第1話 邂逅/1

 少女の細い指がティーポットを撫でる。飾り模様の上に刻まれた文章を、少女がつっかえつっかえなんとか口にすると、ぽんと小気味好い音がして中に満たされた水が熱湯へと変わった。それを見て満足そうに頷いた青年が、軽く指を鳴らす。すると机を占領していた書物や紙束の山が浮き上がり、風にそよぐようにふわふわと脇に寄せられる。

 魔術——それは、不可能を可能にする、祈りを奇跡に変えるわざ。古来から神々と精霊を崇め人々が手にした力は、生活のすみずみまで浸透している。フレイセルがここまで来るのに利用した路面列車も、星の力の結晶、霊晶石ラウライトを動力にして魔術の力で動いている。

 魔術を扱える者を、ひとは魔術師と呼ぶ。フレイセルは残念ながら魔術師ではない。魔術の構築式も読めないし、儀式に必要な霊素レムを集めて操ることも得意ではない。唯一運動神経は人並み以上だったから、基礎教育過程を終えた後は衛士隊に志願した。

 ヴェイルにもう少し早く出会っていれば、努力して魔術の道を志したかもしれない。そうしたら、ヴェイルの身の回りの世話をしていたのは自分かもしれない。ミルテとヴェイルが二人で客人のもてなしの準備を進めているのを見ながら、フレイセルはぼうっと考え事にふけっていた。

 正直に言えば、ミルテが羨ましかった。フレイセルには、彼女のように純粋無垢に笑うことはできないし、愛嬌もない。彼女の出自は先程聞かされた通りだが、後ろ暗い過去を微塵に感じさせないほどに彼女は明るく溌剌としていた。戦場帰りの心荒んだフレイセルには、非常に眩しく映る。

「先生、今日もお忙しいみたいですね。驚かせようと思ったのですが、やはり事前に手紙を書いておくべきでした」

 机の脇に寄せられた資料の山を見ながら、フレイセルは呟いた。この散らかり具合を見るに、何かしらの論文を、しかも複数本抱えているようだ。鉱石科クレトゥスの新人講師でありながら、抜きん出た魔術の才能を誇る彼の研究成果を急かすものは多いのだろう。

 縮こまるフレイセルに、ヴェイルは控えめに微笑んで首を横に振った。

「お話の時間が取れないほどではありませんよ。ミルテさんのおかげで生活も規則的になりましたし」

 いつも寝ている時間に起きていたのはそういう理由らしい。ちょっと視線を動かしてかつて物置きとなっていたベッドを見ると、きちんと使われている形跡がある。おそらく机でも床でもソファでもなく、ベッドで眠っているのだろう。それはそれでほっとしたフレイセルだったが、得意そうに薄い胸を張るミルテの姿に、なんとも言えない複雑な気持ちを飲み込んだ——兵役さえなければ、自分がそこにいたはずだった。

「怪我はひどいのですか」

 紅茶を淹れ、席に落ち着いたヴェイルの言葉に、フレイセルは意識を引き戻された。ああ、えっと、と曖昧な言葉を返しながら頭に巻かれた包帯に軽く触れる。

「大したことはないんです。目も見えますし、足だってよくなります」

「そう、よかった。その……衛士を続けるのですか」

「それは、」

 怪我が治れば原隊に復帰するつもりでいたフレイセルだったが、ミルテの存在がフレイセルの気持ちをぐらつかせていた。傷痍兵として身を引き、魔術の世界に足を踏み入れるのも悪くはなかろう、と突飛なことを考えつつもあった。

 この国最大の公的教育機関であるアルムゼルダ魔術学校は、入学者の経済状況や出自を問うことはない。代わりに卒業はとても難しいのだが、科目の修了証は出る。それを握って新たな職につく者も少なくない。

 フレイセルは少しの間色んな考えを巡らせて、結論を出した。

「ここの警備に転属願いを出してみるつもりです」

 現実的に考えて、魔術の素養がない自分がミルテや他の学生と張り合ったとして結果が残せるとは思えない。すでに基礎教育課程は終えているし、それなら今の自分にできそうなことを探すのが賢明だ。

