第237話


 騎士達の罵声を浴びて、カイリはしばらく何も考えられなかった。

 だが、時間は無情にも刻まれていく。考えたくもないのに、真っ白になったはずの思考がぎしぎしと、無情に打ち付ける雨音と共に動いていった。

 歓楽街での出来事を忘れるわけがない。

 狂信者に連れ去られそうになったのは、元々ファルがサイを使って貧民街におびき寄せたことがキッカケだ。あれが無ければ、狂信者と接触していたかどうかは分からない。

 だからこそ、売り渡そうとしたと言われて思い出す人物は、やはり一人しかいなかった。



〝やあ、カイリ殿。今回、災難でしたねえ! まさか、こんなところで狂信者に襲われるなんて〟



 彼の、親。



「……。……まさ、か……っ」



 ふらっと、カイリがうずくまる二人に振り返る。

 彼らは目をみはって唇を戦慄わななかせていたが、無言だ。それは、言葉なき肯定と同義である。



「………………ファル殿の、ご両親……」

「――っ! ……も、申し訳、……ありません……っ!」



 ファルの名前を出した途端、彼らは絶望に顔を沈めた。

 土下座なんて生易しいものではない。まるで命を差し出すかの様に体を無防備にカイリにさらしている。

 こんな偶然があるだろうか。たまたま立ち寄ったパン屋の息子が、よりによって第十三位を苦しめたファルだったなんて。

 だが、思い当たる節はある。ケントは、最初にメモリーズに寄ろうとカイリが誘った時微妙な反応を見せていた。

 そして、この両親がカイリに頭を下げた願いに対して難しいと切り捨てていた。



 つまり、ケントはこの家がファルの実家だということを知っていたということだ。



 彼は第九位の人間の名前と顔と所属さえ覚えていた。上に立つ者として、大体教会騎士の顔と名前を一致させているのだろう。

 ならば、ファルの素性にだって精通していてもおかしくはない。


〝カイリ。多分面倒なことになっているし、……心労もかかるから覚悟決めておいてよ。実際見た方が早いだろうしね〟


 ケントの忠告が、今更ながらに内側から心を貫く。


 一度に色んな感情が押し寄せてきて、上手く頭が回らない。怒りも驚きも哀しみも戸惑いも様々な気持ちがぐちゃぐちゃに掻き乱されて、言葉という形に収まってくれなかった。


〝ほらほら、今のエディ先輩の睨み方、見ました? そうそう、それですよ! あの時みたいに、みんなに分からない様に散々殴られて、お湯ぶっかけられて、罰だって言っていじめられて!〟


 だって、忘れられない。ファルが、フランツ達に――殊更ことさらエディに酷い言葉を投げつけた時のこと。


〝ああ、カイリ殿! そうそう、ケント様の親友の! おかげで良い思いしてそうですね! 何せ、第一位の団長と親友なんですから!〟


 ケントのことも、まるで一種のステータスの様に馬鹿にしてきたこと。


〝ただの家畜だ。家畜は、人に使われてなんぼだ! 家畜は人のために生まれ、人のために死ぬ! そうだよ! オレたち崇高な人のために! こいつらも、死ねたら本望だろうよ!〟


 歓楽街の人達を、家畜だと罵倒したこと。


 全部、全部、許せない。彼の事情など考えられない。

 今だって思い出すだけで腸が煮えくり返って堪らない。殴りたくて、怒鳴りたくて、許せなくて、穢い感情でぐちゃぐちゃに心を掻き混ぜられて苦しい。

 そんな、憎い彼の。

 二人は、人を人とも思わない彼の。



 ――親。



「……っ、ファ、……っ!」



 爆発しそうになって、けれど感情が言葉に収まりきらずに霧散する。

 何でこんなことになったのだろう。

 カイリは、ただこの店のパンが好きだった。彼らが教会騎士に嫌がらせを受けていると聞いた時、何か力になりたかった。彼らのパンが好きで集まっている客を安心させるために動きたかった。信頼を積み重ねていきたかった。

