老いてはわたしに従え

伏潮朱遺

第1種 しじの水

      0


「増えすぎたんなら減らせばいいだけの話だな」女の声は思いのほか低かった。

 室内は最低限の照明しかなく、そこに人がいるという事実のみを仄めかす。

 十人程度だろうか。もっと少ないのかもしれないし多いのかもしれない。足元を照らす非常灯が眩しい。目線を上方修正した。

 黒塗りの世界。

 この国の未来を予感させる。

「そう云うことじゃないのか」先ほど発言した女だろう。同じ声音だ。

 誰も何も答えない。答えられない。

 その通りだからだ。

 女は間違ったことを言っていない。パーフェクトな正答。

 だからこそ、誰も何も言えない。

 そんなことはわかっている。そんなことができたなら、

 奴らはここに雁首揃えなかった。僕も含めて。

「私ならそれができる。それだけの話だな」

 誰もが耳を疑った。誰もが息を呑んだ。

 誰もが、

 莫迦にして嗤った。

「何か言ったらどうだ。否定はいい。その先を聞かせてくれ。何故否定したのかもどうでもいい。代替意見を提示してくれ」

 誰も何も言わない。言う必要がない。

 代替意見が出せるなら、奴らはここには来なかった。

 本日の主役はその女。

 すでに手はない。足を使う気力もない。頭も空で口も動かない。

 死体同然の集まり。

 この国は死んでいる。

 女が椅子を引いた。そんな音がした。

「手始めに十体。そうだな。お前らがいい」

 やはり十人だったか。いや、

 十体か。

 死体を数える単位。

「一ヶ月待つ。届かなければこちらから出向くぞ。我が身が可愛ければ代わりを差し出せ。簡単だろう? 処分に困る死体は増える一方だ」

 すでに死体と言い切るか。

 女の意見が過激だとは思わない。誰もが口にできなかっただけで。

 ことは既にそうするほかない段階まで来ている。

 増えすぎたなら減らせばいい。

 なるほどその通り。

 翌月施行された新しい法の名は、

 寿齢人口統制法。

 枯れ枝は切り落とさなければならない。

 古いものから処分して行くのが道理。

 超高齢社会に歯止めを。

 不可逆な脳萎縮の診断はもはや死刑宣告となった。


      *


 あの会議(と呼べるような代物か定かではないが)のあと、女を呼び止めた。薄暗い廊下を抜けてエレベータを降り、エントランスロビィを颯爽と行く後ろ姿を。

 中東あたりの民族衣装を思わせるゆったりとした布が、女の全体像をぼかす。

 髪は肩まであったが、肩に付いたあたりから色が褪せている。徐々に移り変わるのではなく、首の付け根でぱっつりと線が引かれている。

 そこから上は黒。

 そこから下は白。

「なんだ。加工して欲しいのか」

 最初その意味はわからなかった。後々わかることになるのだが。

 どうしても聞いておきたかった。

「減らすはいいんですが、どうやって」

 純粋に方法論に興味があった。

 それは僕がそんな職業に就いているからかもしれない。

 人体を切り刻む。

 免許がなければただの死体遊び。

「どうやって減らすおつもりです?」

「知りたいか」女は僕を見て口の端を吊り上げる。

 淡白な顔立ち。声音は単純明快を好しとする思い切りの良さがあった。

 その眼差しが背筋を這い上がる感覚。

「私の城に来るといい。招待する」

 それが、

 僕とマダム=ジャパーとの出会い。

 彼女の趣味は人体加工。

 趣味、いや、失言だった。

 それが彼女の芸術活動のすべてである。







 第1種 しじの水



      1


 マダム=ジャパーというのは通り名で、彼女の本名は別にあった。

 舞飛椿梅マイヒ=ツバメ

 これも本名かどうかは疑わしい。少なくとも公の場ではそう名乗っている。

 最終処理場である、ここ――紫尾園シビエンも、こちらで勝手にそう呼んでいるだけで、そこを管理する彼女にしてみれば何と呼んでいるのか。

 近いのはアトリエかもしれない。

 彼女は芸術活動の一環として、人体を加工する。

 原材料であるところの死体は、毎月絶え間ない供給がある。

 寿齢人口統制法。

 それによって人間は、古いほうから処分されることが決まった。

 殊更優先順位は、脳萎縮の進行状況とそれに付随する問題行為の大きさ。

「落ち着いたかいね」マダム=ジャパーがのぞきに来る。

 舞飛椿梅と呼ぶと返事をしないと言われたので。また、マダムやジャパーなどと省略しても駄目だということなので。

 私は園長をマダム=ジャパーと呼ぶほかないのだ。

「いきなり見せたんだ。無理もないさ。胃袋が空になる感覚はなかなかだろうよ」

 脳裏に焼き付いて離れない。

 視覚と嗅覚を一瞬にしてレッドアラートへ押し上げる暴力。

 正気を保っていられたことに驚いている。

 狂ってしまえばよかった。

 おかしくなっていれば楽に。

「しっかりしてくれ」マダム=ジャパーが鏡越しに溜息を吐く。「これから十日以上もここで暮らすんだ。食べて吐いてを繰り返せば食道が使い物にならなくなる。君を綺麗なままで返さないと局の連中に何を言われるかわからんのだ」

