第75話


 さらっと涼しげな光が、閉ざされた向こう側に見えて、カイリはゆるりとまぶたを持ち上げた。

 目を開けた途端、まっさらな白い明かりがカイリの視界いっぱいに満たされる。まばゆいが、決して刺す様な激しさは無い。ただただ優しく世界が広がっていく様な明るさに溢れていて、カイリの心も静かに満たされていった。


「……、もう、朝か」


 何だか瞼が痛い。頭も重いし、満ち足りた心に反して体はひどく気怠けだるかった。

 何故だろうと思いながらも上体を起こすと。



「よう。はよーさん」

「え、……あ、レインさん」



 おはようございます、と頭を下げてカイリはぼんやり彼を見上げる。

 既に彼は身支度を整えていて、窓際に佇んでいた。適度に着崩したシャツに、肩からそでを通さずに羽織ったコートは、朝日の滴を弾きながら煌めいている。光を背負うその佇まいは、いっそ神々しい。

 彼は容姿も整っているから、ただ立っているだけで目を引く。街中で女性が振り返るのも納得というものだ。


「……、……あ」


 そんな取り留めもないことを考えながらぼーっとしている間に、ゆっくりと昨夜のことを思い出す。

 そういえば、カイリは昨日、悪夢にうなされて飛び起きてしまったのだ。おまけに、悪夢と現実の区別がつかなくなって暴れてしまい、レインを叩き起こすという失態まで犯した。気がする。


「……っ、れ、レインさん。すみません」

「あ?」

「昨日。俺、起こしてしまいましたよね。うるさい上に迷惑をかけて……すみませんでした」


 慌てて頭を下げて、ふと己の装いにも気付く。

 昨日身にまとって寝たパジャマと違う柄だ。そういえば、レインとの会話で汗だくだから着替えなければという話を交わした気がする。

 それからの行動が、記憶に無い。寝ぼけたままパジャマを着替えた――なんて器用な真似をカイリが出来るとは思えなかった。


「す、すみません、あの。レインさん」

「ん? 何だよ」

「パジャマ、あの、……もしかして」

「あー……、……、……着替えさせたぜ」


 ――やっぱり。


 悪夢で叩き起こして迷惑をかけただけではなく、着替えさせてもらうという子供の様なことまでさせてしまったとは。空いた穴が無いから、自ら掘って埋まってしまいたい。


「ごめんなさい……。重ね重ね、ご迷惑をおかけしました」

「いやー……、……あれから寝れたか?」

「……、はい。……」


 その後、また嫌な夢を見た気がするが、あまり覚えてはいない。何だか、途中で誰かが力強く支えてくれた感じがしたからだ。

 どちらかと言うと、そちらの温もりの方を強く覚えていた。その温もりに甘えて、安心しながら夢の中に潜った感じがする。



「よく、覚えていないんですけど。途中で、安心した気がします」

「……、へえ」

「だから、多分眠れたんだと思います。ありがとうございました」



 レインには本当に迷惑をかけてしまった。恐らく、今もカイリが起きるまで待ってくれていたのだろう。普段ならば、そこまで身支度を終えているのならば、先に部屋を出ている。

