第2種 だいごの蜜
1
妹の夢を見た。妹だと思い込みたかっただけかもしれない。
可愛かった。
守りたかった。
こんな子が妹ならいいのに。そう思いたかっただけだろうか。
妹は、
本当にいたのだろうか。
記憶が欠落している。虫食いに遭っている。枯れ葉のように地面に落ちて風に飛ばされて誰かに踏まれて。乾いた音を立てて砕け散る。
手は真っ黒に染まった。最初は赤かったはずなのに。
いや、最初はもっと。
もっと?
頭が重い。後頭部から首や肩にかけて何かが圧し掛かっている。
いままで切り刻んできた人間の数だけそれは重量を増す。
日に日に重くなる。もうとっくに押し潰されてもいいはずなのに。
僕の首はまだへし折れない。
まだ、
続けろということなのだろう。
「元気そうじゃないかいね」神の声を聞いた。
闇が全身を暴き出す。
光よりも尚昏く、世界は此処で完結する。
ええ、と。
なにか。
言うべきなんだろうけど。
「夕方ですか」
「なんだその間の抜けた挨拶は。名を呼んでくれないのか」
白い指が伸びる。僕の首に触れる。
そのまま絞め殺してくれないだろうか。
「物欲しそうな顔をしてくれるな。壊したくなるじゃないかいね」
白い親指が僕の喉仏をなぞる。
押してはいけないスイッチを押すような仕草で。
「空の王に何か言われたかいね」
「ウサギが迷いこんだと」
研修生のニセモノ。
痛ぶって弄って踊らされて。
凄惨な末路が眼に浮かぶ。かわいそうに。
その子が人間のまま死を迎えることはなくなった。
「ウサギじゃないさ。姫だ。海の姫。綺麗な身体をしているよ。実に跨り甲斐のある清らかさだ。君が濁った色に犯してくれるのを愉しみにしている。それだけの話だな」
神はそこにはいない。どこにもいない。
僕の、
頭の中に存在している。
声がする。まだ死ぬなと。
人間として死ねると思うなと。
「休憩だ。来るといい」神が手招く。
梯子のような階段を上がって、扉の外。
眩しい。闇が眼球を串刺しにする。
覆った僕の手を掴んで、神が囁く。
「少し、歩きたいものだいね」
建物の外に出ると蒼白い月が出迎えてくれた。僕の顔色のようだった。
外灯の類は存在しない。ありがたい。
僕の眼はすっかり退化して、かえって夜のほうがよく見える。
神の後ろを付いていく。
夜風が鉄錆を遊ばせる。
「いいにおいじゃないかいね」神が眼を瞑って空を仰ぐ。
血のにおい。
死のにおい。
僕から消えないにおい。
僕にこびりついたにおい。
「まだ、やれるのだろう?」
なにを。
言っているのか。
「お前を失ったら私は」神が振り返る。
足を止める。その距離が、
ゼロにならない程度に。
霞む。
溶ける。
「いかんな。気弱になっているんだ。海の姫に生気にあてられて」
なにを。
言えば。
神を。
「じじばばを救ってやってるつもりだったんだ。私は何かおかしいか」
なにを。
言ったら、神が。
「いっちゃんが泣き已まないんだ。ずっと泣いている。私がいないと泣き続ける。私の姿が消えると泣き出すんだ。愚かなことをしていると。泣いてくれるんだ」
いっちゃん。というのが、
誰を指すのか知らない。知っていたかもしれない。聞いたかもしれない。
思い出せない。
神が言う。
「戻ろうかいね」
私たちの楽園に。
果たして僕が含まれているのかどうか。
排除してほしい。僕がやっているのはそういうことだ。
楽園を喪失させる行為。
2
夜がものすごく長かった。端から眠るつもりはなかった。
物音がしないのを念入りに確かめて、黒い洋館を探索した。
絶対に、ここにある。
秘密の出入り口が。
最終処理場への。
施設は空っぽだ。そこには何もない。
一週間前の爆発で吹き飛んだのは施設の二階部分。二階を取り壊して施設は平屋へと建て替えられた。ものの一週間で。一階の屋根は、そもそも二階なんてなかった。そんな素振りで平然としていた。
施設が吹っ飛んでも死体処理は滞りなく行なわれている。この一週間。
それこそが裏付けとなっている。