「見苦しいところをお見せしました」私は口元を押さえて頭を下げる。

 押さえていなければ胃液が垂れ流れてくる。

 焼け爛れる。喉の感覚が置き去りにされる。

「仕方のないことだいね。今日はこのくらいに」

「いえ」

 今日から十四日間ここで暮らすのだ。

 こんなことでは。

 私もあの死体たちと同じ末路を辿る。

「お供させてください」

 洗面所を出てマダム=ジャパーが私に向き直る。

 受容と諦観の入り混じった視線が絡みつく。

「覚悟だけなら一級品だね。中身をくり抜いて眺めていたいくらいだ」

「お願いします」

「死に急ぐ必要はないだろうね」マダム=ジャパーは待合室のソファに私を誘導する。「座っとくれるかいね。茶でも出そうかいの」

 絶妙なタイミングで事務所のドアが開いた。白いフリルをあしらったパーティドレスのような出で立ちの小柄な女がティーポット片手にやってくる。慣れた手つきで紅茶を入れ、わざわざソーサにのせて、恭しく私に手渡す。

「どーぞ」外観こそ奇抜だが喋ると案外親しみやすそうだった。

「いただきます」

 カップは温かく、いいにおいがした。ハーブティだろうか。

 匂いを楽しんでいたら、白い女が素っ頓狂な声を上げて事務所に戻って行った。

「どうしたんですか?」思わず尋ねてしまった。

「すぐにわかるさ」日常茶飯事なのだろう。マダム=ジャパーは特に動じもしない。脚を組み直しただけ。

「すみません!マダム。わたしとしたことが。ゲストよりマダムを優先してしまうなどと。あああ。この落とし前はきっちりと、今夜あたりみっちり」

「ジャパーが足りん」

 白い女は紅茶を淹れ直し小瓶と一緒にマダム=ジャパーに差し出す。その光景はまるでヴァレンタインデイに意中の相手に渾身の勇気を振り絞って手作りのチョコを手渡す女子高生のようでもあった。

「赦していただけるのですか?マダム」

「だから、ジャパーが足らんと言っているんだ。ラヴェ、仕置きはないぞ」

「えーケチ」ラヴェと呼ばれた白い女は口を尖らせる。

 明るい色の髪を頭の高い位置で二つに結わえている。リボンは右と左で違っていた。

 左が黒。

 右が白。

「わたしはいつだって既成事実を待ってるんですからぁ」

「意味がわからん」

「だってぇ」

 ハーブティを飲みながら二人のやり取りを見守る。

 園長と事務員。という単純な関係ではなさそうだった。

「新入りの姿が見えないんですけど」白い女がきょろきょろする。「出社拒否ですか。クビですね」

「お前は思考が過激すぎるんだ」マダム=ジャパーは、紅茶の中に小瓶の中身をすべて入れてかき混ぜる。かちゃかちゃとスプーンがカップにぶつかる音が響く。

 待合室は不揃いのソファが無法状態で点在するためか視覚的には落ち着かない。その代わりにテレビがないお陰か、待合室特有の喧騒と忙しなさからは解放されている。

 待合室。

 何を待つのだろう。死刑宣告?

「空の王は着替えに行っているだけの話だな」マダム=ジャパーはカップを空にする。

「え、なんですかそれ」白い女が空のカップを受け取って首を振る。「嫌です。認めません。マダムとの逢瀬のあとのいやいやいや。駄目です。それ絶対ダメ」

「だから、ジャパーが足らんと」

「ここ来て一ヶ月のガキがデカい顔とかマジ死ねばいいのに」

 空の王?

