第191話


 がたがたと、体を揺らす振動でカイリは目を覚ました。

 頭がぼんやりして、視界も不明瞭だ。地震にしては変な揺れ方だと、カイリは重いまぶたこすりながら体を起こす――必要が無いことに気付いた。


「……あれ?」


 変だなと思いながら、ぱちぱちと瞬いて眠気を散らす。そうして、周囲をゆったり見回して。



 ばちっと、一気に目が覚めた。



「え? あ、レインさん? と、……ジュディス王女殿下」

「私もいますよ、カイリ様」

「っ!? リオーネ? っ、え? あれ?」

「おー、やっとお目覚めかー。随分と疲れが溜まってたみたいだな?」


 からからと茶化す様に笑うレインに、カイリは血の気が引いていく。

 そういえば、カイリは歓楽街の娼館にいたはずだ。そこでフランツに休めと言われて、耳元に聖歌語を落とされたのだ。【眠れ】と。

 それから、全く記憶がない。


「……っ! 俺、任務中なのに……っ! すみませんっ!」


 がばっと勢い良く頭を下げれば、ジュディスが高慢に言い放った。


「本当ね。護衛対象を放り出して眠りこけるなんて、良い度胸だわ」

「……っ、……はい」

「ま、馬車に乗るまでの間は、レインがきっちり護衛してくれたから許すわ。ねえ、レイン?」

「へーへー、その通りですよ。ちなみにカイリ、お前は団長にお姫様抱っこされてたからな。後でお礼言っとけよ」

「……お、ひめ、……もっと他に言い方は無いんですか」

「無いなー」


 明らかに面白がっている。

 真偽はともかく、フランツに抱えられたカイリは街中で注目の的となっていただろう。次に商店街に行くのは気が重すぎる。

 ジュディスは、レインの腕に巻き付いてすっかり上機嫌だ。やはり、彼の方が護衛として頼もしいのだろうし、何よりお気に入りなのだから当たり前かもしれない。

 そう。当然だ。


 カイリは、今回狂信者に連れ去られそうになった。


 残酷な死に様を見せつけられて動転し、あまつさえ敵にさらわれそうになるなんて、護衛として失格だ。ジュディスまで危険にさらしてしまうとは、ファルの言う通り危険因子以外の何物でもない。

