第4種 やおびの肉

      1


 廊下をひたひたと辿る音。

 終わったらしい。

 僕も終わった。

 瓶詰が。

 ジャムが完成した。

「遅かったですね」僕は背を向けて言う。

「ジャパーは?」

 女の声とは思えないくらい低かった。

 女ではないのか?

「マダムを付けろと言われますよ?」

「どこ?」

 床を踏み抜かんばかりの破壊音。

 駄目だろう。女の人がそんな音立てちゃ。

 あ、女じゃないのか。

「どこなの?」

 ついに胸倉を掴まれた。

 すごい力だった。女の人にしては怪力で。

 違うんだろうな、

 やっぱり。

「教えて」

「いっちゃんのところじゃないんですか」

 眼が血走ってる。

 噛みつかんばかりの至近距離で睨んでくる。

「言わないと殺す」

「だから、いっちゃんのところじゃ」

「黙れ」

 ひどい声だった。

 僕の地声より低い。マダム=ジャパーの本来の声より格段に低い。

 しかし、言えと言ったり黙れと言ったり。

 僕はどうすればいいのだ?

「どうしてくれる?」

「どうしましょう」

 首が絞まる。

 苦しくて喋れませんて。

「なんで」

 怒ってるのか悲しんでるのか笑ってるのか。

 ぜんぶ。

 もみくちゃ。

「なんで殺した!」

 さあて。

 何故でしょう。

 そうだ。

 お茶でもしながら話しましょうか。

 ちょうどジャムもできたところですし。

 どうぞ?

 いま、熱い紅茶を淹れます。


      2


 すごい。

 お兄ちゃんのがナカに。

 他の機能は全部死んでるのに。

 ここだけ生きてる。

 すごい。

 そうまでして子孫を遺したいの?

 男って馬鹿みたい。

 もう何度目かわからないくらいの粘液が私のナカに注がれる。

 熱い。

 壊れそう。

 もう、いいかな。

 これだけもらえば。

 み

 き

 引き抜いたときの雑音だと思った。

 粘液の絡まる音。

 ちがう。

 口が開いてる。

 眼が私を見てる。

 うそ。

 このタイミングで。

「み、き?」

 幻聴じゃない。

 お兄ちゃんが、

 私を呼んだ。

 私じゃない。

 ミキを。

「お前、なんで」

 気づかれてない。気づかれる前に。

「おい」

 手を。

 掴まれた。

「痛い」

 放して。お願い。

 立ち去らせて。

 もう耐えられないの。

 この悪臭に。

「いたいよ」

「なに、やってたんだ」

 言うまで離さない気らしい。

 言ったらもっと放してくれないかもしれない。

「何やってたのかって」

 聞いてんだよ。

 テメェ。

「なにもんだ」


      3


 神じゃない。

 神が以前連れてきた異臭の塊。

 そいつが俺の身体を好き勝手やってたらしい。

 王は何をしている。

 部外者をむざむざ入れやがって。

「いや」

 嫌はどっちだ。

 すげェ臭ェ。

 鼻が腐り落ちそうだ。

「誰だよ」

 腕つかんで解体台に放る。仰向けに。

 もがこうがあがこうが無駄だ。

 四肢を拘束する。専用のベルトで固定する。

 いつも切り刻む枯れ枝は抵抗のての字もないから新鮮だった。

「はなして。いやだ、いや」

「テメェは誰だって聞いてんだけど?」

 背けた顔を顎ごと向けさせる。

 においは我慢。

 このあともっと臭くなる。

「言いたくないならこっちに聞くか」

 だらしなく開けっぴろげられた股を覆う布を切り裂く。

 小さい悲鳴があがった。

 刃先に粘液が絡みつく。

「だいじな商売道具汚すんじゃねェよ。テメェで綺麗にしろ」

 口に押し付ける。

 唇から赤い一線。切れた。

「おら、舐めねぇともっと傷つくぞ」

 そいつは目尻から涙を垂れ流していた。ちろ、と恐る恐る赤い舌を出して。

 舐め取る。

「自分で出したもんは自分で片付ける。俺ぁなんか間違ったこと言ってるか」

 そいつが首を振る。

 顔にでっかく書いてある。

 殺さないで。助けてと。

 誰が。

「もっかい聞く」

 刃を股の間に突き立てる。

 あったかいもんが手にかかった。

 うわ、こいつ。

 漏らしやがった。

「きったねえな。どうしてくれんだ?」

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 謝ってるつもりか?