本陣はこちらだ。黒い洋館。
どこかに地下に通ずる入り口があるはず。
部屋を抜け出して一階に下りる。足音を立てないように靴を脱いだ。
まずは夕食をもらった食堂。
食べている間もずっとそのことばかり考えていた。きょろきょろしないように、周りを見回して。歩きながら床の音を聞いた。
造りとしては何の変哲もないダイニングキッチン。洋館自体が古いのでアンティーク調ではあるが、根本的な構造は食事を作って食べる場所以外の用途はない。
抽象絵画のかかった壁。額の裏も暖炉の中も見た。暖炉は長らく使われていないようだった。蜘蛛の巣こそなかったが、埃と煤の混ざった独特の匂いがした。
キッチンの戸棚も全部開けた。見つからない。
ここではないらしい。
吹き抜け部分の向こう側。特に説明はなされなかった区域。
手前の扉がトイレと洗面台。壁も床も特に変な音はしない。
奥の扉は鍵がかかっていた。
ここだろうか。
がちゃがちゃと音を立てるだけ無駄だろう。力でぶち破るのは最終手段だ。出来るだけ穏便な方法で、最高責任者にここを開けさせるには。
足音。
息を呑む。気のせいだと思いたい自分とどうにかして切り抜けようとしている自分と。必死に言い訳しようとしている自分がそれを嗤っている。
大丈夫。
私はまだ生かされる自信がある。車から抜いた燃料の使い道を知るまでは。
簡単に想像してもらってもいいのだが。
近づく。
靴の裏は床を擦っている。
廊下の白熱灯がシルエットを照らす。
「迷ったんかいね」マダム=ジャパーだ。
真打登場。
願ったり叶ったり。
「海の姫の部屋はこの上だぞ。寝ぼけるにしては酷い夢遊病っぷりじゃないかいね」
身体に纏わりつく布を無理矢理従えて自分専用の衣服にしたかのような。昼の格好のまま。マダム=ジャパーは濃い色のケープを羽織っていた。
唇が嫌に赤い。
「眠れないんだ。客が来た日はいつもそうだ」
「眠っている間に余計なことをしでかさないか心配ですもんね」できるだけ感情を込めずに言った。
背筋の寒さを誤魔化すために。
眼の前のこの存在は、
誤魔化せない。
「私は正直者が好きだな」
「わかってるんじゃないですか?」
マダム=ジャパーが肩に掛かった髪を払う。
上は黒。下は白。
ぱっつりと別れている境目を示すかのように。
「お前は私の敵か味方か。どちらに組したいんだ。希望を言ってくれていいぞ」
前者なら消す。
後者なら。
「そちらの出方次第ですね」
マダム=ジャパーの手に銃が握られていたら間違いなく撃たれていた。
この人は案外、
脆いのかもしれない。
表情が翳ったように見えた。照明が心許ないせいかもしれない。
「最終処理場に案内して下さい」
私の捜しているものは、
そこにある。
「内臓が要らんのかいね」
「演技に決まってるじゃないですか」
あんなの。
油断させるための。
私は嗤って見せた。余裕を装って。
どちらが演技なのか。
およそ私から出るすべてが演技だ。
「連れて行って下さい」
そこにいる人間に、
用がある。
会いたい。
どうしても。
「お願いします」
マダム=ジャパーがケープの裾を翻す。向きを変える。
「マダム=ジャパー!」
私を。
低い声だった。
地面の底を這うような。
「私を一も二もなくそう呼んでくれたのは、お前が二人目だ」
薔薇の香。
マダム=ジャパーは、私の横を通過して奥のドアノブに触れる。
開いた。
鍵の類を取り出す動作は見つけられなかった。
ぎぃ、と油の切れた音がして。
仄明るい光が。
「入ってくれていいぞ」
ここに、
いる。
喉が張り付いて。
足が重い。
「どうした?」
入りたい。
入ればそこに。
息が詰まる。
一歩。二歩。
マダム=ジャパーがドアを支えてくれている。閉まらないように。
私が入ったらドアを閉めて中に閉じ込められるだろうか。
鍵を掛けて。
そのままミイラになる。
泣き声がした。
空気をつんざくような。爪で力の限り引っ掻いた。
阿鼻叫喚の音色。
なにが、
いる?