 園長より上の位が存在するのか。来て一ヶ月の新人に最高権力を委ねるだろうか。

 その最高権力者に惚れているなら別だが。

「お前さんの名前は何だったか」マダム=ジャパーが、私の首から下がっているIDを指先でいじる。「ああ、なるほどな。悪くないじゃないかいね、ほら」

 白い女がマダム=ジャパーの横から顔を出す。

「マガタマ・ウミヒメ?」

「マダマ・ミキです」

 眞玉海姫。

「人魚姫みたいじゃないかい。精々悲恋で泡にならんようにな」

 終の楽園――紫尾園にて十四日間の研修を命じる。

 つい先週下されたばかりの辞令。

 罰ではない。チャンスそれも違う。

 新人潰し。

 口封じの共犯量産。

 お前らはこんな非人道的なシステムの片棒を担いでいるんだ。と思い知らせるための。まともな判断を下せる脳の空き容量を食いつぶすための。

 もはや世論で反対意見など存在しないのに。

 これ以上何を防ごうというのか。

「お前――じゃないな、海の姫。お前さんで何人目だったか」マダム=ジャパーが白い女に目線を投げかけると。

 白い女――ラヴェは、ここぞとばかりに満面の笑顔で持って反応する。

「はい。二桁突破です、マダム」

「ジャパーが足らんと」

「局のじじい共も死に場所探してんじゃないんですかぁ?」

「局にじじいはおらんな。おらんよ。知っとるんじゃないかいね、海の姫」

 四つの眼球から出る不可視光線が私の頭に降ってくる。

「じじいはいない。私が処分してやったのさ」

 寿齢人口統制局に高齢者と区分されるコホトは存在しない。

 寿齢人口統制法によって高齢者と区分されるコホトは消滅の一途を辿った。

「じじいもばばあもいない。老いては死すべきだ。老いこそが死に値する。死ぬために老いるんだ。それでも尚老いたいというのなら、私に従え」

 通称マダム=ジャパー。本名おそらく舞飛椿梅。

 彼女こそがこの国の生命の一切をこの手に握っている。わけではない。

 彼女はただ、

 人体を加工したいだけなのだ。

「さあて、今月のじじばばは何体やってきてくれるのかいね」

 治まったはずの食道と胃袋が沸騰を始める。

 間に合わない。

 灼熱。

 出たのはさっき飲んだばかりのハーブティと胃液の混濁。

 朝食はすでに残らず出してあった。

「すみません。片付けますので」口の端に付いた残渣が酸い。

 床に、

 丸く。

「気丈だいね。無理はするなと言ったはずだ」マダム=ジャパーの声は優しい。「ラヴェ、最古参の意地を見せるといいさ」

「気に入らないですが、マダムの命令とあれば」ラヴェが敬礼したような音がした。

「物分かりがいいのは自慢だが、ジャパーが足らん。お前はいちいち」

 マダム=ジャパーの大きな手が背中をさする。感触が気持ちいい。

 ふいに、

 止まる。

 肩甲骨の間の。

「なあに、心配ない。臓物まで吐くがいいさ」

 吐いたら。マダム=ジャパーから生成された言霊が内耳に転落する。

「綺麗に加工してまた戻してやる」

 触られた背中が腐り落ちていく妄想が肥大して。

 本当に空っぽになるまで胃の内容物をぶちまけた。


      2


 一日何体の人間を切り刻んでいるのだろう。

 一時間当たり何体の人間を分解しているのだろう。

 一分で何個の人間を物体に還元しているのだろう。

 血の色が黒く見え始めてきた。

 血は、

 黒い。

 誰だ赤だなんて言った奴は。

 においも、

 しなくなってきた。

 悪臭。肉の腐ったにおい。

 鼻をつまんでも息を止めてもその粒子が内膜にこびりついて取れない。

 何を嗅いでも同じにおいしかしなくなった。

 このにおいは、

 なんだったか。

「性懲りもなくのこのこやってきたようです」覚束ないフットランプで床との接触面しか見えないが、着物の裾を引きずっている。油の切れたような不気味な足音。

 僕の仕事の進捗状況を監視に来る。

 神の出先機関と言ったところ。

 その名は王。

 自分で名乗ったのだ。そう呼ぶほかない。

「早速マダム=ジャパーの洗礼に遭ったようですね」

「帰してやってください」僕は相槌代わりにぶつけてみる。

「どうしてですか」

「研修を終える前に人間が終わる」

 人間だったものが終わる。そうすると何になる?