 それなのに。


〝っ、それはそうでしょうよ! 問題児だらけの、しかも! ……、……っ、……男娼なんて雇う様な騎士団! それこそ評判はガタ落ちだし、出世なんて絶望的でしょうね!〟


 それなのに――っ。


「……ほらっ。カイリ様もお怒りじゃないか!」

「あいつを出せ! あいつを!」

「そうだ! のうのうとパンなんか売ってんじゃねえ!」

「犯罪者は犯罪者らしく、惨めに隅っこでつくばってろ!」


 背後で勢い付いたのか、ぎゃあぎゃあと不快な騒音を撒き散らしている。

 目の前の夫婦は一層縮こまって顔を上げない。まるで実際に石を投げつけられたかの様に怯えて痛がっている。

 どうしてこうなってしまったのだろう。

 何故、彼らがファルの両親なのだろう。



 何故、彼らみたいに優しい人が、人の心をえぐるファルの親なのだろう。



「は……っ」



 息が苦しい。目の前が歪む。音がうるさい。激しく感情が荒れ狂っているはずなのに、ぽっかりと心に穴が広がっていく様な虚無が生まれていく。

 ファルに連なる人達。顔を見たらもう思い出さずにはいられない。

 この二人を目にするのが辛い。一刻も早くこの場を離れたかった。

 けれど。



〝そうです! うちの主人のパンは美味しいって評判なんですよ〟


〝……今振り返ると、それを話す時も時々苦しそうだったんですよね。……親なんだから、もう少し早く思い詰めていたことがあったんじゃないかって気付ければ良かったんですけど、……〟



 けれど――。



〝いつか、立派な騎士になると言っていました。……だから、私達はもうそれを信じるだけです〟



「――っ」



 ぎゅっと、カイリは手を握り締める。

 そうして、すうっと息を吸って、カイリは耳障りな騒音を断ち切る様に声を雨音に乗せた。



【……もしもし、パンよ、パンさんよ】

「――――――――」



 ぴたり、と。驚くほど綺麗に騒音が止む。

 何て現金なのだろうか。

 だが、今だけは聖歌至上主義であるこの国の在り方に感謝した。おかげで、わずらわしい雑音を聞かなくて済む。



【世界のうちで、お前ほど】



 初めてここのパン屋に訪れた時、思わず歌ってしまったもの。

 あの時は、本当にパンが美味しくて、食べるのが楽しみで、弾んだ心で歌っていた。



【美味しいパンは、知らないよ】



 それなのに。



【どうしてそんなに美味いのか】



 今はただただ、歌が虚しい。



 歌い終えたカイリは、顔まで虚無に支配されていることに気付く。

 だから、精一杯笑った。にっこりと、それこそ太陽を想像しながら無理矢理笑って振り返る。



「これ、この店のために歌った歌なんです」

「……っ、え、――」



 カイリの暴露に、騎士達は一瞬表情という表情を根こそぎ落とした。

 しかし次の瞬間、爆発する様に激情を撒き散らす。


「な、何故、……何故ですかっ⁉ こんな奴らに⁉ 貴方様の聖歌を⁉」

「そうですよ! 聖歌はこの国にとって、神聖なる汚れ無き聖域です! 庶民がめったに聞ける様な軽々しいものではない!」

「それなのに、聖歌をこんな街中で⁉ しかも、よりによってこんな犯罪者達に……っ!」

「だって俺、ここのパンのファンですから」


 笑顔で断言すれば、気圧される様に騎士達が身を引く。周囲で遠巻きに見守っていた者達も息を呑んで凝視してきた。

 カイリの笑顔は、今、どんな種類のものに映っているのだろう。別に脅しているわけでも圧するわけでもないけれど、現在の状況に照らし合わせると不気味にしか思えないかもしれない。