 フレイセルの答えに、ヴェイルの顔色が明るくなった。

「叶えば、こんなに喜ばしいことは他にありませんね」

「そうですね……」

 とはいえ、先の戦争で衛士隊は人手不足だ。国境警備に人員を割きたいだろうし、フレイセルも復帰すればそちらに回されることになるだろう。そこで安全な首都に残ると言えば、国を守るための兵士が、怖気付いたと非難されてもおかしくはない。

 だが、それでも受け入れてくれる場所がここにはある。先のことはわからないが、今この時は安堵に浸ってもいいだろう、とフレイセルは紅茶に口をつけた。

 ヴェイルの茶葉の嗜好は一年間変わることがなかったらしい。懐かしい芳醇な香りとまろやかな甘みが口の中に広がった。戦場で泥水のような代用品を啜っていたことを思えば天地の差がある。

「……懐かしい味です。でも、先生が淹れてくれるお茶にはかないませんね」

 ちらりとミルテを見ると、彼女はちょっとむくれて目を細めた。

「これでも上手くなったんですよ。文句を言う人はお茶菓子没収です」

 そう言って、ひょいとフレイセルに用意された砂糖菓子を取り上げてしまう。嗜好品であることは理解しているゆえに、適当にミルテをなだめ、取り戻した菓子を口に放り込む。

「それにしても、なにも先生ご自身が面倒を見なくても……」

 状況からして面倒を見られているのはヴェイルのような気がしないでもないが、社会的な保護者となっているのは彼の方だろう。ヴェイルは気まずそうに目を伏せて、カップを軽く揺らした。

「もちろん方々引き取り先を探して、ですが、すべて断られてしまいました。戦争で傷ついた人々はあまりにも多く、皆、余裕がない。変わらぬ生活を送れるのはここだけです」

 その言葉に、フレイセルは今しがた喉を通った砂糖菓子のことを思った。

 エメドレアは魔術資本を提供する見返りとして、西の隣国フィンデルから物資の供給を受けている。手厚い福祉と輸送技術によって末端にまで行き渡っていたそれは、しかし、戦争の混乱の中で滞ってしまっている。

「でも、それもすぐに元通り、ですよね? 議会は学科長も含め聡明な方々が集まっていますし……今も対策案が練られているんでしょう?」

 エメドレアという国はやや特殊な政治構造を有している。この小さな国の最高議会は、魔術学校の学科長と、各区から選挙で抜擢された三十人の議員で構成されており、常に迅速で手堅い国家運営を成してきた。この混乱も国筆頭の頭脳を持ってすればすぐに収まるだろうと、フレイセルは楽観視していた。

 しかし、ヴェイルは目を伏せたまま眉根を寄せていた。

「議会はいつも明確で間違いのない指針を打ち出してきました。でなければ今頃この国はイシュリアに占領されていたでしょう。ですから私も彼らのことを信頼していますし、この国はすぐに立ち直ります。でも……」

「でも?」

 フレイセルが首をかしげると、ヴェイルは一拍おいて続ける。

「戦争を経験して、人々は心にも体にも大きな傷を負いました。政治や、経済や、社会が正常に復帰すれば、傷は目立たなくなるでしょう。しかし本来なら傷を癒すには膨大な時間が必要です。それを、我々魔術師は見て見ぬ振りをする……きっと、」

 ヴェイルは中途半端に言葉を切った。そして小さく、そういう生き物だから、と付け加えた。

「先生……?」

 フレイセルはヴェイルの消沈した顔を覗き込んだ。どこか苦しげにも見えるその表情は、フレイセルの胸を強く掴む。

「すみません。忘れてください」

 寂しげな微笑みに、フレイセルは頷くしかない。彼は魔術師という生き方に納得していないのだろうか。魔術師でないフレイセルには分からない。目の前にいるのに声をかけられず、膝の上に置いた手を握り込んだ。

「私も魔術師の端くれ。できることはするつもりです。フレイセルさんも困った時は遠慮なく頼ってくださいね」

 ヴェイルが湿った空気を打ち消すように微笑み、フレイセルもぎこちない笑みを返す。その後は昼時の鐘が鳴るまで、他愛のないおしゃべりや昔話をして過ごした。

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