 物か。

 それ以下か。

「局には無事に帰していますよ」

「中身が無事ではないでしょう」

 王はきっと笑わなかった。

 手元の黒に眼を遣る。それよりなにより続きだ。

 本日のノルマは最低限こなさないと。

 じじばばは際限なく流れ着く。この最終処理場へ。

「面白いものを見つけました」空の王が切り出す。

 どうしても僕の手元を狂わせたいらしい。

 手術台にばら撒く。切り刻まれる予定のじじばばの上に。

 写真。

「邪魔をしに来てるのか。取り返しの付かない失敗を誘っているのか」帰れという意味で言ったのだが。

 通じるはずもなく。

「何に見えますか」

「写真ですね」取り合いたくもない。

「何が写っていますか」

「何を写したんですか」

 王はそのうちの一枚を拾って僕の焦点の内側に突きつける。

 見えない。

 黒塗り。

「車です」

「そうですか」顔を背けて回避する。

「局の車です。ほらここに」王は僕の視線を固定せんと該当箇所を示す。「そう書いてあります」

 寿齢人口統制局。

 これ以上ないはっきりとした主張だ。

「駐車場に止まっていなかったんです。どういうことかおわかりになりますか」

「満車だったんでしょう」

「うちの駐車場です。あり得ません」

 まどろっこしい。僕を煙に巻きたいだけなのだ。

「どこに止まっていたんですか」先を促そう。

 無意味な与太話をしている時間なんかない。

「乗り捨ててあったんです。ほら」王は別の写真を指した。「局のものだっていう主張がよく見える。よく見えるでしょう?」

 ようやくわかった。王が言いたかったことが。

 おかしい。

 局のロゴが見えすぎるのだ。

 車は横転している。

「山の裏は崖になっています。そこで見つけました」

 僕は手に持っていた解体道具を一旦置いた。

 手を止めて耳を傾けるに値する話題だった。

「車内からも車外からもおそらく、研修生の指紋は出ないでしょう」

 拭き取った。

 違う。

「そもそも乗っていなかった」

 王は笑ったかもしれない。

 実は腰から上を拝んだことがない。地下は暗いのだ。

「指紋は出ませんでしたが、車内に残っていたものと残っていなかったものがあります。おわかりになりますか」

「誰が乗ってたんですか」

 それが本物の研修生だ。

「死んでました。拾って来ましょうか?」

「結構です」

「マダム=ジャパーが望んでいると言っても?」

 なるほど。その流れに持ってくるわけか。

「僕に拒否権はありません」

「ご理解感謝します」王が擦り足で移動する。「残っていなかったもののほうはどうです?」

「降参します」早く帰ってくれないものか。

「考えることを放棄しないでください。わかっているんでしょう? どうぞ」

 対応が面倒くさい。

 王が後ろを向いた気がした。

 そこに、

 何があるのか。

「どうぞ?」

「また火の海ですか」

 王が屈む。背中を向けて。

 何かを、

 引きずってくる。

 それは、

 たぶん。

「まだ若い。いまぶちこめば結構愉しめるんじゃないですか」

 白い脚が見えた。

 浮かび上がる。

 闇に。

「そうゆう趣味はないですが」

「やってみれば案外目覚めるかもしれませんよ」王が言う。

「どうぞ? 見てませんので」

「見られてたほうがいいですけど?」

 駄目だ。

 こいつは。

 頭がイカれて久しい。

「作業しながらでよければ」

「構いませんよ」王が床に膝を着ける。

 白い脚を掴んで。

 一線。

 黒い。

 死因は何だろう。

 車が横転する前に死んでいたのか。車が横転したから死んだのか。

 服がない。

 そうか。

 ニセモノが奪っていったのか。

 研修生を騙るニセモノはいま、ここで冷たくなってるホンモノの服を着て。

「目的は何ですか」

「聞いてみます?」王が着物の袖をめくる。関節を鳴らす音がして。

 肉に、

 指を。手を。

 手首を腕を。

「まだ温かいですよ?」

 無視して作業に戻る。僕はそいつと似たようなことをしている。

 切って中身を取り出す。

 加工用の液体で満たされた水槽に沈める。

 ゆらゆらと黒が揺らめく。

 赤い。

 まだ、

 赤いのだ。

「誰なんでしょうね」王が白い脚と脚の間から。

 中身を引きずりだす。

 素手で。

 嫌な音がする。

 聞き慣れた雑音。

「初めてなら可哀相でしたね」王が言う。無感動に。

「そんなことしてないで、さっさと捜しに行ったらどうですか」ここからいなくなってくれればどんな餌でもよかった。

「そうですね。これはあなたの仕事でした。奪ってしまって申し訳ない」

 例え建物が爆発したとしても地下までは及ばないだろう。

 前回のときだって、爆発騒ぎを知らなかった。

 王がお節介にも与太話をしにくるまで。

「返します」王が白い足首を掴んで逆さ吊りにする。「どうぞ。お好きに」

「できないんじゃないですか。マダム=ジャパーの望みなら」

 王が喉を鳴らす。

 今日は上機嫌のようだ。

 退屈凌ぎにウサギが迷い込んだから。

「夕方いらっしゃるようですよ。名医のあなたを労いに」

 落下音。

 肉の、

 停止する音。

「マダム=ジャパーを失望させないでくださいね」

 床を擦る音が遠ざかる。

 板の軋む音が消える。

 いつもの音に戻る。

 水の音と。

 機械音の唸り。

 解体道具を手に持つ。

 じじばばをさっさと片付けて台を空ける。

 床に。

 白い。

 若い女。

 だいぶ前に就いていた本業を思い出す。

 切ったことがあっただろう。

 それが患者なら。

 若かろうが老いていようが。

 躊躇いなく切った。

 引きずり出された肉の塊を摘まむ。

