第236話


 ケントに案内されて、すぐに商店街に辿り着いた。

 カイリが教えてもらった道とはまた違う順路だったが、正しく商店街に抜けて驚きである。

 この宿舎からの抜け道というのは、本当に多種多様だ。広いだけあるということか。


「……雨の日でも、盛況だな」


 ざあっと降り注ぐ街の中でも、人々は笑顔と陽気さを忘れない。威勢の良い掛け声が飛び交い、主婦らしき女性や親子連れが賑やかに商品を眺めている。

 ケントが隣にいてくれるおかげで、雨の音もさほど気にならない。誰かが隣にいるということが、これほど心強いことは無かった。


「まあ、この商店街は竜巻が起きても元気だからね。以前屋根が吹っ飛んだ時なんか、全員で迎え撃ってたし」

「は? 屋根? って、全員って何だ⁉」

「何か、屋根が吹っ飛んで来た時の受け止め方にコツがあるんだって。大勢で、騎士達も協力して道具を駆使して防いでいたよ」


 どんな光景だ。


 取り敢えず、フュリーシアの中心地である聖都は、一般人もたくましい。意外な一面を知って、カイリはある意味感心した。

 しかし、こうして歩いていると商店街はカイリにとってだんだんと馴染み深いものになっていると実感する。


「お、カイリさん! こんにちは!」

「こんにちは、オットーさん」

「今日はレインさんと一緒じゃないんだなあ。親子みたいで微笑ましいのに」

「……それ、レインさんが聞いたら嘆きますよ」


 こんな風に、時折顔見知りになった店員達に「カイリさん!」と声をかけられたり、もうすぐあの店が見えてくるなとぼんやり思ったり。期間限定の珍しい調味料を見かけては、今度フランツ達を連れて来てみようと楽しみが増えたり、歩いていて余裕が出来る様になった。

 初めて来たばかりの頃は、ただただ広さに唖然あぜんとし、覚えるのに必死だった。まだまだ溶け込んではいないかもしれないが、最初の頃より随分と親しみを感じる。

 だから、だろうか。


「……」


 遠く――本当に遠くに商店街の奥の区画が見える。

 そこは、王女のジュディスの護衛として一緒に立ち入った歓楽街と貧民街だ。

 エディがかつて働いていた場所。エディの知り合いであるロディが、子供達を守りながら構えている娼館が建つ地区。

 そして。



〝カイリ様。あなたは、ここには来ない方が良い。ここにいたら、あなたみたいな人間は心がすり減って、その内狂っちまう〟



 そこで生きる者達に、緩やかに拒絶された場所。



 どうか表で頑張って欲しいと、カイリを労わりながらも実質突き放してきた。

 カイリには、この世界をどうすることも出来ないだろう。口だけで、大した力にもなるはずがない。そう残酷に突き付けられた気がした。


 口を動かすなら、実際に何とかしてくれ。


 彼らの気持ちは、一致しているはずだ。

 そして、彼らの判断は正しい。

 カイリには人々を惹き付ける魅力も、みんなを納得させる権威も、何かを動かす財力も、何も持ち合わせてはいないのだ。


「カイリ?」


 静かに歓楽街を眺めていると、ケントに声をかけられた。

 また放置してしまったかと、意識を無理矢理引き戻す。隣にケントがいるのに、何かを言っても無視していたのならば失礼だ。


「ご、ごめん。聞いてなかった」

「何も言ってないよ。……カイリ、何か悩みごと?」


 こてんと首を傾げながら尋ねてくるケントは、無邪気な笑みだ。

 けれど、その奥には見透かす様な微笑みが眠っている。きっと、彼にはカイリが何を悩んでいるかお見通しなのだろう。子供っぽいのに妙に大人びた笑みは、不思議な力があると感嘆する。


