第1部 イシュリアの亡霊
プロローグ 帰還
夜明けの街は朝靄に包まれていた。冷えた空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出せば、白く細長い跡が見慣れた街並みに溶け込んでいく。それを、包帯で覆われていない方の片目で追う。
北方戦争は、唐突に始まって、一年ほど続いて、ひと月前に終わりを告げた。塹壕の中で聞いた停戦の知らせも、なんの予兆もなかった。その知らせが全軍に伝わっていく間も、硝煙と血の臭いが消えることはなかったし、喉は乾いたままだった。誰もが信じられないと言う表情を浮かべる中、フレイセルの胸にはただひとつ、『帰れる』という安堵が灯った。
もう誰も、撃たなくていい。
もう何も、失わなくていい。
もう何処にも、逃げなくていい——
フレイセルは目を瞬いた。ぼやけた視界が鮮明になる。
彼を下ろした路面列車はすでに靄の向こうに消えている。誰もいない通りに立ちすくみ、世界に自分一人だけかもしれないという錯覚を打ち消すため、フレイセルは停留所の時計を見上げた。
針はちゃんと時計回りに動いている。帰ってきたのだ、という実感とともに、フレイセルはゆっくりと歩き出した。
魔術大国エメドレア公国、首都メフォラシュ。その中心には、大講堂と呼ばれる古めかしい建物がある。この国で最も歴史のある魔術学校の講堂だ。魔術には縁のないフレイセルだったが、ここで読み書き計算を習い、エメドレアが持つ唯一の警察組織、衛士隊に入隊した。
入隊試験も出征式もこの講堂で行われた。だが、同期で仲の良かった友人達は、今ここにはいない。帰ってきたのは、フレイセルだけだ。
大講堂へ続く階段の真下に着く頃には、人影も増えてきた。戦場帰りの傷ついた体を、幾人もの学生が慌ただしく早足に追い抜いていく。
フレイセルが立ち止まっているのを不審に思ったらしい、階段上にいた門兵が降りてきた。つい最近まで戦時下ということもあってか、門兵の表情は険しく、挨拶の声も硬い。フレイセルは挨拶がわりに懐から取り出した衛士隊の印章を見せた。
「フレイセル=ヴァイラー少尉です。アールダイン先生に用事があるのですが」
丸一日ぶりに発した声は情けなく掠れていた。咳払いをして誤魔化している間に、門兵は顎をさすって印章を検分した後、フレイセルのなりを眺め、ややあって「どうぞ」と道を開けた。
フレイセルは門兵に会釈して、手すりを使いながら危なげなく階段を登り、正門をくぐった。そのまま講堂に入ると暖かな空気が全身を包む。温度としてはさしたる変化はないはずだが、人の気配と話し声がそう感じさせるのだろう。
六つある学科のうち、フレイセルの尋ね人が教鞭をとっているのは
記憶に間違いがなければ、彼は朝に弱く、朝一番に講義を持つことはなかった。住み込みで研究をしているため講義時間以外はだいたい研究室にいる。この時間はまだ寝ているはずだ。そしておそらく、ベッドは使っていない。
机か、床か。せめてソファであってくれと思いながら、フレイセルは扉を叩いた。
「どうぞ」
しかし、予想に反してすぐに返事があり、フレイセルは咄嗟に名乗ることができなかった。部屋を間違えたかと思ったが、通いつめた部屋の扉を見間違えるはずもない。なにより本人の声がする。
フレイセルがもたもたしているうちに、ドアノブが回り扉が開いた。姿を現したのは、まだ眠たげに瞼をこする青年、魔術師ヴェイル=アールダインだった。
ヴェイルはフレイセルの姿を認めると、寝ぼけ眼を大きく見開いた。しばらくフレイセルの頭のてっぺんから爪先までを凝視して、薄く口を開いて言葉を探している。その慌てぶりがどこかおかしく思えて、フレイセルは久し振りに笑みをこぼした。
「ただいま戻りました、アールダイン先生。フレイセル=ヴァイラー少尉です」
「フレイセルさん、」
