第310話
一階に戻り、そのまま応接室に案内されたカイリとフランツは、長いテーブルを挟んでラフィスエム家の面々と向かい合う。
当然、中央には当主であるネイサンが、そして彼を挟んでレナルドとフィリップが座る。
「では、早速そちらの書類を渡してもらおうではないか」
「えー? 気が早いですよ、レナルドお・じ・さ・ま!」
「貴様っ……いや、……、……な、……何だ、我が、……甥、よ」
目の前に餌をぶら下げられているからか、レナルドが怒鳴りながらも嫌そうに「甥」と口にする。ひくひくとこめかみも口の端も動いているので、カイリには当然屈辱的なのだと知れた。
まさしく、権力や家督に目が眩んだ者の末路だ。
前世でも現世でも変わらない。権威や金銭は、人を狂わせるに充分な魔力がある。
「だーかーら! 一筆書いて下さい!」
「い、いっぴつ?」
「そうでーす! 俺達第十三位が、フュリー村とルーラ村、二つの村を調査する許可を出しまーす! って!」
「は……っ⁉」
「そうしたら、ちゃーんとこの二つの書類を差し上げます。……ですよね? フランツさん!」
「……うむ。その通りだ。カイリ、賢くて可愛いぞ」
――フランツさん、もう隠すの止めたな。
先程までは悶えるだけで終わっていたのに、今や堂々と臆面もなく「可愛い」と宣う様になってしまった。ネイサン達が空気で呆れているのがとてもよく伝わってくる。カイリとしても羞恥で死にそうだ。
しかし、このフランツの親馬鹿っぷりが相手の冷静さを奪うのに一躍買ってくれるだろう。恥を忍んで耐えることにした。
「というわけでー。おねがいしまーす!」
「……兄上」
「ぐ、んうううううううっ!」
「まあ、良いではないですか。――書くくらいなら」
フィリップが最後に声を潜めて囁いた言葉に、レナルドも少しだけ怒りを収めて頷いた。
やはり、最初から二人はこちらを騙し通すつもりなのだなと分かる。カイリの心の底に、どろんっと何かが重々しく揺れて落ちた気がした。
「ぐ、う、ううううう、……分かった。ちょっと待て」
「父上。よろしいですか?」
「……。村の管理はお前達に一任している。好きにせよ」
ネイサンは、腕を組んで目を閉じたまま微動だにしない。この話し合いに参加しているのは、単に当主だからというのと、永遠血縁断絶の書類にサインするためだろう。
そうでなければ、一刻も早くこの場から立ち去りたい。
威厳のあるその姿から圧する様な言葉が聞こえてくる様だ。
カイリは全く歓迎されていない。
覚悟していたはずなのに、ここまであからさまだからだろうか。カイリは彼らの声を聞くたび、姿を目にするたび、声無き殺伐とした気配を向けられるたび、少しずつ少しずつ己の心が削られていく感触がする。
今ここに、フランツがいてくれて良かった。
そうでなければ、カイリは耐え切れずに叫んでいたかもしれない。
そう。
――貴方達は、父さんに対しても同じことをしていたのか、と。
「……これで良いかっ。そこから確認しろ」
がりがりと乱暴に紙切れにペンを走らせた後、レナルドが不機嫌そうにテーブルの向こう側から掲げてくる。
こちらに手渡して来ないのは、用心を重ねているためか。これを渡した後、カイリとフランツが「やっぱりやめた」と意見を
しかし、かなり距離が離れている上、文字もそこまで大きくはない。明らかな嫌がらせを感じて、カイリは溜息を吐いたまま口を開いた。
「――【俺達には、見える】」
「――」
聖歌語を唱え、カイリは己とフランツに効果をかける。遠目からでも一字一句違えず文章を読むためだ。
ネイサン達の空気が息を呑む様に揺れたが、カイリは構わない。契約書類は重要だ。何処にも穴が無いことを確認しなければ、途端に意味が無くなる。
カイリ自身隅々まで読んでみたが、特におかしなところはない。彼らが責任者のままだったのならば、問題はない文章だ。
「……、フランツさーん。どうですかー?」