 故にもう一度頭を下げると、レインは頭をがりがりいて黙り込んでしまった。何となく気まずそうだと首を傾げると、呆れた様に嘆息する。


「お前って、そういう奴だよな」

「え? はあ。そういう、奴、ですか?」

「あー……。……早く用意して行こうぜ。多分今日は、団長が張り切って朝食作ってんぜ」


 レインのどこか白い声に、カイリは更に首を傾げながらも急いでベッドを降りた。顔を洗って歯を磨き、ぱたぱたといつもの制服に着替える。

 何とか髪も見れる程度に整えて扉を開けると、そこにはシュリアが腕を組んで向かいの扉に寄りかかっていた。何だかレインと同じ様なポーズだなと、少し笑ってしまう。


「おはよう、シュリア」

「……おはようございます」

「おはようございます、カイリ様、レイン様」

「あ、リオーネ。おはよう」


 部屋から出たすぐ横に、リオーネも待ち構えていた。

 何だか、今日はみんな勢揃いだなと、みんなの存在に少しだけ慰められた。やはり、酷い悪夢を見たからだろうか。

 悪夢でも現実でも、――両親も、友人も、村の人達も、みんな死んでしまった。



 真っ赤な惨劇と、飲み込まれそうになるほど真っ暗な夜に一人取り残される。



 あの恐怖と孤独は、すぐに消え去ることはない。

 だからこそ、こうして人が――仲間がいるこの空間に、いたく安堵を覚える。


「……ありがとう」

「え?」

「あ、ううん。何だか、みんなの顔を見るとホッとするからさ。それだけ」


 リオーネのぱちぱちと瞬く疑問に、カイリは慌てて手を振った。変なことを口にすると心配させそうだが、これ以上何か言うとぼろっと吐いてしまいそうだ。

 故に、誤魔化す様に食堂の扉を開けると。



「ああ、おはよう、カイリ。起きたか」

「おはようございます、新人! やっと来たっすね」



 フランツとエディがにこやかに待ち構えていた。まるで仁王立ちする様な二人の姿勢に、何だか親子みたいだなと微笑ましくなる。


「おはようございます、フランツさん。エディ、おはよう」

「ふっふーん! 今日は、ボクとフランツ団長の合作っすよ」

「へえ! 二人で作ったんだ」

「ああ、たまにはな。俺が作ったのは、カツと味噌汁とほうれん草の胡麻ごまえにあさりの酒蒸しだ。そして」

「ボクは、キャベツと鶏肉をメインにした煮込みに、明太子の炊き込みご飯、さつまいもサラダとか作ってみたっすよ」


 朝から豪勢だ。


 和と洋が見事に混ざった献立こんだてである。朝から気合が入っていることは多いが、今日はいつにも増して凄い。

 二人共料理が上手いし、張り合う様に作ったのだろうか。どれも良い匂いが立ち上っていて、喉とお腹が鳴る。


「美味しそう……」

「ははっ。お前、相変わらずお腹、元気だなー」

「ほら、早く座れ。朝食は一日の基本なのだからな」

「そうっすよ! お代わりもたくさん作ったっすからね!」


 にこにこと案内され、カイリは言われるがままに座る。

 そうして全員が素早く席に着き、いただきますと手を合わせた。食べ始めた彼らを追いかけて、カイリもまずは味噌汁に手を付ける。

 途端、ふわりと味噌とダシの良い香りが鼻孔をくすぐる。肺を通って心に沁み渡る様な匂いに誘われ、カイリは堪らず一口すすった。


 ――ほどよく温かい味噌汁が、喉を通って体全体にみていく。