 うるせえよ。

 もういいや。誰でも。

 切っちまえばおんなじ。

 ただの肉。

「テメェは出血大サービス。こいつで貫いてからじっくりかっさばいてやるよ」

 痛いだろうな。

 死んじまうんじゃないかな。

 でも、ま。

 死ぬほどきもちいかもしんねえし。

 味わってみろや。

 いい声、

 聞かせろよ。

 先端を近づける。

 穴は。

 空けられるためにある。

 差し入れるたびに赤が溢れる。黒がこぼれてくる。

 すげぇ。

 枯れ枝じゃこうはいかない。

 赤も黒も乾いてて。

 刃身にこびりつくだけ。

 だけどこれは違う。

 面白い。

 こんなに、

 愉しいものなのか。

 叫び。泣き声。

 嗚咽。

 痙攣。

 ぜんぶ、

 入った。どんだけ咥え込みたいんだ。

 静かになった。

 汚ねぇツラ。

 死んだか。

 死んじまったかな。

 これで終わりだと思うなよ?

 まだまだこれから。

 お前が元はなんだったかわからなくなるまで切り刻んでやるから。

 それにしても、

 ひどい臭いだ。

 神は俺の嗅覚を潰すおつもりなのか。


      4


 気づかれた。

 気づいた。

 手術台の上。

 なにか。

 のってて。

 腕。

 引っ張られる。

 すごい力で。

 抜けそう。

「こいつは誰だ」

 聞かれた。

 私のことじゃないの?

 なにもんだ。てのは。

「誰だって聞いてんだよ」

 ひどかった。

 殺されたというより。

 分解された。

 腰から上が真っ黒。

 腰から下だって同じような色だけど。

 う。

 においが。

 口を押さえる。

「わかるか」

 なにを、

 ゆってるのだろう。

 お兄ちゃんがやったんじゃないの?

 これ。

 これは、

 うそ。

 でしょ。

 だって。さっきまで一緒で。

 おかしい。

 私はこの人を振り切ってここに来て。

 あれ?

 どうだったっけ?

 でもこの服は。

 独特の生地は。

 あの人しかいない。

 うそだ。

「知ってんだろ?」

 私は首を振る。

 知らない。わけじゃない。

 知ってる。ことを、

 否定したかった。

 なんで。

 なんでこんな。

「黙ってないでなんか」

 まだむじゃぱー。

「誰だそれ」

 お兄ちゃん。

 だめ。

 あなたを連れて帰ることはできない。

 あなたはとっくに。

 私とは違う世界を生きてて。

 私より先に。

 死んでた。

 あなたはもう人間じゃない。

 手術台の脇に。

 きらりと光るそれ。

「おい、誰かって」

 見なかった。

 刺さった。手応えはあった。

 軽い。

 もっと、

 もっと深く奥まで。

「なに、す」

 突き飛ばされた。

 引き抜く。

 飛び散る。

 赤と黒の混濁。

「てめ」

 逃げた。

 走った。よじ登った。

 追ってくる気配はなかった。

 なんで?

 ない。

 私なんか追っかけても殺すだけだ。

 壁を鎖す。

 吹き抜けの階段を下りる。

 ふらふらだ。

 何度も踏み外しそうになった。

 何度も手を放そうと思った。手すりから。

 放しちゃえば勝手に足が滑って。

 当たりどころが悪ければそのまま。

「おばーちゃん」

 声が。

 した。

 階段を下りて耳を。

 澄ますまでもなく。その人はそこにいた。

 階段のふもと。

 なんで?