 だが、どうでも良い。――どうでも良い。

 背後で震えている二人の気配を感じながら、カイリは静かに、だがきっぱりと宣言した。



「もう二度と、この店に手を出さないで下さい」

「――――――――」

「もし発覚した場合は、それ相応の対応をしますので。どうぞ全員、速やかにここから散って下さい」



 淡々と発すると同時に、カイリの顔から笑顔が落ちた。笑うことがこんなに疲れるなんてと、不思議な気分に陥る。

 騎士達はしばらく絶句していたが、我に返り始めると今度は憤怒の形相で詰め寄ってきた。


「な、何故ですか! 何故! ……何故っ! こんな犯罪者を庇うんですか!」

「あれだけ酷いことをされたというのに! 下手をすれば、いや、捕まっていたら間違いなく死んでいたんですよ⁉」

「許しがたき大罪だ! 死刑だ! 死刑にすべきクズだ!」

「それなのに、あろうことか、貴方がこんな横暴を許すなんて!」

「あいつを! こいつらを許すって言うんですかっ⁉」

「――は? 許す?」


 二段ほど声が低くなったのが、カイリ自身分かる。

 一緒に目つきも剣呑になったのが、彼らの怯えた様子によってはっきりと自覚出来た。



「何を許すんですか? 彼らの息子殿がしたことを、俺は許すつもりは毛頭ありません」



 名前すら口にしたくない。

 仲間を侮辱したこと。

 友人を馬鹿にしたこと。

 歓楽街の人達の命を、尊厳を踏みにじったこと。

 全部、全部、許すつもりなどない。


「彼がしたことは犯罪です。それだけではなく、俺の大切な人達を傷付けた。そのことに俺は怒り狂っているし、しばらくは土下座をされたって、例え自害されたって、気持ちが収まることはないでしょう」

「だ、だったら、何故……!」

「でも、それは息子殿の罪ですよね?」


 平坦に切り捨てる。事実を事実として突き付けた。

 騎士達は一瞬反論出来ずに押し黙る。それが全てだ。



「もう息子殿は成人していて、親の手を離れているはずですよね。だったら、息子殿がしたことは、全て息子殿が責を負うべきです。両親ではない」

「……で、です、がっ!」

「俺には、罪の無い彼らにこうして暴力を振るい、恐喝し、名誉をずたずたに引き裂いている貴方達の方がよっぽど犯罪者に見えるし、――実際犯罪者です」



 それに、ただ遠巻きに見ている人達も。



 抑揚のない声で告げれば、その場にいた全員が震え上がった。何故そんなに震えるのだろうとカイリには不思議でならない。

 彼らがしていることは実際犯罪だ。誰かを公衆の面前で罵倒すれば名誉棄損だし、建物への落書きや破壊は器物損壊、暴力を振るったり恐喝など論外である。


「それに、息子殿を責められるのは、被害者である俺のはずですよね。何故、俺と何にも関係がない、ましてやただの部外者が、さも当然の様に彼を責めているんですか?」

「……っ、あ、貴方は! 聖歌騎士で、我らにとって!」

「誰がそんなことしてくれって頼みましたか。俺と顔見知りでもないのに、俺と親しいわけでもないのに。……例えそうであったとしても、勝手に俺の気持ちを代弁して勝手に動き回られることほど不愉快なことはありません。迷惑です」


 ただひたすらに静謐せいひつに語っていく。ふつふつと込み上げてくる怒りも悲しみも必死に封じ込めて、カイリは無感動に事実を並べ立てた。



「もう一度言います。貴方達は、ここではただの犯罪者です」

「――っ」

「俺が一番嫌いなことを、貴方達はしました。息子殿への怒りは、『俺が』、息子殿にぶつけます。だから、――もう二度と、このパン屋に手を出さないで下さい」



 一部を強調してカイリは再度忠告する。

 騎士達はまだ尚言い募りたそうにしていたが、劣勢を悟ったのかすごすごと引き下がっていった。遠巻きに見物していた者達も、互いに顔を見合わせて去ろうとする。

 ――が。



「あ、ここにいる騎士達、全員独房行きね。逃げても全員覚えているから、無駄だよ」

「――っ! け、ケント様……⁉」



 ぱんぱん、と適当に手を叩きながらケントがさらっと雷を落とす。

 それまで不満そうにしていた騎士達の顔が、一瞬で崩れ落ちた。がたっと、大きく震え上がる。


「け、ケント様! お、お許しを!」

「何を? っていうか、謝るべき相手が違うよね。何で僕の言うことなら大人しく聞くの? むしろ、カイリの言ったこと、ちゃんと理解してる? 君達、れっきとした犯罪者だからね?」

