第76話


「……ああ。このフランツさん特製のお味噌汁が体に沁みる……」


 聖歌の訓練を終え、更に聖歌語乱舞の訓練を終えた後の夕食。

 カイリは、机に突っ伏しそうになるのを懸命に堪えながらフランツお手製の味噌汁をすすった。


 本日はカレイの煮つけにきのこの味噌汁、そして焼いたナスには味噌と生姜しょうが醤油の二種類の味付けが用意されていて、実に手の込んだものだった。


 カレイは汁が染み込んでいて噛み締めるごとに舌に広がり、味噌汁は赤味噌の濃厚な風味が鼻を抜けて味わい深い。焼きナスは甘い味噌もぴりっときいた醤油も、どちらも文句なしである。

 加えて、添えられていたナスの漬物がとても味が染みていて、深く潜り込む様に感じ入ってしまう。フランツは漬物系が得意ではあるが、特にナスは絶品だ。何杯でもご飯がいけてしまう。

 しみじみと疲労困憊の状態で食べていると、フランツがおかしそうに口元に手を当てた。


「どれだけ疲れていても、美味しそうに食べるなお前は」

「あはは、ありがとうございます。だって、美味しいですから」

「そうかそうか。うむ。カーティスの言う通り、カイリは食べる天才だな」

「……は? フランツ様。意味が分かりませんわ」

「あー、……団長。だんだん、そのカイリの父親化してきてねえか?」

「つまり、親馬鹿っすね」

「ふふ。でも、フランツ様はカイリ様の保護者ですから。正しい在り方です」

「……そうですの?」


 よく分からない議論を団員同士で繰り広げているが、会話に入る気力がカイリには無い。体力を取り戻すために、ひたすらフランツの料理を食べ進める。


「でも、カイリ様、少しずつ訓練の時間が伸びていますよ。最初は二十分で沈んでいたのに」

「そうっすね。だんだん、ボクの方が聖歌語使うのが辛くなってきたっす」

「お前は苦手過ぎるんだよ。鍛えるか?」

「い、いいいいいいいいいえ! ボクは、武術を頑張るっす!」


 口元を人差し指で叩きながら挑発するレインに、エディがぶんぶんと頭と手を両方振りまくる。

 相変わらず仲が良いなと感心しながら、カイリはへろへろと席を立った。本当に美味しくて何杯でもいけそうだ。


「カイリ様、座って下さい。お代わりなら私が」

「でも」

「せっかくよそっても、引っくり返したら元も子もありませんから」


 言いながら、リオーネが半ば強引に皿を取り上げた。

 そのままキッチンに向かっていく後姿に、カイリは頭を下げる。正直、体を動かすのも辛いので助かった。

 ――だが。


「……新人。あんたとは一度、決闘をしなければならないと思っていたんすよね」

「は? 何でだよ」

「カイリ……。一応、リオーネはわたくしの友ですから。変な色目は使わないで下さいませ」

「何でだよ! 使ってない!」


 肘をついて両手を組むエディとシュリアに、カイリは必死に叫ぶ。とんだ濡れ衣だ。

 しかし、当のリオーネは笑うだけで、全く加勢をしてくれない。いや、この場合彼女は何も言わない方が良いのかもしれないとカイリは思い直した。特にエディは、何を言ってもしばらくは聞く耳を持たない。無視するに限る。


「はい、カイリ様」

「ありがとう。助かったよ」

「いえいえ」

「……しぃんじぃん……っ! 何です! その、新婚ほやほや、みたいなやり取り! ありえん! 許せん! 表に出ろ!」

「一発殴られて終わるけど、それで満足?」

「満足できるわけないでしょうがあっ! 体力今すぐ戻せー!」

「無茶言うなよ! 俺は食べたらさっさと風呂入って寝たいんだよ!」


 聖歌語抵抗の訓練を始めて三日。

 初日の頃より体力の戻りは早くなってきたが、それでも夜はぐっすりだ。ベッドに寝転んだら最後、記憶は朝まで無い。



 ――あの酷い悪夢も、あれから見なくなったし。



 レインを起こしてしまうほどに取り乱したあの悪夢は、この三日間は何事もなく過ぎ去っていた。あの日以来、寝る前にレインがホットミルクやホットココアを淹れてくれて、心を安らかに保ってくれているおかげでもある。