「私の秘密を見せようかいね。海の姫に特別だ」
そこには、
小さな老婆がいた。
3
その老婆の名は、いっちゃんと言った。
床にぺたんと座っている。
何もない部屋。
その小さい老婆だけが唯一入室を許可されたかのような。
一切を拒絶する虚の空間。
マダム=ジャパーを見上げてにこりと。
いや、表情が弛緩しただけだ。
笑う。という行為は、
力抜けただけのそれなのだと思い知らされる。
老婆はしわだらけの顔をさらにしわしわにして。
笑う。
しわだらけで節くれだった指を伸ばし。枯れ枝のような腕を持ち上げて。
マダムジャパーの手を掴み。
愛おしそうに頬ずりする。
「おばあちゃん」
そう聞こえた。マダム=ジャパーの声ではない。
とするなら、
その老婆の。
おばあちゃん?
「いっちゃんは、私のことを自分のおばあちゃんだと思い込んでいるんだ。甚だ迷惑な話だな」と言いつつもマダム=ジャパーの声音は優しかった。
ピンクの上下。パジャマのようだった。
いっちゃんはマダム=ジャパーの手を放そうとしない。むしろ一層強く握っている。
わかる。
仄明るい照明がなくとも。
この二人の関係は。
「本当の祖母だと思うのかいね。まさか」
違うのか。
マダム=ジャパーが老婆に寄り添うようにして屈む。
「いっちゃんは、一週間前の生き残りだ。死に損った。かわいそうなババだ」痛い、いたいぞ。マダム=ジャパーが平坦な悲鳴を上げる。
いっちゃんが、
マダム=ジャパーの指を噛んでいる。
「舐めてもいいが、噛むのは勘弁してくれるかいね。痛いんだよ、本当に。噛みきったところで美味くでもない。もっと美味いもんを喰わしてやってるじゃないかいね」
老婆にその願いは届いていない。
ひたすらにマダム=ジャパーの指をしゃぶり続ける。唾液を絡めて。舌を這わせて。何かとびきりのご馳走か何かと思っているのだろうか。
「これが、私の切り札だ。私を苦しめたいのならいっちゃんを殺すといい。出来るだけ残酷な方法で以って、私の見ているその前で。命を奪うといいさ」なあ、とマダム=ジャパーが話しかけると。
いっちゃんは本当に幸せそうな顔で笑う。
あはは。
笑っているのではない。それは。
筋肉の弛緩。
表情を引き締めるだけの筋肉は老化により衰えてしまった。
「おばあちゃん」
「なんだいね?」
まるで本当の家族のように見えた。
錯覚だ。違う。
なんで?
こんなものを見せた?
同情を誘うため?
最期の一手を躊躇わせるため?
