猫の子
三津凛
第1話
鼎(かなえ)が産まれたのは、まだ私が酷い神経衰弱を患っていた時だった。父親の私よりもよほど元気な、血色の良い丸々とした赤子だった。家内は出産したのにも関わらず、異常に元気で食欲も旺盛だった。
そのくせ母乳だので栄養分は霧散してしまうのか、一向太らない。それどころか、家内は少し痩せたようだ。私は神経衰弱からくる胃痛で、食べたものの半分は吐き出してしまう。
私の家庭は、父親の私が一番痩せこけていて、次いで家内、ひ弱なはずの赤ん坊の鼎が一等太っていた。
私はまだ復職もできずに、日がな一日すっかり綿の抜けた布団の上で過ごしていた。私の席に、嫌味で抜け目のない田沼がそっくり返っているかと思うとむかむかとした。
たまに散歩に出かける以外は、私は部屋にこもったきり何もしなかった。
家内も何も言わなかった。私に遠慮している風もなく、無邪気に鼎をあやして乳を含ませては寝かせていた。
私はそこで、どうしてこうも家内は頓着しないのだろうと不思議に思った。そう思いだすと、何かが止まらなくなって私は家内のことを心底疑うようになった。
そういえば、最後に家内とあれをしたのはいつだったろう。
私は真っ白なままの手帳を取り出して、数字を睨んだ。鼎はまだ産まれたてである。
私には、家内の肌は随分と遠いものなような気がした。この胃痛だ。とても抱く気にはならない。じゃあなぜ鼎は産まれたのだ。
こうした不信や疑問が、肥えたアオダイショウのようにとぐろを巻く。
私は家内を意地悪な目で見るようになった。
「まだお粥じゃないといけないですかい」
家内は細面の良い女だ。それが神経衰弱の旦那に囚われて、赤子まで抱えている。同情されないわけがない。
私はまだ味の薄い粥しか食えない。それでも半分ほどは吐いてしまうから、ちっとも肉がつかないのだ。家内はそれでもよく尽くしてくれる。間違いなく、良い女なのだ。それでも不信が渦を巻く。
この赤子は、鼎は本当に私の子なのだろうか。私は患って、もう1年だ。家内はいやに瑞々しい。それが私を不安がらせたのだ。
昼食後はいつも私は横になる。朝は白湯だけで済ますから、どうしても胃液が濃くなるのだ。粥を腹いっぱい食べるのがよくないのか、昼食後は胃が痛くなる。横になると少しは具合が良い。そのまま大抵、私は夕方まで眠ってしまう。おかげで夜は丑三つ時まで眠れないで起きている。
復職した時にすぐに助手ができるように、まだ元気だった頃に使っていた英語辞典やドイツ語辞典をひっくり返しては文献を読み漁るのだ。それから小説もたまに読む。
ある時私はこの昼寝の時間に、一つの仮説を立てた。家内は私の性分も睡眠の質も知り尽くしている。この間に男と会っているのではないのか。家内はもう随分と前から私を裏切っていたに違いない。鼎はその知らない男との、恥知らずな男との不義の子だ。
そう考えてみると、家内の無頓着さも納得できて私は家内の美貌さえも憎むようになっていった。
だが鼎は可愛いかった。
私にはあまり似ていない。だが目元の涼やかなところは家内と似ているような気がした。全体の相貌は私にも家内にも微妙に似ていないような気がする。鼎は私には懐かず、たまに縁側に寄ってくる野良猫にだけは妙に馴れ馴れしく愛想を振りまいていた。
この野良猫は気まぐれにうちの縁側に寄っては、おかずをねだる卑しん坊だ。全体は白いが、背中に黒い斑(ぶち)がある。この斑がなんともいえない形で、見ようによっては人の横顔にも見えるから不思議なものだった。
ある午後のことである。私は珍しく夜に眠れたおかげで、いつもより早く昼寝から目覚めてしまった。寝返りを打って、もう少し眠ろうかと瞼を閉じかけた時、家内の声が聞こえてきた。
