第309話
ネイサンの案内で、カイリとフランツは上へと招かれていく。螺旋を描く階段には赤い絨毯が敷かれており、歩くたびに足音が吸収されていった。これなら、今ついてきているだろう仲間達も万が一にも足音で気付かれることは無いはずだ。
建物の中は、かなり豪奢な造りになっていた。等間隔で廊下の壁に飾られている絵画は鮮やかで、置かれた壺も蝋燭台も一目で高級だと見て分かる。
それに豪奢ではあるが、ごてごてはしていない。周りと見事に調和していて、権威を見せ付けながらも品の良さが感じられた。
正直意外だった。家族仲が悪く、出世欲に
一応カイリはふんふんと鼻歌を歌いながら、物珍しそうにきょろきょろと見回してみた。呆けていると、演技を忘れてしまう。企んでいると思われたとしても、あまり賢そうに見えたくはない。
そんな風に慣れない演技をしていると、一つの絵画に目が留まった。
今までの仰々しい絵の中では、比較的大人しめのもので思わず首を傾げる。
「フランツさん、フランツさん! あれ! あれ何ですかー?」
「む? ああ、あれは……」
「わしが、高名な画家に描かせた特別な絵画だ。ケムステルという画家のものだが。知らんのか」
意外にも、フランツの言葉を遮ってネイサンが鼻を鳴らして割って入ってくる。
小馬鹿にされているのが分かったが、本当に知らなかったのでカイリは素知らぬふりを通した。芸術の方も勉強した方が良いだろうかと、カイリは脳内メモに追記する。
「え、けむ……? えーと、……わっかりませーん」
「ふん。勉強不足な奴だ! こんなのが同じ血族などと思われたら……っ」
「兄上。この聖都に来たのはまだ間もないのでしょう。無知も平気で
レナルドとフィリップは、あからさまに侮蔑の視線を向けてくる。フランツがぎりぎりと歯を鳴らしながら笑顔で拳を振り上げ始めたので、カイリは慌てて言葉を挟む。
「じゃーあー、伯・父・さ・ま、達には聞きませーん! フランツさん! 教えてくださーい!」
「うむ、もちろんだ! ケムステルというのはな、カイリ。二十年前から有名に――」
「ある一人のパトロンが見初め、告知活動をし、この聖都シフェルから徐々に世界に広められた画家だ。子供時代から絵を描くのが好きで元々才能はあったが、心無い輩や詐欺を働く者など、本格的に志した初期の頃はとにかく世間知らずで運が無かった者でな。まあ、村出身の純朴少年と言うことも相まって、何度も闇の世界に知らず内に足を突っ込んで危なかった様だ」
フランツの説明を遮り、またもネイサンが強引に引き継ぐ。
フランツが隣で不満そうにしていたが、表立って抗議はしなかった。カイリは思わず彼の腕を気付かれない様に叩く。
「だが、その日食べるものさえ滅多に手に入れられないくらい苦しい路地裏生活を送りながらも、絵だけは描いていた。それを偶然見つけたのが、後に彼を世に知らしめたパトロンだ。彼を屋敷に招き、衣食住を提供し、アトリエも与えた。どうやら、切れ端に描いていた彼の絵に惚れたそうだ」
「……そうなんです、……かー」
「今は聖都にはいないがな。今でもそのパトロンとケムステルは互いに親子の様な関係を築いているという話だ」
説明をし終えて満足したのか、それっきりネイサンは口を開かなかった。ふんっと、レナルドも忌々しげに鼻息を荒くしている。
カイリは先程のケムステルという画家の描いた絵を振り返った。
その絵はちらっと見ただけだったが、綺麗な風景と人間が描かれていた様に思える。
男女一組と小さな子供。まるで親子の様な絵だった気がした。
どんな表情をしていたかとか、髪の色とかは思い出せない。
ただ、何となく、この屋敷にはあまり似つかわしくない様な平和な絵だった気がした。
「さて、カイリ殿。……ここが、カーティスの部屋ですよ」
フィリップが眼鏡のブリッジを押し上げながら、一つの扉を手で指し示す。兄のレナルドよりも、弟のフィリップの方が書類に乗り気な面を隠さない。
急に現実に引き戻され、カイリの喉が小さく鳴った。かたっと、知らず指先が一本だけ震える。
フランツが苦笑する気配が聞こえて、平静を取り戻した。情けないと
