第119話


「あれ……?」


 ふと気付くと、カイリは荒れ果てた大地の上に立っていた。

 薄暗いもやが辺り一面を覆っており、人っ子一人見当たらない。全く見慣れない景色に、ここは何処だろうと恐る恐る見渡す。

 耳を澄ませても鳥のさえずりりどころか、木々のざわめき一つ聞こえてはこない。静寂が痛いほど耳を突いて、己の息遣いだけが震える様に落ちる。

 あまりにも音の無い世界に、急激に不安が胸の内に広がっていった。


「……何処なんだ? ここ」


 じわじわと染みる様に不気味な空気に怯みそうになるのを、拳を握り締めて心を奮い立たせる。まずは手掛かりだと、カイリは懸命に辺りを探った。

 最初はぼんやりした視界であったが、目を凝らせば徐々に世界の輪郭りんかくが見えてきた。

 そうして晴れた視界の向こうには、ぼろぼろの石造りの壁の建物がそびえ立ち、遠くにはうっすらと山が見える。発見した建物の方はあちこち崩れ落ちており、かなり老朽化が進んでいる様だったが、それでもまだ建物としての機能は残っていそうで頑丈な造りだと判断出来た。


「……砦、かな? 街中にそんなのは無かったし……。じゃあ、ここは国の外……なのかな」


 更に手掛かりを求めて周りを見渡したが、後は真っ黒な海が物騒なほど隅々まで広がっているだけだ。空はどんよりと薄暗く、今にも雨が降り出しそうである。

 風はよどみ、澄んだ空気の匂いも感じられない。身を置けば置くだけ心が侵されながら落ちていくさまに、カイリは自然と絵が入っている胸元に手を当ててしまう。


「ここって、一体……」


 確かカイリは、先程まで普通に寝ていたはずだ。

 任務でルナリアの孤児院に来て、切り裂き魔という厄介な事件にも出くわして。

 その最中さなかでフランツとアナベルの険悪なやり取りを聞いてしまい、失意のまま風呂へ入って倒れ込む様にベッドに寝転がった。


「……そうだ。フランツさん」


 思わず姿を探して――苦笑してしまった。

 奇妙な状況に慣れていけば、これが現実的でないことは充分理解出来る。



 これは、夢だ。



 しかし、いつも見る悪夢とは種類が違う。カイリが経験する悪夢は、大抵平和な村から始まるからだ。


「じゃあ、これは一体何なんだろう」


 夢なのに、大地を踏みしめる感触はしっかりと足の裏から伝わってくる。見たことのない景色であるのに、鮮やかに光景も描写されていた。

 何から何まで不可解な出来事ではあるが、動かなければ何も始まらない。とにかく歩いてみようと、まずは黒い海らしきものに向かって歩を進めた。

 すると。



「……ごめんなさい」

「――」



 消え入りそうな女性の声が、カイリの耳に微かに届く。

 弾かれた様に声のした方を振り返れば、真っ黒な簡易ドレスをまとう一人の女性が両手を組んで項垂うなだれていた。祈る様に膝立ちになり、ひたすらに虚空を見つめている。

 さらさらとしたオレンジ色の髪が背中に流れ、黒い衣服に鮮やかな光を差し込む様に清らかだ。こんな場所でなければ、まるで聖母の様だと誰もが思っただろう。

 しかし。



 聖母の如き清らかな女性の横顔は、まるで死人の様に真っ白だった。



 夜の様に深い紺色の瞳には、生気すら感じられない。むしろ、まっしぐらに死に向かう狂気さえ宿っている。

 危険だ、と警鐘けいしょうを鳴らす直感とは裏腹に、カイリは彼女の瞳から目が離せない。吸い込まれる様に見つめてしまう。

 そうして、ゆっくりと瞬く彼女の瞳は、カイリの心をあっという間に引きずり込んだ。


「――っ!」


 まるで奈落の底へと引きずり込まれそうな錯覚に、カイリの背中に強烈な悪寒が走った。我に返り、一歩後ずさる。

 だが、恐怖を感じながらも女性から目を離せない。

 本能で何とか足を引きずったが、思う様に動かずよろめく。

 それが、命取りだった。