「……、ああ。……前にさ、ジュディス王女殿下を護衛しただろ? その時、歓楽街に踏み入って」

「うん」

「……俺には想像出来ない様な地獄が広がっていてさ。唯一法が届くはずの娼館も、教会騎士には逆らえなくて、良い様に利用されている。望まない仕事もしなきゃならない」

「うん」

「とある騎士が彼らのことを『家畜』だって言った時、頭に血が上って反論して、追い返して。他にもどうにかしたいって思ったんだけど、……」


 何も出来なかった。


 ただただ、途方もない虚無だけがカイリの胸の内に広がっていく。

 カイリはもう二度と、自分の様に悲しい思いをする人を出したくない。そう誓って剣を握ることを決めた。聖歌を正しく扱うと誓いを立てた。

 だが、当然限界はあると知っている。カイリの手の届かない場所はいくらでも存在するのだ。世界は広すぎる。

 だからこそ、せめて手の届く範囲では、絶対に困っている人を助けるのだと心に決めていたけれど。



「……手を伸ばせば届く場所なのに、俺にはその世界をどうにかする力が無いって思い知らされて」

「……」

「彼らにも言われたんだ。もうここには来ない方が良いって。俺は綺麗過ぎるんだって」

「……、うん」

「俺には権威も財力も無くて、聖歌騎士とは言っても、今はただの駆け出しの新人で。だから、俺がいくら一人で叫んだって、誰かを動かす力はまだ無い。今の俺のままでは、何も出来ない」

「うん」

「でも、……、……それでも」



 何も出来ないのは、やっぱり悔しい。



 ぼろっと、涙を零す様に熱い一滴が口から落ちた。

 現実を思い知らされたと言えば良いのだろうか。

 第一位の試合に勝って、初任務は苦くとも成功して、ルナリアでもパリィを無事に助けられて、調子に乗っていたのかもしれない。

 父が以前、村で剣が楽しくなってきた頃に言っていた。



 そういう時が一番危ないのだと。自分が出来る以上のことが出来ると信じ込み、慢心してしまうのだと。



 だからこそ、一層気を引き締めて目の前のことに挑まなければならない。

 父に忠告を受けていたのに、同じてつを踏んでしまった。己の愚かさにほとほと呆れる。

 もちろん、手をこまねいているつもりはない。いつかは、――本当にいつかは、歓楽街にもう一度挑みたいと思っている。

 だが、今のままでは駄目だ。このままではロディ達にはもちろん、彼らの誰にも受け入れてもらえない。


 しかし、どういう道筋を辿れば良いのか。


 ただ強くなれば良い。ただ権威を持てば良い。ただ金を持てば良い。そんな単純な話ではないのは、未熟なカイリにだって理解出来る。

 故に、カイリには明確な道が描けなくて、途方もない獣道が広がっているだけにしか見えないのだ。


「……まだ、明確にどうしたいって決められていないから。フランツさん達にも相談していないんだけど」

「……そう」

「……ごめん。ありがとう。話を聞いてもらえただけでも少し楽になった」

「……」


 ありがとう、ともう一度告げてカイリは前を向く。

 いつまでも未練がましく眺めているわけにはいかない。切り捨てるのではなく、今は目の前に積み重なっている課題を一つ一つこなしていこう。

 そう決めて息を深く吐き出すと、ケントは静かに切り出した。



「……そうだね。一番の道は、歓楽街の領主になることかな」

「――――――――」



 とんでもない単語が飛び出してきた。

 いや、ある意味正しい道を示されたと言うべきか。

 しかし、領主。つい最近までは村人の一人でしかなかったカイリとしては、いまいち実感が湧かない。そびえ立つ山の様に途轍とてつもない存在に思えて、思わず仰ぐ様に上を向く。


「領主って……でも、あそこって地区なんだよな? 教会が治めているんじゃないのか?」

「うーん。確かに聖都って教会の縄張りではあるし、王族から治安を委託されてはいるけれどね。厳密には一介の貴族がそれぞれ治めているよ。父さんは貴族街。住宅街はゼクトール卿。そんな風にね」

「え。そうなんだ……」


 初耳だ。クリスもゼクトールも、この聖都の地区をそれぞれ管轄としているとは。不思議ではないが、つくづくこの教会の常識には驚かされる。


「ちなみに僕は団を統括しているから、領地みたいなものは無いよ。第一位団長は楽で良いね!」

「……。……つまり、引退したら何処どこか持つんだな?」

「えー。面倒だよ。隠居したら田舎に引っ込むもん」

「おい、侯爵」

「僕達一家の夢は、田舎に引っ込んでゆったり暮らすことだから。領主をするとしたら、そこでだね!」


 ふふんと胸を張って威張られても、威厳も何もあったものではない。

 だが、田舎でゆっくり過ごすというのはカイリも賛成だ。この聖地に来てからは目まぐるしいことばかりで、村で過ごした日々が懐かしくなる。


「まあ、そんな風にこの聖都は色んな貴族が分割して責任者をしているわけだけど。でも、その中でも特殊なのが歓楽街と貧民街。……あそこは、一応父さんが責任者ってことになってるけど、厳密には違う」