 あの部屋を出るには。

 そっか。

 鍵なんか掛かってない。最初から。

 ピンクのパジャマ上下がよく似合う。

 いっちゃんさん。

 私の足にぺたぺた触る。

 引っ張って摘まむ。

 イチゴ摘みみたいに。

「おばーちゃん」

 ごめんね。

 ごめんね私は。

「おばーちゃんじゃないよ」

「おばーちゃん、わし」

 いっちゃんがにっこり笑う。

「おばーちゃん好きだもん」

 違うよ。

 違うの。私は。

「あなたのおばーちゃんじゃない」

 手を振り切って背を向ける。

 呼んでる。

 あなたは。

「どこ行く?」

 あなたの。

 仇なんか取るつもりはないけど。

 はっきりしなきゃいけないことがあるから。

 私は。

 食堂からは薔薇のにおいがした。

 お兄ちゃんは笑顔でそう言う。

「遅かったですね」


      5


 窓の外は真っ暗。

 日が落ちるのが早い。

 冬になればいい。

 雪が降ればいい。

 全人類が死に絶える。

 そんな季節。

「ひどいにおいだ」菅谷は私を見て鼻を押さえる。

「その穴にぶち込んであげましょうか?」

「ぶち込まれるものによりますね」

 睨みつける。

 受け流す。

 菅谷が正面に座る。窓を背に。

 黒に同化する。

 白の布地。

 赤い液体の入ったカップがそれぞれの手元に。

「どうぞ? ジャムはお好みで」瓶を滑らされる。

 受け取る。

「これ」

 材料は。

「何でしょう。食べればわかるんじゃないですか?」

 砂糖と一緒に煮立てるだけ。

 薔薇だという証拠は何もない。

「何をいまさら。あれだけばくばく食べておいて」

 なんの、

 こと?

「おや? とっくに気づいておいでだと」

 テーブルに載せた指先が震える。

 手首を押さえる。もう一個の手で。

 止まらない。

 止められない。

「嗅覚がヤられたんじゃないですか? 麻痺してるんですよ。無理もない。解体現場に付き添ったのでしょう? お兄さんの仕事を見学された感想は?」

 否。菅谷が勿体つけて首を振る。

「あなたの兄ではない」

 わかっている。

 判明している事実。

 口が。

 開く。その形が。

 私の名前を呼んでいる。

 私の名前を知っている。

「僕を連れ戻しに来たんでしょう?」

「帰る気なんかないくせに」

 口が裂ける。

 レンズの向こうで菅谷が嗤う。

 かたかたとカップが揺れて。

 中身がこぼれる。わざと、

 引っかけた。

「失礼。いま片付けます」

 立ち上がって布巾を取りに行くと思った。立ち上がったところまでは同じ。

 その先が。

 違う。

 赤い舌が薄い唇からのぞいて。

 うそ。

 テーブルの上の赤い液体を。

 そういう音が響く。

「少し薄かったですかね」そう呟くと菅谷は手を伸ばしてジャムの瓶を奪い取ると。

 躊躇いなく指をぶち込んだ。

 指先に赤黒いものが。付いて。

 赤い舌で絡め取る。

「こっちは煮すぎましたか」

「どうしてマダム=ジャパーが死んでたの?」

 本題に戻さないと。こんな気持ち悪い物見せられ続けたらおかしくなりそうだ。

 鼻も眼も取り返しのつかないくらい機能が損なわれてる。

 あとは耳だけ。

 間違えるわけない。

「お兄ちゃん」

「誰かれ構わずそうやって媚び売るのはよくないですよ。社長サン?てゆうあれですか」

「もういいよ」

 嘘つかなくて。

 だって、

 誰も見てない。聞いてない。

 ここにはもう、

 私たち兄妹しかいない。

「マダム=ジャパーは死んだんだよ? 何を恐れるの?」

「あなたは僕が恐怖によって服従を強いられていたとお思いですか?」

「敬語もやめてよ」

 瓶が転がる。

 半分ほど減っていた。蓋はしていない。

 液体部分がこぼれて床に円を作る。

 それを、しばらく見つめるだけの時間が流れた。

 菅谷の足が冷蔵庫の前で止まる。

 ドアが開いて閉まる。

 なにかが、

 テーブルに。

「ゲームをしましょう」

 五つの瓶が置かれた。

 床に転がったものと同形の。中にはみっしりと詰められている。

 薔薇ジャムと思しき。

「あなたが勝てば私はあなたの兄として帰ります。連れ戻されて局に戻ってそれなりの罰も受けましょう。僕のしたことは任務放棄だ。懲戒解雇もあり得る。あんなところに未練などないですけどね」

