第192話
第十位が暗く意気揚々と馬で去っていく背中を見届け、ゼクトールは密かに溜息を吐く。
こんなにあっさりと引っかかってくれるとは、流石は欲に目が眩んでいるだけある。この愚かさにはほとほと呆れが止まらない。
だが、その愚かさが今のゼクトールには必要だった。
駒は必要だ。第十三位のガードは予想以上に固い。ルナリアで、より強く結束したのが理由だろう。
カイリを中心に、彼らは少しずつ変わっていった。以前までは本当にばらばらでまとまりが無かったのに、彼を中心にお互いに向き合い始めている。
一体、今までと何が違うのだろうか。カイリが何も知らないからだろうか。だから、みんな彼を受け入れるのか。
「……いや。愚かな」
そうではない、とゼクトールは頭を振る。
全ては、彼の頑固ながらも純粋な真っ直ぐさと優しい強さ故だ。
そう。
〝おじいさんと話すのは、俺にとっては楽しい時間です〟
全てを、ありのまま。受け入れてくれるから。
「……――」
ありのまま――。
「……っ、……。……もうすぐ終わるぞ、エイベル」
遠くに語り掛ける様に、ゼクトールは景色を望む。
ここは聖都シフェルから王族の城へと向かうちょうど中央あたり。特に障害物もなく、ただただ広い平原が連なる自然豊かな場所だ。
地平線には、黄昏色の日がゆっくりと落ちていくところだった。緩やかに、けれど壮大に地上を光で満たしていく光景は、胸を震わせるほどに圧巻である。
綺麗だ。本当に。
この夕景だけは、どれだけ月日が流れようとも変わらない。
〝――エイベル卿!〟
不意に、遥か向こうから声が走ってくる。
同時に、遠くで佇む男性に、無邪気に駆け寄る青年の姿がゼクトールの瞳に映し出された。
ああ、そうだ。
いつも、こんな綺麗な夕暮れ時に、『彼ら』は笑顔で話していた。
〝おー、カーティス! なんだなんだ。いつもの様に父さんって呼んでくれて良いんだぞ?〟
〝一応ここは職場ですから。俺、第一位団長ですし。……それに〟
〝それに?〟
〝……ここでもそういう呼び方をすると、何か、際限なく甘えてしまいそうなので。勘弁して下さい〟
頬を搔いて気まずげに白状する青年に、男性は豪快に笑い飛ばした。
〝はっは! なんだなんだあ? お前も大人になったと思ったら、まだまだ子供なとこあるじゃねえか〟
〝仕方ないじゃないですか。俺、子供なので〟
〝お、言ったな? ……じゃあ、そんな甘えん坊の息子よ。今夜も家に来ないか? 母さんがいつも通りご馳走用意して待ってるぜ〟
〝はい、もちろん! 行くに決まってます、父さん! ……あ〟
〝はっはー! そうそう。子供は素直が一番ってな!〟
ぐしゃぐしゃと、男性が青年の頭を乱暴に掻き回す。
やめて下さいよ、と言いながらも、青年はどこか嬉しそうだ。男性の瞳も手つきもとても柔らかい。
彼らは、父と息子と呼び合いながら、血は
だが、青年は実の家族とは不仲だった。
母は生まれた時に亡くなり、父とはろくな会話も無く。兄二人ともあまり仲が良くはなかったが、聖歌騎士になった時点で決定的に決裂した。聖歌騎士になった兄弟が青年だけだったからだ。兄二人は嫉妬に狂い、家でも完全に無視をされていたという。
だからだろうか。
何かと世話を焼き、しょっちゅう家に招いてくれていた男性に、青年は少しずつ懐いていった。元々人懐っこい豪快な性格ではあったが、馬が合ったのだろう。父親の様に慕うのに時間はかからなかった。
そして、きっと。
男性の方も――。
〝おう、ゼクトール!〟
〝あ、ゼクトール殿!〟
気付いて手を上げた男性の隣で、青年も屈託なく手を上げて来る。
忌々しいのに、とても懐かしい。
懐かしいと思うこの心が、ひどく憎らしかった。
〝ゼクトールも来るか? 俺の妻の手料理は最高だって知ってんだろ?〟
「……遠慮しておくのである」
ぽろっと答えてしまったのは無意識だ。
彼らは幻だ。それ以上でも以下でもない。
それなのに。
〝おーおー、そうだな! お前も家族団欒は大事にしてるもんな!〟
〝あ、この間アレックス殿が言っていましたよ。父上はむっつりしながら百面相するから、面白いって。だから、もっとお話がしたいって!〟
〝おー。なかなか子供とコミュニケーションを取れないと嘆いているお前がなあ。無言で意思疎通できる様になってんじゃねえか。やるなあ〟
本気で余計なお世話だ。
幻なのに、腹が立つ。
これは、全て過去の話だ。現在の話ではない。
もう、失われてしまった遠い出来事だ。
だが、何故だろう。