 レインは何も言わないが、気遣ってくれているのは伝わってきた。感謝してもしきれない。


「……ふあっ」


 しかし、本当に眠い。聖歌語の抵抗訓練は聖歌語をかなりの量使用するので、体力の消耗も激しいのだ。

 故に、今夜も素早くベッドに入りたかったのだが、フランツが制止してきた。


「すまないな、カイリ。その前に大事な話が二つある」

「え?」

「まず、一つ目。カイリ、明日はミサを聞きに行くぞ」

「え? ミサ?」


 いきなり何の話だと、カイリは目を点にする。シュリア達は途端に嫌そうに顔を歪めたので、歓迎出来ない行事であることは明らかだ。

 聖歌隊と言うと、前にケントと初めて遊びに行った時に見た集団のことだろう。真っ白なローブを着て、一律に歩く彼らの異様さは忘れたくても忘れられない。


「……フランツ様。何故、今、このタイミングでミサですの。ミサなんて、毎日毎日アホみたいにやっているではありませんの」

「確かに連日、司祭達が涙を流しながら『教会ばんざーい』とやるだけの儀式だがな。明日は聖歌隊の指揮隊長が参加するそうだ」

「……ますます、げー、っですわ」


 シュリアの本気の吐きそうな顔に、彼女の嫌悪っぷりを知る。

 言うに事欠いて「アホ」と言い切るのも凄いが、「教会ばんざーい」もどうかと思う。前世でのミサへの認識と随分ずいぶん異なるが、この世界ではこれが普通なのだろうか。教会での認識がいまいちよく分からない。

 カイリが訳が分からずに成り行きを見守っていると、フランツが腕を組んで誇らしげに天井を見上げた。



「まあ、聖歌に関しては、カイリこそが讃えられるべき案件だと分かってはいるのだがな」



 一体、何を言いだしたんだこの人。



 妙に勝ち誇った笑顔をニヒルに見せるフランツに、カイリは思わず半眼になった。シュリアも一緒に半眼で呆れていたので、こういう時だけは心が通じ合うなとカイリは場違いな感想を抱く。


「しかし、まあ面倒ではあるが、カイリも後学のために一度は見ておいた方が良いだろう」

「後学、ですか?」

「ああ。聖歌隊は一応教会の中でも特殊な立ち位置でな。戦に駆り出されても後方で歌っているだけですむ。毎日ミサに出席し、正午のスピーカーから流れる聖歌を歌うという、他の騎士団とは一線を画す騎士団なのだ」

「てか、合唱団って言った方が正しいよな。本当、歌ってるだけだしよ」

「うむ。だが、その聖歌が教会にとっては何よりも要となっている。戦でも聖歌隊が駆り出された場合、あの合唱の威力は相当のものがあるからな」


 そう言い切ったフランツの横顔には苦いものが広がっていた。

 言葉ではそれなりに称賛していても、裏に眠る本音はまた違うのかもしれない。


「指揮隊長とは、聖歌隊のトップだ。普段は指揮をするだけなのだが、明日は一ヶ月に一度の『涙を流しながら教皇をたたえ、あがめ、ひざまずけ』の日でな」


 何だその酷い名称。


 カイリの目と口が思わず棒になったが、フランツは構わずに平然と続ける。


「教皇は最上階から降りては来ないが、スピーカー越しに聞くことになる。指揮隊長も指揮をしながら聖歌を歌うのでな。一度で良いから、聖歌隊の実力というものを見ておくと良い」

「……何のためにですの。別に、彼は聖歌隊にはもう入りませんわ」

「別に入れとは俺も言わん。ただ、……この教会の内部を少しずつでも知っておいた方が良いだろう。長い付き合いになるだろうからな」


 フランツの言葉には、静かな迫力がほとばしっていた。シュリアもそれを感じ取ったのか、渋々口を閉じる。

 カイリとしても、教会のことを少しずつ知って行く良い機会だ。

 彼らから聞く話では、教会の在り方が『適当』だらけで、色々と印象が酷い方向へ崩れ落ちていっている。少しでも正しておきたい。――聖歌隊の在り方まで『適当』だったらどうしようという、恐ろしい予測が過ぎったが、カイリは気付かなかったことにした。