「そ、そんな……! こと、は……っ!」

「そう。犯罪者。君達、騎士としてやっちゃいけないことをやったんだから。当然、粛々と謹んで罰くらい受けるよね?」

「ひ、い……!」

「ああ、あと。そこら辺で見て見ぬふりしていた巡回騎士達も同罪だから。――全員、今すぐしかるべき場所へ行け」

「――っ! ……っ!」


 ケントの最後の低く、冷たい睥睨へいげいに、逃げようとした騎士達はすべからく膝を折った。がたがたと滑稽なほど震え上がって発狂している。

 だが、カイリは全く感情が湧かない。まるで麻痺したかの様に心を動かされなかった。



「……ご、ごめんな、さい……っ」

「――」



 背後から、弱々しい謝罪が聞こえてくる。誰か、なんて振り向かなくたって分かり切っていた。

 正直、振り向くのはしんどい。彼らの顔を見るのは、辛い。

 けれど、ここでカイリが逃げるわけにはいかなかった。腹に力を入れて、全力でたっぷり水を吸った服と共に足を軸に振り向く。


「……顔を、上げて下さい」

「……っ、し、しかし……」

「さっきも言いましたけど、責められるべきは貴方達の息子であって、貴方達ではありません。……、……そう思う気持ちは、本当です」


 だが、割り切れるわけではない。


 ひどく疲れた心は、カイリに偽りを許さない。

 いや、どんな精神状態であったとしても、嘘を吐いてはいけないだろう。

 彼らには、真摯でありたい。誰かの笑顔のためにパンを作り続けてきたであろう彼らに、最後まで誠実でありたかった。



「でも、しばらく俺はもうここには来ません」

「――っ」

「お互いに、顔を見るのは辛いと思いますから。……だから、どうしてもここのパンが食べたくなった時は、他の人に代わりに買ってきてもらうことにします」



 そうは言っても、しばらくはパンすら拝めないだろう。

 その事実が、カイリを重く打ちのめす。


「けれど、もし、また何か酷いことをされたら、……手紙で良いです。第十三位の俺宛に送って下さい。ちゃんと対処します」

「……っ、か、カイリ、さん……っ!」

「俺は、ここのパンのファンですから」

「――っ」


 ちゃんと笑えているだろうか。

 ちゃんと彼らに届くだろうか。

 来れなくても、顔を見れなくても、彼らのパンが好きだという気持ちに偽りはないこと。


 ――踏ん張れ。


 ファルの顔が脳裡のうりにちらつくのを懸命に振り払い、カイリは笑う。

 引きつっても良い。だから、最後まで笑え。



「……ここには来れなくても、応援しています。貴方達のパンが、誰かを幸せにすることを願っています」

「カイリ、さん……っ」

「だから、……だか、ら、――っ」



 負けないで、下さいっ。



 最後は声がぶれた。雨の音に震えが紛れれば良いと願う。

 頭を下げ、カイリはその場を後にする。エディが前に、この通りは貴族街に繋がっていると教えてくれた。丁度良いからそちらへ向かおうとずんずん進む。

 無心になったら、ばしゃばしゃと、足元で不快な音がするのに気付いてしまった。まとわり付く様に衣服も肌に貼り付き、足元さえ絡め取る。

 嫌だ、と思うと同時に、カイリの目の前に嫌な光景がよみがえった。



〝二、三十分ほど続ければ、体力は格段に落ちるでしょう。……そうであるな、カイリ〟



「――っ!」



 ばしゃん、とカイリは足元から崩れ落ちる。己を抱き締め、必死に雨から逃れようと体をひねるが、ここには雨を避ける屋根が少なすぎた。

 ざあああああっと、やたら大きな音が耳に纏わり付いて気持ち悪い。ざばあ、ざああっと、触れたそばから雨が牙を立てる様にカイリを襲う。頭や顔に押し付けられる様な痛みが広がっていった。