「って、う、わ、あっ⁉」


 震える足が何かを引っかけ、カイリは派手に背中から転んでしまった。どたん、と受け身も取れずに倒れ込んでしまい、一瞬息が詰まる。

 いたっと、慌てて両手を地面に突いたその瞬間。



 ぐにゅりっと、不穏な感触が両手の平いっぱいに広がった。



「……ひっ⁉」



 得体の知れぬ触感に、カイリの体が思いきり跳ねる。急いで両手を地面から離したが、座り込んでしまった尻や足から伝わる感触もどこか柔らかい上に生温かい。

 一体何が、とカイリが動転しながら地面を見下ろすと。


「う、わああああああああっ⁉」


 地面に広がっていたのは、先程遠目に確認した真っ黒な海だった。

 いつの間にか足を踏み込んでいたらしく、今やカイリの周囲は黒一色に侵されている。

 かなり深くに迷い込んだのか、果てすら見えない。沈みそうな感覚さえ覚え、カイリは手を伸ばして必死に逃れようとした。


「な、に。なんなんだ、これ! た……っ!」


 みっともなく叫びながら懸命に暴れる。

 しかし、もがいてももがいても助けが来るはずもなく。絶望に溺れそうになりながら、がむしゃらに海から逃れようと暴れ――。


「……って、……あれ?」


 唐突に違和感に気付いた。思わず伸ばした手を止める。

 抜け出そうとしたその海からは、カイリを飲み込む気配は全くしない。波の様に揺れるわけでもなく、ただただ沈黙を守るその様子に、カイリは首を傾げた。

 しかも、耳をよくよく澄ませてみると、どこか息遣いの様なものさえ聞こえてくる。

 恐くはあったが、もう一度真っ黒な海を丹念に観察してみた。

 攻撃してこないことを確認し、意を決してそっと海の表面に触れ――声を失う。


「……う、み……じゃ、ない」


 地面を埋め尽くすほどに黒くうねる波は、海などではなかった。何となく見慣れた黒に、ぱちぱちと目を瞬かせる。

 衣服越しに伝わる温かな感触。黒い海から所々はみ出している肌色や、黒に埋もれつつも主張する様々な色。

 これは。



「……、……人? もしかしてこの制服、……教会騎士、か?」



 呆然と呟きながら、カイリは立ち上がってもう一度目を凝らす。

 間違いない。黒い海だと思っていた正体は、地面を埋め尽くした教会騎士の人々だった。折り重なる様に倒れ伏し、全員残らず意識を失くしている。

 今ならば、はっきりと人間だと分かるのに、何故海だと思ったのだろうか。


「……夢、だからか? 最初は砦も見えなかったし、……」


 疑問は尽きなかったが、それよりも彼らはどうして一様に倒れ伏しているのだろう。

 まさか。



「――死、……っ、――っ」



 よぎった不吉な予感を、頭を思いきり振って散らす。体が芯から震えそうになったが、試しにカイリは近くの一人の首元に指先を当ててみた。

 すると、指の腹に、とくり、とくりと小さく脈打つ音が伝わってくる。間違いなく生きていると如実に訴えてきた。

 体温も正常に思えるし、寝息さえも微かに聞こえてくる。


「良かった……」


 無事だと分かって、カイリは力が抜ける様に安堵する。異常事態ではあるが、特に怪我なども無さそうだし、ひとまず安心だ。

 しかし。



「……ごめんなさい」



 もう一度、細い謝罪が黒い海を撫でる。

 振り返れば、女性は既に祈りの形を解いていた。膝立ちになって、不釣り合いな銀色の剣を一心に両手で握り締めている。

 何を、とカイリが思う間もなく。



 どすっ、と。彼女は、目の前の一人を躊躇いなく突き刺した。



「――――――――、……、え?」



 びっと、彼女の顔に勢い良く血飛沫が飛び散る。

 血飛沫が跳ねるのを。びくり、びくん、と刺された相手が地面に打ち上げられた魚の様に跳ねるのを、カイリは呆然と見つめた。唐突な惨劇に、思考が目の前の光景を拒否しようとする。