 がむしゃらに抵抗はしたが、エディが来てくれなければ、カイリは本当に連れ去られていただろう。



 ――ぞっとする。思わず、左腕をすがる様に握り締めてしまった。



 カイリはこれからも狂信者に狙われ続ける。その時に、一人でも対処出来る様に強くならなければならない。

 帰ったら、一層鍛錬を積む必要がある。無茶な要求になるかもしれないが、もう少しフランツ達に長く稽古を付けてもらおうと心に決めた。

 かたかたと馬車に揺られながら、カイリは窓の外を見やる。

 窓の外では、フランツ達が護衛として馬車を囲みながら歩いている。その中には当然エディの姿もあった。

 あれから、娼館でどういう話になったのか。気になるが、それよりも。



 ――エディ。ロディさんと、お話出来たかな。



 あの娼館を任されているロディは、昔のエディの仕事仲間だと知った。

 カイリが眠った後、すぐに娼館を出発したのかどうかは分からない。

 けれど、エディは彼と顔を合わせたはずだ。彼はエディを気にしている素振りを見せていた。推測でしかないが、きっとエディも同じだっただろう。

 娼館を出てから一度も会っていなかったと聞いたが、仲が悪かったのならばロディはエディの話をレインから聞き出したりはしなかったはずだ。

 長く離れていたとしても、心のどこかで互いを思い合っている。そんな風にカイリには思えた。

 だから。


 どれだけわだかまりが二人を隔てていたとしても、いつかお互いに笑って話せる日が来れば良い。


 願って、カイリはもう一度エディの背中を見つめる。

 例え、過酷な思い出が常に付きまとうとしても、彼らには少しずつ乗り越えて欲しい。勝手な願いではあるが、心からそう祈る。

 そして、エディの傷を埋める一人になれたらと、カイリは切に願った。



「カイリ様。これ、どうぞ」



 ぼんやりエディを眺めていると、横合いからリオーネが何かを差し出してきた。同時に、ふわっと香ばしい匂いが鼻先を掠める。

 それは、肉とピーマンとたけのこを豪快に刺し込んだ串だった。簡易な皿に乗せられて、異様な存在感を主張している。

 よく見ると、レインの手元にも空になった皿が何枚か乗せられていた。食べ終わった後だとカイリはようやく気付く。


「オレ達にとっては遅い昼飯だな。ま、早めの夕食とも言えるかもだけどよ。夜も、いつ食えるか分からねえし、食っとけよ」

「……、……でも」

「誰だって、最初はど素人から始まるんだよ。それ食って、腹満たして、また頑張りゃ良いさ。埋め合わせなんて、これからいくらでも出来る。なあ、王女殿下?」

「ええ。そう思うわよね、リオーネ」

「ふふ。はい、そうですね」


 三人が順繰りに言葉を渡しながら同意していく。

 何となく妙な一体感が出来上がっている。任務の最初の頃とは雰囲気が変わったと、カイリは直感した。

 カイリが眠っている間に、何か進展があったのだろうか。ジュディスとリオーネの間に通う空気も、少しだけ和らいでいる。

 もし、そうなら嬉しい。聞く様な野暮な真似はしないが、勝手に喜ぶだけなら構わないだろう。


「……ありがとうございます。いただきます」

「おう。ちなみに、青椒肉絲チンジャオロースの串バージョンらしいぜ」


 どんな串だ。


 つまり、これは屋台街で購入した品ということになる。そんな奇抜な発想をするのはあの屋台街の人間しかいない。

 カイリの真顔に、ツッコミを見出したのだろう。レインは腹を抱えて笑い転げてしまった。ジュディスやリオーネも半笑いになっている。理不尽だ。

 しかし、メニュー名を聞いて不思議な取り合わせなのも納得だ。牛肉とピーマンと筍は、確かに青椒肉絲の具材である。

 味は、大丈夫だろう。何度か通っていて体験済みだ。

 故に、躊躇いも無くカイリはぱくっとかぶり付いた。

 途端。


「……ん、美味い!」


 じゅわっと、野菜の苦みや甘みと肉から溢れ出してくる香ばしい汁が、口の中いっぱいに広がる。はふっと息を吐き出せば、鼻から空腹を刺激する良い香りが吹き抜けて、二度美味しい。

 ぴりっとした辛さの濃厚なタレも絶品だ。しつこさは無く、喉を通った後に残る味わい深さは後を引いて堪らない。


「んーっ! やっぱりあそこの食べ物は美味しいっ」

「カイリ様、本当に美味しそうに食べますね」

「だって、美味しいから。……あ。そうだ、お金。誰に」

「いい、いい。先輩のおごりだ。味わって食べろよー」


 ひらひらと手を振りながら、レインが辞退してくる。

 つまり、彼の奢りなのか。思って、お礼を言おうとすると。



「気にしなくて良いわ。部下を労うのも、王族の役目よ」

「って、ジュディス王女殿下の奢りなんですか!?」

「そーそ。人生の先輩ってな」

「先輩違う! しかも、レインさんの方が年上だし!」



 思わず素で突っ込むと、レインは再び爆笑の渦に落ちた。腹を抱えて、ばしんばしん馬車の座席を叩いている。おかげで、馬車全体が小さく揺れていた。

 じとっとカイリはレインを責める様に見つめてから、ジュディスに頭を下げた。王族に振る舞われるとは、恐れ多すぎる。


「すみません。俺、後で必ず」

「良いって言ってるじゃない。しつこい部下は嫌われるわよ」

「……でも」

「悪いと思うのなら、その分働いて返してちょうだい。……城に帰ってから、お父様からお言葉もあると思うし。存分に力を発揮しなさい」


 あおる様に見上げられて、カイリは口をつぐんだ。

 これが、好意からなのか別の意味があるのか、カイリでは判断が出来ない。

 だが、レインやリオーネは受け入れているのだろう。ならば、カイリ一人だけが頑なに拒絶すると問題がある。

 観念して、カイリは頭を下げた。彼女には振り回されっぱなしだが、きっと悪人ではない。


「……ありがとうございます。ありがたく、頂戴致します」

「それで良いのよ、イモ騎士」

「はい。――美味しいです、これ」

「――」


 味を思い出して、無意識に満面の笑みになってしまった。

 一瞬ジュディスが固まった様だったが、特に疑問を抱かずにカイリは食事を再開する。ピーマンやタケノコから良いダシが出ていて、頬がとろけてしまいそうだ。頬が落ちそうな濃厚な旨味に、あっという間に一本を平らげてしまう。

