第1話 邂逅/5
「どいてくれるか。すまない、通してくれ」
声をかけると、フレイセルの衛士服を見た学生たちは素直に道を開けた。フレイセルはよろめきつつ、書庫の様子を窺う——中は不気味なほど静かで暗く、足音も、息遣いも、何も聞こえなかった。異様に冷えた空気が足元を流れていく。
「アールダイン先生は?」
学生たちに尋ねると、衛士さんたちと中に、と学生の一人が暗闇の奥を指差した。待っていろと言われたのか、様子を見にいく勇気はないのか、皆一様にフレイセルの動向を見守っていた。
肌がひりつく嫌な感覚に、フレイセルは生唾を飲み込んだ。似たような状況を経験したことがあるのだ。敵に待ち伏せされている時、斥候が帰ってこなかった森に足を踏み入れる時、物陰に隠れて薬室に銃弾を送り込む時、恐怖が大口を開けて、フレイセルを飲み込もうとした。
フレイセルは思わず腰の軍刀を抜こうとして、自分が丸腰であることに気がついた。そして考え無しに飛び出してきてしまったことを悔やんだ。せめてライフルの一丁でもあればよいのだが、そもそもそんな物々しいものを構内に持ち込めるはずもない。
他の教員や衛士はまだ到着していないようだ。大人しく応援を待つべきか——
逡巡したフレイセルの耳を、悲鳴と銃声が劈いた。学生たちの怯える声を背中に受けて、フレイセルは弾かれたように中に飛び込む。そして乱暴に片目を覆っていた包帯をほどくと暗闇を見据えた。怪我をしているため暗視というには心許ないが、それでも何も見えないよりはましだ。
先生、と叫ぼうとして、フレイセルはぐっと堪えた。闇の中で何が起きているのかわからない以上、むやみに自分の位置を知らせてはならない。フレイセルは慎重に、息を殺し、壁際に寄って奥へ奥へと進んだ。
先ほどの悲鳴はヴェイルのものではなかった。銃声は複数だったが、今は何も聞こえない。やがて闇に目が慣れ、フレイセルは漂ってきた臭いに顔をしかめた。
フレイセルの靴が血だまりを踏む。闇に慣れた両目が惨状を捉えた。書架から落ちた本が床を埋め、その上に衛士たちが倒れ伏し、呻き声を上げている。フレイセルは素早くヴェイルの姿を探した。
目立つ白い頭はすぐに見つかった。しかしフレイセルが想定していた位置より高い。何者かに首を掴まれ持ち上げられている——フレイセルは倒れた衛士の手を離れたライフルを拾い上げ、構えた。誰かいる!
「その人を離せ」
書架に背中を預けて体を固定し、ヴェイルの首を捉える手腕の先に目を凝らす。闇に紛れるような黒いローブを身にまとった、青白い顔の男がフレイセルの方を向いた。ヴェイルもフレイセルに気づいたようだが、声にはならず、宙に浮いた足がばたついただけだった。
「お前は、知っているな」
男が発した言葉に、フレイセルは眉をひそめた。流暢なイシュリア語だった。
「なんのことだ、」
戦場を思い起こさせる言葉ということもあり、フレイセルは男に対する嫌悪をあらわにした。突如としてエメドレアを裏切り侵攻してきた隣国イシュリア。彼らの敵意を、フレイセルは肌で感じてきたのだ。
だが、目の前の男からは、敵意も殺意も感じない。ただそれが不気味だった。嫌な汗がフレイセルの背中を伝い落ちる。この男は、なんだ。
「何が目的だ。どこから侵入した。イシュリア人!」
フレイセルは続けざまに疑問を浴びせた。それに、男は薄ら唇を開く。
その唇の動きを見て、フレイセルは男の足元を狙いを定め迷わず引き金を引いた。男はフレイセルの問いに答えようとしたわけではない。魔術の詠唱をはじめようとしていたのだ。銃弾は床を穿ち、男を怯ませ詠唱を中断させる。判断は一瞬で、フレイセルは片足に力を込めて肉薄した。
男は舌打ちすると、ヴェイルをフレイセルに向かって放り投げる。フレイセルはヴェイルを受け止めざるを得ず、男から気をそらした。その間に男は後方に飛びのくと、そのまま溶けるように姿を消した。
「待て!」
声を上げるも、すでに気配はない。フレイセルは何か男の痕跡を探ろうと身を乗り出したが、呼吸を取り戻したヴェイルが大きく咳き込み、はっと我に返った。
「先生、お怪我はありませんか」
ヴェイルの肩を掴んで軽く揺する。ヴェイルは小さく頷いたが、様子がおかしい。喉元を押さえて、ひゅ、と空気だけを吐いている。相当強い力で絞められていたのだろうかと思ったが、よくよく観察すると、舌は動いているのに、声になっていない。
フレイセルが戸惑っていると、ランタンの明かりが二人を照らし出した。
「何があったんです?」
明かりの向こうでは、傷ついた衛士が助け起こされている。騒ぎを聞きつけて駆けつけた教員のようだった。
「怪しげな魔術師の仕業です。イシュリア語で話しかけられましたが、意図がつかめませんでした」
「イシュリア語で?」
フレイセルの話を聞きながら、青年は二人のそばに跪いた。そしてヴェイルの喉元を軽く検分すると、短い杖を取り出す。
「アールダイン先生は魔術封じをかけられているようですね。声を封じれば魔術師は詠唱ができなくなりますから……荒技ではありますが効果的です」
そう言って、杖でヴェイルの喉を軽く叩く。すると、ヴェイルの口からかすれた声が漏れた。
「あ、ありがとうございます。ラドバウト先生」
「お構いなく。……一旦外に出ましょう。お話を聞かせてください」
青年は立ち上がり、衛士たちもそのあとについて書庫を出て行く。フレイセルもヴェイルに肩を貸そうと身をかがめると、ヴェイルが少し怒ったように呟いた。
「先生の言いつけは守るものです」
フレイセルは小さくなった。決して部屋の外に出てはいけないと言われたのを思い出したのだ。
「すみません。でも、嫌な予感がして……行かないとと思ったんです」
「あなたは怪我をしているんですよ」
言われてみれば、片足が尋常ではない痛みを訴えている。興奮していて気づかなかったが、これはまた治りが遅くなりそうだな、とフレイセルは顔をしかめた。
気づいてしまうと厄介なもので、立ち上がろうとしても力が入らない。ヴェイルを助けようと思っていただけに急にいたたまれなくなり、フレイセルは俯いた。
「……危ないところを、ありがとうございます。でも、無茶はしないでください」
叱るというよりは言い聞かせるような口調に、気まずい思いで頷く。ヴェイルのこういう声音に、フレイセルは弱い。結局ヴェイルに助け起こされる形で、フレイセルは書庫をあとにした。
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