第3種 えりくの汁

      1


 あれは、

 だれ?

 お兄ちゃん?

 ちがう。

 あんな、

 あんな感じだっただろうか。

 ちがう。

 あんなの。

 お兄ちゃんじゃない。

 別人?

 だったらどんなにか嬉しかった?

 ちがう。

 別人だったらまた捜さなきゃいけない。

 人形にされちゃったかもしれない。

 それと、

 どっちがマシだろう。

 あれじゃあ、

 死んでてくれたほうが。

 いや。

 いやだ。

 叫んでもどうにもならない。

 泣いても何も戻ってこない。

 どうしよう。

 なんで。

 私はただ。

 会いたかっただけなのに。

 お兄ちゃん。

「そんなに喜んでくれるとは思わなんだな」マダム=ジャパーが喉を鳴らす。

 今日は一段と冷える。

 ような気がする。寒い。とにかく寒い。

 手足の感覚がなくなってくる。

 自分の身体の一部だとは思えない。

 だれなの。

 ここにいるのは。

 あそこにいたのは。

「まだお前の兄と決まったわけじゃないだろう」

 お兄ちゃんだったほうがいい?

 お兄ちゃんじゃなかったほうがいい?

 人間の資格を剥奪された肉の塊みたいだった。

 ずっと閉じ込められている。

 鼻が曲がりそうなひどい死臭。

 血のにおいしかしない暗い部屋。

 そこで、

 お兄ちゃんは。

 死ぬことも許されずに。ずっとひたすら。

 人形を作らされ続けている。

 来たばっかりのとき無理矢理見せられた人形は、

 ぜんぶお兄ちゃんの手で作られている。

 人間だったものを切り開くための台。

 たしかにお兄ちゃんは最高の外科医だった。

 何人もの人がお兄ちゃんのお陰で助かった。

 人間だったものを切り開くための刃。

 お兄ちゃんの手に掛かればみんな生き返った。みんな治った。

 神の手を持ってた。

 そんなお兄ちゃんの手は、

 真っ黒になってた。

 血なのか汚れなのか垢なのか脂なのか。

 わかんない。

 あのにおいが消えない。

 お兄ちゃんのにおいなのに。

 お兄ちゃんのにおいとは思えない。

 お兄ちゃんも、

 鼻を押さえていた。ずっと。

 顔をしかめて。

 ふ、と漂う。

 においが。

 これは。

 薔薇の。

 いま気づく。ここ、

 薔薇園。

 黒の洋館は小高い丘に建っている。その丘陵が薔薇で埋め尽くされている。

「きれい」

 いろんな色があった。

 赤や白や黄やピンクや。

 青を探していた。

 青は、

 お兄ちゃんの色。

「戻ってきたようだいね。海の姫」マダム=ジャパーはそのうちの一つに鼻を近づける。

 肩にかかるストールをさらに濃くした色。

 紫。

「私の薔薇園へようこそ。歓迎しよう」

 においがさらに強くなる。

 私が風下にいるのだ。

 すごい。

 こんなに強い香りが。

「おやま、出しっ放しじゃないかいね。撒き散らした種は自分で片付けろと云っといたはずだがね。ラヴェ?いるか」

 返事はない。

 頭上の空は青いが。

 山の辺りにどす黒い雲が控えていた。

 マダム=ジャパーがシャワーノズル付きのホースを拾って周囲を見回す。「ラヴェ? おーい。いないのかいね」

 いつもなら呼ばれてなくてもひょっこり顔を出すのに。

 おかしい。

「腹でも壊したかいね。あれほど私のだいじな薔薇をつまみ食いするなと」

 なんだろう。

 胸のあたりが。

 吐き気?