 痛い。――痛い。


「い、……あっ! み、っ、……っ!」

「――カイリっ!」

「――っ!」


 ばしゃん、と一際ひときわ大きな音がすぐ近くで跳ねる。

 カイリが咄嗟とっさに悲鳴を噛み殺すと、ふわりと誰かの手が包み込む様に抱き締めてくれた。

 あえぐ様にカイリが息を切らすと、「大丈夫」と優しい熱が耳元に落ちる。


「カイリ。よく頑張ったね。大丈夫」

「……っ、……ケ、ント」

「大丈夫。……大丈夫。今、乾かすね」


 小さくケントが何かを聖歌語で唱えると、ささやかな熱が全身を満たしていく。

 いつの間にか雨もカイリとケントから遮られていた。

 見上げると、あのまっさらな青空の傘が広がっている。一瞬本当に空と見紛うほどに美しい。


「ケン、ト。……っ」

「もう大丈夫だよ。……大丈夫」


 ぽんぽんと、ケントが絶えず背中を優しく撫でてくれる。同時に濡れ切った体もほのかに熱を帯びて少しずつ乾いていくのを感じ取った。

 ケントは今、カイリを文字通り乾かしてくれているのだ。その事実に力が抜ける様に安堵して。



〝犯罪者の親は犯罪者ってか? ――犯罪者のパンなんか食えるかよ! さっさと潰せや!〟



「――っ」



 安堵してしまったからこそ、先程の事実が怒涛の如く押し寄せてくる。



〝そいつら、犯罪者の親ですよ! 庇う必要なんてありません!〟


〝分からないなら教えてあげますよ! そいつらは! 先日、貴方を狂信者に売り渡そうとした主犯の親なんですよ!〟


「……。……俺。さっきの歌。全然、感情込められなかった」

「……カイリ」

「昔から、歌うのが好きだったのにさ。全然、……全然。心、込められなくて」


 彼らのパンが美味しくて、思わず替え歌にしてまで口ずさんでしまった歌。彼らのパンに捧げた様なものだ。

 けれど、さっき歌った時は、歌えば歌うだけ驚くほど虚しさだけが胸に広がっていった。カイリの歌は、さぞ空々しく響き渡ったことだろう。

 それだけ、ショックだった。



 彼らが、ファルの親だということに動揺した。



「――っ、……なん、で……っ」



〝あら、新顔ですね。いらっしゃい。どう? 試食してみませんか?〟



 何で。



〝もちろん! うちの店のファンになって欲しいですから〟



 ――何でっ。



「……っ、……な、……っ!」

「カイリ」

「な、んで、……なんでっ。……なんでなんで、……なん、で……っ!」



 こんなこと、言葉にしたって意味がない。いくら叫んだって事実は無情だ。微塵みじんも変わるわけではない。

 だが、それでも止まらない。衝撃は理性を食らう様に次から次へと襲ってくる。



「……っ! 何で……、……何でっ‼ あの人達が、あいつの親なんだ……っ⁉」



 最初に訪れた時、笑顔で迎えてくれた。茶目っ気もたっぷりで、自分が作ったパンに誇りを持っていて、己の仕事に胸を張って生きている素敵な夫婦だった。

 反抗期真っ盛りの息子のことを心配していた。酷い言葉をぶつけられても、それでも息子のことを思っていた。こんなに素敵な両親の息子なのだから、いつか和解して欲しいと、カイリは事情を知らないながらも願ったりした。

 それなのに、こんな悲しい事実があるか。


「……俺はこれから、彼らを見るたびに、あいつのことを思い出すっ。……可愛いパンも、シチューパンも、美味しかったのにっ。……あのパンを思い出せば思い出すほど、どうしてもあいつのことが頭から離れないっ!」

「うん」

「あそこのパン、美味しいのにっ。好きだったのに! 何であいつの親なんだ! 何で俺の大切な人達の優しさを踏みにじった奴なんかの! 人を家畜扱いした奴の! 親なんだっ⁉」

「うん」

「何であいつが息子なんだ⁉ ふざけるな! あんな優しい親なのに、何で息子は外道なんだっ⁉ 親はどれだけ踏み付けられても気丈に生きているっていうのに、あいつは、……あいつはっ! 人の心を踏みにじってばっかりで! 人を人とも思わない言い方ばっかりでっ!」


 支離滅裂だ。そんなことを叫んだって事実は変わらない。親と子が必ずしも似るだなんて誰が決めた。全く似ない親子だっている。現に、前世ではそんな親子が近くにいた。

 ここに、親に尊厳を踏みにじられ続けた親友ケントがいる。


「……俺は、あいつを許せないっ」

「……うん」

「あいつがフランツさん達に、エディに、……歓楽街の人達にしたことは、絶対に許さないっ。……例え彼らが許しても、俺は、……俺は……っ!」


 ファルのことがどうしても許せない。例え許す権利があるのが、フランツ達にあるとしても。

 カイリは彼を見るたび、名前を聞くたび、彼の非道を思い出し、忘れはしないだろう。

 けれど。


〝ったく、やめろや、この犯罪者一家が!〟


 けれど。



「……っ、でもっ! ……こんなのは、違う……っ!」



 絞り出す様に、カイリはケントにすがる。

 先程の夫婦への暴力が頭にこびりついて離れない。あの凄惨な光景は、カイリを頭から踏み潰すには充分だった。

 当然の様にのさばる騎士達。暴力を振るわれているのを遠巻きに観察する群衆。痛めつけられているのを、さも当たり前の様に認めている人々。


「こんな、いじめみたいに……っ! あいつら、あの両親のことも、パンが美味しいことも、どんな思いでパンを作っているのかもっ! 何にも、……何にも知らないくせにっ! ……俺達と関りなんてないくせにっ! 何で、自分が正義の様に暴力を振りかざすんだ⁉ 俺のためにとか、ふざけんな! 勝手に俺を理由にして暴力を振るうな! 自分がしたいだけだろ⁉ 自己満足だろ!」