――ここが、父さんの部屋。
馬鹿っぽい振る舞いをと気合を入れ直し、彼らの導きを待たずにドアノブに手をかけた。ばーんっと叩き開け――ることは流石に出来ず、普通に扉を開けた。
どんな風景が広がっているだろうか。
「――――、……っ、え」
部屋の中を見渡し、カイリは絶句する。フランツも声が出ないのか、
部屋に入った先。父の部屋。
そこには、何も存在しなかった。
本当に、何もだ。ただお情けに窓が壁に貼り付いているだけで、他には本当に何も無い。
机も、本棚も、ベッドも、タンスも、棚も、何もかも。
ただ、がらんとした空洞が虚しく転がっているだけだった。
「……、……ここ、って」
「カーティスの部屋ですよ? まあ、見ての通り、もう何もありませんけどね」
平坦にフィリップが告げてくる。レナルドが引き継いで、高飛車に罵倒を浴びせてきた。
「聖歌騎士をクビになっただけでは飽き足らず、あの枢機卿の娘と駆け落ちなんて醜態を
今はいない弟に向かって、レナルドは容赦なく罵声を浴びせる。
フランツは涼しい顔だ。感情という感情を消し、ただ穏やかな笑顔だけを
カイリは一体どんな顔をしているだろうか。湿度はあるはずなのに、何故か己の周囲だけが乾き切って行く様な想いを味わう。
「そんな奴の所有物など、一片たりとも残しておきたくなかったわ! 見るのもおぞましい。あれのおかげで、しばらく我々が何と言われたか……!」
「……」
「全て焼きましたよ。使用人達に命じて。……ああ。それをお決めになったのは、我らが父上ですがね」
「え」
カイリが反射的に見上げると、ネイサンは淡々とした眼差しをカイリに向けてきた。
彼の瞳に感情の揺れは一切ない。ただ見るという行動を実行しているだけの、人形の様な顔つきだ。
カイリはもう一度部屋の中を見渡す。一歩、また一歩と噛み締める様に歩いて、かつての父を思う。
焼かれてしまった所有物。父がここで暮らしていたという残り香すら、一つ残らず叩き潰されてしまっていた。
父がこの部屋を見たらどう思うのだろうか。カイリには想像すら叶わなかった。
意図せず震えそうになる喉を必死に力を入れて押し止め、カイリは天井を見上げて必死に父を捜す。
時間も稼ぎたい。きっと、仲間なら全力で探し物を発見してくれると信じている。
「……じゃーあー。教えて下さい。……どこに、ベッドがあって。どこに、本棚があって、……どこに、机があったのかー! とか」
「……そ、そんなこと覚えてるわけ……!」
「思い出して下さいよー。……じゃないと、書類、あげませんよ?」
「ぐぬ……っ!」
小首を傾げて笑って見せれば、レナルドは歯ぎしりが聞こえてきそうなほど唸り声を上げ、フィリップは呆れて眼鏡の縁に手をかける。
ネイサンは何のリアクションもしてこなかった。先程から瞳にも表情にも、熱どころか冷たさすら感じられない。本気で彼については読めなかった。
カイリは彼から目を逸らしそうになったが、けれど真正面から見つめ続ける。何かないかと、彼の感情を探す己を止められなかった。
「……ねーえー。早くしてくださいよー。……はー。父さんの当時の部屋、見てみたかったなー。村の時と同じだったのかなー」
「そんなわけなかろうが! 村なんて貧相なところ!」
「兄上、落ち着いて下さい。……まあ、ここは曲がりなりにも貴族の家ですから。村とは比べ物にならないほど豪華だったと思いますよ」
「へー。どんな風にですか? 知りたいなー」
両手を合わせて満面の笑みを投げれば、伯父二人は口元が引くついた。フィリップの方が隠すのが上手いが、彼もなかなか表情に出るタイプだ。分かりやすい。
だが。
「……ベッドは、そこの隅だ」
ネイサンが
彼が説明するのかと、カイリは不思議な思いでもあり、だが意外でも無かった。そこの伯父二人よりは、まともに教えてくれそうな気がして耳を傾ける。
「しょっちゅう剣の訓練を部屋の中でしおってな。……ベッドを破壊して買い直したことは二桁を超えてから数えるのを止めた」
「は、はか……?」
