第5種 ほうらいの国/ふじの山

      1


 通称紫尾園シビエンは、いわば人間の最終処理場である。

 不要になった老体を人道的に解体し、生命活動の一切から引退を勧告する。

 増えすぎて行き場のなくなった老体は、次世代を担う若人に世界を譲り、未来を託さなければならない。その醜く弛緩した人体を晒してまで生き恥を重ねるのは迷惑を通り越して公害である。

 老いては死すべきだ。

 しかし老いて尚死にたくなくば、

 私に従うべきだ。

 当局で呼ぶところの紫尾園を統括する園長であり、自称マダム=ジャパーと呼ばせる人物はそんな理想を掲げる。

 どうしてじじばばは、すべてを忘れて逝くと思うかい?

 城に招待された私にマダム=ジャパーが投げかけた質問を原文まま記す。

 そのとき私は答えられなかった。満足な思考もできなかったが、マダム=ジャパーはそれを咎めることなく、わかったら教えてくれ。そう言って笑った。

 マダム=ジャパーは私を試していた。だからこそ私も熟考した。

 なぜ人間は老いとともに記憶を失っていくのか。忘れてしまうのか。

 過去のことは記憶している場合もある。未来のことを想像できる能力は失われ、現在にしか生きられなくなるとも言われる。

 新規の情報を受け入れる皿が干からびて、過去の時間軸を生きる自分に戻ってしまう。一番楽しかった時代に。一番輝いていた時代に。

 だからこそ、昔の記憶に固執する。とっくに引退した仕事に出掛けようとする。夜な夜な現役時代の仕事に取り組んでみたりもする。

 人間は忘れる生き物だ。忘れる機能があったからこそここまで長生きができたとも考察されている。すべてを憶えていたら脳がその重みに耐えきれずに破綻する。

 心を守るためなら、

 脳は何だってするのだ。

 偽りの記憶も作るし、受け入れがたい事実には蓋をする。なかったことにしてしまう。

 これこそが、マダム=ジャパーの問いかけに答える手掛かりたりえないか。

 心を守るために、

 すべてを忘れるのだとしたら。

 人間が老いることから生じる最もつらい事実は、死。

 死を避けることはできない。かといってそう易々と受け入れることもできない。

 回避できないのなら、眼を背けるしかない。

 そうか。

 それで。

 すべてを忘れてしまうのか。

 死すらも。

 忘れることで、快も不快もなく自分すらも切り離して。

 死への恐怖を受け流そうというのか。

 なるほど。

 我ながら妙案だった。

 私はそれをすぐにマダム=ジャパーへ報告した。

 マダム=ジャパーは何も言わずに口の両端を上げた。

 笑った。のだと思う。

 次の日から私は地下に仕事場を与えられ、来る日も来る日もやってくる老体を人形へと作り変えた。

 自分本位な老体に思い知らせているようで気分がよかった。

 確かにお前らはつらくないかもしれない。死への恐怖から解放されたのだから。

 しかし、遺された家族はどうだ?

 お前らを四六時中付きっきりで介護する家族の悲しみといったら。

 お前らはすべてを忘れる。

 家族はすべてを憶えている。忘れるわけがない。

 どうして忘れてしまったのと。

 どうしてそんなに変わり果ててしまったのと。

 悲嘆に暮れる様は見ていられない。

 つらいなら手を放せとも言えない。それが家族の宿命なのだと思い込んでいる。

 見捨てることなどできはしない。

 これまでに受けた恩を思えば。

 そんな非人道的なことなどできるはずが。

 ないだろうか。本当に?