うわああ。
吃驚した。
部屋に入ろうとしたときに聞こえたあの割れるような。
いっちゃんが泣き出した。
涙をぼろぼろとこぼし、大きく口を開けて。
「泣かないでくれるかいね。私はここにいる。だから」マダム=ジャパーは幼子をあやすような口調になっていっちゃんの背中をさする。
いっちゃんは泣きやまない。余計に声を張り上げる。
「私が行ってしまうのを感じ取ったんだろう。なかなかに鋭いんだ。頭の中を読まれている気分だ」
うわあああ。
わあ。
いっちゃんが泣き已む。マダム=ジャパーは背中をさすり続けていた。
あはは。
マダム=ジャパーが至近距離で顔を覗き込むといっちゃんは再び笑った。
おばあちゃん。
「わし、どこにもいかんよ。ずっとここにいる」
老婆ははっきりそう言った。私にも聞こえた。
マダム=ジャパーの顔が見たかった。きっと、
微笑んでいただろう。
女神のような慈悲を讃えて。
「ごめん。いっちゃん」マダム=ジャパーが手を放す。半ば強引に。
いっちゃんは虚を突かれたような、或いは何が起こっているのかわからないような表情を浮かべて空気を摘まむ。先ほどまでそこにあった温かい手を探すように。
その隙に部屋を脱した。マダム=ジャパーが顎をしゃくって促した。
いまのうちに部屋を出ろと。
ドアを閉めた瞬間、
それは聞こえた。
泣いている。
大声で。
分厚い扉越しにも響く。
「行くぞ」マダム=ジャパーは聞くに堪えないと言った素振りで足早に去ろうとする。
いいんですか?
その問いは喉の奥に消える。
毎回これを繰り返しているのだろう。
訪れて。別れて。
部屋を出れば泣いてしまうのに、来ないわけにはいかない。
またも、鍵を掛ける動作は確認できなかった。
黒い洋館の中央部分。吹き抜けの天井を見上げる背中はもの悲しい。
階段を上がる足取りもたどたどしい。
手すりにもたれる。
マダム=ジャパーの横顔が俯く。
「私を殺すのならいまだぞ」
「あなたを殺しに来たわけじゃありません」正面に立つのは憚られたので、その隣。
やわに見えた手すりは思いのほか強固だった。
二人分の体重をしっかり支えている。張りぼてのような造り物の木枠。
「いっちゃんはな、家族に見捨てられたんだ。夜な夜な這い回る。眼に入ったものはなんでも口に入れる。気に入らないと手を叩いて威嚇する。手に負えんな。一般家庭でどうにかするのは到底無理な話だな」
それで、この施設に。
「よくある介護困難なじじばばの末路だな」マダム=ジャパーは自嘲気味に嗤った。
この人は、すべてをわかった上で。
自分を悪者に仕立て上げている。
どこからか夜風が。
血の。
におい。
気づかないふりをして嗅覚を研ぎ澄ませる。
どこだろう。どこから。
探索を諦めて目線を元に戻すと。
マダム=ジャパーの顔がそこにあった。
吃驚しないわけがない。
小さな声を上げてしまった。その口を思わず覆う。
「ところどころ可愛らしいじゃないかいね。海の姫、お前が捜しに来たものを教えてくれていいぞ。私に手伝えることなら手を貸そうじゃないか」
手伝えること?なら。
手を貸そう?
どの口で。言っている。
人の皮を被った成れの果てが。
「おや、そうゆう顔もできるんかいね。何か気に触るようなことを言ったか」
この手の狂人に脅しの類は通じない。感情の昂りはかえって仇となる。
落ち着いて。
冷静に。
マダム=ジャパーが口の端を持ち上げる。満足げに。
「お前の根っこはどこにある。見せてくれ。私に。曝け出してくれ。そうすればもっと親しくなれる。違うかい? 私たちは似ている。だいじにしているものがある。壊されたくないものがある」
だいじにしているもの。壊されたくないもの。そんなの、
誰にだってある。
詐欺師の手口だ。あなたのお母さんは死んでいませんね。
それとどう違う?
