晦明たる所以4

 土を踏み締める音、石畳の上を歩く音、擦れ違う人々の呼吸――どれもが耳から遠退くような錯覚を覚えるほど、男は後を追うことに専念していたのだ。


 彼らは中心部へと辿り着くとある大きな建物へと迷うことなく入っていった。それは、夜になればオークション会場へと変貌してしまう奇妙な舞台が備わった建物だ。

 後をついてみれば奴隷と称された人間は青年だけでないようで、商人の男が語りかける口調は数人を相手しているようである。余程いいものが手に入っているのだろう。日中の人身売買ほど稀なものはない。

 興味本位で会場へ赴く者も、常連のように悠々と歩いていく者も半々といったところで、目玉商品がどうのという言葉だけが飛び交っているように思えた。

 やがて会場では大きな歓声とざわめきが起こり、薄暗くなった舞台の上で、大人しく照明に照らされる奴隷と呼ばれた人間達の値段決めが始まっている。仄暗い廊下で扉越しでも聞こえるほどの賑わいは男にとって単なる耳障りな雑音。心の安定を崩すだけの厄介な音。

 ――それでも男はその扉の前を離れようとしなかった。

 ただ迷っていたのだ。これまで〝認識〟されずのうのうと穏やかに生きていた自分が、この場所で存在を露わにしていいものなのか。一度姿を現せば決して止まることは許されないざわめきも、噂も、衝動も蔓延ってしまうに違いない。今はまだ何もせずこの場を立ち去るのがいいのではないか、と――。


「さあ! 最後に残すは遠方より持ち出した、この付近では稀な存在! 力仕事を押し付けるも良し、魔力を奪うもよし! 少しばかり見窄らしい姿なのは許してくださいね――」


 首輪に拘束具、ほんの少し窶(やつ)れた顔の青年が前に押し出され倒れると同時、扉が小さな音を立てて開かれる。

 廊下と会場では明るさが全く違う為か、扉をいくら静かに開けようとも会場に流れる光で開閉がよく分かる。仄かに男の背後を照らす光は暗闇に慣れた目では酷く眩しく思えた。

 その場に居る誰もが男に目を向けた。明らかな訝しげな目と、邪魔者を見るような目がいくつも男を見ていた。商人の男は「邪魔をしないでもらえますかねえ」と怒気を含んだ声色でマイク越しに男に語りかけたが、――男は酷く眠たげに欠伸をひとつ。

 そして――


「人身売買は中止だ。悪いが、彼は私が貰い受ける」

「何を言って……?」


 凜とした声を放ちながら、男はポケットに入れていた手を宙に躍らせた。

 会場のざわめきは恐らく外の市場には一切届いていないだろう。売られている青年は現状にすら興味が湧かないと言いたげに茫然としていたが、何かに気が付いたように瞬きをひとつ。何気なく建物内を見渡したが、照明がある箇所以外は暗闇に包まれて常人には見えないだろう。


 かく言う彼もまた、見えたところで何が起こっているのか理解はできないのだが――。


 地鳴りのように小さく建物が軋み始める。それに気が付いたのは奴隷と言われていた青年以外に黒衣をまとう男だけだろうか――「見張りは何をしていやがる!」と声を張る商人には軋む音が届かないようで、男は呆れたように「そんなものが私を〝認識〟できるとは思えんな」と溜め息混じりに呟くと同時――建物の真下で地震が起こったかのように大きく揺れ始める。

 照明に照らされていない暗闇に呑まれた場所から柱が崩れ落ちるけたたましい音が鳴り響いた。すると、高い天井が大きく歪み、蓋が外れるように端から瓦礫が落下してくる。建物の変化は外にも大きく現れたのだろう――中と外、両方から耳障りな金切り声が響いていった。

 観客は我先にと出入り口に向かって走り、はち切れんばかりの人間が外へ出ようとしている。その間にも建物は音を立てて崩れているというのに、男は何の支障もないと言いたげに目の前を見据えたまま再びポケットに手を入れ始めた。

 気が付けば商人などどこにも見当たらない。それどころか観客さえも逃げて辺りに残るのは崩落を続ける音と、取り残された青年だけだ。

 音を立てて崩れる柱が眼前に落下したというのに男はまるで気にも留めず、ゆっくりと歩を進め始める。暗闇の中では色も認識できない絨毯が引かれた造りのいい階段を。

 彼は逃げるつもりもないのか、――そもそも抵抗する意思すらなく単純に手足に繋がれた鎖をほどこうとも思わないのか、茫然としたまま宙を仰いで崩れていく天井を見る。

 死への恐怖というものを忘れてしまったのか、人を簡単に押し潰せる程度の瓦礫が目の前に現れようとも、その場を動かなかった。


「…………やり過ぎてしまったな……」


 ぽつり、低く感情の薄い声がひとつ。瓦礫が目に見えない何かによって後方へ投げ飛ばされ、代わりに彼の目の前に現れたのは金と赤の瞳を獣のように輝かせる長身の男。

 初対面で最初に気になるものといえば、切りつけるように縦に刻まれた傷痕であるが、人の手を失い気が付けば壊れた照明は光を与えることはなかった所為か、暗闇でのその顔は妙に視認しにくい。

 ――それでも、お互いの位置や存在を認識するには十分だった。


「……?」


 不意に男は彼に手を伸ばしたかと思うと、徐に抱き寄せて割れ物を扱うようにゆっくりと撫でる。「ああ、良かった。これで……貴方を許せる」と小さく呟いて、惜し気もなく離れたかと思えば着ていたコートを青年にかぶらせ、「悪いな」と口を洩らしたのだった。

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終焉と奴隷の脱却譚 小雀黎 @kogara961

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