「後は、そうだな。窓の横に机があった。しかし、あいつは勉強が大嫌いでな。子供の頃は特に本がまっさらな新品のままだった。本棚にあったのは剣術のことばかりで、勉強の類の本は一冊もない。亡くなった妻が無理矢理童話やお情けの薄い学習本を
「ねじ、……」
――父さんって、昔から型破りだったんだな。
変わらない。
カイリの知る父と、変わらない。
父は、村にいた時も部屋を破壊することは無かったが、何故か豪快に道具を振り回すせいで、棚の一部がへし曲がっていたりなど、家具はあちこちへこんでいた。
母のまな板真っ二つには敵わなかったが、それでも父も笑い飛ばしながら、己が壊した家具や家を修理していた。
父はカイリに絵本を読み聞かせてくれていたし、あまり勉強嫌いという印象は無かったが、確かに言われてみれば父の部屋には雑学の類は無かった気がする。
だが、決して勉強が出来ないわけではなかった。カイリの質問には答えてくれたし、凄いと尊敬したことも一度や二度ではない。
本当は、この部屋を隅々まで歩きたい。
歩いて、触れて、ベッドがあったところに寝転んでみたり、机に触れて当時を感じてみたり、本棚があっただろう場所を見上げて笑ってみたい。
けれど。
父の想い出に触れている時に、演技をする自信は全く無かった。
今、不審に思われると計画が狂う。今頃、仲間達が懸命に重要書類を探し回ってくれているはずだ。
ならば、別の方法で時間を稼がねばならない。懸命に思考を巡らし、ぽんっと手を叩いた。
「そういうお話、もっと聞きたいです! あのー、もっと無いんですか? 父さんがやらかしたこととかー、恥ずかしいこととか! あ。何なら、伯父さん達の恥ずかしいことでも構いませんよー」
「はあ? 誰が……っ」
「兄上」
「ぐ、ぬぬぬ……」
「……話してやれ。その子供に色々奪われたくないのであればな」
「「……」」
ネイサンの促しに、伯父二人が苦虫どころか
はあっとわざとらしく溜息を吐き、レナルドが苛々を隠さずに腰に手を当てる。舌打ちまで聞こえてきそうな横柄さに、カイリは内心だけで乾いた視線を向けた。
「あいつは……そうだな。あー、……忌々しいことならたくさんあるのだが」
「兄上。それでは満足してもらえませんよ」
「分かってるわ! ……、……あー、あー。そうだ。……こんな、ちーさい頃だったか。まだ、そう、生意気盛りではない、……言葉足らずな頃だ」
随分
そう突っ込みたいのを極限まで我慢し、カイリは続きを待つ。
レナルドはしばらく苦虫を百匹噛み潰しても足りないほどに顔を歪めてから、むぐっと唸って強く目を閉じた。閉じ過ぎて眉間どころか顔中
「……朝早くに私のベッドの上によじ登り、あろうことかのしかかってきた」
「……へーっ。それでそれで?」
「あにうえー、あにうえー、と舌っ足らずな声で
「なるほど。兄上はツンデレだったわけですね」
「何でそうなるのだ! 違うわ! すぐに図体がでかくなり、可愛さの
「知りませんよ。私にあたられても」
兄弟同士の会話が、急激に和むものになった。何故だろうか。会話の内容次第で、同じ怒鳴り方でもここまで変わるのかと、カイリは感心する。
しかし、カイリの父を罵倒しまくってもまだ飽き足らないと全身で主張するレナルドでも、父を可愛いと思っていた時期があったのか。
それだけでも、救われる。
思うのは、カイリが甘いからだろうか。
同時に、何故そのままでは駄目だったのだろうかと、この屋敷の闇を深く感じざるを得なかった。
「はあ。まあ、兄上のツンデレはともかくとしまして」
「ツンデレではぬわいっ!」
「私は……そうですね。カーティスがこの部屋から、外にいた私に声をかけてきたのですよ。兄上ーってね。……その後、彼はどうしたと思います?」
「え? さ、さあああああ? ど、どうしたんです? 俺にはさっぱりー」
「あろうことか、窓から飛び降りました」
「――は」
飛び降りた。
いや、父ならやりかねないとカイリは思い直す。
父は屋根の上からでも平気で飛び降りて無事だった人間だ。あの頃から規格外の人間だとは思っていたが、それは子供時代からだったのかと納得せざるを得ない。
「こちらとしては、いきなり飛び降り自殺かと冷や冷やしましたよ」
そうだろうな。