「お前の捜しに来たものを当ててやろうかいね」
やめて。
言わないで。それは、
お前の口から語られていいものではない。
「何を怯える。何を怖がる。そのためにお前はここに来た。局の新人を殺して車を転落させて。いんや、逆かい? 車が転げ落ちたから運転手は死んだのかいね。まあどちらにせよ、ホンモノの研修生は死んだ。ホンモノのマダマ・ミキは死んだ。お前は誰だい?」
ホントの名前を吐いてくれ。
マダム=ジャパーが呪詛を唱える。
「誰だい?」
「眞玉海姫です」
「同姓同名かいね。誕生日ならまだしも、珍しいこともあったもんだいね」マダム=ジャパーの白い指が近づく。
私の顎を捉まえる。目線を逸らすな。そういう力で以って。
逸らせない。
逸らしてやるものか。こんなところで。
もうすぐなんだ。もうすぐ、
あなたに。
あなたに会える。
「人間かじじばばか。若いもんはじじばばなんぞくたばったところでざまあみろだいね。じじばばは私が残らず人形にしてやってるさ。残らずな。着々とこの国の平均年齢は若返っている。ついこないだまで溢れかえっていたじじばばは、いまや絶滅危惧種だ。とするならば」
指に力はこもっていない。こもっているのはむしろ眼光だ。
逸らさない。
逸らせない。
人間を超えたその黒は。
「ここで生きているのは、私を含めて四人だ。誰だい? 私ではないようだいね。こんな小娘に知り合いはいないぞ。女は嫌いだ。私に断りもなく勝手に遺伝子を残そうとする。その機能は必要ない」
片手で私の顎を掴んだまま、もう片方の手が。
スカートの中に。
嫌だ。やめて。
「動くな。動いたら傷がつくぞ。局の連中に無傷で返さないといかんのだ」
脚が震える。本当に嫌なのに。
立っていられない。
顎を掴まれている手が私の全身を支えている。倒れないように。
気を失わない程度に締めつけられる。
「初めてかい?」
首を振っても意味がない。
否定も肯定も同義。
異物が侵入してくる。
声が、
出ない。
「無抵抗なのはいいことだ。受け入れろ、私を。従ったほうが楽だぞ。空の王を見たろ?莫迦みたいにこうべを垂れる。実につまらん男だ。あれでもあいつは抵抗していたんだ。一週間前まで。違う。間違っている。そう言って私をなじってくれた。だがいまはどうだいね。明日にでも放り出してやりたい。使えん男だと。失望したと。そうすればあいつはどうするかいね。泣いてすがってくるか。捨てないでくれ、殺さないでくれと。私の靴を舐めるだろう。そんな男に用はないんだ」
骨張った指が動き回る。何本も。
入ってくる。奥へ奥へ。
嫌な音がする。
粘膜が弾け飛ぶような。
「この奥にある臓器の機能を私に寄越せ」
視界がちらちらする。
痛い。痛いだけだ。
早く。
早く抜いてほしい。
やめて。終わりにして。
「泣くほど嫌かい。エロ本以下の反応をせんでくれよ。下らんな」
引き抜かれた。異物感が消える。
それでも痛みは引かない。
まだ何か、残っている。
あつい。
いたい。
「間抜けなもんだいね」
ねじ込まれる。口に。
粘液が。
マダム=ジャパーの指が。
その指はさっきまで私の。
考えたくなかった。舌で感じ取ってしまう。
頭が結論付けてしまう。
やめて。なにも。
考えたくない。
「酷い顔だ。ついでに奪ってやろうか。お前のだいじな」ものは。
ここにはない。
取り戻さないと。
「返して」
返しなさい。それは、
お前のモノじゃない。
マダム=ジャパーが嗤う。赤い舌で指をなぞって。
「いい眼だ。下から突き上げたくなる」
お兄ちゃんは、
お前になんかやらない。
魔女め。
4
人魚姫は声を奪われた。人間の脚と引き換えに。
王子様に会うために。
綺麗な声を明け渡した。
そこまでして会いたいだろうか。幼いときはそう思った。
愚かな女だ。
陸に上がったところで何ができる。海の中しか知らない魚類が。
人間のふりをしたところで。
恋が実るわけもなし。最期は泡となって消えた。
馬鹿な女だ。かわいそう?