「……そうなんだな」

「予想してた?」

「……本当にクリスさんが全部の責任を負っているなら、もっと治安が良くなっているだろ」


 ロディはあれでも昔より治安は良くなったと言っていたが、カイリは本音を言えば二度と歩きたくない地区だ。いきなり半ば理性を失った者が躍りかかってきたり、因縁を付けられたり、犯罪が蔓延はびこっている。それが日常のあの場所では、落ち着いて過ごすことも出来はしない。

 クリスがとても優秀なのは、少し接しただけでも伝わってくる。屋敷の中の空気も心地良いし、確かに貴族街は歩いていてもあまり嫌な雰囲気がしない。クリスの目が行き届いているからだと、今のケントの暴露で理解した。



 ならば、あの歓楽街ももっと住みやすい場所になっていてもおかしくはない。



 それなのに、一般人では足も踏み入れられない地帯になっている。

 故に、想像出来る理由が一つしか思い当たらなかった。


「あそこは、教会が治安を放棄した場所」

「……っ」

「むしろ、わざと放棄させている場所。……色々と調査中だから、詳しくはまだ語れないけど。……教皇が大人しくしている今なら、もう少し色々進むかも」

「……そうか」


 わざと治安を放棄させている。

 その一言だけで、どれだけの爆弾が眠っているのだろうか。いきなり地雷を踏んで吹っ飛ばされない様に細心の注意を払わなければならないだろう。ケントも迂闊うかつなことは口に出来ないはずだ。

 異端と呼ばれる、狂信者が崇拝するエミルカ神話が浸透するという時点で、推して知るべしだ。狂信者とも繋がっているかもしれないと思うと具合が悪くなった。


「父さんでさえ、一部の娼館にしか治安を与えられなかった。他の場所も一応メスは入れているけど、圧力がかかる場合もある」

「圧力って……」

「教皇直々に。……枢機卿陣営もなかなか手を出せない。父さんはよく治安を一部でも与えられたな、ってくらいには大変な場所」


 さらりと軽やかに告白してくれているが、内容は底なしなほど重い。

 つまり、あの様々な手段を持ち、情報網も広く網羅しているだろうクリスでさえなかなか自由に統治出来ない場所ということになる。

 そこをカイリがどうにかしようと考えているのだから、はたから見たら絶望的なまでに無謀に見えるだろう。それこそ、ロディ達には理想主義者だとか現実を見ていないと呆れられてもおかしくはない。

 けれど。


「……。……それでも」

「はいはい。……カイリは頑固で真っ直ぐで向こう見ずだからね。それくらいじゃ諦めきれないよね」

「諦めきれないんじゃない。諦めないんだ」

「……うん。だから、カイリのことが好きだよ!」


 にぱっとケントが晴れやかに笑う。心の底から嬉しそうな笑みは、見ているカイリまで幸せになる。ケントはこういう笑い方をすれば、もっと別の人達も寄って来るのになと残念でならない。

 歓楽街の件は、前世のカイリでは考えられない決意だっただろう。


 カイリは、前世では諦めてばかりだった。


 だが、村で育ち、両親や友人達、村の人達のおかげで諦めない心を思い出したのだ。

 彼らに恥じぬために、カイリがこう在りたいという信念のために、何より歓楽街に住んで今尚、助けを求めている人達のために。カイリは絶対に諦めない。


「自分から心労ばかり背負うのは感心しないけど。こうして他人に頼ることをするから許してあげる!」

「はあ。それはどうも」

「領主になるんだったら、大きい功績を上げることだね。褒美と引き換えにそこを所望するんだよ」

「お、大きい功績?」

「そ。例えば、他国が侵略してきたのを完膚なきまでに叩きのめして平伏させたとかね」


 無理だ。


 一瞬で浮かんだ二文字に、カイリは口元を引くつかせるしかない。

 ただでさえ戦いが苦手で血を見るのも駄目なのに、人ががんがん血を流す戦場で功績を上げるなどとてもではないが不可能だ。そもそも、そんな大きな戦は未来永劫起こって欲しくは無い。

 しかし、大きな功績。確かに物語でも歴史でも、何かを成したら褒章をもらえるという制度はあった。それを目指せというのは、漠然ばくぜんとしてはいるが、一つの目的にはなる。


「でも、そっか……そういう方法もあるんだな。小さな任務の積み重ねとかは駄目なのか?」

「それは、あくまで周りからの信頼を積み重ねていく人望みたいなものしか効果が無いかな。塵も積もれば山となるとは言うけど、多分それだけだったら永遠に領主にはなれないだろうね」