内心だけで相槌を打ち、カイリは遠い目をする。
「ですが、彼は華麗に着地して、満面の笑みでこちらに向かって走ってくるのですよ。私、あの時は夢でも見たのかと、何度も眼鏡を外して目をこすってしまいましたからね」
「……はあ」
「ま、その後は普通に暑苦しく抱き付いてきましたよ。……確かに、彼は子供の頃は可愛いところもありましたね」
「そうなんですねー! わー! そういうの、聞きたかったんですー!」
「それも、聖歌騎士になるまででしたが」
唐突にフィリップの声が地に落ちた。冷え冷えとした空気に、カイリは笑顔のまま固まる。
そういえば、前にこの家系の兄弟は父以外は教会騎士だと聞いていた。聖歌騎士はその上位に当たるため、一層兄二人の嫉妬や憎悪が父に向いたのだろう。
三男坊でありながら、家の中では一番世間に向けての立場が強くなった。
それは、家督争いをしている二人からすれば、これ以上ないほど邪魔な存在だったに違いない。
だからこそ、父はどんどんこの家と疎遠になっていったのだ。当時まだ教皇でなかったエイベルの家にたびたび世話になっていたほどに。
「……っ、……おじーさん!」
「……」
「おじいさんは、無いんですか? 父さんとの想い出って。ベッド以外に!」
彼は無言。
カイリの言葉にも反応せずに微動だにしない。
ただ、窓の外を興味なさ気に眺望しながら、一言。
「――特には、無い」
「――」
低く、暗く、淡々と、一言で切り捨てられた。
特に無い。
その一言は、つまり父に無関心だったと白状している様なものだ。
兄二人に邪険にされ、実の父に見向きもされず。
父は、この屋敷の中で一体何を思って生きていたのだろうか。フランツという親友や、エイベルという家族の様な存在がいなければ、どうなっていたのだろうか。
想像しか出来ないが、やはりフランツや、亡きエイベルには感謝の念が絶えない。
「……つまんないでーす」
「……だが、無いものは無い」
「生まれた時のことでも良いんですけどー」
「ただの猿にしか見えんかった」
にべもない。
彼からは、結局ベッドの破壊事件しか引き出せなかった。本当に思い出が無いのかとカイリの胸に虚無感が広がっていく。
――本当に、父さんはこの家とは仲が良くなかったんだ。
分かっていたことだった。フランツからもクリスからも、この家は仲が悪いと散々聞いてきた。父本人からも、血の繋がりのある父親とは仲があまり良くなかったと話してもらっていた。
けれど。
それでも。
〝もちろんお前のことも海よりも広く、深く愛しているぞ! さあ来い!〟
――俺のことを愛してくれた父さんも、俺の様に愛してくれる家族がいてくれたら、って。
エイベル夫妻だけが家族だった。
血の繋がりのある実家とは、思い出さえ語ってもらえない。
それを改めて突き付けられ、想像以上にショックを受けていることを認めざるを得なかった。
「さて、孫かもしれないカイリよ。これで文句はあるまいな?」
ネイサンが切り上げだと
カイリとしてはまだ引っ張るべきかと思案したが、フランツが一瞬だけ外に気配を向けたのが分かった。隣にいたからこそ気付けた変化である。
「どうする、カイリ?」
フランツのその促しは、もう良いという合図――というよりは、カイリを
カイリとしては、切り上げるという提案に異論はない。――もう、父に対する罵倒をこれ以上聞いてはいたくなかった。
もし更に時間を引っ張る必要があるのならば、フランツが何かしらの合図をくれる。そう信じて、カイリはネイサンの言葉に頷いた。
「……はーい。分かりましたー。……じゃーあー、戻りましょうかー」
唇を精一杯
取り残されてしまったカイリは、もう一度父の部屋を振り返る。
何も無い部屋。窓から差し込む光が穏やかに室内を満たしているのに、
初めて出会った家族から父の話を聞いたのに、全く父がいたという証が遺されていない。
だから、だろうか。
父の気配を感じたいのに、感じられないこの現状が、カイリの心を堪らなく締め付けた。
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