 疲れ果てた身を優しく撫でる様な熱に、カイリの目の奥が熱くなった。

 本当に、優しい。彼らの心が滲み出ている。

 温かな家庭の味というものを身近に感じ、知らず視界が揺らいだ。



「……っ、……美味しい」

「そうか。良かった、……って、どうした、カイリ」



 何故かフランツの慌てた様な声に、カイリは目の前が滲んでいくのが分かった。喉に、ぐっと力を込めて何とか押し止める。

 朝から泣いたりしたら、それこそ変に思われるだろう。既に思われているだろうから、少しだけ困った様に眉根を寄せた。


「すみません。何だか、安心してしまって」

「……カイリ」

「……ごめんなさい。本当に、ただホッとして。……夢見が、悪かったので」


 納得させるには、理由を一部でも話すしかない。

 案の定、フランツ達の顔が曇ったが、それでもカイリは笑えた。心からの笑みが零れ落ちるのを止めることは出来ない。

 夢の中で、父も、母も、ライン達も、みんな、みんな、無残に事切れていた。


 仇であるエリックが、夢の中で彼らを殺した。


 夢を見て、思ってしまった。自分は、彼の死を願っているのではないか、と。

 きっとあれは、カイリの黒い願望の一部が形になって表れてしまったのだろう。

 もしかしたら、残酷な願いを抱いているかもしれないと。そうだとしても、逃げるなと。そう、忠告されているのかもしれない。


 ――恐ろしい心だ。


 本当に自分がそんな暗い感情を抱いているのならば、これほど恐ろしい生き物は無い。

 だが、それでも。



 ――ここは、とても温かくて、優しい。



 黒いどろどろした感情も、ゆっくりと溶かしてくれる。真っ白な朝日の如く照らして、浄化してくれる。

 そんな幸せな温かさが、壊れかけた心を満たしてくれた。


「みんなが、ここにいる。そのことが、とても嬉しいなって。そう、思ったんです」

「……」

「起きたら、おはようって言える人がいて。温かなご飯を用意してくれる人がいて。それを一緒に食べられる人がいて。それって、すっごく幸せなことだなって」


 カイリは、一人ではない。


 そう強く教えてくれる彼らに、感謝してもしきれない。

 だからきっと、例えおぞましい真っ黒な願いを抱いていたとしても、乗り越えられる。心から思えた。



「俺、幸せだなって。……そう思えるのは、フランツさん達がいてくれるからです」

「……カイリ」

「だから、ありがとうございます。ご飯も、とっても美味しいです」



 感謝を告げてから、カイリは暗くなりかけた空気を払拭する様にカツに手を付けた。

 さくっと小気味良い音と共に溢れる肉汁が、とても美味だ。一緒にき込んだご飯もぴりっと明太子の辛さが効いていて、まさに幸福の味である。


「うーん、美味しい! 美味しいです、二人共!」

「……、そうかっ。よし、たくさん食べると良い。やはり朝食は大事だからな」

「カイリ様の食べっぷり、素敵ですよ」

「……うおおおおおおおおお! 新人には負けん! 勝負っす!」

「え。何を?」


 いきなり訳の分からない闘争心を燃やして、エディが物凄い勢いでご飯を食べ始めた。

 しかし、普段そんな食べ方をしない彼は、すぐさま喉にご飯を詰まらせていた。み、水、と必死にもがく彼に、慌ててカイリが水を持っていくという珍事に、フランツが笑い、レインが呆れ、シュリアが溜息を吐き、リオーネがあらあらと見守る。