「……。……歓楽街に限定して言えば、ってことだよな、それ」

「そ! カイリ、勘が良いね。……カイリも貴族だしね。領地を持っても不思議ではないから、他を望めばもらえるとは思うよ。何せ、聖歌の力が強い聖歌騎士で、今は教皇の元から生還した例外だから。注目度は高いし」


 面白そうに説明されて、カイリは憮然ぶぜんと口を引き結ぶ。

 あまり目立ちたくは無かったが、クリスにも忠告された。洗礼から逃れられた者は誰一人としていなかったのに、ただ一人無事に生還したということで、否応なく注目されるだろうと。

 だが、それさえも何かの有益となるのならば、カイリは使うしかない。それが誰かを助けるために必要な手段ならば尚更だ。


「けど、小さな任務をこなすのも、決して無駄ではないよ。ルナリアで切り裂き魔の件を片付けて、現にルナリアではカイリ達第十三位の評判が爆上がりしているからね」

「へえ。教会の、じゃないのか?」

「あくまで第十三位だね。あそこ、上司も途中で腐ってたでしょ? 代わりに派遣した上司は評判良いし、それを派遣してくれた第十三位の株はだだ上がりしてる。きっと、何をしても感謝されるくらいには第十三位は好意を持たれているんだよ。任務をこなせば、こんな風に他国からの評価にもなるってわけ」

「なるほど……」


 そんな打算は微塵も考えなかったが、結果的にそれがカイリ達のプラスに働くのだろう。

 小さな任務だけでは目的は果たせなくても、やはり任務をこなすのは決して悪いことではない。目の前の任務をこなしていく大切さを改めて実感した。


「それと念を押すけど、歓楽街の場合、責任者じゃ駄目だよ。領主になって、完全に教会から統治する権利を奪わなきゃ」

「……。でも、領主になっても口出しされるんじゃ?」

「妨害は出てくるだろうけど、守るための大義名分が手に入る。父さんは責任者だから、大義名分、っていう言い方が使えない。上手くやっている方だけどね」


 それでも、どうしてもぽろぽろ手から零れ落ちる。網目から水が零れ落ちる様に、救えない者は出てくるのだ。

 歓楽街に足を踏み入れてひどく実感した。

 ケントの言う通り、責任者ではなく、領主という立場を手に入れなければならない。


「まずは、焦らないこと。そして、もし引き換えに出来るチャンスが来たら、それを確実に物にすること。今カイリに出来るのは、それだけかな」

「……、うん」

「もし、その時が来たら、……頼ってくれたら全力で支援はするよ?」

「ケント……」

「カイリがやりたいことなんでしょ? だったら親友として応援するよ! そんなカイリが誇りだから!」


 右手で傘の持ち手を強く握り締めて、ケントが力説してくる。

 彼は本当に、カイリの何を気に入ってここまでしてくれるのだろうか。カイリからしてみれば、彼から与えられてばかりでろくに返していない気がする。

 だが、そんなことを口にすれば、ケントは呆れるか怒るかしてくるかもしれない。カイリは分かっていない、と。頬を膨らませて叱り付けてくるだろう。

 カイリだってそうだ。ケントが何もカイリに出来ることがない、もどかしいと言われれば絶対に否定する。抱えきれない恩をもらい続けているし、何よりケントが傍にいてくれるだけで力になっている。