まさか。
自業自得だ。
その王子にそれだけの価値はない。命を捧げるほどの。
どうして王子を殺さなかったのか。
殺せばすべて元通り。すべてリセットして魚類に戻れる。
海の中のお姫様に戻れる。
短剣を振り下ろせばことが済む。
その血を浴びて脚が消える。使い慣れた尻尾に変わる。
なぜ、やれなかったのか。
恋に恋していたかわいそうな女。
海姫の名前の語源がそこにあるらしい。
あれほど親を殺そうと思ったことはない。
嫌なことを思い出した。気持ちの悪い汗が首に貼りついている。
朝になったのか。
カーテンの隙間から光がぼやける。
昼かもしれない。
ベッドから起きて窓を開ける。頭がふらつく。
夜ではなさそうだった。
風が冷たい。
部屋から施設は見えない。廊下側だ。
山が赤と黄に染まっている。ところどころ緑も。
秋と冬の境目。
ノックが聞こえた。
「どうぞ?」
「おはようございます。朝食ができましたので」菅谷の声だった。
「ありがとうございます。着替えたら行きます」
足音が遠ざかる。
早く来いということだろう。もしくは何か急ぎの用事でもあるか。
思い当ることなら山ほどある。
生きている人間は四人。
マダム=ジャパー。
ラヴェ。
菅谷。
もう一人。
お兄ちゃんだ。よかった。
生きてるんならまた会える。
人形にされてない。まだ間に合う。
食堂は三人が勢揃いしていた。雁首揃えてよくもまあ。
「おはようございます」嫌味のつもりで言った。
「おはよう」マダム=ジャパーは紅茶を啜る。
「おはよーございまーす」ラヴェはホットケーキに齧りつく。
「おはようございます。どうぞ?」菅谷は立っていた。エプロン姿でホットケーキを皿に盛り付ける。「味は? 薔薇のジャムとメイプルシロップがありますが」
「バターあります?」わざと選択肢にないものを言った。
「はい」菅谷が冷蔵庫から出してくる。「どうぞ」
焼きたてのいいにおいがした。ホットケーキは嫌いじゃない。
お兄ちゃんがよく作ってくれた。
「飲み物はどうされます?」菅谷がカップを用意する。「紅茶。コーヒー。ミルク。緑茶。たぶんなんでもあります」
マダム=ジャパーは紅茶。ラヴェはココアのようだった。
「菅谷さんは食べないんですか?」時間稼ぎの質問。
「胃の小さいド新人は朝食べるとお腹痛くなっちゃうそうですよ」ラヴェがつまらなそうに言う。まだ眼が合わない。
「空の王をいじめてくれるな。糖分取り過ぎで余分な肉が付くぞ」
「ちゃんと使ってますよぉ。採った分以上に。もう、マダムのいじわる」
マダム=ジャパーが空のカップをソーサに戻す。
絶妙なタイミングで菅谷が追加を注ぐ。
「いつになったらジャパーを付けてくれるんだ」ジャムの瓶を逆さにして中身をすべてぶち込んだ。ティースプーンに残ったジャムも舐めとる。
「うぅん、本懐を遂げたらですかねぇ」
「お前は好みじゃないんだ」
「ええーそれヒドイ。今更言います?」ラヴェが大声を上げて立ち上がる。「今日の今日までマダムに全身全霊で尽くしてきたわたしって一体」
「お前の仕事は鳴りもしない電話を見つめることだけじゃない」
「マダムの夜のお相手?」
マダム=ジャパーがはあ、と息を吐く。「薔薇だ。何のためにお前を傍に置いている。ストックを切らすな」
空瓶がラヴェの前に転がされる。
ジャム作りは彼女の仕事のようだ。
「あーなるほど。忘れてました。わたしとしたことが」ラヴェが眼を見開いてわざとらしく手をぽんと叩く。
