第1話 邂逅/2

 また明日会う約束をして、フレイセルは研究室を出た。その後を、ぶかぶかの上着を羽織ったまま、見送りといってミルテがついてくる。

「……いつもそうなのか」

 学生や教員の目にとまって、あらぬ噂を立てられたらどうするのだろう。彼女がいつからヴェイルの研究室に入り浸っているのかは知らないが、やや手遅れとも思える疑問に、ミルテは首を横に振った。

「肌寒いので借りますと言ったら貸してくれました。あとで冬服を買いに行く約束もしました」

 一年中気温が安定している国とはいえ、冬に差し掛かれば風もやや冷たくなる。彼女は孤児だというから、衣類の持ち合わせも少ないのだろう。ヴェイルの性格なら自分のことはおいて彼女の世話を焼きそうなものだが、今のところ細かい気配りができるほど十分に時間を取れているようには見えない。

 今日はつい話し込んでしまったが、明日からは自分も何か手伝いを申し出たほうがよさそうだ。そんなことを考えながら廊下を歩いていると、とある部屋を通り過ぎたところで足が止まった。

 開放された扉からちらりと見えたのは、机で静かに書物を開く女学生の姿だった。ややくすんだ色の金髪が風に揺れ、緑色の瞳が文字を追う。鼻筋の通った横顔は見るものを引きつけて離さない。

 書庫には彼女一人だけのようで、近くに積まれた書物の山が、彼女がここで過ごしている時間の長さを示していた。フレイセルの存在に気づいているのかいないのか、少女は書物から顔を上げることはない。

「ノフィさんです。ベルジュ家の」

 立ち止まっていたフレイセルにミルテが囁く。ベルジュ家といえば、魔術に疎いフレイセルでも知っている。この学校の創設者であり名前にも取られている、賢者アルムゼルダの流れをくむ魔術の大家だ。

「知り合いなのか?」

「先生のお弟子さんです」

「弟子?」

 思わず大きな声が出て、フレイセルははっと口を押さえたが遅く、少女は本を閉じて顔を上げた。その瞳がまっすぐにフレイセルとミルテを捉える。

「こんにちは、ノフィさん。お邪魔してすみません」

 ミルテが軽く会釈をすると、ノフィと呼ばれた少女は何事かをつぶやいた。距離がややあるということもあるが、小さい声だったので聞き取れず、フレイセルは反射的に聞き返す。するとノフィは椅子を引いて立ち上がると、静かに二人のところまで歩いてきて口を開いた。

「邪魔と思うなら静かに立ち去ってください、と言ったのです」

 見目にふさわしい玲瓏な声で紡がれたのは、思いのほか棘のあるものだった。フレイセルはやや気圧されてわずかに身を反らす。貴族階級の発話もあまり聞き慣れないもので、言葉を続けられずにいると、ノフィがミルテのほうを見咎めて、やや目を細めた。

「……ミルテ、その服は?」

「先生からお借りして……」

 ミルテももごもごと口ごもる。そのはっきりとしない態度が気に入らなかったのか、ノフィは腕を組んでミルテに詰め寄った。

「そんな格好で構内を歩き回るつもりですか。部屋に戻りなさい」

「でも、お客様をお見送りするだけですから……」

 お客様という単語に反応して、ノフィはフレイセルを見上げた。足をかばいながら歩く、片目を包帯で覆った衛士服の男は、お客様というよりは患者だ。ノフィもそう思ったのか、不思議そうに首を傾げた。

「救護室までですか? それとも、植物科エレニスの実習室まで?」

 植物科は医薬品や魔術治療を研究している学科だ。しかしそこには用はないので、フレイセルは研究棟の入り口まで、と訂正した。正直ヴェイルには挨拶を済ませたし見送りも一度断ったのだが、二人がフレイセルの足を気遣ったのである。