 だからこそマダム=ジャパーは提案した。

 増えすぎたなら減らせばいい。

 施行されるや否はかつての常識は取って代わられる。

 大手を振って捨てることができる。肩の荷を下ろすことで責め苦を受ける恐れもなくなる。外聞も体裁も取り繕わなくていい。

 何も生み出せぬは死すべき。

 マダム=ジャパーはこうも掲げていた。

 これは老体だけではない。若人にも当て嵌まる。

 何も考えず何もせずただ流されていくだけの消費人間の多さたるや。

 寿齢人口統制法は、

 まだ施行されたばかり。

 国が滅ぶか。はたまた。

 老いが滅ぶ日は近い。

 神は降りたった。


      2


 背筋を強制的に不快へと追いやる気配。

 すぐ後ろ。

 振り返っていますぐにでも殺してやりたかったが、振り返るだけの気力は残っていなかった。

 一度ならず二度までも。

 隣に。

 置かれる。赤いポリタンク。

 炎が明るすぎて判然としないが色はきっと。

 赤を淡くした。

「勇み足の部下の浅はかな目論見にせめてもの手向けとしましょう」

 放られる。

 炎が舐め取る。

 強壮剤。

 小規模爆発。

「怒りで言葉も出ませんか」

 厭きれて言葉も出てこない。

 しつこい。

「たしか一週間前にうちの切り込み隊長が心の臓ぶち抜いたはずだがな」

 全身黒づくめ。

 炎を前に汗一つかかない。

 三人の人間を殺しておいて眉一つ動かさない。

「そちらこそ益々ご健在のようで。何度燃やそうが爆ぜようがしわ一つない美貌が蘇る。あなたは決して死なない。生き死にの概念はあなたには馴染まない。それらをすべて超越した高見にてあなたはせせら笑っている。生き死にの範疇内でしかもがけない我々人類を見下して」

 名前を呼ぶのが厭だった。

 存在を定着させてしまう。

「お忘れですか。わたくし、寿齢人口統制局初代局長を務めました、人体コレクタのドン=ヘッヘルフと申します。以後お見知りおきを」

 闇から掬いあげた漆黒のシルクハットを押さえて仰々しくお辞儀する。

「さっそく取引と参りましょう」

「応じた覚えはないな」

 城が燃える。

 私の城が。

 私の作品が。

 地下は無事だろうが、地下にいるドクタが使い物にならない。破棄だ。

 また、

 やり直しだ。

「そろそろ折れて戴きたい。わたくしに人形造りの粋をご教授願いたい」

 ようやく気づく。

 私は、

 泣いている。涙など。

 涸れ果てたと思っていたのに。

 いっちゃん。

 また、

 殺してしまった。

「よろしければ」ヘッヘルフがハンカチを私の視界にねじ込む。

「どんな体液を拭いたかわからんからな」

 特に拭う必要もない。

 流れるなら流しておけばいい。

「知ったところでどうにもできんよ。お前は人形を造ることが目的だが私は違う。人形を創ったその先に用がある」

 永遠。

 私はそれを手に入れた。

「そんなものに興味はないのですよ。ただわたくしは限りなく人間と近い人形が欲しい。人形はいい。老いない。あなたはここに見出したのではないのですか。永遠とやらを」ヘッヘルフの眼元が炎で揺らめく。

