第1話 邂逅/6
「ではその男は、本一冊のために、大胆にも、真正面から盗みに入ったのですね」
一節一節区切りながら、メイエル中佐は手帳にペンを走らせていた。ヴェイルはフレイセルの足の包帯を替え、はいと答えた。
「男はイシュリア人ということだったか?」
メイエル中佐がフレイセルに尋ねる。フレイセルは、いいえ、と内容を正確なものに訂正した。
「イシュリア語を話す魔術師でした、メイエル中佐」
「ふむ」
顎をさすり、メイエル中佐はしばし思案にふけった。つい最近まで相対していた国の言葉を話す魔術師となれば、慎重にならざるを得ない。メイエル中佐は顔を上げ、ラドバウト教授を見たあと、再びヴェイルへと水を向けた。
「ラドバウト教授が到着した時には、男はすでに姿が見えなくなっていた。その場から完全に逃げ去ったのか、それとも隠蔽魔術を使ったのか、は……どう思われますか、アールダイン先生」
「男はどこかへ転移したようでした。転移術はかなり高度な魔術です。熟達した召喚術の使い手と見ていいでしょう」
「なるほど。分かりました」
メイエル中佐はヴェイルの答えに満足して、すぐさまそれらを手帳に書き込む。そこから視線を外さずに、今度はペンを持った手をくるくると指揮者のように回しながら、フレイセルを指し示した。
「ヴァイラー少尉は男の顔を見ているのだったな」
「はい、」
背筋を伸ばし、フレイセルは記憶を辿る。勉強は苦手としていたが、記憶力に自信はあった。暗闇の中の光景を、確実に、鮮明に巻き戻していく。
「青白い……血の気のない顔で、一重まぶた、それと……下唇から顎にかけて傷跡がありました。それと、左手の薬指がありませんでした」
「よし、よく見ていたな。随分と特徴的だ……盗まれたという本は持っていたか?」
「いいえ」
フレイセルが首を横に振りつつ答えると、フレイセルの手当てをし終えたヴェイルが、近くに椅子に座り直しながら付け加える。
「私を捕らえる前、懐に入れていました」
書庫に忍び込んだ魔術師の男が盗んでいったという本は、召喚科で管理していた一級禁書なのだという。
召喚科は時空の歪みや異世界の存在を研究している学科で、召喚術もものによっては禁忌と目される事もあり、禁書禁呪の類は召喚科が一括して管理している。件の書物も書庫の隠し部屋に厳重に保管されていたものだというのはラドバウト教授の言だ。男は力尽くで封印を破り、その結果として周辺の霊素の均衡が大きく崩れたとのことだった。
「男はあなたを殺そうと?」
「……分かりません」
答えにくそうに口をつぐんだヴェイルの言葉を、フレイセルが引き継ぐ。
「我々に危害を加えた上で、敵意も殺意も感じられなかったのです。不気味なやつでした」
メイエル中佐は手帳を閉じ、腕を組んで、眉間の皺を深くして唸った。
「繰り返しになるが、男と面識はなかったのだな、ヴァイラー少尉」
「少なくとも小官には覚えがありません」
あれほど特徴的な男、顔を合わせれば二度と忘れないだろう。そしてできれば、もう会いたくないとフレイセルは思っていた。敵意も殺意も滲ませずに危害を加えてくる輩など、化け物以外のなんだというのだ。
「お前が何かを知っている——男の言葉に心当たりは?」
「ありません、メイエル中佐」
「よろしい」
メイエル中佐は上着のポケットに手帳をしまい、空いた両手をぱんと打ち、ひとまずの区切りを示す。
「まったく災難でしたな。盗まれた本に関してもこちらで捜索しましょう。題名は確か、」
「『モルダナ』です」
それまで沈黙していたラドバウト教授が、苦々しく口を開いた。
「……厳重な取り扱いが必要な書物です。見つけたとしても、決して中身を読んではいけません」
なぜ、とは言わせない雰囲気を、教授は醸し出していた。口にするのもおぞましいという様子に、誰も内容を追求しない。
「搜索班にも共有させましょう」
メイエル中佐が頷き、その場は解散になった。ラドバウト教授はほかに持ち出されたものがないか確認すると部屋を出て行き、ヴェイルもまた研究室に戻ると席を立った。
フレイセルは療病棟まで移送されることになり、メイエル中佐について正門前の階段を降りていく。
「……あの男は何者だったのでしょう」
誰にも気付かれず書庫へと侵入し、禁書を持ち去った——そんな大事件に出くわし、フレイセルは落ち着かなかった。例の男に襲われた衛士たちの容体も気にかかる。メイエル中佐は、さあな、と首を振り、停めていた車の運転席に乗り込んだ。
「だがひとつ言えることとして、世の中には、大きく分けて三種類の魔術師がいる」
フレイセルが後部座席に乗ったのを確認して、メイエル中佐はゆっくりと車を発進させた。ロータリーをぐるりと回って、大通りの方へと滑り出す。
「人のために尽くそうとする者、真理を解き明かそうとする者、そして、その過程で道を踏み外す者……彼らは手段を厭わない。どんな犠牲を払ってでも目的を達成しようとする」
フレイセルは、昨日のヴェイルの言葉を思い出していた。ヴェイルが言っていた、『傷跡を見て見ぬ振りをする魔術師』とは、どれを指すのだろう。思考は、しかしメイエル中佐の言葉に中断された。
「それより、ヴァイラー少尉。次の外出は怪我が治ってからだ。しばらくは目の届くところにいてもらう」
「えっ?」
明日も外出するつもりでいたフレイセルが声を上げると、メイエル中佐は本当に呆れ返った様子でため息をついた。
「男の顔を見たのはお前だけのようだからな。口封じに襲ってくるかもしれないだろう。考えなかったのか?」
「囮捜査なら協力しますが」
「その前に怪我を治せ。弱っている姿を国民の前に晒すんじゃない」
メイエル中佐がやや乱暴にハンドルを切る。慣性のまま座面に倒れこみそうになったフレイセルは、反射的に姿勢を正そうとして、脚にはしった痛みに顔をしかめた。
彼なりの気遣いなのだとわかってはいても、怪我が治るまでヴェイルに会えないことの方が寂しい。そんな心境が顔に出ていたのか、上官命令だと釘を刺され、フレイセルは従うほかになかった。
車窓から見える赤い夕焼けに不穏なものを感じ取って、フレイセルは目をすがめる。戦火の傷痕の癒えぬこの国で、何かが起ころうとしている。そんな予感が胸の底に重たく溜まり、渦を巻いていた。
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