 彼女は返り血を浴びていたはずだが、ドレスの様な騎士服は黒いせいで、あまり目立たない。


 だが、真っ白な肌に不気味なほどよく映える鮮やかな赤が、彼女の凶行を一際ひときわ強く照らし出す。


 カイリが呼吸も忘れて凝視していると、刺した相手を静かにじっと見つめていた彼女は、やがて緩々と震える手で剣を引き抜いた。

 そして。



 もう一度、素早く剣を振り下ろした。



「……ブレット」

「――」



 どすっと、先程よりも重くて鈍い音が深々と突き刺さる。



「初めて団に紹介されて、緊張していた私に。最初に気さくに声をかけてくれて、ありがとう」



 感謝を告げながら、彼女は押し込む様に深く刺す。

 二回も刺された彼は、びくんっと、またも大きく飛び跳ねた。びくびくんっと魚の様に跳ねていた体躯たいくは、しかし次第に動きが小さくなっていく。

 そうして完全に動きが停止したのを見届けて、彼女はずるりと剣を引き抜いた。

 あれほど綺麗な銀色に彩られていた剣身は、生きていた人間の命を吸い取って、びっしりと真っ赤に染まっている。

 人が、死んだ。あっけなく。

 それなのに。



 彼女は、笑っていた。



 まるで救いを与える女神の様に綺麗に笑いながら、剣を構えて別の人間に振り向く。


「や、……やめろ」


 嫌な予感が爆発的に膨れ上がり、カイリは弾かれた様に駆け出した。震える足を叱咤しったし、女性の元へと急いで近付く。


「やめろ!」


 声の限りに叫ぶが、彼女が手を止める様子は微塵も感じられない。

 ならば、と剣に手を伸ばし、無理矢理もぎ取ろうとした。

 けれど。



「アンネ」

「――っ、え」



 すかっと、カイリの手が剣の柄をすり抜ける。



「料理が壊滅的な私に、……全然上達しない私に、それでも毎日根気強く教えてくれてありがとう」



 驚いて目を見開くカイリの前で、彼女は笑いながら剣を振り下ろした。

 ざしゅっと、残酷な音が目の前で跳ねる。びちゃっと、カイリの元にも血飛沫が舞い散って、生暖かい感触が頬を濡らす。

 ひっ、と情けない悲鳴を上げたが、彼女はまるで気にしなかった。


「や、……や、め……っ」

「クライド。何度も裁縫の針を指に刺す私に、呆れもせずにコツを教えてくれてありがとう」


 言いながら、彼女はまた思いきり剣を振り下ろす。

 彼女は、止まらない。カイリが悲鳴を上げても、聞こえていないかの様に笑顔を浮かべ続ける。

 穏やかに、まるで慈愛に満ちた聖母の様な表情で、彼女は次々と彼らを刺していく。


「ベラ。街が広すぎて迷子になっている時、探しに来てくれてありがとう」


 どしゅっ、どすっと、力強く、勢い良く、彼女は笑って命を奪っていく。

 最初は震えながら、けれど次第に手から震えは無くなり、一撃で、確実に仕留めていく様になった。

 その聖母の様に清楚せいそな笑顔が、どんどんと狂気に塗れていく光景に、カイリは必死に止めようとした。すかり、すかりと彼女や剣を通り抜けていく手をもどかしく思いながら、声を限りに叫び続ける。



「やめて、……お願いだ、やめてくれ!」

「バード。贈り物で困っている時、あの人の行きつけの店を教えてくれてありがとう」

「なあ! 聞こえないのか⁉ やめてくれ! なあっ!」

「シンディー。あの人に話しかける勇気が持てない時、笑って背中を押してくれてありがとう」

「おい! やめろ! ……何で? 何でだよ……!」

「トニー。図書室で重い本を整理している時、いつもさりげなくフォローしてくれてありがとう」

「……やめて……っ、……もうやめてくれ……っ」

「サラ。お皿や花瓶を派手に割って落ち込んでいた時、一緒に片付けてくれてありがとう。……代わりの食器や花瓶も、一緒に選びに行ってくれて嬉しかったわ。……楽しかった」