「分かりました。フランツさんと一緒に行くんですよね?」

「ああ。全員で行くぞ」

「ええっ!? 嫌ですわ! わたくしは留守番しています!」

「何を言う。万が一カイリが狙われる様なことがあってみろ。あの聖歌合唱を切り抜けるには、お前達の力が不可欠だ」


 何故、そんな物騒な話になるのだろうか。


 カイリは大いなる疑問と不安に包まれたが、フランツは至って大真面目な上に、シュリア達まで口をつぐんでしまったので、聞くのが恐ろしくなった。彼ら全員が付いていてくれるなら心強い。

 カイリが明日に対して非常に恐怖を覚えているのに気付かないまま、フランツは話題を次に移した。



「さて、二つ目だ。――お前達、仕事が入った。次の月曜日だ。護衛の任務になる」



 食事を進めながら、フランツが淡々と告げる。

 その言葉に、全員の目が彼に集まった。レインが「お」と瞳を輝かせる。



「久々の任務だなー。けど、護衛って本来第十位の仕事じゃねえの?」

「そうなんだがな。今回は、依頼主が直々に第十三位を指名してきた」

「誰ですの?」

「クリストファー・ヴァリアーズ侯爵。つまり、ケント殿の父君だ」

「はあっ!?」



 名を聞いた途端、シュリアの目が飛びださんばかりに見開かれた。レイン達も驚愕のあまり、一瞬絶句した。

 カイリとしても、唐突に知った名前が出てきて不意を突かれる。少し前に、彼とは言葉を交わしたばかりだ。


「クリスさんが、どうして?」

「まあ、カイリがいるからだろうな。手紙が来たぞ。これが依頼書なんだが」


 どこからともなくフランツが取り出した封筒は、とても分厚く、異様な雰囲気を醸し出していた。もはや書類である。


「……いや。何書いてきたんだよ」

「これしき、何てことは無いぞ。カーティスの手紙は、五十枚を超えたからな。十枚程度なら、紙切れの様なものだ」



 五十枚って、何。



 初めて聞く父の手紙の真相に、カイリは顔を覆って突っ伏した。

 本当に父は何を書き殴ったのだろう。知りたいけど、絶対に知りたくない。そんな強烈な葛藤がカイリの胸に渦巻く。


「さて。――『やあ、フランツ君。元気かな。格式ばった手紙って苦手だから、いつも通りにいくね。今回、面倒なことに次の月曜日に晩餐会を開かなきゃならなくなったんだ。それでね、護衛を君達第十三位に任せたいんだ。引き受けてね』。これが、手紙の書き出しだ」

「引き受けてねって、もう強制じゃありませんの。ありえませんわ」

「って、クリストファー殿くらいになると、護衛って必要ないっすよね……」

「エディの言うことはもっともだ。実際、『護衛とか、逆に足手まといになるからいらないんだけどね。うるさいお偉い方とか、第一位の奴らとか、護衛をつけろ。さまにならんってうるさいんだよ。まあ、確かに招待客の見張り……護衛もしなきゃならないしね』、……」

「……フランツさん。今、見張りって聞こえたんですけど」

「ふむ。気のせいだろう。――『執事やメイドに任せるのも限界が一応ある。だから、どうせならカイリ君がいる第十三位なら気楽で良いかなって。フランツ君とも、知らない仲じゃないしね』だそうだ」