 そんな何気ない、けれど掛け替えのない日常に、カイリは笑顔が溢れて止まらない。


 こんな幸せな日々が、少しでも長く続きます様にと。カイリは、秘かに噛み締めながら願った。











「……第十三位。それが、ターゲットが今いる場所だ」


 暗く、日の当たらない路地の物陰で。

 むさ苦しく顔を突き合わせた黒ずくめの男達に淡々と説明され、空色の髪をした青年は口を一文字に引き結んだ。

 その青年の様子を、男達は胡乱うろんに見つめる。明らかに警戒しているのは火を見るより明らかだ。懐の得物を確認しながら、声を低くして問いかけてきた。



「何だ。今更怖気づいたか?」

「……、まさか。ただ」



 あいつ、教会騎士になったんだな。



 そう思っただけだと不機嫌に語れば、男達は少々憐みの混じった視線を寄越してきた。それが更に腹立たしい。

 そうだ。空色の青年は、騎士になってみたかった。

 村にいた頃、彼に激しい嫉妬を覚えていた。村のみんなが、彼に注目していた。


 青年は、彼が生まれたその日から、おざなりに扱われる様になっていた。


 だからこそ教会騎士になって、もう一度村の人間を見返したかった。自分の方が凄いのだと、認めて欲しかった。

 教会騎士は、聖歌騎士ほどではなくても世界で一目置かれる存在だ。そんな誉れ高き一員になれば、村の者達の視線も再び自分に向くのではと考えたのだ。

 だが、結果は――。



「……お前が情報をもたらした少年は、教会騎士ではない。聖歌騎士だ」

「――っ!」



 男達の淡泊な訂正に、青年の心が熾烈しれつに焼き切れる。だんっと、地面を無意識に殴りつけてしまって、彼らの注目を引いた。

 そうなのだ。あろうことか、彼は教会騎士ではないのだ。



 彼は、教会騎士の更に上の、聖歌騎士になったのだ。



 よりによって、教会の最も欲しがる人材に成り果てたのだ。

 これほど屈辱的な結末があるか。

 自分の欲を満たすために差し出した生贄いけにえが、あろうことか更に自分の上を行く存在に押し上げられた。しかも、己の行いのせいでだ。

 大切な故郷まで失ったというのに、どれほど彼は自分の先を歩いていくのか。見せつけるその背中が憎くて憎くて仕方がない。

 そうだ。



 ――村が、滅びたというのに。



 彼は悠々と新しい世界で歩き出している。

 自分は、こんな日の当たらない場所にしか身を置けないというのに。



 ――この違いは何だ。



 生まれか。境遇か。才能か。

 才能だとしたら許せない。剣もろくに扱えない上、狩りも出来ずに釣りも下手。踊りだって一度だって上手く踊れた試しは無いし、畑仕事も平凡そのもの。

 そんな彼が、歌を歌えるだけで何処に行ってもちやほやされる。

 許せない。――許せない。

 そんな不公平があって良いはずなど、無い。

 だから。



「……、……どうやって、捕まえるんだ」



 自分でも思った以上の暗い声が出た。

 男達はその青年の反応に満足したのか、続きを紡いだ。


「とある情報を掴んだ。近々、奴は任務を受けるらしい」

「任務?」

「ああ。……結構人も多い場所でな」

「人が多いと、むしろ捕獲の邪魔にならないのか?」

「そんなことはない。それなりに一般人もいるのだ。彼らを巻き込めば、騎士の奴らも対処せざるを得ない。そのごたごたの隙をって、奴をさらう」


 かなり危険な賭けの様に青年には思えたが、相手は下っ端とはいえ狂信者だ。聖歌騎士を攫う経験も多い。恐らく、周囲を巻き込んだ方が隙が生まれやすいなど、色々あるのだろう。

 しかし、彼らのその決定すらはらわたが煮えくり返りそうだ。

 村が、奴を欲し。教会も、奴を欲し。



 極めつけに、狂信者も奴を欲する。



 誰も彼もが、あの出来損ないの役立たずを喉から手が出るほど欲しがるのだ。これに憤怒せずにいつ憤怒せよと言うのか。

 彼のせいで、青年はこんなにも危険な綱渡りをしている。狂信者の正体を知ってしまったからには、生きる道は彼らと同じ未来を共にすることしか残されていなかった。

 そして、信用されるには、何が何でも情報として提供した歌を歌える彼を捕まえ、差し出さなければならない。

 そうして、狂信者が提唱する「幸せなる未来」へ向かうのだ。

 そこになら、自分の居場所はある。そう信じて。



「……、彼は剣も未熟で、攻撃すらまともに出来ない。捕まえるのは簡単だ」

「そうだと良いのだがな。しかし、聖歌騎士は単独行動をしないことが常だ」

「エリック、奴を張れ。誘導出来たら、この場所へ。首都の中で最も『我らにとって』安全な場所だ」

「任務前に捕まえられそうだったら、捕まえてしまいたいしな。……任務先には、面倒な相手も多い。楽を出来るに越したことはない」

「分かった」



 彼の腕前は、この中で青年が一番よく知っている。

 彼は運動神経はそこまで悪くないが、剣もまともに振るえず、よく年下の子供に木刀を脳天に叩き落とされていた。不甲斐ない醜態しゅうたいばかりさらし、内心で毎度馬鹿にしていたものだ。

 それなのに。



〝カイリー! ほんとうに弱いな! このライン様がきたえてやんよ!〟

〝カイリはわたしの未来のだんなさまなんだから! きっとラインなんてその内ぼっこぼこにできるわ!〟

〝お前たち、ほどほどにしておきなさい。カイリや、あまり無理をするでないぞ〟

〝ふっふ。カイリ! お前に娘はやら……ぐほっ!〟

〝あらあら、お父さんったら。娘の恋心に野暮ですよ〟

〝カイリ。父さん、お前の歌が聞きたいな〟

〝あら。母さんだって聞きたいわ〟

〝カイリにいちゃん、うたってー!〟



 どうして、彼ばかり持てはやされるのだろう。



 取り立てて特徴の無い、情けない輩なのに。

 歌を歌える。それだけで、誰もが彼に注目する。

 そんな不公平、あってはならない。

 だから。



「……、絶対」



〝エリックさん、これ、なんですか?〟



「――」



 消してやる。



 聞こえてきた声ごと、消し去ってやる。

 捕まえて、上に叩き付けて、もう彼の顔など見たくもない。

 どうせ捕まってしまえば、彼は終わりだ。使い潰されて、果てる。そうすればようやく、青年は安寧あんねいを迎えるのだ。

 だから、そのために。



「カイリ。――さっさと死んでくれよ」



 全く日の差さない暗闇の中。

 青年は、呪う様に忌々しい人間の名前を呟いた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る