 おそらく一度もその役目を果たされなかった。

 可哀相に。王は言った。

 思ってもいない。

 僕だって。

 思いもしない。

 死んでしまったら単なる肉だ。

 台に載せた白い肉に刃先を一線。

 黒い。

 闇が溢れてくる。

 妹が生きていたらきっとこのくらいの。


      3


 服が汚れたので着替えるついでに浴場に案内された。

 浴場というより、温泉むしろ。

 露天風呂。

 施設のすぐ隣にあった黒い洋館がマダム=ジャパーの住居らしい。

 そこの屋上。

 はっきり言って寒い。まだ昼間だし。

 夜なら恥ずかしくなかったんだけど。

 これじゃ、

 丸見え。

「ここらへんに人間は住んでませんよ」ラヴェがバスタオルを持ってきてくれた。

 ヒノキの浴槽。

 大きい。

 二人で入って脚を延ばしてもまだ余る。

 手入れが大変だろうな、と余計なことを考えられてるあたり、大丈夫になって来てるんだと思う。

 あったかい。

 湯をかき混ぜる。

「湯加減どうですかぁ?」

「ありがとうございます」

「わたしも入ろっかなぁ」そう言うとラヴェは、躊躇なく白いドレスを足元に落とした。

「え、あの」綺麗な脚が見えてなんとなく眼を逸らす。

 ちゃぷんと体積が追加される。

 溢れる。

 湯が浴槽の外に拡がるのを見ていた。

「解放感が堪らんですね」ラヴェがふうと息を漏らす。

 沈黙。

 どうしよう。

「綺麗な背中ですね」羨ましい、とラヴェが言う。「何しに来たんですかぁ?」

「どういう意味ですか」

 空が青い。

 雲は白い。

「マダマ・ミキさん。じゃなくないですか、あなた」

 大丈夫。

 背中が寒いだけ。

「誰なんですかぁ?」

「言ってる意味がよく」

「とぼけないでくださいよぉ」湯の中を移動する音。

 近づく。

 生温かい吐息がかかる。

 耳と、

 首筋に。

「車から抜いた揮発性のアレ。どこに隠したんです?」

 大丈夫。

 振り返るな。その道は捨ててきた。

 私が進むべき道は。

「ごめんなさい。言ってること、全然わからないです」

 笑って見せよう。

 あなたのためなら。

 再びあなたに会うそのためなら。

「正直に言ったほうがいいですよ」ラヴェが湯船から上がる。

 白い裸身。

 滴る湯。

「わたし、けっこー気が短いので」その手にあったのは、

 猟銃。

 どこに隠してあったのか。

 照準が完全に私に合っている。

 撃つ。

 確実に。

「何度もおんなじこととか、めんどーなんですけど」

 言うべきか。

 言ったところで。

「まさか山の裏まで散歩コースとかじゃないですよね?」白状しよう。

 ここで殺されるのは困る。

 ラヴェの口が裂ける。

「まさか山の裏まで散歩コースなんですよぉ。じじばばの」裂けた口からのぞいた赤い舌が銃口を撫でる。

 私は両手を挙げた。

「降参します」

「もう勝った気ですかぁ? じょーだんとか嫌いですけど」

 銃口が向けられる。

 近づく。

 距離は、

 舌と唾液の先。

「上手に舐められたらここは生かしといてあげます」

「上手に舐めたら発射するじゃないですか」

 ラヴェが笑う。

 お腹を抱えて。

「ウミヒメ、面白いですねぇ。すっごーい下品」

 ひとしきり笑ったあと、再び銃口を。

 今度は私の胸部。

「わたしの質問、忘れちゃいましたかぁ?」

「そこ性感帯なんであまり弄らないでください」

 冷たい銃口が。

 押し付けられる。

「こっちも発射しそうですけどぉ?」

「お捜しのモノは消えました」

 痛い。

 陥没しそうだった。

「一個くらいいいですよね? もう一個ありますもんね」

 銃口の中に突起物が収まっている。

 妙な光景だった。

 それを冷静に見れている辺りやはり。

 勝利を確信しているのだろう。

「ご自分で言ってましたよ? 揮発性のアレ、と。なにせ揮発性です。みるみる空気に溶けてしまいます」

 笑いたい。

 大声で。

 その綺麗な顔が歪むのが見たい。

「マダムには殺すなと言われてるんですよぉ。まだ、殺すなって」ラヴェが引き鉄に指を掛ける。「殺すなとかムリなんですけどぉ。どうしましょうかぁ。殺さない程度に穴空けるとかなら許してもらえますぅ? どう思います?」

 鳥肌立ってきた。背筋もぞくぞくする。

 寒さのせいではなさそうだ。

「ねぇ、きーてますかぁ?ウミヒメ」

 屋上で。

 全裸の二人。

「風邪引きますよ」

 空砲。

 空が撃たれた。

 私の代わりに。

「死んじゃってくださいよぉ」

 たぶん、殺す気はなかった。だからこそ私は生かされた。

 何か使い道があったのだろう。

 くしゅん。

 緊張の糸を断ち切る間抜けな音。

 ラヴェがくしゃみをした。


      4


 黒い洋館は二階建て。

 中央の吹き抜け部分を挟んで四つのブロックに分かれる。

 二階の片側がマダム=ジャパーの私室。

 二階のもう片側を宛がわれた。そこを自由に使っていいとのこと。

 一階の片側は共同区画。

 食堂に案内された。服も借りた。

 四人がけのテーブルにマダム=ジャパーがいた。私の姿を頭のてっぺんから爪先まで一通り見て満足そうに頷く。

「見違えたじゃないかいね。ラヴェ、たまには役に立っとるぞ」

 スカートなんか持ってない。私服では。

 穿き慣れない。

 着慣れない部類の可愛い系の服。ラヴェの趣味は私とは真逆だ。

「たまにはってなんですか! 酷いですよぉマダム。こちとら命からがらの殺し合いを切り上げて。てゆっても単に寒くなっただけのことで。うひぃ、寒ぅ」ラヴェが肩をさする。ウェディングベールを思わせる白いストールはレースで透けている。