「あなたが勝ったら?」

「聞きたいですか? 大丈夫ですか?心臓止まったりしませんか? あ、違いますね。あなたが弱いのはここだ」

 頭を指されるのかと思った。違う。

 菅谷は自分の胸部から腹部にかけて手の平を滑らせる。

「餃子はもう消化しましたか?」

 ここに来て自分が口にしたものを思い出す。

 肉。

 肉と肉と。その肉は。

 どこから調達したものだったのか。

 自覚させられる。思い知らされる。

 調理担当は菅谷だ。

 それがすべての答えだった。

 食道が焼けるように熱い。

 口元を押さえる。ダメ。

 来ないで。

 やめて。

「どうしてマダム=ジャパーが魚しか食べないのか。どうして先輩がスイーツしか口にしないのか。おわかりになりましたか?」

 誰も肉を食べない理由。

 それが何の肉かわかっているなら当然だ。

 わかっていたら、

 誰もそんなもの食べようだなんて思わない。

「どうして教えてくれなかった。そんな顔ですけど」菅谷がテーブルに顔の右半分を付けて私の眼球を見上げている。

「あなたが勝ったら私はどうなるの?」

 叫ぶことで逆流を堰き止めたかった。半分くらい成功した。

 口の中の酸っぱさを誤魔化すために息を吸った。

「どうするつもり?教えて。言ってよ」

「実はまだ考えていないんですよ」

 なにそれ。

 菅谷がテーブルに顔の右半分を付けたまま瓶を代わる代わる弄る。指の先で蓋をつついたり。瓶を横転させたり。

「どうやったらあなたを本当の意味で苦しめることができるのか。もちろん最後には殺しちゃいますけどね。凌辱したところで喜ぶだけでしょう?違いますか」

 眼が濁っている。何かを見ているようで何も見ていない。

「先にルール説明と行きましょう。やってる間に何か思いつくかもしれませんし。それでよろしいですか?いいですよね?あなたは、勝ちさえすればいいんですから」

 何も言い返さなかった。

 その通りだからだ。

 私は勝つしかない。それがどんな理不尽なルールの元に成り立つゲームだろうと。

 勝てばいい。勝てばここを脱することができる。

 あなたと、

 一緒に帰ることができる。

「いい感じの気迫ですね。ぞくぞくしてきました。ルールは簡単です。この五つの瓶、僕が先ほど作ったばかりの薔薇のジャムです。この中で一つだけ、たった一つ、薔薇園の持ち主の好きな種類の薔薇を材料に作ったモノがあります。それを当ててください」

「そんなの」

「無理に決まってる?やる前から負けを認めますか?」

 それは、

 もっと駄目だ。

「見ただけで当てろだなんてそんな超能力みたいなことはさせませんから安心してください。味を見て構いません。存分に味わってください。食べていただける方を失ったので捨てようかと思ってたので」

「この中にない、て可能性は」

 答えなど最初から存在しないという卑怯な手口。

 ずる賢い菅谷ならばやりかねない。

 それに。

 思い出すだけで喉が焼けそうだ。

「そもそも本当にジャムなの? 材料は」

「それは保証しかねます。もしかすると、万が一、薔薇でないものが煮詰められて作られた可能性だってあり得ます。ですがそれは、食べてみればわかるでしょう?」

 どうしても私の口に入れたいらしい。

「そんなに胃液ぶちまけるところが見たいの?」

「はぁい」菅谷がゆっくりと眼を見開く。

 白に血走った赤い線の異様なまでの多さが、

 彼がすでにこちら側にいないことを示している。

「見たいですね。見せてください」

 それは確定的な未来のように思えた。

 選択肢は五つ。

 確率は五分の一。学校のテストみたいだった。

 正解と判断された選択肢の番号を黒く塗りつぶせ。

 やるしかない。

 やらないと。

「瓶は便宜上こちらから1、2、3、4、5としましょう。イカサマをして瓶を取り替えるなんてことがないように、どうぞ? これで番号を記してください」菅谷がテーブルに赤のマーカを置く。