 その穴に嵌まっているのが正真正銘眼球だという証拠は何もない。

 眼元は隠されている。光の通過しないレンズで。

「違いますか」

「違うな」

「どこが違うのです? 老いない絶対の真理。それこそが」

 違うのだ。

 奴はそれをわかっていない。

 だからこそ、

 教える気にもなれない。

「わからないのか」

「ええ、まったく」

 説明も面倒だ。

 しかし、やらなければ奴はずっとここに居座るだろう。殺らない限りは。

「二度と言わないからメモでも記録でも取れ。お前のは人形じゃない。況してや人間とはほど遠い。単なる理科室のアレだ。人体模型だ」

「へ、ひ、は」ヘッヘルフが嗤った。

 私はこの笑いが好きでない。気色悪い。

 黒板を爪で引っ掻いたほうが甘美な音色に聴こえる。

「マダム=ジャパーともあろう方がそんなヘリクツを」

「屁理屈ではない。全くの別物だ」

「老人を次から次へ人形に造り替えたのは老いを根底からなくすため。老いるという概念ごと消滅させるため。違わないでしょう」

 笑えてくる。

 新人の教育に余念がないじゃないか。引退したんじゃなかったのか。

「お前のその持論をそっくりそのまま植えつけられてレコーダの如く再生してくる可哀相な新人研修生がいたよ。揃いも揃って勘違いだ」

「ほぉ」ヘッヘルフの佇まいが人体コレクタから寿齢人口統制局初代局長に変化する。時が逆流する。

 仕方ないから空気を呼んで私も。

 お前らが勝手に呼ぶところの紫尾園の園長の顔をして喋ってやろう。

「私が老人だけを解剖する理由かい? そんなの決まってるだろう。いなくなっても困らないからだ。要らんだろうあんなもの。だから施設やなんやら病院で飼い殺しだんだん弱らせていく。衰弱させていく。施設に――私の薔薇園に運ばれてきた瞬間、じじばばどもは肥料になるんだ。薔薇を美しく咲かせるための堆肥だ。捨てられたものは処分が必要だ。廃棄物処理だいよ。粗大ごみを引き取った上に只で処分してやったんだ。お礼こそ言われ間違っていると言われる筋合いはないな」

 城を炎の涎が覆い尽くす。

 ぱちぱちと爆ぜた黒い火の粉が煩わしい。

 ぱちぱちと叩いた黒い手の平が鬱陶しい。

「素晴らしいです。脳髄が痺れました。紫尾園薔薇園長マダム=ジャパー、否、人体アーティスト舞飛椿梅まいひツバメ

「その名で呼ぶな。人体模型コレクタ風情が」

 私の本質に最も近い文字列をなぞるな。

 大好きな薔薇たちが墨と化す。

 大好きな作品たちが灰となる。

「何も生み出せぬは死すべき。これもあなたの持論でしたね。これでも見習おうと努力しているつもりなんですが」

「私のアトリエを火の海にすることでかいね」

「人魚姫が最期に飛び込んだのは火の海だったのかもしれませんね」

 魚が跳ねる。

 姫は燃える。

 

      3


 天が降ってくる音がした。

 神に、

 何かあったのではないだろうか。

 におい。

 焦げたような。

 鼻を、

 突き刺すような。

 梯子を。

 のぼるしかないのか。

 じじいばばあの解体も途中だというのに。

 今日のノルマだってまだ見通しすら立っていない。

 切ってからでも。

 遅くは。いや、

 神に何かあったのなら。

 行かなければ。

 梯子を。

 のぼる。

 こんなに短かったか。

 のぼったのは何日ぶりか。

 妄想幻覚ではつい先日。

 誰と?

 一人だったか。

 一人で?何をしに?

 妄想幻覚だったか。

 願望充足にしたって酷い。

 だって僕はここから出たくないのだから。

 最高の廃園。

 神のおはす。

 梯子を途中までのぼったところで上を見上げるとぽっかり。

 黒い闇が。

 風?