「それなら、私が引き受けます」

 言外に『だからその格好でふらつくな』という主張をにじませ、ノフィは組んでいた腕を解いて胸に手を当てた。ミルテはノフィとフレイセルの顔を交互に見つめていたが、ノフィにひと睨みされて大人しく引き下がった。

 本を読んでいる姿は物静かな印象を与えるのに、こうして話してみるとなかなかはっきりとものを言う性格であることがわかる。決して悪いことではなかろうが、人間関係に難儀しそうではある。人のことを言えない余計な心配をしているうちに、ノフィは広げていた書物をさっさと書架に片付けてしまっていた。

「では、行きましょう」

 ミルテに見送られて颯爽と歩き出す彼女の背中を、フレイセルは慌てて追った。怪我で足が遅いことは考慮してはもらえず、ついていくのがやっとだ。途中ですれ違う人々の視線が集まるのは、ノフィの存在ゆえか、部外者を珍しく思ってなのか、しかし誰に声をかけられるわけでもなかった。

「ちょ、ちょっと待ってほしい。もう少しゆっくり歩いてくれると助かる」

 そう声をかけて初めて、ノフィは立ち止まった。ゆるりと振り返り、感情の薄い瞳でフレイセルを見やる。

「……ああ、お怪我をなさっているのでしたね」

 悪びれる様子もない。ヴェイルの弟子らしいが、実に対照的だ。歩み寄るでもなく、ただ廊下の曲がり角でフレイセルが追いつくのを待っている。いや、彼女に関しては、声をかけて立ち止まってくれるだけでも幸運なことなのかもしれない。

「あなたは、先生とはどういう関係なのですか?」

 追いついたところで、フレイセルは唐突に疑問を投げかけられた。フレイセルは上がった息を整えつつ、前置きも遠慮もない問いかけを反芻する。

「関係……か。教師と教え子、だな。ああ、ええと、教室で講義を聞いていたわけではなくて……」

 ヴェイルと出会った時、フレイセルはすでに衛士だった。きっかけは、街に来たばかりで迷子になっていた彼を助け、お礼にと茶を一杯ご馳走になったことだった。彼は方向感覚にやや難があるのか、その後もたびたび道を聞かれたため、お互いの顔と名前を覚えるのにさほど時間はかからなかった。

 やがてフレイセルは休憩の合間に彼を尋ねるようになり、その研究室に入り浸った。ヴェイルは手すきの時に簡単な魔術の手ほどきをしてくれたが、フレイセルには魔術を扱う才能がなく、小さな火を起こすのにもマッチを使ったほうが早いくらいだった。それでもヴェイルの授業は退屈ではなかった——思い出を語りながら、フレイセルはあることに気がついてぽんと手を打った。

「俺は君の兄弟子ということだな」

「先生の弟子は私一人です」

 会話を弾ませようと発した言葉は、雪のように冷たい一言ではたき落とされた。

「私一人で十分です」

 さらに畳み掛けられる。機嫌が悪いのは、どう見ても明らかだった。どうやら彼女のプライドを傷つけてしまったらしい。

「魔術もろくに扱えない人を、私は先達とは認めませんし、兄とも呼びません」

「手厳しいな……」

 ヴェイルが慕われているのは嬉しいが、やっかまれるのは想定外だった。明日も来ると知ったら空気が凍りそうだ。ここは黙って去ろう、とノフィの脇をすり抜け、研究棟の門をくぐる。

 しかしノフィがそのまま後をついてくるので、フレイセルは振り返って肩をすくめた。

「何か用か?」

「……いいえ。なんでもありません。お気をつけて」

 形式だけの挨拶をして、ノフィは来た道を引き返していった。

 ついてきた意図は分からないが、フレイセルの頭に真っ先に浮かんだのは、見逃してもらえたという思いだった。遠巻きに二人の様子を窺っていた野次馬もばらけていく。フレイセルはしばらくその場に立ち尽くして、先生もずいぶん個性的な子を弟子にとったのだなと、去りゆくノフィの背中を見送った。

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