 まだ二本も残っているとは、太っ腹だ。カイリは嬉々として二本目を口にする。

 その間、レインとリオーネが笑いを噛み殺す様にカイリとジュディスを交互に見比べていたが、カイリは当然気付かないままだった。











「……くそっ! 何でこうなるのさ!」


 城まであと半分の距離といったところで、ファルは思わず馬から飛び降りてしまった。その勢いで、辺りにあった石ころを蹴り飛ばす。ついでにもっと大きくて重いものも蹴り飛ばしたかったが、そうすると己の足が逆にやられてしまうので我慢する。

 同僚達も、悔しそうに歯噛みをしていた。

 当然だ。カイリを少しらしめて、第十位の方に仕事を取り戻そうとしたのに。結果は狂信者が現れた挙句に、他の第十三位が姿を消して見守っていたのだから、踏んだり蹴ったりだ。

 しかも。



〝住民達も死んだ! 大勢死んだ! 狂信者は、その死さえ熱狂に変えてたけど! あれは、……あれは! 俺達教会騎士が巻き込んで殺したんだ!〟



「……っ」



 別に、誰かを死なせるつもりがあったわけではない。

 それでも、歓楽街の人間達など家畜だ。家畜なんか、死んだってどうとも思いはしない。何故彼はあんなに熱くなるのか。全然分からない。偽善者だ。

 そう切り捨てれば良いのに。分かっているのに。



〝ここにいる人達も、歓楽街の人達も、貧民街の人達も! みんな、等しく俺達と同じ人間だっ!〟



 先程の彼の叫びが、脳裏にこびり付いて離れない。

 苛立ちは最高潮になって、ぐしゃぐしゃと頭を抱えた。


「……ああっ。もう、腹が立つ」


 ただらしめてやれれば良かったのに、思った以上の大事になってしまった。

 おまけに、カイリを貶めようとした言質まで録音されていた。クリストファーは彼の味方だ。あのデータが渡ってしまえば、ファル達の処遇がどうなるか。未知数だ。懲罰だけで済めば良いが、それは甘いだろう。


「あの新人、どこまで生意気なんだよ……!」


 聖歌語が強力な上に、聖歌を歌え、おまけに権力者達のお気に入り。

 しょっちゅう第一位団長を後ろ盾にしているくせに、初対面では道具の様に言うなと、あろうことか叱り付けてまで来た。



 一番第一位団長を道具にしている奴が、何を言う。



 おかげで、全騎士団内でカイリの存在は特異な位置にある。

 普段なら、聖歌を扱う人間はどんな手段を使ってでも第十三位以外の騎士団に引き抜く。

 だが、ケントという後ろ盾があるおかげで、どの団も彼に強引な手段が使えない。

 しかもあろうことか、彼は精鋭である第一位の誘いを蹴って、第十三位をかばう様な発言を連発している。他の騎士団からしてみれば業腹ごうはらな所業だが、ケントが公然と認めているせいで、報復も叶わない。



 守られて、恵まれた立場にいる。ファルとは何もかもが違う。



 ファルは、聖歌どころか聖歌語も使えない。

 上に上り詰めるのが子供の頃から夢だったファルにとって、これは大きな差だった。

 そう。



〝あいつ、聖歌語すら使えないんだってよ〟


 毎日。


〝っへえ。教会騎士目指してるくせに、聖歌語の恩恵に与れないなんて、場違いじゃねえの〟


 毎日。


〝流石は平民サマってな。クズは結局どこまで行ってもクズなんだよ〟


 毎日。毎日。


〝なあー。騎士なんてやめて、普通にそこら辺の出店にでも就職すりゃ良いのに〟


 毎日毎日毎日。


〝あいつの実家の支店とか? あはは、お似合いだぜ〟


 毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日。


〝こっち来んなよ。平民臭がうつるうつる!〟


 毎日毎日毎日毎日毎日まいにちまいにちまいにちマイニチマイニチマイニチマイニチまいにち毎にちまい日マイニチまイニち――。


〝うっわ。やめろよ! こっちは誇り高く生きてるってのに。地べた這いずり回る奴が視界に入るだけで胸糞悪いぜ〟



 ―― マ イ ニ チ ッ !