「仕方ないな。水やりは済んでいるようだし」

 マダム=ジャパーを呼ぶ声がした。洋館の窓から菅谷がのぞいている。

「先輩知りませんか?」

「そっくりお前に返そう。行方が知れないんだ。前代未聞だいね」

「え、そうなんですか」菅谷も多少なりとも驚いたようだった。眉を寄せて困惑の表情を浮かべる。

「どうしたかいね。お前の用件は。外回りは?」

「いまからなんですけど、焦げ臭いにおいがして行ってみるとこれ」菅谷が鍋を見せる。

 ホーローの両手鍋。

 煮立てたジャムは暗黒物質に化けたようだが。

「私のだいじなジャムを作ってる最中に火元から離れる奴があるかいね。まったく。久しぶりに仕置きが必要かい」

「片付けは僕がしますので、先に行ってきていいですか?」

「お前は悪くないさ。お前はお前の仕事をしてくれ」

「いってきます」菅谷が首だけでお辞儀して顔を引っ込める。

 買い出し。

 一体どこに買い物ができる店があるというのだろう。自給自足ならともかく。

「田んぼも畑もあるぞ」マダム=ジャパーは私の頭の中が見えるらしい。

 言葉を発さなくていいからある意味楽かもしれない。

「行って帰って二時間かかるんだ。海の姫も苦労だったろうね。こんな山間に」

 どうやってここに辿り着いたのか。

 敢えて言わなくてもわかっているだろう。

「そうだいね。海の姫だ。海路がある」

「ご冗談」

「私は本気だ。いつだって本気だよ」

 ごろ、と空が鳴った。

 雨が来そうだ。雲の流れが早い。

 あんなに遠くにあったはずだったのに。

 雨雲はもう空の半分を覆い尽くしつつある。

 山の天気は変わりやすい。そういうことだろう。

「はげる前に戻るぞ。薔薇には悪いがな」マダム=ジャパーは本気でそう思っていたらしく、薔薇に向かって小さく謝る。ごめん、と。

 なんだか不思議な感じだった。

 人間を超越した雰囲気を醸し出すマダム=ジャパーが薔薇に謝る姿は滑稽で。

 それほど薔薇をだいじにしているのだろう。

 黒い洋館に戻ってキッチンをのぞく。

 廊下の段階でだいぶ焦げ臭かったが、食堂の中はもっと酷かった。気を利かせた菅谷が窓を開けてくれてあったがそれでも鼻を覆ってしまう。

「鍋も弁償だな。まったく、私を不快にさせる天才だなアレは」

 雨音。

 いよいよ降ってきた。部屋の換気が完了する前に降られてしまったが、マダム=ジャパーは躊躇いなく窓を閉めた。

「雨は嫌いなんだ」

「マダム=ジャパーにも嫌いなものがあるんですね」

「あるさ。私を不感症の腐乱死体か何かだと思ってるだろう」

 雨が本降りになって来た頃、菅谷が帰って来た。両手で大きな段ボール箱を抱えて、腕にそれぞれ紙袋を提げている。一つや二つではない。

 あの雨の中を移動したにしてはあまり濡れていなかったが、駐車場と洋館の距離を考えたら納得がいった。走れば二分とかからない。

 走れば。

 走ったのか。その大荷物で。

「ご苦労。空の王にも空の機嫌は直せないかいね」マダム=ジャパーはその紙袋の中から一発で鍋を探し当てる。「私の機嫌は直ったがね」

「それはよかったです」菅谷が満足そうにお辞儀する。

 ほとんどが食品だった。缶詰やレトルトなどの保存の効くもの。効かないものの筆頭は野菜。生魚もそこそこにあった。刺身用ではない。火を通さなければ食べられない。

 買い出し荷物は菅谷によって、てきぱきとあるべき場所に収納されて行った。戸棚。冷蔵庫。冷凍庫。

 マダム=ジャパーはその間ずっと鍋を撫でていた。摩擦熱で湯くらい沸くのではないだろうか。そのくらい気に入ったようだった。

「それにしたって、ラヴェは。どこで道草食らっているんだ。そんなに美味い道草なら私に差し入れてくれてもいいだろう」

 雨は強くなる一方だ。窓に叩きつけられる水の粒が大きい。

 風も轟々と鳴る。雷だって騒ぎ出しつつある。

 いま、

 光った。