 外だ。

 出てみていいのだろうか。

 戻ってこればいいのか。

 空だ。

 夜だ。

 黒い塊が転がっている。

 小さいのと。

 大きいのと。

 中くらいのと。

 それを引きずって並べる。

 川の字みたいだ。

 屋根がない。

 ようやく気づける。

 壁もない。

 道理で涼しい。

 城がなくなっている。

 焦げ跡と焦げた欠片を遺して。

 なにが、

 起こったのか。

 ひとつだけわかる。

 神は、

 いなくなってしまわれた。

 僕を置いて。

 天上へ帰ってしまわれた。ということ。

 僕は、

 どうすればいいのか。

 じじいとばばあが届かないならば。

 じじいとばばあを切り刻む必要がない。

 じじいとばばあを切り刻む必要がないならば。

 じじいとばばあと切り刻んでいた僕はお役御免ということ。

 死ぬか。

 どうやって、

 死のうか。

 死なせ方は知っているが。

 死に方は知らない。

 殺していってくれればよかったのに。

 その価値もないということか。

 死ぬだけの価値がないなら。

 そうか。

 息を吸う。

 心臓の鼓動を確かめる。

 そうか。

 生きろと。

 そうゆうことらしい。

 この黒に染まった手で。

 生きていけと。

 神は酷なことを強いる。

 死ねとも言われていない。

 生きろとも言われていない。

 何も、

 言われていない。

 切り続けろとも言われていない。

 川の字に転がった黒い塊を見る。

 これを、

 切るなとも言われていない。

 切ろうか。

 それ以外にすることが思いつかない。

 誰だろう。

 関係ないか。

 切ってしまえばそれは。

 同じ。

 肉の塊。

 王なら食べるだろうか。

 僕も、

 食べてみようか。

 僕がここで解体していたものを神が口にしていたかもしれない。

 焦げた黒い塊が。

 三つ。

 においは悪くない。

 夜風のお陰だろうか。

 嗅覚が研ぎ澄まされている感覚。

 指先で触れると簡単に崩れた。

 もぎ取れた。

 汁気がない。

 乾燥している。

 舌の先で溶けた。

 味は、

 しない。

 もう少し大きな塊を口に放り込む。

 咀嚼するまでもなく。

 溶けてなくなる。

 美味しいかもしれない。

 久しぶりに物を食べた。

 小さい塊よりも、

 大きい塊よりも、

 中くらいの塊が美味しかった。

 なんだろう。

 懐かしい味がした。

 涙が出てきた。

 悲しいのかもしれない。

 神に見捨てられて。


      4


 世界から見捨てられたじじばばを一も二もなく受け入れる入居施設。

 姨捨山と呼べばいい。

 待機老人ゼロは伊達じゃない。

 入居条件はただひとつ。

 じじばばを連れてくること。迎えには行かない。

 生かさず殺さず家畜以下に延命させられるじじばばを思うと泣けてくる。

 すべて私が引き取ろう。

 導いてやろう。

 楽園へ。

 決して咎めたりしない。非難もしない。否定などするものか。

 お前らの好きにすればいい。

 建物内をうろうろしようと。

 突然大声を出して怒り出してみたり。

 手当たり次第口に入れようと喉に詰まらせようと。

 私は止めない。

 あるがまま、ありのままを受け入れよう。

 老人詰め合わせのトラックのケツを見送る。駐車場。

 空がやたら青い。

 自慢の薔薇がよく映える。

「どこー? どこどこー?」

 ラヴェの声がする。朝っぱらからキンキンうるさい。

 施設のほうか。

 事務所の前が待合室になっている。そこで椅子を持ち上げたりどかしたりして何かを捜しているラヴェがいた。

「どこいっちゃったのー?」

「どうした」

 黙らせるために声を掛けた。

 が、ラヴェは身体全体で嬉しさを表現する。

「あ、マダム。おはよーございまーす。本日もフェロモン垂れ流しで」

「ジャパーが足らんと言って」

「はいはーい。わかってますよぉ」

 わかっているなら付けてくれ。

 幾度となくこの流れを繰り返しているのでいい加減訂正するのもうんざりなんだが。訂正しなければしないで認めてしまったようなものなので最後の足掻きのようなアレで。

「で?何をやっていたんだ」

「いなくなっちゃったんですよぉ」

「だから、何がだ」

「ばばさん」

「私はいつも何と言っているんだいね。はい、復唱」

 ラヴェが立ち上がって背筋を伸ばす。斜めの角度を取ってにやりと笑う。

「じじばばは好きにさせておけ」

「それはモノマネかいね」

「似てました?」

 どちらに答えてもラヴェは喜ぶだろう。だからこれが効く。

 無視。

「点呼も取らんでいい。個体認識も要らん」

「でもいなくなっちゃったんですよぉ」

 言っている意味がわからない。

 ここ動物園でもなければ植物園でもない。

 薔薇園だ。

「だってぇ」

「お前の役目は薔薇の世話だ。そんなのは」

 誰に。

 やらせよう。

 ラヴェ以外みんな死んだ。

 ラヴェも死んだがこいつは元々死んでいる。死んだら生き返らない。

 空の王も。

 海の姫も。

「マダム?」

 泣き声がした。

 うわあぁ。

 知っている。これは、

 聞き間違えるはず。

 いや、じじばばなんかみんな一緒だ。

 しわくちゃで。ふにゃふにゃで。

 何の役にも立たない。

 そこに存在すること以外は。

「ラヴェ。お前を生き返らせた甲斐があった」

「とーぜん」

 そこに、

 いるのか。

 ピンクのパジャマの上下。

 ほとんどない髪。

 しわだらけの顔をさらにしわしわにして笑う。

 その枯れ枝のような指を私に向けて。

「おばーちゃん」

 そう、

 あなたは。

「いっちゃん」

 一番かわいそうだ。

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老いてはわたしに従え 伏潮朱遺 @fushiwo41

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