「……、うん」

「あんなの、正義なんかじゃない! ただのいじめだ! 犯罪だ! ……周りでただ見ている奴らだって! ただ参加しなかったっていうだけで同じだ! 知らん顔して、勇気が無かったとか、恐かったとか、結局自分が可愛いだけだろっ! ……みんな、みんな、同じだ! ……お前ら全員、……全員穢いんだよっ!」


 例え直接いじめに加担していなくたって、カイリからすればみんな同じだった。

 ただ見ているだけ。ただ加わらないだけ。

 誰も助けてなんてくれない。見ているだけで、カイリに味方をしてくれるわけでもない。

 そんなのは、いじめと一緒だ。どれだけ罪悪感を抱えていたとしても、やられている側からすれば同じでしかない。偽善だ。信用など出来はしない。

 でも。



〝カイリー! おはよう! 今日もむっすりしてるね! 笑って笑って!〟



「……っ、……あ……っ」



 ケントの顔を見て、カイリは唐突に我に返る。嗚咽おえつを噛み殺し、己の罪をかえりみた。


「……っ。ご、め……っ」


 ケントの顔を真正面から見つめ、思わず身を離してしまう。

 カイリだって同じだ。

 カイリは、前世でケントを突き放し、酷いことばかりしてきた。いつも隣にいて勇気付けてくれていたのに、恩を仇で返し、傷付けてばかりだった。

 結局カイリも同じ穴のむじなで、誰かを責める権利などない。こんな風に、暴力を振るっていた彼らに怒り狂うのはお門違いだ。

 カイリも、彼らと何ら変わらない。

 打ちのめされてうつむくと同時。



「――カイリ」

「――っ」



 ぐっと、ケントが弾んだ声で抱き寄せる。まるで離すまいと、逃がすまいとするかの様に背中に回してくれた腕に力を込めてきた。


「ケ、ント?」

「……やっと……」

「……、え?」

「ううん。……。……カイリの苦しい声、聞いたよ。……ちゃんと吐き出せてえらいえらい」

「……っ、何だよ、それ、……っ」


 ぽんぽんと子供の様に頭を撫でられて、カイリの涙腺は更に決壊する。ぼろぼろと目から熱いものが零れ落ちていき、止まらなくなった。



「お前、……馬鹿っ。俺っ」

「色んな穢い感情を抱え込んでるのに、ちゃんとカイリは自分の道を貫いてる」

「……っ」

「不完全だし、聖人君子ではないけど。だからこそ、自分が貫きたい道を貫こうと一生懸命努力するカイリが、僕は好きだよ」

「ケ……っ」

「カイリは凄いよ。……きっとね。僕は知らない君の幼馴染も。同じことを言うと思うよ」

「――」

「穢い感情だけに飲み込まれない、カイリの生き様を。誇りに思っているよ」



 だって、僕が思っているからね。



 最後に付け加えられた言葉で、もう駄目だった。

 カイリは噛み殺していた嗚咽を吐き出してケントにすがる。ぎゅうっとしがみ付いてしまって、痛いだろうに彼は何も言わずに受け入れてくれた。

 何で彼は、欲しい言葉をくれるのだろう。こんなにカイリは穢いのに。感情がぐちゃぐちゃになって。夫婦とファルのことをきちんと線引き出来なくて。割り切れなくて、夫婦のことも傷付けたのに。



 それなのに、彼は言うのだ。カイリは誇りだと。



 ――そんなの、俺の台詞なのに。



 甘いのに厳しくて、厳しいのに優しく、カイリのすることを見守ってくれる。だからこそ、彼はカイリに先程あの場を任せてくれたのだと分かってしまった。

 彼が今、ここにいてくれて良かった。彼が傍にいてくれて助かった。


 おかげでカイリはまだ、大切なものを見失わずにすむ。


 雨音は遠くに、先程の喧騒は心の奥に。

 決して消えることはないけれど、カイリは飲み込まれないために、今はケントが与えてくれる温もりに甘えて落ち着くことを優先した。


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