今になって、強く、鮮やかに思い出す。
〝じゃあ、今度また飲みに行こうぜ。どっちが先に潰れるか競争だ!〟
〝父さん……。酔い潰れたら、また母さんに怒られますよ〟
〝ぐっ。……ま、まあ。男には大事な話し合いがあるってもんさ。なあ、ゼクトール?〟
「知らん」
一言、短くぶった切る。
彼は別に悪い酔い方はしないのだが、
しかし、何故かいつも彼に引きずられ、飲む羽目に陥っている。ここで断っても、きっと無駄骨だろう。
「早く行くのである」
そうだ。
早く、行ってくれ。
早く。
〝おう。じゃ、行くか、カーティス〟
〝はい。ゼクトール殿、お疲れ様です! また明日!〟
〝じゃあまたな、ゼクトール!〟
またな。
無邪気に手を振って、男性が
二人の背中が遠ざかっていく。夕暮れの穏やかな光を浴びながら、向こう側へと消えていく。
そんな彼らを見送るのが日課だった。呆れながらも、微笑ましく思っていた。
騒々しいが嫌いではなかった。ずっと続くと思っていた。
けれど。
〝……っ、……ゼ、………………ト……、……の〟
あの日。
あの運命の
地獄絵図という表現すら控えめになってしまう凄惨な光景が、実現してしまった日。
ゼクトールが駆けつけた時には、全てが終わっていた。
真っ赤な血だまりの中には、騎士の残骸が無残にあちこち散らばっていた。おぞましく直視しがたい惨劇で、思わず吐きそうになったのを覚えている。
その中で、一人だけ息をしている者がいたのを見つけ、急いで駆け寄ったのに。
青年の元へは、辛うじて間に合ったのに。
ゼクトールは、何も出来なかった。
何も。
〝お、れ、……っ、ば……か、です、…………ね〟
息も絶え絶えに、泣いていた。
〝も、……かえ、…………こな…………っ、……って、……てた、の……に〟
虚ろな瞳は、何も映さないまま泣いていた。
〝もし、……………………ら、……ま、た、……っ。……いっ、しょ、……わら、…………るんじゃ、な、………………って、……っ……〟
――もう一度、一緒に笑いたかった。
希望を全て粉々に砕かれた様に、言い残し。
青年は、拒絶する様に、眠る様に意識を落としていった。
『お前だけが、頼りだ』
『お前は、可愛い息子なのだから』
どこにでもありふれた、見え透いた嘘の塊。
それなのに、普段なら絶対に罠に
ただ、どうしても取り戻すことを諦められなかった故の、愚かな末路だった。
「……愚かであるな」
本当に愚かだ。
こうして幻を見てしまうゼクトールも、どうしても情を捨てられずに死にかけた青年も。
そして、教皇になった男性も。
全て、愚かだ。
「……
もっとも、ケントが教皇の命令を大人しく聞いたとして、本当に成功したかどうかは神のみぞ知る、というやつだ。
ケントは、教皇如きではもう制御は出来ない。彼はどこか別の次元を見ている気がする。
彼はカイリにひどく執着している様だが、果たしてどこまでのものなのか。お手並み拝見と行こう。
「もっとも、途中で邪魔をされては敵わぬが」
計画の破綻は、失敗を意味する。
ゼクトールの悲願を潰えさせるわけにはいかない。成就するには、舞台が整わなければ全く意味がないのだ。
故に、カイリは餌となる。
極上の、餌となる。
〝―――さん! 俺に、稽古を付けて下さい!〟
「――」
掠める様に、青年の声が脳裏に響く。
どうして、過去が今のタイミングで頭をもたげてくるのだろう。
全ては、この夕暮れ時の日差しが見せているのだろうか。
いつも、彼らが関わる時間帯は、この夕方頃が多かった。仕事が終わり、それぞれが自由に動き出す。自由奔放な二人には、絶好の機会なのだ。
けれど。
〝あ、おじいさん!〟
次に
どうしてだろう。彼は、夕暮れ時など何ら関係ないはずなのに。
カーティスの息子だからか。故に、こんなに思い出さずにはいられないのか。
煩わしい。――もうやめてくれ。
「……もう、後戻りはできないのである」
己の計画のために。
かつての誓いのために。
〝いつか一緒に、この国変えてやろうぜ! ゼクトール!〟
ゼクトールは振り切る様に、目的地の城へと馬を駆らせる。
ゆっくりと地上に沈む夕焼けが目に染みる様に痛い。早くさっさと沈めと呪いながら、ゼクトールは心の重い足取りを緩めずに進み続けた。
「――ふむ。ディックがかね」
執務室で報告を受けた銀髪の青年は、しばし黙考してしまう。窓から差し込む夕日が室内に影を落とし、青年の心も一緒に陰っていった。
ディックが、『彼』に手を出した。