 ――俺も、そういう人で在りたい。



 隣にいるだけで、誰かの力になれる様な。誰かの支えになれる様な。そんな人間になりたい。


「ケントは凄いなあ」

「え?」

「俺にとっても誇りってことだよ」

「……っ! カイリ……!」


 がばあっと感激と共にケントが抱き着いてきたので、カイリは呆れた風に受け止めた。ぽんぽんと背中を撫でてからべりっとがし、隣にきちんと立たせる。


「色々ありがとう、相談に乗ってくれて。取り敢えず、漠然とだけどやりたいことが分かったよ」

「そう? 良かった!」


 ふふんっと鼻を高くして胸を張るケントに、カイリは苦笑するしかない。

 ケントは本当に大人びているはずなのに、子供っぽさがそこかしこに見え隠れする。どちらもケントなのだろうが、団長としては少し落ち着いた方が良い気もした。


「さ、行こうよ! ちゃっちゃと用事を済ませて僕の家に行きたいしね」

「ああ、ごめん。もうすぐパン屋――」


 ほのぼのとした会話は、最後まで続けられなかった。



 がしゃあん、と。何かが割れる音が、横に逸れた路地――目的地から盛大に飛び散ったからだ。



 一瞬身がすくんだが、すぐに我に返る。

 ケントと以前訪ねた時のことを、さっと血の気が引く様に思い起こす。震えそうになる拳を懸命に握り潰しながら、カイリはケントと顔を見合わせて路地へと足を踏み入れた。

 すると。



「ったく、やめろや、この犯罪者一家が!」



 がしゃあん! と更に盛大な音が空気を刺し貫いた。



 思わず耳を押さえながら、カイリはケントの後を必死に付いて行く。この時点で、雨が大降りなことは頭から綺麗に吹っ飛んでいた。

 はやる心を押さえながら辿り着いた先は、無残と言うにも耐えがたい光景が広がっていた。

 ガラスの破片が大きく地面に飛び散り、店の前面のガラス窓は粉々になるほど砕け散っている。可愛らしいパンやふかふかの食パンなども地面に撒き散らされてずぶ濡れになっており、しかもくっきりと足跡が幾重にも付いてへこんでいた。

 そんな惨状を取り囲む様に、黒い制服を着た教会騎士達が立ち並んでいた。それを遠巻きに群衆が見守っている。

 そして。


「……申し訳、ありません……っ」


 大勢に囲まれた中で、土下座をする様に女性と男性が打ちひしがれて謝罪をしていた。

 雨に打たれてぐしゃぐしゃになっているのに、誰も心配する素振りが無い。二人の周りに散ったパンは、他のパンとは比べ物にならないほど引き千切られて原型を留めておらず、目にするだけで心が押し潰されそうだ。

 それなのに。



「申し訳ありません、じゃねえよ!」

「てめえらじゃなくて、てめえらの息子をさっさと出せや!」



 ぐしゃっと、パンごと地面を踏み潰して騎士の一人が叫ぶ。雷の様な怒声に、怒鳴れらた二人は更に縮こまった。

 あれだけカイリに快活に笑ってくれた女性の姿は、今や見る影もない。嬉しそうにパンを褒めてくれたことにお礼を言っていた男性の姿も、ひどく小さくカイリの目には映った。


「む、息子は、ここには、いないん、です」

「ああ? 嘘吐け!」

「あいつ今謹慎中だろ! 宿舎にいねえんだから、ここしかねえだろうが!」

「ああ。犯罪者をかくまうってことは、お前らもやっぱり犯罪者か」

「犯罪者の親は犯罪者ってか? ――犯罪者のパンなんか食えるかよ! さっさと潰せや!」

「――!」


 踏み潰したパンを蹴り上げ、騎士がそのまま足を男性に振り下ろそうとする。

 それを見て、カイリは咄嗟とっさに駆け出した。聖歌語を使い、二人の間に割って入ってさやで騎士の足を受け流す。


「止めろ!」

「――っ! てめ、……って……!」


 邪魔をしたカイリを殺意をこめて睨みつけてきた騎士が、狼狽ろうばいして後ずさる。

 いまいち状況が読めないが、前の時よりも酷い事態に陥っていることだけは確かだ。建物を破壊し、営業まで妨害するなど立派な犯罪だ。犯罪と叫んでいる彼らこそ犯罪者である。


「何をしているんですか! 貴方達、教会騎士ですよね? どうして守るべきはずの一般人に手を上げているんですかっ⁉」

「か、カイリ様……っ!」

「今すぐ手を引いて下さい! 場合によっては、俺が相手になります!」

「そ、そんな……!」

「これは、……って、……おかしいですよ! 何で、貴方がそんな奴らかばうんですか!」

「は?」


 一瞬ひるんだはずの騎士達は、しかし盛り返す様にカイリに噛み付いてくる。敬語に変化したが、勢いは止まらなかった。


「そいつら、犯罪者の親ですよ! 庇う必要なんてありません!」

「むしろ、貴方こそ彼らを罰するべきだ!」

「……は?」


 訳が分からない。

 一体何の話だろうか。何故、カイリがパン屋の人達を罰しなければならないのか。

 意味が分からなくて眉をひそめると、益々騎士達は憤慨したのか、喉元を食らう様に勢い込んできた。



「まさか、本当に庇うつもりですか⁉ こんな犯罪者を!」

「庇う? だから、一体何の話で……」

「忘れたわけじゃないでしょう! カイリ様! 歓楽街で襲われた時のことを!」

「……。確かにそうですけど、……それが一体何だって……」

「知らない⁉ な、何て可哀相な……!」

「分からないなら教えてあげますよ! そいつらは! 先日、貴方を狂信者に売り渡そうとした主犯の親なんですよ!」

「――――――――」



 狂信者に売り渡そうとした主犯。



 その、親。



 瞬間、カイリの頭は綺麗に真っ白に停止した。


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