 言われるがまま書いた。蓋ではなく瓶本体のほうに。

「あなたはわかってるの?」

「食べればわかります」

 ということは、

 いまこの時点でどれが正解なのかはわからないということか。

 散々瓶を弄んで転がしたので順番もへったくれもない。冷蔵庫から出した段階で何らかの印を付けているなら話は違ってくるが。

「それでは始めましょう。夜は長い」

 菅谷の広げた腕から垂れた袖が白旗のようだった。


      6


「そうそう、そうじゃないとね。面白くでもないね」マダムは嬉しそうだった。

 つまんない。

 なんで、こんなくだらなくて退屈なことちんたら。

「どちらが勝つかミモノだいね?」

 勝敗は決まってる。

 だからこれはマダムのリップサービス。羨ましいったらない。

 ちょっと、どころかだいぶ頭キた。

「わかるわけないじゃないですかぁ。わたしにだって判別付かないときあるのに」

「おや、お前はわけもわからないでぐつぐつやってたってのかいね。ひどいもんだ。しっかし、それにしたってねぇ」マダムが笑っている。喉だけが鳴る堪え笑い。

 また、わたしにはわからない次元で面白みを見出している。

 悔しい。

 わたしだけおいてけぼりで。

「何がそんなに可笑しいんですか?」

「お前、自分が何を言ったのかわかってないのかいね?」

「なんのことですか?」

 マダムは口の両端を上げて微笑む。

 女神も霞む。至上の微笑み。

 うっとりする。

 見惚れていたら眉間を小突かれた。

「痛いです。もう一回希望します、マダム」

「うるさいぞ。ジャパーを付けない奴にはこの程度がお似合いだいよ。おや、意を決したようだいね」

 ウミノヒメが1の瓶を開けて中身を嗅ぐ。

「廃棄場上がりの鼻なんか使いモンになるんですか?」

「それでも足掻いているところが堪らんね。そそるよ」

 マダムを煽るなんて赦せない。

 さっさと負けちゃえばいいのに。

「お、行くかい」マダムが身を乗り出す。

 ウミヒメは爪の先にジャムを付けて眼を瞑る。吸って吐いて。

 ぱくりと、一口。

「潔いじゃないかいね。惚れ惚れするよ」

「いますぐわたしが代わります。そして見事マダムの好きなあの薔薇のジャムを当てて」

「落ち着くがいいさ。まあ座れ。いちいち言葉尻に反応するんじゃない」

 と、言われても。

 マダムはわたしだけのマダムで。

「じゃあわたしだけを見てください」

「お前だけ見てたらつまらんじゃないかいね。ほらほら、見ていろ。二つ目に行くぞ」

 つまんないのどっち?

 わたしなら絶対当てて見せるのに。

 あんたにわかるわけない。

 わかるわけないのに。

 なんで。

「あのクソ新人相手にそこまでするだけの価値があるとは思えないんですけど」

「そいつは二の次かもしれないな。海の姫はもっとエゴイスティックさ」

 三つめ。

 四つ目。

 立て続けに口にしたら味なんか余計わからなくなると思うけど。

 舌がバカになってるのに。

 五つ目。

 クソド新人の唇がキモいほどにやける。

 選べと言っている。それが正解か。

 そんなの絶対。

「わかるわけない」

 く、く、く。

 マダムが笑っている。お腹を抱えて。

 眼に涙まで。

 涙。

 マダムが泣いてる。笑い泣きだけど。

 涙なんて。

 わたしは見たこと。

 あった?