既に伝え聞いていた未来の捕獲対象ではあったが、こんなに早く部下が接触するとは思っていなかった。大誤算だと頭を抱えざるを得ない。
しかも、接触した上に捕獲に失敗した。これで益々警戒を強められてしまうだろう。何せ一度狙われたのだから、周辺を徹底的に警戒するのはどの立場でも考えることだ。
「よりによって、か。……あの『兄妹』の報告もあったからこそ、行動範囲内に来ても、今は注視するだけに留めておけと言っておいたはずなのだがね」
「……申し訳ありません。監督不行き届きです」
「いや、……」
確かに部下の勝手な行動で、こちらの目的は一歩後退した。
とはいえ、責めることも出来ない。
捕獲対象としている『彼』は、今までの聖歌騎士とはどうやら毛色が違う様なのだ。
もし好機と見たならば、手を出したくなるのも無理からぬことである。
だが、失敗した以上何も手を打たぬわけにはいかない。
色々と頭の中で段取りを連ねた後、切り出した。
「……取り敢えず、大まかには分かったのだよ」
「管理が行き届かず、申し訳ありません」
「仕方がないのだよ。ディックもかなりの手練れ。捕らえられると思って手を出したのならば、仕方がない。……だが、このまま失敗で終わるわけにもいかないのだよ」
「……ええ」
報告をしていた青年も、同意と共に緩くまとめた銀髪を揺らし、頭を垂れた。
それを見つめ、益々銀髪の青年は眉根を寄せる。心が更に鉛を大量に落とされた様に重くなった。
「……それに、彼ら第十三位には、がっつり顔を覚えられてしまったのだね?」
「……顔だけではなく、名前も。どうやら、動転した様です」
「言い訳は結構。……そうか。ならば、取るべき方法は一つ。すまないが、引き受けてくれないかね。……彼には、ひどく申し訳ないことを頼むことになるが」
目を伏せて陰りを落とす銀髪の青年に、報告をしていた青年も眼鏡の奥で目を閉じる。内容を耳にして、益々眼鏡の青年の表情は沈鬱さに拍車がかかった。
「すまないね。嫌な役回りをさせるのだよ」
「いえ、それが私の役目ですよ。……しかし、それだと教皇側を支援することになりますね」
「今回は、なのだよ。……支援しつつ、思惑の妨害と、周囲の確認をしようではないかね」
「顔が悪くなっていますよ。相変わらずそういうあくどい考えが得意ですね」
「褒め言葉として受け取っておくのだよ! それに……聞くところによると、『彼』は教会色にほとんど染まっていないらしいからね。……そういう聖歌騎士は実に貴重なのだよ」
肘を突いた手に
「それに、色々見極めるのに良い機会なのだよ。……是非とも『彼』に、教会の不審を更に植え付けて欲しい。――枢機卿側の思惑に乗れば、相乗効果で『彼』も教会の方針自体に疑惑を深めてくれるかもしれないのだよ」
「……分かりました。では、動きます」
「うむ。……すまない、と伝えてくれたまえ」
「それも分かっています。……恐らく、恨むことは無いと思いますよ」
淡白に言い残し、眼鏡の青年を見送りながら、ぎしりと椅子の背もたれに寄りかかる。
はあっと大きな溜息が出るのは致し方ないことだ。また犠牲が出るのかと思うと気が重い。
「……。……だが、仕方がないのだよ。我らの悲願を思えば」
代々受け継がれてきた願いを、必ず叶える。
それが青年の強い誓いだ。絶対にこの代で終わらせるのだと、先代から『引き継ぐ』時に誓いを立てた。――そう。どんな形であれ、『引き継いだ』のだ。
故に、見極めなければならない。『彼』の噂は、今や世界中に広まりつつある。
普通の聖歌とは思えない聖歌を歌い上げ、教会色に染まり切らない聖歌騎士。
第一位団長と懇意にし、曰く付きの第十三位に所属しながらも、少しずつ少しずつ活動の輪を広げているという少年を、野放しにすることほど愚かなことはない。
「これで死ぬのならばそれまで。噂ほどでは無かったということなのだよ」
彼を中心にどう動くのか。冷静に見極め、今後お付き合いをするべきかを判断する。
どの様に引き込むか、どの程度役に立つのか。
悲願を叶えるほどの力を、秘めているのか。
重要なのはそれだけだ。
基準さえ達しているのならば、例え反りが合わなくとも受け入れよう。
「さて。見事に踊ってくれたまえよ。カイリ・ヴェルリオーゼ君」
期待しているのだよ。
もうすぐ日が落ちる夕暮れ時。
燃える様な赤が不穏に黒く染まっていくのを眺めながら、青年は未だ見ぬ少年に静かに語りかけた。
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