「おかしいですね。具合でも悪いんでしょうか」菅谷が窓の外を見ながら言う。

「見てきてくれんかいね。傘は」

「いいです。走るのに邪魔ですから」

 落ちた。

 すごく近いわけではないが、遠いと安心するには心許ない。

 また、

 光る。

「気をつけとくれよ」

「はい」菅谷が部屋から飛び出す。

 窓から施設は見えない。反対側だ。

 落っこちた。

「こんなことは初めてだ」マダム=ジャパーは殊のほか動揺しているようだった。

 厭きもせず鍋を撫でていたのはそういう意味もあったのか。

「心配ですか」心配する必要があるのか。

 ラヴェなんか殺しても死なないだろう。

 静かになった。

 マダム=ジャパーが黙ったからだ。私からは口を開かない。

 雨の音。

 風の音。

 光。

 身体を揺らす重低音。

 雷が落ちた。

 心なしか近くなってはいないか。

「遅いな」マダム=ジャパーが食堂の出入り口を見遣る。

「見てきましょうか」

「私を置いて行くんかいね。薄情じゃないか」

 まさか。

「あの、嫌いなのは雨じゃなくて」

 光った。

 マダム=ジャパーが一瞬、ほんの一瞬眼を瞑ったのを見逃さなかった。

 なんだ、この人。

 案外ガキじゃないか。

 そう思ったら笑えてきた。もちろん心の中で。

「面白がるんじゃないぞ。誰にだって苦手なものの一つや二つ」

 また光る。

 マダム=ジャパーはついに鍋の中に顔を入れてしまった。

 間髪入れず音がする。

 すぐ近くに落ちるのがわかっていたかのような動作で。

 わかっていたのかもしれない。この人ならそのくらいの予知は。

「笑うんじゃないぞ」マダム=ジャパーが罰の悪い顔を見せる。

 鍋の隙間から。

「耐えます」

「そういうことじゃないさ。お前だってひどかったぞ。人の作品見てげえげえ吐いて。誰が片付けたと思っている」

「ラヴェですね。あなたじゃない」

「そうなんだ。ラヴェがいないと私の仕事が増えるじゃないかいね。本当に困ったものだいね」

 雷の音がしなくなって雨音が幾分が和らぐ。

 菅谷がずぶぬれで帰って来た。その表情から徒労だったことがよくわかった。

 いない?

 そんな馬鹿な。

「きちんと捜したのかいね」酷い言い草だ。

 だったら自分で行けばいいのに。

「施設は蛻の殻ですね。事務所も電気が消えていて。あ、すみません」菅谷がマダム=ジャパーの放ったタオルを受け取ってお礼を言う。「今日あすこに入って何かした形跡がなかったです。あの人手持無沙汰だと銃を弄り出すじゃないですか。その銃が」

 なかった。事務所のどこにも。

「銃を置きっ放しでそこらへんをふらふらするんですか」常に携帯されていても嫌だが。

「銃に番をさせるんだアレは。鳴らない電話をぶち抜く位置でな。待機させとくんだいね。それがなかったんだろう?」

 菅谷がうなずく。奇妙だと言わんばかりに。

 板敷きの床に黒い染み。

「そういえば、朝ここで会ってから顔を見てませんね」

「空の王は朝食の片付けのあと何をしてくれていたんだいね」

「あれ? 疑われてますか僕」菅谷が苦笑いをする。

「お前しかおらんだろう。私と海の姫はドクタに会いに行っていたんだ」

 私もそう思った。

 あのラヴェをどうにかできるのは、マダム=ジャパーじゃなければ。

 この男しかいない。

 菅谷は心外だとばかりに笑顔を作って。「僕が先輩をどうにかしたと? 得がありません。先輩が僕を殺すならともかく」

「そうだいね。疑って悪かった。気が立っているんだ。ジャムが足りなくてな」マダム=ジャパーが息を漏らす。比重の大きそうな呼気だった。

 嫌な沈黙。

 肯定の合図か降参の狼煙か。

「例えば僕が先輩をどうにかしたとして」菅谷が言う。自分から沈黙を破ってきた。「無傷で済みますか? 穴の一つや二つ空いていても不思議ではないでしょう?」

「お前を疑いたくはないが、そこまで言うなら脱げ」

 はい?

 え、

 ここで?