 馬鹿にされていた。常に下に見られていた。平民だったから尚更だ。

 教会騎士にも、聖歌語を使えない人間は半数近くいる。

 だが、彼らは聖歌語を扱える教会騎士からすれば、見下される位置にいるのだ。同じ騎士として扱ってもらえない場面さえある。陰口を叩かれ、嫌な思いをする者がほとんどだ。



 聖歌至上主義のこの国で、この教会で、聖歌語すら扱えないというのは大きなハンデだった。



 く言うファルも、子供の頃から格差を感じていた。

 騎士になるための学校に通う前から、貴族の子供やその親に馬鹿にされ。それは学生時代も変わらず。差別をしない者もまれにいたが、着実に負の連鎖は溜まり、不満と憎悪に変わるのに時間はかからなかった。


 ――絶対、見返してやる。


 思いながら奮起して、必死の思いで教会騎士に漕ぎ付けたが、現実は無情だ。

 今だって、第十位という護衛の専門職に務めてはいるが、この三年で立場というものが明確に上がった手応えは無い。副団長どころか、エースになるのも夢のまた夢である。

 だが、カイリは違う。



 彼は上を目指せるだけではなく、最初から限りなく上に近い位置にいた。



 聖歌が使える。聖歌が強い。

 たったそれだけで、彼は遥か高みにいる。

 村暮らしのため教養が無い。武術も大したことが無い。第十三位に守られているだけの存在。

 それなのに、口や態度だけが大きく、分不相応なことばかり主張して、周りの迷惑すら考えずに我を貫き通すのだ。


 ――馬鹿にしている。


 ファルは、彼が嫌いだ。虫唾が走る。どれだけ殺しても殺しても物足りない。

 最初から上を目指せるくせに、そんな気概すら感じられない。謙虚なフリをして尊大で、ファルを見下し、第十三位にもおべっかを使って溶け込んでいる。

 そうだ。許せない。



〝――! 新人はそういうんじゃないっ!〟



 あの、頭から叩き潰したはずのエディに、あそこまで言わしめるなんて。



 エディは、何故彼を気に掛けるのだ。あそこまで気に掛ける価値が、彼になんてあるはずがない。

 ファルだって、エディには優しくしてもらった。何も知らないまま能天気に、先輩風を吹かせて、色々と基礎から教えてくれた。



〝あー、ダメっすよ。その持ち方じゃ、長時間剣を振るい続けたら手首がすこーしずつ負荷に耐えられなくなるっす〟


〝聖歌語、ボクも苦手なんすよね。すぐ疲れちゃうし。……でも、聖歌語を使えなくても、ボク達にはボク達なりの戦い方ってのがあるんすよ〟


〝ファルは、素早いからショーテルとか投げナイフとか、そっちの方が向いているかもしれないっすね。教えるから、試してみましょう〟


〝今日は、ファルの好きなラザニアにしてみたっすよ! ……レイン兄さんもシュリア姉さんも厳しいと思いますけど、ファルに期待してると思うっす。だから、好物食べて元気出して下さい!〟



 ああ、本当に。



 ――能天気なほど愚かな先輩だった。



 だから、彼の顔を絶望で潰せてホッとした。彼のファルを見る目が、歪んで暗く落ちぶれたことが心の底から愉快だった。



 ――やっと、終わるのだと。安堵した。



 人を簡単に信じるからこうなるのだ。ファルにとって、エディもあの第十三位も踏み台でしかなかった。

 なかったのに。



〝……エディ先輩は、……オレにはこれが似合うって思っているんですよね?〟

〝? もちろんっす。じゃなきゃ、薦めないっすよ〟



「……、……ああ。……ムカつくなー」



 カイリはもちろん、エディに対しても。彼がこの三年間であそこまで立ち直っているとは思わなかった。

 ファルを見かけるたびに、エディの顔は醜く歪んでいたのに。それは今でも変わらないはずなのに。



〝――フランツ団長。ボク、先に行くっす!〟



 歓楽街でカイリが敵に囲まれている時、いきなりどこからともなく姿を現した彼は、迷わず助けに行った。聖歌語を操り、壁を蹴り、エディ達に群がる狂信者の一瞬の隙を縫って抜け出した。