マダム=ジャパーが項垂れる。「次切らしたら配置替えも辞さないぞ」
「もう、ホントにマダムは。わたしが創り出したジャムがないと生きていけませんね。一生離しませんからね。離さないでくださいね」
「お決まりですか?」菅谷が何事もなかったかのように言う。
「グレープフルーツとかありますか」
「妊娠でもしたんですか」ラヴェがすかさず言う。「誰の子ですか。マダムのだったら殺しますけど」
「どうしてお前はそういう思考しかできないんだ」マダム=ジャパーが私を見てほくそ笑む。昨夜のことを思い出せ。そういう支配的な笑みで。
脳裏に突き刺さる。
痛み。
嫌だ。思い出したくない。
眩暈がする。
吐き気しかしない。
「ちょっと、どういうことですかマダム。え、まさか」
「お前はジャパーを付けてから出直せ」
「顔色が悪いですが」菅谷には見当が付いているのだろう。瞳の奥に憐れむような鈍い光が見えた。
同じ目にでも遭ったか。
或いは見ていたか。まさか。
「どうぞ?」
それらしき色の液体の入ったグラスを手渡される。
一気に飲み干す。苦くて美味しかった。
「今日はどうするんだいね、海の姫」マダム=ジャパーが言う。
「薔薇の世話とか手伝います? 肥料が足りなくてですね」ラヴェが意地悪に嗤う。
「空の王は外回りかいね」
「買い出しの日です」菅谷はテーブルの上を片付け始めていた。
手際良く流し台に運び食器を洗う。
その背中に向かって話しかける。マダム=ジャパーがテーブルにこぼれた紅い液体を指で拡げる。文字を書くには量が足りない。
単に手持無沙汰のようだった。
「そうか。荷物持ちをさせるわけにもいかんしな。なにせ姫だ。手厚く持て成さんと」
「ですから薔薇の餌に」ラヴェが食い下がる。
私がどうしたいかなんて一つ。
最初から、
そのために来た。
「最終処理場を見せてください」
ラヴェと菅谷が私にはわからないやり取りをした。無言の動作で。
マダム=ジャパーが黙って立ち上がる。
廊下に出て立ち止まる。
私が付いてきているのを背中で感じ取って。
「いま喰らったものを派手にぶちまける姿が愉しみだ」
狂ったように嗤った。
5
梯子を下りてくる足音。二つ。
二つ?
神と王か。別々にならわかるが一緒に来たことが。
あったろうか。
もうなにがなんだか。
わからなくなって久しい。教えてくれ。
逐一囁いてほしい。
耳のそばで。
音もよく聞こえない。足音だって聞こえないときのほうが多い。
どうして聞こえたのか。
今日は、
調子がいいのかもしれない。
心の。
調子がいい日は仕事が捗らない。ああそうか。
だから叱咤激励に来たわけか。
さすがは見抜いておられる。
僕が今日一人も切り刻んでいないことを。
「いるか」神の声。
いないわけがないでしょう。
僕の居場所はここだけだ。
逃げる気もない。逃げられるとも思っていない。
逃げる?
こここそが楽園だ。
知らないにおいがした。
神ともう一体。
王じゃない。
もうひとり女がいると聞く。そいつだろうか。
「ドクタ。客だ」神の光の陰から。
異臭がした。
眼もよく見えない。もともと視力がよくなかった。
嫌なにおいだ。
鼻を押さえる。
「なんだ。お前にも不快なものがあるのか」
言い訳はできない。神の前では。
「声くらい発したらどうだ」
声を出すためにはこの手をどかさないと。
あれ?