「わかりました」菅谷は躊躇いなくシャツのボタンを外す。

 思わず後ろを向いている私がいた。

「無理に見ることはないぞ。貧相な胸板を晒す空の王の身にもなってやれ」

「それは酷いですね。見たこともないのに」

 衣擦れの音がする。耳も塞ぎたかった。

 ベルトの外れる音がして、床に衝突する。金属音。

「あと一枚あるだろう」

「嘘でしょう? こんなとこに穴が空いてたら僕は男として死んでいますって」

 なんだか妙だった。

 何が妙なのかうまく言えないところが。

 おかしい。

 変だった。

「なかなか惨めなもんだいね」マダム=ジャパーの意地の悪い笑い声が響く。

「脱げと言ったのは誰ですか。もういいですね?着ますよ」

「悪かった。お詫びに風呂を貸してやろう。いまなら湯船につかりながら頭が流せる」

 屋上の露天風呂のことだろう。もの凄い酷い扱いだ。

 ああ、いま。

 なんとなくわかったような。気が掠めた。

 でも逃げた。

「遠慮しておきます」菅谷の声は疲労が滲んでいた。「それより着替えてきたいのですが」

「許可しよう」

「失礼します」

 気配が一つ減ったのを肌で感じ取ってから眼を開けた。眼も閉じていたらしい。

「そこまで気を遣わなくてもいいんだぞ」マダム=ジャパーがからから笑っている。さっきまで雷にビビっていたガキはどこに行ったのやら。

 さほど時間もかからずに菅谷が戻ってくる。似たようなデザインのシャツだった。ズボンだって代わり映えしないモノトーン。

 変わったところといえば、メガネ。

 掛けているのは初めて見た。

 じろじろ見ていたら苦笑い気味に言い訳された。雨に打たれてコンタクトがずれてしまったとかで。確かに左眼が充血していた。

「度数が弱いのであんまり掛けたくないんですが」

 私がじろじろ見ていたのは、そういうことではない。菅谷がコンタクトだろうがメガネだろうがはっきり言ってどうでもいい。火星の裏側の天気くらいどうでもいい。

「腹が減ったな。昼飯にしようかいね。なあに、あいつだって腹と背がひっつけばひょっこり帰ってくるだろうさ」マダム=ジャパーは鬱陶しい気分を跳ねのけるように明るい口調を作って言う。