「おい、もうやめろ、……っ、……だって、貴方」



 ずっと、泣いているじゃないか。



 彼女はとどまることを知らないまま、笑いながら次々と刺していく。

 次から次へと本当に躊躇いなく。彼女は確実にとどめを刺しながら、一人一人の命を奪っていった。

 けれど。


 彼女は、泣いていた。



 笑いながら、泣いていた。



 一人一人に必ず声をかけながら、感謝を告げながら、彼女はひたすらに笑って泣いていた。

 だから、分かってしまった。――分かりたくもなかった。



 この倒れ伏している人達は、彼女の大切な仲間なのだ、と。



 一言一言を聞くだけでも理解出来る。彼女にとって、彼らと過ごした日々はとても温かく、ささやかでも掛け替えのない大切な日々だったのだ。

 カイリの村での日々と同じ。彼女にとっては、幸せな毎日だったのだ。彼女の言葉を聞くだけで、目に見える様に鮮やかに思い描ける。

 それなのに、何故彼女は彼らの命を奪っていくのだろう。

 何故、笑いながら刺すのだろう。


「おい、……おい! 貴方、一体」

「ララ。……同じ部屋で、一緒に過ごす日々。楽しかった」


 ララ、と呼ぶ女性の前で、彼女の手が一瞬ぶれる。

 何、と思う合間にも、彼女は今までになく綺麗に――悲しそうに笑った。


「……あの人と結婚してから、部屋は離れてしまったけれど。それでも貴方と過ごす日々の方が、きっと多かったわよね。楽しかった、本当に。……大切な親友だった。本当よ」


 親友、という単語にカイリの胸が一層ざわつく。一瞬ケントの顔が脳裏を過って、ひぐっと喉が変な風に鳴った。



「……ま、……待って……っ」

「……っ、大好きよ。……ありがとう……っ」

「――っ!」



 彼女は、ララと呼ぶ女性に強く、振り切る様に剣を突き刺した。どっ、と刺し込んでから、彼女は初めて剣の柄に額を乗せて項垂れる。



 ――どれだけの人間を、殺してきただろうか。



 カイリは気が狂いそうになりながらも、どうしても彼女を放っておけなくて懸命に止めようとした。

 だが、結局何も出来ないまま、彼女は半分以上の人間を殺してしまった。既に瞳から狂気は抜け落ち、視線はうつろに彷徨さまよい始めている。


「はあ……っ、……まだ、よ。……まだ、終わっていないわ」


 剣の柄から額を離し、彼女は己の両手を見下ろす。

 今や真っ赤に濡れたその手は、人の血のはずなのに、彼女からあふれ出す嘆きの涙の様にカイリの目には映った。

 ぼんやりと彼女は手を見下ろし、ふふっと力なく笑う。その赤く濡れた頬に、ぽろっと一筋の涙が落ちる様は、彼女の最後の良心に思えた。


「駄目ね、私。……優しい手だって、言ってくれたのに。こんなに穢い手になっちゃって」

「……っ」


 笑いたくもないのに笑ってしまう。

 そんな荒れ果てた空気が漂ってきて、カイリは堪らず彼女の手に己の手を重ねようとした。

 だが。



「――フランツ」

「――」

「もう、私、……貴方のこと、抱き締めてあげられなくなっちゃった」



 ごめんなさい。



 愛しそうに、けれど悲しそうに呟かれた彼女の言葉を最後に、カイリの意識は急激に上へと引っ張られた。











「――カイリっ!」

「――――――――っ!」


 名を呼ばれると同時に、ばちっとカイリの目が勢い良く開かれた。訳も分からぬまま、はっと大きく息を吸い込む。

 どくどくと、心臓が突き破る様に激しく暴れ回っていた。全身は汗だくで、衣服が肌にまとわり付く感触がひどく気持ち悪い。

 震えを逃がすために荒く息を吐くと、心配そうな声がカイリの耳朶じだを優しく打った。


「カイリ、……大丈夫か」

「……、え」


 声をかけられて、カイリは緩々と顔を上げる。

 見上げた先では、カイリを囲んでフランツ、レイン、エディが覗き込む様に立っていた。気遣わしげな視線を注がれて、カイリは居た堪れなくなる。


「あ、……俺」

「かなりうなされていたぞ。……悪いと思ったが、起こしてしまった。大丈夫か?」


 苦しそうな声音を出すフランツに、カイリはゆっくり起き上がって首を振る。