妙に馴れ馴れしい、女の声色をしていた。私はいっぺんに毛穴が塞がり、窮屈にされた毛が逆立つのを感じた。
「いやあね、また来たの。さぁ、いらっしゃいな。鼎と待ってたのよ……」
私は起き出して、そっと居間を除いた。家内は気づかない。だが家内は独りきりのようだった。
はてな、と私は訝しく思って首を伸ばして覗き込んだ。
あの猫がいた。居間に上がり込んで、家内が魚を解したのを皿に盛っていた。猫はよく肥えて、堂々としている。猫が何か鳴いて、家内は笑った。鼎も怖がらずに猫に向かって手を伸ばす。それは本当の父親のような横顔だった。猫は野良のくせに、髭の先までまっすぐ伸びて、まるで偉丈夫だった。
私はしばらくその様を眺めて、また布団に戻った。
鼎は猫の子だ。間違いない。
それから私はその野良猫を注意深く観察した。私にはあまり心を許してはいないようだったが、食べ物にはよく釣られるようだった。猫の顔は誰かに似ていた。だが、なかなかそれが誰なのか思い出せないままだった。
ある夕立の酷い時分に鼎を抱いている時に、私はようやく思い出した。
鼎だ。鼎とこの猫の相貌が実によく似ているのだ。
鼎はあまり私に懐かないまま、成長していった。
猫は相変わらず、私の寝ている間は家に上がり込んで家内と鼎を独り占めしていた。
鼎が10にもなった頃である。
私はまだ患っていた。家内は相変わらず何も言わない。
あの猫は何年か前から、ふっつりと姿を見かけなくなった。家内は少し太ったようだった。あれから子どもはできていない。私はもうあれのやり方も忘れた。
「お父さん、桃でも食べましょうか」
家内は変にはしゃいで言う。私はあれから更に痩せこけて、これはもう使い古された雑巾のようだなと、口の悪い友人に嗤われた。
こんな私に桃だとは!
だがわたしは素直に頷いて、家内が桃を3人分剥くのに任せた。
鼎は綺麗に成長した。相変わらず私には寄りつかない。どうも、嫌われているようだった。私の方も、鼎を娘だとはあまり思えず、どこか他所のそれでも細い血の繋がりはある親戚の子でも見るような眼差しだけを鼎にやっていた。
桃が来た。まるでしゃぶりつかれるのを待っているかのような瑞々しさだった。私はほんの一口だけ、桃をかじった。
鼎は果たして私の子なのか、はたまたあの猫と家内の間にできた不義の子なのか……。
私は疑心暗鬼に囚われながら、鼎と家内をかわるがわる見合わせた。2人はそっくりかえって、桃をしゃぶっている。ふと庭の塀を見上げると、猫が太い尻尾を悠然と振りながらのっそりと歩いていた。
あの猫だった。何年かぶりに見たが、あの猫に違いなかった。それが証拠に、鼎と家内をじろりと眺めた後で、見下すように私と目を合わせた。
それでも飽き足らずに、なあおん、とわざとらしく鳴いてみせた。
私は激昂して、桃の入った碗を掴むと猫めがけて投げつけた。瑞々しい桃が転がり落ちて、土に塗れた。猫はけたたましい鳴き声をあげて飛び上がると、夜闇の中に溶けて消えた。
家内は「あれまあ、もったいないこと」と、まるで他人事のように桃を食べ続ける。猫がいたことには全く気づいていないようだった。
ふと視線を感じて私は目をあげた。鼎がまるで怒ったように、私を睨んでいる。
銀色に輝く双つの眼は、あの猫にそっくりだった。
「猫さん、可哀想に」
鼎はぽつんといったきり、それからしばらく私に口をきかなかった。
あの猫はニ度と、うちには来なかった。
猫の子 三津凛 @mitsurin12
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