょっと、郊外までついて来ていただきたいのです」
「その杖で決闘でもする気か」
「少尉がその気ならやぶさかではありませんが」
「今のなし。用件を言ってくれ」
促すと、ノフィは肩にかけていた鞄を視線で示した。それは先日、ヴェイルが持っていたものだ。当然中身も同じものだろうと想像がつく。そしてノフィが行きたい場所にも思い当たった。
「お使い……って感じじゃないな」
ノフィはあくまで助手だ。それに、ヴェイルはヘディの気が変わるまで待つことにしているのだ。となれば、ここにノフィがいるのは彼女自身の意志で、ということになる。
「先生には言って出て来たのか」
「起きませんでした」
しれっとノフィが答えるので、フレイセルはこめかみを押さえた。時間は午前、確かに休みの日のヴェイルならばまだ寝ている時刻だろう。ミルテも彼を寝かせたままにしておくこともあるかもしれない。そしてノフィがもしヴェイルに黙って義肢を持ち出して来たなら、フレイセルとしては彼女に同行することは望ましくないのだ。
「君は学校に戻るべきだ」
「咎めがあるならば、先生から受けましょう。本来これが今日まで研究室にあること自体がおかしいのですから」
「あの子は義肢を必要としていない」
「決めるのは我々ではありません」
ああいえばこういうノフィに、フレイセルはとうとう折れた。
「なら、これが最後の質問だ。俺が同行する必要はあるのか」
一呼吸置いて、ノフィは小さく頷いた。
「終わった後で、聞きたいことがあります」
それはおそらく、先日の話の続きなのだろう。家族はいるか、優しい人々かとフレイセルに尋ねたあの話だ。フレイセルは少しばかり興味を抱いた。なぞなぞのような彼女の問いの正体が分かるなら、ついていってもいいかもしれない。貴重品を持たせたまま一人で歩きまわられるのも、心配だ。彼女の容姿は特に目立つ。
「分かった。だが、面倒ごとにはしてくれるなよ。それから、せめて俺の用事が済んでからにしてくれ。時間はとらせないから」
はい、とノフィが答えたのを確認して、フレイセルは今度こそ荷物を置きに兵舎へと向かった。新しい同居人への挨拶は、少々遅れることになりそうだ。
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