「まあ、クリストファー様らしいと言いますか……」


 リオーネが、苦く笑う。彼女がこんな風に遠慮気味に笑うのは初めて見た。

 けれど、考えてみれば彼女は人を信頼していないと言っていた。第十三位以外が相手だと、一線の引き方が強くなるのかもしれない。


「カイリ。お前、随分とクリス殿に気に入られたみたいだな」

「え? いえ、そんなことは」

「彼の手紙で、世間話の様に名前が出るのは気に入られた証拠だ。彼は仕事以外では、面倒くさいのか他人の名前を出すのも億劫おっくうになる性格なのだ」


 億劫。


 それもどうなのだろうと突っ込みたかったが、フランツが何故か嬉しそうにしていたので、カイリは黙ることにした。


「そんな彼が、手紙では、まあうるさいくらいお前の名前を出しているぞ。家に行った時、何を話したんだ?」

「何をって、……」



 ケントの友人として、信頼出来るかどうか試された。



 そんな話を出来るはずがない。

 あれは、ケントの触れられたくない過去にまで及んでいる。絶対に明かしたくはないし、感付かれたくもない。


「……本当に、世間話程度で。えーと。ケントを叩いたり素っ気なく出来る人は初めてだから、泣くほど嬉しい、とか」

「変態ですわ」

「変態って、……まあ、俺もマゾかなってちょっと思ったけど」

「新人……割と辛辣しんらつっすよね」

「エディは思わないの?」

「……。……少し、思ったっす」


 白状したエディに、周りも噴き出す。「そういや闘技場でもそうだったなー」とレインが口にすると、全員が強く頷いていた。見解が一致して、カイリとしても安堵する。


「まあ、本当に日頃の感謝とか労う程度の晩餐会らしいからな。そこまで規模は大きくないし、重要な任務でもないだろう。だが、……カイリ。初任務だな」

「……っ、はい」


 初任務。

 そう言われると、急に背筋が伸びた。

 考えてみれば、第十三位に入ってからは訓練ばかりに明け暮れて、任務などこなしたことがない。――任務が入らないほど暇だから、という理由もある。


 故に、クリスからの依頼が初の任務というのは、感慨深い。


 彼は、第十三位のことを気にかけている風だった。もしかしたら配慮してくれたのだろうかと、邪推してしまう。


「そこまで危険ではないし、色んな伝手つてを作る良い機会でもある。騎士団以外も来るから、必ずしも第十三位だと白い目も向けられない」

「そうなんですね」


 それを聞いて、少しほっとした。騎士ではない貴族ならば、騎士団ほど目も厳しくないらしい。

 商店街でも好意的な人が多かったし、カイリはこの第十三位に居場所があることが心底嬉しかった。認めてくれる人達がいるのは、やはり心が温かくなる。


「まあ、一人で行動はさせられないが、積極的に会話をしてみると良い。俺達もフォローはするぞ」

「は、はい。でも、その、……俺、貴族の世界のマナーとか全然分からないんですけど。呼び方とかはどうすれば」

「ああ、簡単だ。枢機卿は『きょう』、貴族は、男女全員『殿』で良い。ついでに、教皇は『猊下げいか』だ。細かい規律にこだわる者もいるが、今はそれが主流だからな。後は、適当に敬語を使っていれば何とかなる」


 本当に適当だな。


 そんなツッコミが過ぎったが、もう今更な気がしてきた。わずらわしいのはカイリも苦手なので、少しだけ安堵する。

 いつの間にか入っていた肩の力を抜いていると、フランツが少しだけ喉を鳴らした。一度口元に手を当て、一瞬だけ目を逸らしてからカイリの方を見据えてくる。

 どことなく緊張した感じだなと、カイリは首を捻った。その合間にも、もう一度フランツは喉を鳴らし、ゆっくりと口を開く。


「後は、……そうだ。カイリ。姓の方だが、これからはヴェルリオーゼを名乗ってくれ」

「はい。……、はい?」


 何気なく一旦頷いてから、カイリは物凄い勢いで肩を跳ねさせた。顔も振り子の様に勢い良く上げてしまう。

 ヴェルリオーゼとは、フランツの姓だ。カイリの保護者の手続きをする時に書類で目にしたから、知っている。


 だが、何故カイリが彼の姓を名乗るのだろうか。


 この世界では、貴族ではない一般市民に姓はない。当然、村人だったカイリにも無い。

 それが不都合だということだろうか。

 疑問に思っていると、フランツが、ごほんと咳払いをしてからとんでもない事実を暴露してきた。



「お前はもう、俺の養子だからな」

「――、……え?」

「だから、正式にヴェルリオーゼと名乗っても差し支えないのだし、これからはバンバン名乗ってくれ」

「――、はい?」



 言われた瞬間。

 カイリの思考は停止した。


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