「ジャパーを付けん奴が悪いのだ。ジゴーさんとジトクさんを向かわせようかいね」

 座る席に迷っていたらマダム=ジャパーが手招きした。隣に座れということらしいが、ラヴェの殺人光線が突き刺さる。

「座ったらぶち抜きますけど」

「気にする必要はないな。ぶち抜いたらぶち抜き返せばいいだけの話だ」マダム=ジャパーはラヴェを軽くあしらう。

 これがこの人たちの日常なのだろう。

 ふと、キッチンに立つ後ろ姿に眼が行く。

 細身の長身。シャツの腕をめくり上げて、黒いエプロンをしている。どうやら彼が食事係のようだった。

 園長と事務員が何をしようが、万が一にもないと思うが、ここでいきなり殺し合いを始めても彼は一切動ずることなく食事を作り続けるのだろう。そうゆう無関心さが背中から滲み出ていた。

「むしろマダムにならいますぐぶち抜かれたいです。一思いにお願いします!」

「訂正するのも厭きたな。プラカードでも持ち歩くかいね」

 テーブルに料理が並べられる。ファミレスのバイトというよりは、高級レストランのベテラン。指先まで意識が行き届いている。黙って静かに皿を用意し、お得意様を最高の持て成しで迎える。

 優しげな笑顔で。

「はじめまして。眞玉マダマさん。研修お疲れ様です。少し早い夕食ですが、ゆっくりとお楽しみください」一歩下がってお辞儀する。

 執事?

「今日も美味そうだ。でかしてるぞ、空の王」マダム=ジャパーがナイフとフォークを手に取る。

「てゆうか着替えって何ですか」ラヴェがスプーンを持って料理人を睨みつける。「クソ新人の早朝から食事前までの行動を克明に陳列してほしいんですけど」

「いつもの監視です」空の王と呼ばれた男が言う。

 空の王?

 執事じゃなくて?

「アリバイとか証明できますかぁ?」

「ドクタに聞いていただければ」

 口の中に血の味が広がる。

 舌や唇を噛みきった覚えはないから、精神的なものだろう。

 大丈夫。

 動ずるな。聞け。

「まーだ使い物になってるんですね」ラヴェが言う。

「優秀な方です。さすがはマダム=ジャパーが選んだだけのことはあります」空の王が満足げに頷く。

「なんですか?それ。自画自賛ですか。死んでほしいんですけど」

「先輩だってマダム=ジャパーが選んだからここにいるんでしょう?違いますか」

「わたしにお世辞とかキモいんですけど」

「うるさいぞ」マダム=ジャパーが冷ややかな視線を向ける。「食事は静かに摂りたいものだな」

「すみません!マダム。許可も下りたところでさあ、このクソ生意気な新人の口を塞ぎますね」

「やってもいいが明日からお前が料理番なだけの話だな」

「えー、無茶ぶりですマダム。材料調達とか買い物とかめんどーなんですけど」

 よく見るとマダム=ジャパーの分の食事とラヴェの分の食事は違っていた。マダム=ジャパーのは料亭の和食。ラヴェのは創作スイーツの盛り合わせ。

 私の分は、洋食。ハンバーグがメイン。

 空の王は再びキッチンに戻りお湯を沸かす。紅茶を淹れるようだ。

「食べてくれていいぞ。空の王の腕は私が保証する」マダム=ジャパーはすでに半分ほど皿を空けている。

「はい、いただきます」全然お腹なんか空いていなかったが食べるしかない。

 信用してもらうため。懐に忍ぶ込むため。

 フォークの先でちょっとつついただけで肉汁が溢れ出る。

 赤と黒。ケチャップとソースの混濁液。

「おいしーですよぉ。肉の塊って」ラヴェがバニラアイスを口に含む。

「昨日はビーフシチューだったな。あれもなかなかだった」マダム=ジャパーがナイフとフォークで器用に焼き魚の骨をよける。「牛の味なんか微塵もしなかったところが最高だった。お次は鶏や卵の味なんか微塵もしない親子丼を食べてみたいもんだ」

「承りました。明日にでも作ります」

「言うことなしだ空の王。死んでも私に尽くしてくれていいぞ」

「勿体ないお言葉です」

「ちょっとそこのクソ新人」ラヴェの顔は相当凶悪だった。「わたしを差し置いてそうゆうアレとか身の程を弁えてほしいんですけど」

 食後の紅茶の香りでいろいろが蘇りそうだったが、催した吐き気ごと飲み干した。マダム=ジャパーに勧められて多めに溶かした薔薇のジャムがよかったのかもしれない。いい具合ににおいを誤魔化してくれて。