 私が見ていたのは、菅谷じゃない。

 お兄ちゃんもメガネだったな。そう思っただけ。

 朝見たあの人は掛けてなかったけど。

 結局昼ご飯を食べ終えてもラヴェは戻って来なかった。

 どうせ死んでるんだろう。

 それこそどうでもいい。

 餃子を食べすぎてお腹が重い。そっちのほうが一大事だった。


      2


 神の言う通りぼーっとしていたら王がやってきた。

 何もしていない僕を見るなりはあ、と当てつけのような溜息を振らせた。王のほうが背が高い。

 それに僕は座っていた。座り心地の悪い椅子はこないだ不注意で壊れたので、床に。

「マダム=ジャパーは暢気ですがあなたの腕を買ってのこと。それをお忘れなきよう」

 相変わらず嫌味しか言わない。

 僕に嫉妬しているのだ。

 僕のほうが神に好かれているから。

「老人を切り刻むより若い肉のほうがいいでしょう? 違いますか」

「切ること自体に喜びはありません。切るのは手段です。その先にある目的を達成するための」

 王が莫迦にして嗤った。そんな音を錯覚した。

 着物の裾しか見えないのだ。

「単なる道具がほざかないで戴きたい」

「単なる伝言板が粋がってんじゃねえよ」口が滑った。

 まずい。

 どうなるわけでもないのだが。

 いろいろが面倒になる。

「そういう口をきくわけですか。へぇ、ふうん」喉の奥ですり潰したような声音で王が距離を詰めてくる。

 ああ、嫌だ。本当に。

 いやだ。

「昂っているんですよ。ほぉら、一匹ヤってきたもので」

 血液を揮発させた空気の塊が僕の鼻の穴に侵入する。

 苦しい。これなら水を張った洗面器に顔をつけたほうがマシだ。

 液体なら逃れられる。

 期待は、

 不可避。

「お好きにしてください。神は気づいていない」呼気だけの音。

 耳の穴にも流れ込んできた。

 頭を傾けて外に出す。プールで耳に水が入ったときの対処。

「まだ、という但し書き付きでしょう」

 神に知られていないわけがない。神はすべてを見通している。

 肉と脂と血の気配。

 新鮮な。

 僕は顔を背ける。その顎に鋭い爪が突き刺さる。

 その手で料理なんかしないでほしい。不衛生だ。

「積年の恨みを果たせずに散って行った哀れな女に情けなど無用です。さあ、一思いにずぶりと」

「どうぞ?」僕にそういう趣味はないと何度言ったら。

 わからないだろう。わかる気がないから。

 手術台という解体台に白い裸体。

 王が楽々と抱き上げた。乱暴に落とす。

 腕が因果律を無視して曲がっている。

 髪が常軌を逸して乱れている。

「これが、あの」噂の。

 会ったことは。

 あったろうか。

 かつての神にくっついていた少女の未来像か。

 僕の記憶が改竄されていなければ確かこの少女は、

 神の血を引いていた。

「何を恐れているのです? そんなのは」捏造。

 虚偽。

 そうだ。神が、

 子を孕むはずなどない。

 神の名を穢した。死んでもいい命。

「できるだけ細かくしてください」王が僕の後ろから言う。「加工がしやすいように。火が通りやすくなるように」

「気が散るのですが」手が滑らないとも限らない。口だって滑ったのだ。

 揺らすな。

 中でじっとしていろ。

「何作ろうかなあ。ハンバーグは作っちゃったしなあ」

 聞いちゃいねえ。

「ミンチ。挽き肉。捏ねて。丸めて」声が上ずる。熱を帯びる。

 だから、

 動くなと。台に震動が伝わる。

「リクエストって、ありますかぁ?」

「っ、てぇな」

 後ろから首筋を噛まれた。

 甘噛みならまだしも。いや、それはそれで鳥肌が立つが。

 歯が食い込む。

 血を。

 吸っている。ヒルか何かだ。

 音がうるさい。蚊のほうがまだ上品だ。

「こないだの痕、治してあげませんよ?」

 また穴が空く。

 また血が減る。

「気持ちよすぎてどうにかなりそうです」

 やっと、

 止まった。

 解体作業も終わった。

 王はいそいそとそれを持参したタッパーに詰める。素手で。

「決まりました。餃子にします」

「差し入れは結構です」

「したことありましたか?」

 早く、

 帰れ。

「それではこのへんで」王が裾を引きずりながら闇に還る。

 王が捨てていった部分を選別して加工用の液体に沈める。

 神の血は途絶えた。

 主はひとりでいい。

 従うのに困るから。


      3


 雨が已んでも空はすっきりしない色合いで。

 一体全体ラヴェはどこに行ったのだろう。どこに行けるというのだろう。

 菅谷は昼食の片付けが終わり次第、目下行方不明者が成し遂げられなかった最重要任務であるところのジャム作りに取り組まされることとなった。薔薇園で気難しい顔で薔薇と睨めっこしている脇を通って、私とマダム=ジャパーは施設に足を運んだ。

 施設は建物ごとしんと静まり返っており、菅谷の言うとおり事務所が本日開け放たれた形跡はなかった。

「いないようだいね」マダム=ジャパーが電話を見下ろしながら言う。

 事務所に入るのはそういえば初めてだった。禁止されていたわけではないがその必要もなかった。

 壁際には黄緑色のカルテがあいうえお順に収められた棚が並んでおり、奥にはコピー機が守り神の如く鎮座している。中央にはノートパソコンとプリンタが載せられた机があり、そこがラヴェの席だろう。机と椅子は一セットしかなかった。

