第1話 邂逅/4


 学生が乗る路面列車に揺られ、フレイセルは襟を正した。昨日よく眠れなかったせいか、少々寝過ごし慌てて支度して出てきたのだ。袖が汚れていないか、裾に皺がよっていないかを確認する。寝不足の顔色はどうにもならないので、せめて背筋だけは伸ばしていこうと気合を入れた。

 ——やめておけ。

 ——人並みの幸せなんて求めるものじゃないし、手に入れることはできないんだよ。

 頭の中で昨日聞いた言葉がこだまする。兵舎を出るときも、背中に視線を感じていた。たしかにもっともらしい忠告だろう。だが、それを思い出すたびに、フレイセルはヴェイルに会いたくなるのだ。

 軋む片足をなんとか前に出して、学校前で降りる。正門をくぐり、昼時ゆえに騒がしい構内を横切って昨日の道を辿った。だんだんと距離が縮まるにつれて不安は薄れていく。そして見慣れた扉を叩いた時には、呪いから解放されたような、そんな気持ちになっていた。

 しかし、部屋の中から返事がない。不思議に思って、フレイセルはもう一度扉を叩く。やはり反応がない。留守だろうかとドアノブを回すも、鍵はかかっていなかった。

「先生?」

 そっと扉を開けて、中を覗き見る。床に散らばった紙くず、無造作に広げられた書物の数々はベッドの上にまで及んでいる。机に向かう背中は崩れ落ちていて、静かに寝息を立てていた。

 フレイセルはしばし言葉を失い、呆れと、よく見た光景に安堵した。静かに部屋の中に入り、紙くずや書物を避けながらヴェイルに近づく。多少の物音では起きなさそうだが、それはそれで問題だ。

「先生、お体に障りますよ——先生」

 隣に立って肩を掴み、軽く揺さぶるが、一向に起きる気配がない。まるで糸の切れた人形だと思いつつ、起こすのは諦めて、体が冷えないよう上着を脱いで背中にかぶせる。

「あ、ヴァイラー少尉。こんにちは」

 そこへ、両腕に真新しい紙束を抱えたミルテが入ってきた。ノフィのほうはなにやら分厚い大判の本を数冊運んでいる。

「あれ、先生、寝ちゃいましたか」

「起きない。起こさないほうがよさそうだが」

 ノフィとは極力視線を合わせないようにしながら、ミルテに場所を開ける。ミルテは机の角に紙束を置いて眠っているヴェイルの顔を覗き込み、心配そうに眉尻を下げた。

「結局徹夜だったんですね。朝、私より早く起きていらっしゃったので、珍しいなと思ったんですけど」

「君でも止められないんだな」

 ミルテが来てから規則的な生活になったと聞いていたが、やはり無茶をする悪癖は一朝一夕で治るものではないらしい。

「先生が私の言うことを聞いてくれることの方が少ないですよ。特にここ一ヶ月は休講してずっと机に向かってます」

「一ヶ月も?」

 そうまでして何に没頭しているのだろう。書きかけの原稿を覗いてみても、フレイセルにはまったく何が何だかわからない。ひとまずミミズののたくったような跡を引いているペンをヴェイルの手から取り上げて脇に置く。

植物科エレニス錬金科パスカリスとの共同研究で、新しい義肢を作っているんです」

 フレイセルの疑問に答えたのはノフィだった。抱えていた書物を机の上に積んで、ぱらぱらとページを捲っては栞紐を挟んでいく。

「義肢を? 鉱石科クレトゥスが関係あるのか?」

「あります。私たちが設計する霊素回路なしに、霊素義肢が動くはずないでしょう」

 ノフィの態度は相変わらず冷たいが、疑問には答えてくれる。栞を挟み終わると次の本を開き、また同じようにページを捲る。

「新しい義肢は、霊素をうまく扱えない人でも動かせるように一から回路を作り直しているので、時間も労力もこれまでの比ではありません。でも、今必要とされていますから、先生は休めないのです」

 休むつもりもないでしょう、と若干の訂正を加えて、ノフィは小さくため息をついた。

「人形魔術は先生の専門です。私にもう少し知識があれば、設計のお手伝いもできるのに」

 その横顔には悔しさが滲んでいた。鉱石科の学生であり、ヴェイルの弟子でもある彼女としては、出来うる限りのことを、いや、それ以上のことを望むのだろう。

「それでも十分、助けにはなっていると思うが……」

 そう呟くと、ノフィはちらりとフレイセルを見遣った。

「慰めは不要です。私の力が至らないのは、事実です」

「そうかもしれないが、でも、今君がしていることは、俺にもミルテにもできない」

 フレイセルの言葉に、ミルテが強く頷く。ノフィはじっとフレイセルの瞳を見つめていたが、やがて無言で視線を外した。頬が少し赤い。

「ノフィさんも適度に休憩してくださいね。私、お茶を淹れます」

「なら、俺は片付けを」

 少なくとも、ぐしゃぐしゃに丸められて床に放り投げられている紙くずは捨ててもいいものだろう。屈んでそれを拾い集め、適当な紙袋に詰める。

 戦争の中で傷つき、代わりの手足を必要としている人間はたくさんいる。フレイセルの同僚にも、治療のために腕や足を切り落とさなくてはならない者がいた。これはそういった人々の希望となる研究なのだ。ヴェイルは一日でも早く完成させたいに違いない。せめて少しでもその助けとなれたら——そうしているうちに、話題の本人がもぞもぞと身じろぎして目を覚ました。

「おはようございます、先生。お茶にしましょう」

 明るく声をかけるミルテに、しかし、ヴェイルはまだ夢うつつをさまよっているのか、床にずり落ちた上着にも気付かず、ぼうっとした表情で一言、ぽつりと呟いた。

「……

「はい?」

 首を傾げるミルテとフレイセルをおいて、次に異変に気付いたのは、ノフィだった。

 その表情がこわばった次の瞬間、激しい耳鳴りに襲われ、フレイセルは思わず耳元を押さえた。調律されていない弦を一気にかき鳴らしたような音の渦に、平衡感覚を失う。ミルテもふらついて床に座り込んでしまっていた。

「な、何……」

 声を出すのもやっとの状況がしばらく続き、やがて波が引くように静かになる。説明を求めてヴェイルを見るも、彼は険しい表情で立ち上がると、ローブを翻して部屋を出て行こうとする。

「先生、どちらへ?」

召喚科ティトスの書庫へ。様子を見てくるので、皆さんは待っていてください。決して部屋から出ないように」

 有無を言わせない声音に、フレイセルはその背中を見送るしかなかった。目の前で扉が閉まり、再び沈黙が降りる。突然のことに、誰もが言葉を失っていた。それでも、何かが起こったことは理解している。

「今のは……」

 ノフィを振り返ると、彼女は落ち着き払った様子で続ける。

「霊素の均衡が崩れたようです。魔術が暴発した時にも起こる現象ですが、ここまでひどくことはありません」

「……大丈夫なんですか?」

 ミルテの問いに、ノフィは目を閉じる。さきほど、部屋から出るなと言われたばかりだ。それはつまり、素人では手に負えないということを意味する。

 しかし悠長に待っていられるほど、フレイセルは冷静ではなくなりつつあった。妙な胸騒ぎがするのだ。直感が、追いかけろとフレイセルを急かす。

「ヴァイラー少尉!」

 ミルテの制止を振り切って、フレイセルは怪我した足を無理矢理に動かし、研究室を飛び出していた。

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