 空の王が笑ったような音がした。

「お口に合いましたか?」

「ああ、はい。ごちそうさまです」

 食器を流し台に運ぼうとしたら首を振られた。

「そのままで。僕の仕事です」

「何から何までありがとうございます」

「よかった。これなら」

 長くもちそうですね。

 空の王は笑っていた。

 何がそんなに可笑しいのか。わからなければよかった。

 出処不明の材料で作った食べ物は口にすべきではない。


      5


 早めの夕食の後、簡単に施設を案内してもらった。施設といっても何か特別なものがあるわけではない。利用者のいなくなった介護施設。それが相応しい。

 よって、ここには誰もいない。介護される対象の老人は一人も。

 二十そこそこある空の部屋を律儀に一室一室案内されたが、かつてそこに入居していた老人の昔話が語られるわけではなく、空虚そのものを目の当たりにしろ、記憶に刻み込めと言われているようだった。局から派遣された研修生として。

 これこそが、お前らの居場所を作った先人どもの末路だと。

「何か質問はありますか」空の王が振り返る。ロビィに戻ったところで。

 中庭から見える空の色が黒く染まっていた。

 不揃いのソファを勧められる。スカート丈が心配だったので、できるだけ座高が低くなるような椅子を選んで座った。

「一人もいないんですね」入居者が。

「いたんですよ? つい一週間ほど前までは」空の王はそう言って事務所を見遣る。

 ラヴェが不機嫌そうに眉を吊らせた。

「なんですか? 撃ち抜かれる覚悟とかできたんですか。わかりました」事務所の小窓から銃口がのぞく。

「せめて案内が終わってからにしてもらえませんか。マダム=ジャパーのご意向なので」空の王もいなし慣れているようだった。

 ラヴェは空の王に明確な殺意を抱いている。

 一週間前に入った新人と言っていた。

「一週間前、というと」

 空の王が入って来たときには入居者がまだいたということか。

「居場所のなくなった高齢者を手当たり次第受け入れる、それはそれは善意の塊のような施設だったのです。マダム=ジャパーは本当に優しい方で」

 それが転換されるような不意打ちの事件が起こったのだろう。決して未然に防げない、酷く暴力的何かが。

 知っている。からこそ私は。

 ここに来た。

「ご存じですね?」空の王が確信めいた表情を寄越す。

「ええ、報告書程度に」嘘は言っていない。

 報告書で読んだ。加えて自分で調べた。

 黒塗りになっている秘匿事項以外は。

「実に悲しい出来事でした」空の王はそう言うと斜め上に視線を移した。

 事件というのはここの二階で起こった。

 以前は二階にも部屋があったのだが、それが残らず吹っ飛んだ。

 原因不明の悪意のある爆発によって。

「入居者の命は一瞬で消し飛びました。そのときのマダム=ジャパーの落胆といったら」

 ラヴェの鼻息が聞こえた。

 何を心にもないことを。そんな風に。

「見たんですか?」爆発を。

「だから僕はここにいます。マダム=ジャパーの力になりたいんです」

 本心。だろうか。

 少なくともラヴェはそうは思っていないようだった。「だったら死んでください。わたしとマダムの薔薇色の未来のために」

「マダム=ジャパーの望みとあらば今すぐにでも自害しましょう」

 それ以外の命令は聞けない。だから黙れ。

 空の王の眼は静かにそう語っていた。

 空の王。そういえば。

「本名、じゃないですよね?」

 まだ自己紹介を聞いていなかった。私のことは知られている。それは当然だが、ここで二週間お世話になる立場上知っておきたかった。

 自分の身を守るために。情報は多いほうがいい。

「言ってませんでしたっけ? 失礼しました。僕はスガタニ・スケオといいます」

 名刺を手渡された。

 菅谷空王。

「なるほど、それで」

 空の王。

「名前負けしてますよね? お恥ずかしいです」

 年は私より少し上くらいだろう。一見柔和な印象だが芯はしっかりしてそうだ。

 そこに何を秘めているのか。

 ラヴェの態度からして彼は。

「死にたくないだけなんですよ、そこのド新人。死なないためならホントなんだってやりますよ? 死体浚いとか床舐めとか。そこまでして生きたいですか?死に損いが」

 一週間前の爆発に巻き込まれればよかった。ラヴェはさもそう言いたげだった。

 空の王――菅谷は事務所に背を向けたまま黙っていた。

 その通り。だから反応しないのだろうか。

 いちいち否定するのが面倒になっただけなのだろうか。顔を合わせればその話題。いい加減うんざりの極致にもなる。

「他に質問があれば」失った無駄な時間を取り戻すように菅谷は言い直す。

 名刺によるなら菅谷の役職は、相談員とのことだった。

「最終処理場はどこですか」

「ご覧になったのでは?」

 ここを訪れたのはつい半日前。

 そのときに真っ先に案内された部屋を思い出して再び嘔吐感が込み上げてくる。

 耐えろ。お前が聞きたいことはその先にある。

「最終処理場で処理された結末は」見た。

 人間は人形に生まれ変わった。

 いや、死に変わった。と言ったほうがいい。

 死んだ。あとに、

 死という状態を保存された。

 永劫の苦。

「マダム=ジャパーのご慈悲です。炎にも土にもくれてやらない。空気の中に遺す。限りなく人間に近い形で」

 人間。だろうか。

 あれが?