 事務員はラヴェ一人だ。後にも先にも。

 それを内装からも保証しているようだった。

「片っ端から内線掛けてみるとか」我ながら悪くないアイデアだと思ったが。

 マダム=ジャパーはいい顔をしなかった。

「お前は空の王を信用していないのか」

「疑ってたんじゃなかったんですか?」

「言葉の綾だ。あんないい男が私を裏切って堪るかいね」

 無茶苦茶な暴論だ。

「願望はこれくらいにして」どっちだ。「ラヴェは生きていると思うかいね?」

「マダム=ジャパーの願望は?」

「死んだ」

 あまりにもあっさりの。

 結論。

「ようやく確信できた。お前のお陰だ。海の姫。どうだいね? 事務員のポストが空いたところだ」

「謹んで遠慮したいです」そんなことより。「確信に至った経路が聞きたいですね」

 マダム=ジャパーが椅子に腰かける。脚を組んで電話機を見据える。

 獲物が現れる機会を虎視眈々と狙っている眼だった。

「なあに、簡単だ。お前が案外大食らいだったというだけの話だな」

「全然わからないんですけど」確かにちょっと食べすぎたとは思ったが。

 夕食は控えよう。研修から戻れば健康診断が控えている。真面目に研修をしていたかどうかが数値で表わされてしまう。

 実に腹立たしい三段落ちだ。

「本当に考え直さないか。お前にはその素質が充分にある。あれだけ食べてぴんぴんしているんだからな」

「別名、穀潰しでしょうに」

「そうとも言うな。わかっているじゃないかいね」マダム=ジャパーが口の両端を上げて嗤う。

 事務所にいると思い知る。やはりここは一週間前までは機能していたのだ。

 高齢者入居施設として。

 たかだか一週間前だ。

 時間が止まっている。もっと長い時間が経たようにも思える。

「研修は立候補かいね?」マダム=ジャパーは電話のコードを指でいじくる。

 お得意の手いたずらだ。

「と、お前はニセモノだったいね。眞玉海姫はお前じゃあないぞ」

 だからなんだというのだ。

 そういう眼で睨んでやった。

「その眼が欲しい。眼球を抉り出して飾っておきたい。寝る前と起きたときに口の中に含んで転がしたい。きっといい味がするぞ。海の味だ」

 マダム=ジャパーの指先が私の頬に。

 触れる間際でよける。身体ごと後退。

「私が触ると腐るとでも言いたげだな。いっちゃんはこの指が大好きだぞ? 噛み切ってやろうと必死だ。がりがり歯を立てる。歯抜けの歯でごりごり」

「いっちゃんさん以外皆殺しなんですね?」

「事実、そういうことだな。いま気づいた。世界最高齢はいっちゃんだ。間違いない」

 世界。

 そう来たか。なんという大量虐殺。

「全世界から老人を消すつもりですか?」

「何のために?そんな愚問に答えなきゃいかんのかいね」

「老人が嫌いなんですか?」

「だから、何故そうなるんだいね。反射的に思ったことを垂れ流すでないぞ。熟考に熟考を重ねて貴腐した最高に芳醇な疑問を投げかけるがいい。なにごとも腐りかけが一番だ」

 この一手で魔女を磔られる火の儀式は。

 あるのだろうか。

「何も急ぎでないぞ。十日以上ある。最終日にもう一度聞こうかいね」

 駄目だ。それでは遅すぎる。

 最終日まで私が生きているという保証は何もない。

「あなたは老いが怖い。違いますか」

「誰だって老いは怖い。違うかいね」

 駄目だ。

 私では敵わない。

 お兄ちゃんは、

 叶ったのだろうか。マダム=ジャパーの好みに。

 適ったからこそ、まだ。

 生かされている。

「忌むべき老いを亡きものにすることであなたは自我を保っている。でも駄目ですよ。そんなこと繰り返したって。あなたは確実に老いている。だって自分の手で葬っていないんですから。直面するのが怖いから人にやらせている。誰かに代わりにトイレに行ってもらって自分の用は足せますか? 違うでしょう?」