 だんだんと意識が現実に集約されていき、ようやく夢から覚めたのだと実感した。


「すみません。……ありがとうございます」

「……汗、びっしょりっすね。着替え出すっすよ」

「え? あ、ごめん。自分で出すから」

「良いっす。新人は、少し息を整えて心を落ち着けるのが先っすよ」


 言いながら、エディがカイリの荷物をごそごそとあさっていく。率先して動いてくれる彼を見て、かなり心配をかけてしまったと反省した。


 ――みんなのこと、起こしちゃったのか。


 窓の方へ視線を向けると、カーテン越しの外はまだ薄暗い。夜明けも早い時間帯なのだと、暗に告げられて落ち込んでしまう。彼らには本当に心配と迷惑のかけ通しだ。

 いつもならぬいぐるみのバトを抱き締めて心をなだめるのだが、旅先には持ってきていない。何となく落ち着かない気分の中、フランツ達の存在はひどくありがたかった。


「あの、ありがとうございます。……少し楽になりました」

「……まだ無理はするな。顔色が悪いぞ」

「あー、ならココア淹れてやるよ。あったかいものでも飲めば、悪夢なんかすぐ忘れちまうぜ」


 言うが早いが、レインが部屋から出ていく。程なくして階段を下りていく音がしたので、キッチンへ向かってくれたのだろう。

 至れり尽くせりの状況に、カイリは不謹慎だが嬉しくなった。じんわりと心に熱が広がっていく感覚に、涙が出そうになるのを懸命に堪える。おかげで、冷え切っていた手足も温かくなっていくった。

 しかし。


 ――あれ、本当に何の夢だったんだろう。


 本当に最悪な夢見だった。村以上に大量の死を目の前で見せつけられ、握り締められる様に胸が痛くて苦しい。

 けれど、それ以上に。


「……あの人」

「うん?」


 無意識にぽつりと漏れた言葉に、フランツが耳ざとく反応する。

 しまったと思ったが、もう遅い。眉根を寄せる彼に、己の迂闊うかつさを呪った。


「どうした。誰か出て来たか?」

「あ、……はい。その、知らない人だったんですけど」


 どう説明したものかと思案したが、あまり内容を口にしたくはない。言葉にしたら、その分吐き気が強まりそうで、今のカイリでは耐えられそうになかった。

 それに。



 ――オレンジ色の、長い髪の人。



 よくよく考えると、あの髪色はアナベルの髪色と酷似していた。もしかしなくとも血縁者ではないかと、容易に想像が付く。

 アナベルには姉がいた。両親の存在は知らないが、彼女の家族の様な気がしてならない。フランツ、と名前を口にしていたのも気になる。

 だが、カイリはアナベルの姉の顔を知らない。写真があるかもしれないが、確かめる勇気はなかった。


 何故、顔も知らない女性が、夢に出てきたのだろうか。


 昨夜のフランツとアナベルの口論を耳にして、勝手に脳が想像して夢になったのだろうか。

 だとしても、あんなに酷い悪夢は見たくなかった。最近村の惨劇も思い出していたから、知らず内に結び付けてしまったのかもしれない。


「すみません。……あんまり、内容は覚えていなくて。というより、よく分からないんです」

「……そうか」

「でも、本当にもう大丈夫です。……フランツさん達の顔を見て、安心しましたから」


 心のままに笑えば、フランツも安堵した様に笑った。

 しかし。



 すぐに、彼はカイリから視線を逸らしてしまった。



 あまりに不自然な逸らし方で、カイリは衝撃よりも戸惑いを覚える。

 しかもその逸らし方がとても苦しそうに見えて、訳の分からぬ不安に襲われた。


「フランツさん?」


 呼んでしまったのは、無意識だ。情けないほど掠れてしまって、失敗したと舌打ちしたくなる。

 フランツは、また視線を合わせて頭を撫でてくれたけれど。



「大丈夫だ、カイリ」

「……、はい」

「もう、……大丈夫だからな」



 わしゃわしゃと撫でてくれるその手は、確かに温かくて包み込んでくれるようだったのに。

 何故だろうか。



 一瞬にじみ出ていた苦しみを、その笑みに大量に含んでいる気がしてならなかった。


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