 フランツやシュリアが残ったのは、リオーネがいたからだろう。聖歌騎士である彼女はあまり強いわけではない。守る必要があった。

 適切な判断だった。エディが行くしかなかった。

 それでも。



 あんな風に、躊躇いも無く助けに行くほど、カイリの存在は彼にとって大きくなっていたのか。



 それが、ひどく腹立たしい。

 あの場所は、ファルのものだったのに。ファルだけが、彼の感情を自由に支配出来たのに。

 ああ、腹立たしい。死ねば良い。あの生意気な新人は、潰して然るべき存在だ。

 それなのに。



〝恐くても、逃げ出したくても、俺は逃げない。みんなが逃げずに立ち向かってくれた様に! お前なんかに負けて堪るかっ!〟



 どれだけ脅しても、どれだけ押さえ付けようとしても、あの新人が、強く、熾烈しれつに、切り開いていく。



〝狂信者にも、お前らみたいな反吐が出る最低野郎にも! 俺は負けない! 例えそれで無様に殺されたとしても! 俺は最後まで戦って死ぬ!〟



 何故、彼はあれだけ激しく主張出来るのだろう。

 誰かが死んで怯えて、狂信者に攫われそうになってフランツに抱き着いていた。

 普通なら、一度襲われたら恐くて恐くて堪らないはずだ。辛うじて狂信者の手から逃げ延びた聖歌騎士の中でも、トラウマになって外を出歩けなくなった者もいる。

 それなのに。



 彼は、言うのだ。最後まで、戦って死ぬ、と。



 腹立たしいのに。虫唾が走るのに。憎たらしくて切り刻んでやりたいのに。

 何故だろう。

 無様でも。最後まで戦って死ぬ。

 その言葉がひどく、ファルの心を強く引っ掻いて離れない。

 何故だ。何故、気にかかる。



「……、……嫌だ……」



〝絶対、……絶対っ。見返してやるっ〟


〝絶対、土下座させてやるんだ。――の――を―――――こと……っ!〟



 ――ああ、嫌だ。



 本当に嫌だ。



 思い出したくないことまで、脳裡のうりの奥を掠めていきそうで苦しい。

 ファルは上を目指しているのだ。こんなことで、つまずくわけにはいかない。過去に足を取られている場合ではないのだ。

 だから。


「……消えてくれないかな」


 ファルの心を掻き乱して、嫌なことまで想起させる彼を視界から消したい。

 何か、キッカケが欲しい。

 思いながら、ファルが溜息交じりに同僚と一緒に歩き続けていると。



「……第十位の諸君」

「――――――――」



 急に声をかけられた。

 何だといぶかしげにファル達は振り返り――仰天する。

 そこにいたのは、普段は滅多にお目にかかれない存在だったからだ。

 けれど。



 あの新人とは、何度か話しているのを見かけたことがある。



 また怒りが燃え盛る様に大きくなる。

 だが、彼が口にしたのはファル達の予想をぶち破るほど意外な内容だった。



「お前達の力を見込んで、協力をして欲しい。――」



 その内容は、ファルにとっては狂喜乱舞するしかないほど、願ったり叶ったりのものだった。



 ――ああ、これで。



 口元がにやけるのが止まらない。他の同僚達も同じなのか、互いに顔を見合わせながら笑みが歪んでいく。暗い愉悦が、足元からひたひたと這い上がってくるこの感触が、気持ち良くて堪らない。

 彼が提案したその要請に、ファル達は一も二もなく頷いた。

 そうだ。今度こそ、逃がさない。



 ――自分が、全て支配するのだ。



 誰にも邪魔されることなく、上を目指す。これに応えれば、まっしぐらだ。

 あの先輩を、再び絶望に叩き落とすのも自分だ。新人も、すぐに消える。

 邪魔はさせない。誰にもさせない。

 それだけを夢見て、ファルは相手が語りかけてくる計画に、必死に耳を傾けた。


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