「そんなに笑うことないじゃないですかぁ」

 だからなにがそんなに。

 マダムが涙を拭ってわたしを見つめる。

 え、ちょっと。

 ドキドキするじゃないですか。

 綺麗な眼。

 宝石だって石ころになり果てる。

 そのくらいの輝き。

 美しいです。

「ラヴェ、お前」

 もし生き返ったら。

「海の姫と友だちになるがいいさ」


      *


 眼を開ける。

 酷い臭いだ。

 行こう。

 ここから。

 連れて行ってくれと項垂れる男は乗り捨てて。

 私は生き返る。

 何度でも。

 死に続ける。

 私は永遠を手に入れた。

 私は死なない。

 生きていないから。

 死ぬこともない。

 絶叫が聞こえる。

 気のせいにしては強い。

 さてさて。

 勝利の杯はどちらに。


      7


 わからない。わかるわけない。

 当てずっぽうだ。

 味なんてしなかった。

 口に入れた瞬間に広がる。思い出す。

 肉と肉と。

 肉。

 何度も吐いた。

 床にひどい色。

 片付けはしない。

 酸性のにおいが充満する。

 血のにおいとどっちがマシ?

 それでも自分の中から出てきたものだから?まだ。

 いや、違う。

 半分は確かに私の胃液かもしれない。

 だけどもう半分は、

 誰とも知らない肉の。

 知っている肉かもしれない。

 死んだ。

 ラヴェとかの。

 もう座っている力も失せた。

 床が、

 きもちい。

「せめて選んでから寝てくださいよ」

 菅谷の低いような高いような声が降ってくる。

 金管と木管を無理矢理つなぎ合わせて作った前代未聞の楽器のように。

 不快な音が耳にねじ込まれる。

「どれですか? 1?2? 3ですか?それとも4?はては5? どれですか。言ってくださいよ。言ったら当たるかもしれないじゃないですか。諦めないでくださいよ」

 耳が引っ張られている。もっと強く引っ張ったら耳が千切れるか。

 私が持ち上がるか。

「解答放棄は負けですよ? いいんですか?愛しのお兄ちゃんの胤が芽吹いたかもしれない身体切り刻まれても」

 そうだった。駄目だ。

 こんなところで。

 寝転がっている場合じゃ。

「眼が生き返りましたね。そうでなくては」

 跳ね起きる。

 見据える。

 お前の負けを。

「さあ、番号を」

 何番か忘れた。

 でも、

 覚えてる。

 私は、

 それを食べている。もらっている。

 あのジャムを。

 紅茶にぶち込んだ。

 ここで。

 今日。本日。今朝。

 ほかならぬマダム=ジャパーに勧められて。

 きっとあれが。

 正解。

 思い出した。

 脳じゃない。脳はもう使い物にならない。

 舌と鼻が。

 そうだと言っている。

 テーブルの端を掴んで身体を起こす。眩暈がしたが首を振って相殺した。

 転がる瓶を片っ端から引き寄せて。

 全部逆さにする。

 テーブルの上でかき混ぜる。

 色が、

 混濁する。

「いよいよ壊れましたか」

「黙って」

 指の先が追いつかない。

 両手でかき回す。

 色が、

 黒よりも深くなるまで。

 手は、

 真っ黒に染まる。

 眞玉海姫の兄と同じ色。

 血まみれ。

 脂に汚れた。

 手の平を口に持って行く。

 唇ですくい取る。

 最悪。

 人肉を頬張っている気分だ。

「素敵な口紅ですね」菅谷が待ってましたとばかりに促す。「どうぞ?正解は」

 1でも2でも3でも4でも5でもない。

 どれか一つじゃない。

「ぜんぶ」

 せーかいだ。そう聞こえた。

 世界が黒塗りになる。

 灼熱の吐き気が脳髄を襲った。


      8


 生きているなんて。

「聞いてませんよ」空の王が首だけで振り返る。

 いい眼を向けるな。

 ついさっき詰め替えたばかりの中身がこぼれそうだ。

「ずいぶん愉しんだようじゃないかいね」

 床の吐き溜まりに突っ伏した海の姫の顔を見る。髪を引っ張って。

 悪くない。