被せるように、ヴェイルはフレイセルの名を呼んで、それからはっとしたように部屋の中を振り返った。
「ちょ、ちょっと待ってください。じゃなくて、」
「散らかってるんでしょう?」
意地悪く尋ねると、ヴェイルはぱっと顔を赤くしてフレイセルに向き直った。若干扉を手前に引いて、中が見えないように努力している。
「それは……ええっと、たしかに、人を招くには若干手狭な状況ではありますけれど」
苦し紛れの発言に、フレイセルは吹き出した。一年ぶりの再会であったが、ヴェイルはフレイセルの記憶にある姿と何一つ変わっていない。不意を突かれるのに弱く、彼の色白の肌はすぐに赤くなるのだ。
「手紙の一通くらい、くださっても」
やがて冷静さを取り戻すと、ヴェイルは眉尻を下げた。声に非難の色はなく、ただ寂しげな空気が漂う。そのまま廊下に出てくると、フレイセルの怪我に気づき、それを労わりながら袖裾にそっと触れた。
「出征式以来ですね。……おかえりなさい」
フレイセルの胸に、ヴェイルの言葉が沁み渡る。天涯孤独の身であるフレイセルが帰る場所といって思いつくのは、彼の元しかなかった。ローブに包まれた体を抱きしめると、彼はもう一度おかえりなさいとつぶやいて、フレイセルの背をゆっくりと撫でた。かっと目頭が熱くなるのを感じて、フレイセルは短く鼻をすする。
しかし、感動の涙に濡れようとしていた空気は、おずおずと扉の影から顔を出した少女の声で霧散した。
「お客様ですか、先生?」
フレイセルは、突如として現れた頭ひとつぶんも小さい先客を前に言葉を失っていた。ヴェイルを先生と呼ぶからには学生なのだろうと思いきや、少女は制服を着ていない。金色の髪の間から榛色の瞳を覗かせて、薄手の袖のないワンピースの上に男物の上着を羽織っている。
「先生、」
一瞬の間に、フレイセルの脳裏にありとあらゆる推論がかけめぐった。少々下世話なものから彼の人格を信じるまっとうなものまで様々だったが、すぐに本人に聞いた方が早いという結論に落ち着いた。ヴェイルの肩を掴んで体を離し、その薄灰色の瞳をじっと見つめる。
「彼女は一体誰ですか? 学生ではないようですが」
ヴェイルは鬼気迫る形相のフレイセルを不思議そうに見つめ返し、少女を見やってから、ああ、と頷いた。
「彼女はお手伝いさんです。ミルテといって——」
「お手伝い?」
フレイセルは身を乗り出した。確かに、ヴェイルの研究生活には誰かの助けがいるだろうとは常々思っていた。それは衛士であるフレイセルには難しく、歯がゆいことではあったが、まさかこんな年端もいかない少女を使用人として雇うなどとは考えもしなかったのだ。
いや、若輩の使用人が珍しいわけではない。むしろ、貴族階級は幼年から使用人を躾ける。教養ある使用人の存在は貴族社会において一種のステータスである。
しかし、貴族社会とは縁遠いヴェイルがそのような真似事をするはずもない。その疑問に答えるように、彼は続けた。
「彼女は、身寄りがなくて……先の戦争で故郷を失ったのだそうです。駅にとどまっているのを見かねて引き取ったのですが、入学時期を逃してしまいまして、制服が着られるまでここで面倒を見ているんです」
ヴェイルの説明に、ミルテと呼ばれた少女は人懐っこそうな笑みを浮かべてフレイセルを見た。
「ミルテです」
「それは聞いた」
ぶっきらぼうに返事をしても、ミルテは物怖じしない。挨拶は済んだと言わんばかりに身を翻す。フレイセルにとって重要なのは、なぜ彼の部屋を勝手知ったる風に横切るのだとか、どうして彼の服を着ているのだとかそういうことなのだが、問い詰めるにも姑じみている気がして憚られた。
一年前、この部屋にいるのは自分とヴェイルだけだったのに——そんな思いをため息に乗せると、ヴェイルは苦笑して、フレイセルを部屋の中へと招き入れた。
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