 発した端から錆びていく。変色して粉々に朽ちる。

 言葉は、

 老いる。

「そんなに怖いんですか?しわしわになることが」

 殺されると思った。

 それだけの覚悟があった。

 切るには今しかない。いまを置いて他にはない。

 一対一の、

 いまこのとき。

 空気が張り詰める。大気中の水分が氷結する。

 降り注ぐ。

 私の頭上にだけ。

「死ぬのが怖いですか?」

「こわいさ。こわいよ」マダム=ジャパーは項垂れる。わざと表情を見せないように顔を覆っている。

 声もくぐもる。感情を気取らせないため。

「私には死にたくない。私は」

 永遠が欲しい。

「人形を創っているのはその代償だろうな」

「作らせている。間違えないでください。あなたが作っているんじゃない」

 マダム=ジャパーが机に突っ伏した。

 僅かに肩が震えているのを私は見逃さなかった。

 勝った。

「いっちゃんが死んだら私はどうすればいい」

 これが、

 本音。

「いっちゃんの魂が入る器を探してるんだ」

「大丈夫ですか?アタマ」

「なかなか適合するものが見つからない」

「寝言ですか?」

「世の中には腐るほどじじばばがいるってのに」

「ホント、いい加減に」

 しないと。

 お兄ちゃんは。

 お兄ちゃんの神の手をそんなことのために。

「返してもらいます」

「お前の兄じゃないだろう」地を這いずる金切り声。

 反転する黒眼。

 マダム=ジャパーが眼だけ覗かせて。机に伏せたまま。

 白眼が嗤っている。

「お前の目的はなんだいね? 根掘り葉掘り訊こうじゃないかいね」

 逸らせない。逸らそうとすると、

 骨が軋む。

 皮が攣る。

「なぁに、眞玉海姫の兄に惚れてるだけの話だいね」

「眞玉海姫は」

 私だ。

 ここに来るとき死んだ女が。

「ガキが欲しいんだろ?」

 私だ。


      4


 急に何かが飛び出してきて無我夢中でブレーキを踏んだ。

 眼を瞑った。

 人じゃ、

 ないよね?

 猫でも犬でも寝覚めが悪いけど。

 人だったら。

 眼を開ける。

 立っている。

 無事だ。

 人が。

 人は。

「ミキ!」

 うそ。

 なんで。

 ここまで付いてきた。ちがう。

 待ってたんだ。

 すごい執念。

 喉が張り付いて声が出ない。ちがう。

 厭きれて物も言えない。

「降りてきて。話があるの」

 笑えもしない。

 冗談でしょ?

 そこまでする?

 ボンネットによじ登る。

 フロントガラスに顔を付ける。醜い化粧。

「降りないと突き破る」

 なにそれ。

 大丈夫なの?首の上に乗っかってるそれ。

「本気よ」

 話が通じるとも思えないけど車を壊されたほうが嫌だった。

 帰れなくなる。

 私が観念して外に出るとそいつはようやくボンネットから降りた。

 こんなにいい天気なのに。

 青い空。白い雲。

 その女の顔は病的なほどに青白かった。

「代わって」

 取り合う気も起きない。もうその話は何回も何十回も何百回も何千回も何万回も何億回も何兆回も。した。ここに来る前に。

 局で。

「お願い。代わって」

 何その泣きそうな顔。

「お願い、ミキ。私を助けると思って」

 助ける?

 私のお兄ちゃんを寝取りたいだけでしょ?

「そんなに好き?」

 私がやっと言葉を発したので驚いてる。

「どこが好き?」

「え、あ」

「すぐに挙げられないようじゃ本気じゃないね」

 私なら。私だったら。

 お兄ちゃんの好きなところ。

 一億個挙げたってまだ足りない。

「私が言おうか?」

 その女はたどたどしくお兄ちゃんの好きなところを挙げた。

 私は耳から耳へ聞き流した。

 列挙が途切れたので促した。

「ほかは?」

「えっと」

「もうないの?」

 そいつは黙った。

 もうないらしい。

 鼻で嗤える。

「その程度? いい加減にして。選ばれたのは私。あなたは選ばれなかった。負けたの。あなたは私に」

「あなたの負けよ」

 しまった。首に。

 放して。

 なにこれ。

 取れない。

 痛い。

「知らないの?」

 女の口が歪む。

 みすぼらしい赤。

「キンシンカンてハンザイなんだよ?」

 やめて。

 いや。

 やだ。

 しにたくない。

 しに、

 たくなんか。

「ばいばい。ありがと」

 やだ。

 やだよ。

 お兄ちゃん。

 お願い。

 そんな女を孕ませるくらいなら死んで。

 私が殺して。


 あげない


 動かなくなったミキを地面に落とす。

 気持ちが悪い。

 服を脱がす。

 制服は私も着てる。

 裸にしたのは、

 辱しめるため。

 ぐったりした両脚を開いてその間に。

 突き挿す。

 大きくて太いあれ。

 掻き回す。

 入れたり出したりする。

 不気味な音がする。

 死んでも濡れてるの?