 ゾンビに近い。幽霊に遠い。

 強制的に死を遠ざけた。人間から最も遠い存在。

「生命の冒涜という輩もいます。あなたもそちら側ですか」

 海の姫。

 空の王はそう言った。

「あなたの本心を聞かせてください」聞けないと思ったがそう言うしか。

 自分の考えを吐露しない方法がわからなかった。

「死にたくないんでしょう? 死にたくないから」逆らえない。

 逆らったら即、彼らと同じ末路を辿る。

 人形にされてしまう。

「菅谷さん。あなたを連れ帰るのも私に課せられた使命なんです」

 事業を拡大させるな。人員を増やすな。

 局長が阻止したいのは税金の浪費ではない。

 力を持たれること。最終決定権が自分の手から零れ落ちること。

 事実、寿齢人口統制局は、紫尾園の言い成りであり、紫尾園のお陰で存続できていると言っても過言ではない。紫尾園があるから局は虎のように振舞える。威を借りた狐でしかない真実を覆い隠しながら。

 本末転倒している。自分で自分の首を絞めている。ことに気づいていない。

 寿齢人口統制局は尚のこと形骸化して行く一方だ。

 一週間前に研修に入った前任者の名は。

「記憶にありませんね」菅谷は私を真っ直ぐに見据える。

「知らないと思います。あなたが研修に入ったその翌日に配属になったばかりですので」

 そうですか。と菅谷は口の形だけで呟いて。

 椅子からふらりと立ち上がる。

「だったらそちらの本心も聞かせてください。僕だって言ったんだ」

 聞かれたくなかった。見抜かれたくなかった。

 菅谷は事務所の小窓を射抜く。

 憎悪の視線を弾いたラヴェが鼻で嗤う。「わたしの靴でも舐めます? 鼻血止まらなくなるまで蹴飛ばしてやりますよ」

「それには及びません。あなたの靴が汚れるだけです」

 それもそうですね。とラヴェは小窓をぴしゃりと閉める。

 もう口を挟むことに厭きた。ということを態度でも示しているらしかった。

「あなたはどなたですか」菅谷は横顔で言う。目線は中庭の暗闇。

「言っている意味がわかりません」

 ラヴェにも問われた。

 きっと、それと。

 同じ意味。

「見つからないと思ったんでしょう? 見つかるんですよ。人間はそう簡単に隠せない。いなくなれない。捜している人間がいようがいまいが。死体はあがる。見つかる。発見される」

 ラヴェが口を出すのをやめた理由がようやくわかった。

 自分では割れなかったから。割ってみろ。やれるものなら。

 そういう挑戦的な眼がアクリルガラス越しにのぞく。

「乗り捨てられた局の車の中にいた人物こそが眞玉海姫その人ではないのですか。彼女は死んでいました」

 相槌は肯定に取られる。しかし何も言わなくともそれは。

「あなたが殺した。違いますか」

「何のことを言っているのか」わからない。

 まだ、白状しなくてもいい。

「僕は先輩のように生半可ではない。マダム=ジャパーが気を揉んでいる。それ以上に由々しき事態はない。洗い浚い白状して下さい。そのほうがこのあと研修もやりやすいのではないでしょうか」

 研修。という単語を強調された。

 研修。ではないのだ。

 私がここに来た理由は。それを突きつけられている。

「車から抜いた燃料の行方も聞いていない。あなたはマダム=ジャパーのご慈悲を爪の先ほども理解していない」

 手に余る老人を人形にする。ことで超高齢社会を解消する。

「成功したでしょう? わかりませんか。この国から膿を出したマダム=ジャパーの功績が」

「言っている意味がわかりません」それが本心じゃないから。

 命を握っている権力におべっか垂れているだけ。

 死にたくないから。それならよくわかる。

「死ぬ気はないんでしょう? こんなところでむざむざと」

 さざ波を立てたかった。ほんの微かでもいい。

 この男を連れ戻したかった。

 正常な思考へ。

「死なないためなら何でもするんでしょう? だったら死なないために抗ってください。あなたが辞表代わりに局に送りつけた報告書を読みました。そこにはもっと」

 もっと。

 激しいものがあった。

「局に嫌気が差したのはわかりました。自分の眼で真実を確かめたいと。強い決意を感じました。それがすっかり縮こまって。あなたの本心は」

 菅谷は何も見ていなかった。何も聞く気がないようだった。

 私が口を閉じた気配を感じ取って静かにこう言った。

「お休みください」

 事務所の横を通り外に出る。その背中を見ていた。

 少しは。

 嘘が上手くなっただろうか。

 ねえ、

 お兄ちゃん。

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