 脳神経を痙攣させる。

「アトリエに飾っておくにはもったいないな。連れて歩きたい」

「ゲキメツにヘンタイですね」

「お前に言われたくはないぞ」

 空の王の着物の下半身をまくり上げる。

 粘液垂れ流しの止まらない締まりの悪い穴から伸びる紐を引き抜く。

 声くらい上げたら可愛げがあったが。

「もっといいものが戴けると期待しても?」

「床が汚いな」

「仰せのままに」

 潔いところは嫌いじゃないんだが。

 空の王が床に膝まずいて海の姫が沈没する体液を舐め取る。

 その脳天を踏みつける。力は籠めずに。

「掃除機みたいですね」

「私が本体というんかいね」

「僕なんかただの吸い込み口ですよ」

 もう片方の足で海の姫をひっくり返す。

 靴の裏で口の周りを拭って、

 その足を空の王の顔の前に突き出す。

 脳天にかける体重を増やしながら。

「靴が汚れた」

「いっそ直に肌のほうがいいですね」

 舐める音が不快なので一層強く踏み込む。

「痛いと言え」

「痛いですよ」

 空の王は使えなくはないのだが。

 従順なのが気に入らない。

 歯向かってくれたほうがいい。

 海の姫のように。

「もっと嫌がってくれんかいね」

「マダム=ジャパーのお望みとあらば」

 そうじゃない。

 そうではないのだ。

「お前には決定的に欠けている部分がある」

「脳味噌ですか」

「それもある」

 わからない。

 わかれないか。

 力いっぱい蹴りあげる。

 空の王が白い顎を見せてひっくり返る。

 だらしない穴から飛び散った粘液が着物に文様を描く。

「ひどいじゃないですか」

「どの口が言っているんだい」

「もう駄目だ。他にイくとか考えられない」

 性器が痙攣して垂れ流れる。

 勢いはない。

 限界収容量を超えた分だけ溢れる。

 バスタブと同じ。

 コップと同じ。

「天井眺めてイってる場合じゃないよ。運んどくれ」

「了解しました」空の王が機敏に身体を起こす。

 海の姫を抱きかかえる。

 軽々と。

「力仕事はお前に任せるに限るじゃないかいね」

「よかった。僕にまだ使い道があるのなら」

 廊下に出る。

 ひんやりとした風が抜けていく。

「どちらに?」

 ドクタはもう駄目だ。

 さっき体験してはっきりした。

 あれにはもう人間と死体を見分ける機能が失われている。

 惜しい腕をなくした。

 躊躇いのない手術痕が気に入っていたというのに。

 ラヴェももういない。

 あいつはあいつで精神的に助かっていた。

 空の王が壊してくれた。

 本当に厄介だ。

 これ以上私の人形を傷つけないでくれ。

「どちらに?」空の王が質問を繰り返す。

「そうだいね」

 吹き抜け部分で見上げる。

 冷たかった風が。

 おかしい。

 このにおい。

 まさか。

「そらの」

 おう。が聞こえたかどうかわからない。

 私は自分の身を守るのに精一杯で。

 薔薇の中を転げ落ちる。

 棘などなんということはないが。

 薔薇が、

 私の体重と体積で踏み荒らされるのは耐えがたかった。

 爆風。

 炎が上がる。

 いま気づく。

 空の王どころじゃない。

 海の姫だってそんなのは優先順位からすれば。

 うそだ。

 やめろ。

 炎が呑み込む。

 黒い外観を。

 熱風が押し寄せた源はきっと。

 そこしかない。

 私を絶望させるには。

「いっちゃん!」

 生まれてはじめて喉が嗄れるまで叫んだ。

 そうだった。

 勝負はついていた。

 海の姫。

 お前の勝ちだ。

「一週間ぶりですね、どうも」

 黒づくめの長身が視界の端に現れる。

 空の王と海の姫を寄越した、

 お前の勝ちだ。

 寿齢人口統制局。

「家出もこのくらいで勘弁していただきたく存じます」

 初代局長。

 おかしいな。お前は、

 殺したはずだったんだがな。

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