 吐き気がする。

 どんだけ淫乱。

 あんたがどうやって研修生の座をもぎ取ったか知ってる。

 ここに何本咥えこんだのよ。

 下品。最低。

 そのうえ実の兄の子ども孕もうとか。

 死んだほうがいい重傷を脳に負っている。

 治らない。

 死んでも治らないから私が治療してあげる。

 同期のよしみで。

 突き上げてナカにダしてあげる。

 どう?

 おいしい?

 私はキモチワルイ。

 込み上げてきたものをぶちまける。

 あんたの汚い顔に。

 あんたの小さい胸に。

 全然すっきりしない。

 突起物を引っ張る。

 千切ってもよかったけどそこまでの力はなかった。

 引き抜いて半開きの口にねじ込む。

 あんたの出した粘液くらいあんたが始末してよね。

 重い。

 車に戻して。

 崖から乗り捨てる。

 ああこれで私は心置きなく。

 眞玉海姫になれる。

 待っててね?

 お兄ちゃん。


      5


 電話が鳴った。電話?

 マダム=ジャパーが取った。その隙に。

 走った。

 黒い洋館まで。

 ラヴェからではない。

 あれは死んだ。

 菅谷だ。

 ジャムが完成したことを知らせるコール。

 ありがとう。

 役に立ってくれて。

 駆け上がる。吹き抜けの階段。

 地下はあった。

 でもその入り口がまさか二階にあるなんて。

 誰も思わない。

 走れ。廊下の突き当たり。

 開いてる。

 壁に鍵なんか掛けない。カムフラージュが仇となる。

 簡単に侵入者を許す。

 暗い。異臭。

 大丈夫。

 お兄ちゃんはすぐそこ。

 梯子を急いで落ち着いて降りる。

 手が滑りそうになる。脚が縺れそうになる。

 平気。

 だってお兄ちゃんはもっとつらい。

 いま助けてあげるから。

 一緒に、

 逃げよう?

「お兄ちゃん!」

 私は自分の出せる一番大きな声で叫んだ。

 耳がびりびりする。

 返答はない。

 もう一回。

 そう思って吸い込んだ息にむせる。

 ひどい、

 悪臭。

 意識した途端まともに呼吸もできなくなる。

 吸っては駄目だ。吸ってはいけない。脳はそう言うんだけど。

 そうもいかない。

 でも。

 なにこれ。

 死と血と。

 肉と脂と。

 生体反応。

「おにいちゃん!」

 振り返りもしない。

 聞こえていない。なら。

 見えないけど。

 そこにいる。わかる。

 つまずく。転びそうになる。つっかかる。

 心許ないフットランプ。

 オレンジが浮かび上がらせる。

 黒の塗りたくられた手術台の前。

 お兄ちゃんはそこにいた。

 抱きつく。

 死体のように冷たい。

 死体のように臭い。

 死体のように。

 何も言わない。

 顔を背けてもにおいは消えない。

 肩を掴んで揺らす。

 骨の通わない生物のようだった。

「ねえ、しっかりして?」

 眼に生気がない。

 死体とどう違う?

「私だよ。私。海姫。お兄ちゃんに会いに来たんだよ?」

 何も見ていない眼。

 何も聞こえていない耳。

 何も感じていない。

 かどうかはやってみたいとわからない。

 鼻を押さえる。

 お兄ちゃんを力任せに床に倒す。簡単に崩れた。

 積み木をくずすよりも容易く。

 嫌な音が。

 ぶつけた?

 頭を?

「おにいちゃん?」

 吸ったその息を後悔する。

 全部吐き出す。

 死にそう。ダメ。

 まだ、死ぬわけに。

 大丈夫。

 私も。お兄ちゃんも。

 見開いた眼が天井を映す。

 やれる?

 やるよ。

 やらなきゃ。

 何のために来たの?

 ミキを殺してまで。

 やらなきゃいけなかったことが私にはある。

 ミキの代わりに。

 私がやってあげる。

 だって、そうしないと。

 ミキがハンザイシャになっちゃうでしょ。

 私?

 私なら大丈夫。

 もう手遅れだから。

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