違うのか。
そっちの塊に言ったらしい。ヘドロのような。
ヘドロが喋るのか。
さすがは神。万物の声を聞ける。
「感動の対面だろう?」
異臭が強くなる。距離が詰まる。
必死で顔を背ける。神に背信しているようで身を引き裂かれそうだったが。
そうしなければ、
この強烈な異臭で鼻をやられる。
鼻は、
無事だろうか。ああそうか。
僕のどの感覚ももうまともに働かないんだった。
だとするなら鼻が曲がりそうなこのにおいは。
なんだろう。
不快だ。
「どうした。感動で声も出ないかいね。ウミノヒメ」
うみのひめ。
なにか、
引っかかる。気がしたが。
ぐらつく。
世界の。
斑点を。
反転して。
「どうだ? お前の捜していた人間か」
早く。
はやくそれをどこかにやってくれ。
おかしくなりそうだ。
ははは。
何を言ってるんだ。すでに。
おかしいくせに。
笑いがこぼれた。
何日かぶりに。
笑えた。本気で笑ったせいで涙が出てきた。
僕はまだ涙を流せる。
老人を生きたまま切り刻んでも尚。
泣くことができる。
泣く?
泣いて、
いるのか。その塊は。
どうやら人間だったらしい。
生憎と、
心当たりではないが。
神よ。
あなたもたまには間違えるらしい。
僕に客なんか来るわけがない。
「邪魔したな。今日も頑張ってくれていいぞ」
それが今日は調子が悪いのです。
「そうか。ならば仕方がないな」
申し訳がないです。
「謙虚なところが嫌いじゃないぞ。気晴らしにどうだ?外でも」
勿体ないです。昨日あんなにしていただいたばかりで。
昨日?
昨日だろうか。
「そうだった。お前は昼間は駄目だな。また夜に出直そうかいね。それまで適当にぼんやりを決め込んでくれていいぞ。お前は一番の稼ぎ頭だ。それくらいの休息など休みの内に入らんな」
なにからなにまで申し訳ない。お言葉に甘えさせていただきます。
「じゃあな」神の声が消える。
異臭も消える。
人間の塊。
あれは、
切っても良かったのだろうか。
6
シャワーノズルから出る水の量が減った。もっと言うなら止まった。
ぽたぽたと。
垂れるだけ。
「だれ?」一人しかいない。
わたしの邪魔をする。
着物の裾が地面を引きずるのも構わず。
立ち尽くす。
嫌な、
顔。
「お怒りでしたね」
嫌な声。
虫唾が走る。
「どいて」
そいつはメガネの縁に触る。
そのレンズを叩き割ってやりたい。
「たまに出てきてでかい顔しないで」
「役立たずは要りませんよ」
ホースを首に巻きつけてやりたい。
首を絞めて呼吸を止めてやりたい。
「どいて。聞こえない?」
そいつが傾いてホースに勢いが戻る。
水が、
暴発する。いきなり解放したから。
「つめたっ」
顔にも服にもかかった。
今日下ろしたての靴が濡れる。
「少しは冷えましたか」そいつが人差し指で自分のこめかみをつつく。
頭を冷やせ。
そういうこと?
「醜い顔ですね。マダム=ジャパーもどうしてこんな」
「うるさい!」
シャワーの水を掛けてやろうとしたけど。
水が止まる。
踏んづけている。
「どいて。どきなさい」
ホースを引っ張ってもびくともしない。
「デブ」
「そっくりお返ししましょうか。脂肪の塊」
本当に、こいつは。
殺しても殺したりない。
青い空。
白い薔薇。
「用がないなら消えて」
「ありますよ。用なら」
そいつはわざとホースの上を歩く。
水が出ないように片足ずつのせて。
近づく。
目線を落とす。そこには、
マダムのお気に入りの。
紫。
「枯れてるじゃないですか」
うそ、そんなはず。
ないと思って眼を逸らした。
罠だってわかってたのに。
勢いよく水が振ってくる。もの凄い量。
土砂降りに遭ったみたいに。
垂れる。
水と水と。
「よくお似合いですよ。あなたには水の中が」
最低。
殺してやる。
一番苦しい方法で。
みてろ。
新入りのくせに。
わたしなんか子宮にいるころからマダムの側にいたんだから。
赦さない。
人形になんかしてやらない。
マダムに必要なのはわたしだけ。
ほかは要らない。
ぜんぶ、
しんじゃえ。
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