「……。……レナルド殿。調査だけではなく、解決しても良いという文言を付け加えて頂きたい。調べるだけ調べて、後は放置というわけにはいかないですからな」
「……ぐっ、……ぬううううううううっ!」
「……兄上」
「ぐう、……、……承知、したっ」
フィリップに
さらさらと契約書を書き直し、またカイリ達に「ふんっ!」と書類を遠くから突き付けた。まだ聖歌語の効果は残っていたので、机を挟んだまま読み進める。
フュリー村の調査と解決に言及し、かつ例外的なことは書かれていない。どこにも、契約を反故にしたり無効にする様な不利益な一文は見当たらなかった。
フランツを見上げると、彼も同じことを確認し終わった様だ。小さく頷き、レナルド達に向き直る。
「ご協力ありがとうございます」
「俺からも、感謝しまーす! ありがとうございます、伯・父・さん!」
「ぬ、お……、……ならば、早くその書類を……!」
「それでは、お互いに書類の交換を。……ただし、こちらはまだ相続放棄の書類しかお渡ししません」
「はあっ!? 話が違うではないか!」
「いえ、最後までお話をお聞き下さい。最終的に、そちらの書類に不備がないことをもう一度確認したら、血縁断絶の方をお渡しします」
フランツの交渉は、カイリに有利なものとなっている。
当然、乗ってはこないだろう。案の定、フィリップが
「そんな都合の良い内容をこちらが飲むわけにはいきませんね。別に、村の調査など認めなくても良いのですよ?」
「ならば、我々もこの書類を持ち帰るだけです。仕方がないので、ゼクトール卿に頼んで前に出てもらいます」
「ゼクトールおじいさまは、俺のこと、孫って認めてくれてますからー! ねー、フランツさん!」
「うむ。……非常に、まことに、腸が煮えくり返るほどに認めたくはないが、彼は馬車馬の如く働くほどにお前を溺愛しているからな。お前の頼みなら聞いてくれるはずだ。何しろカイリは可愛いからな。天使だ。俺の家族愛はゼクトール卿には負けん」
最後はよく分からない張り合いをし始めたフランツだが、彼の脅しはレナルドにもフィリップにも絶大な効果があった様だ。目に見えるほどに顔色が悪くなっている。
さてもう一押し、となったところで、ネイサンが溜息混じりに助け船を出した。
「ならば、こうすれば良い。まずは相続放棄をこちらに。そして、調査と解決の許可書はテーブルの中央に置き、手に触れずに確認して頂こうか」
「……ち、父上の言う通りですっ。血縁断絶とこの許可書を同時に互いの手にということでお願いしますよ」
「そ、そうだ! 万が一にも、
想定していた通りの話運びだ。世の中、早々上手くいくわけがない。
カイリの胸の中で、かさりと書類が泣いた気がする。
だが、それを無視し、カイリは笑って懐から書類を取り出した。
「分っかりましたー。では、まずはこちらを」
さっと、相続放棄の書類を当主であるネイサンの方に渡す。
彼は手早くその書類を持ち上げ、目を通していった。カイリとフランツもテーブルの中央に置かれた書類を、再度確認する。
何度読み直しても、不利な点は見当たらない。調査や解決の許可を与えても、実際彼らにはそれを許可する権威は持ち合わせていないのだ。この程度で細工をするなど無意味なのだろう。
「……ふむ。相続放棄の書類、しかと受け取った」
宣言し、ネイサンが続けてサインをしていく。
カイリの名前の下に、相手方の当主が記入する箇所がある。そこに署名がされ、捺印がなされれば効果が発揮されるのだ。
かりっと、最後の文字が記され、捺印される。
これで、カイリはラフィスエム家の相続は永久に放棄する意思が表明された。
次は、いよいよ血縁断絶の書類だ。
懐の書類に指先が触れた時、みっともなく指先だけがぶれた。かさっと、指の腹で書類の端を引っ掻いてしまう。
クリスを信頼はしていても、やはり演技とはいえ辛いのだと身に染みた。
父との大切な繋がり。嘘でも、父と繋がりを断つと言わなければならない心苦しさ。
まるで、父に不義理をしている様で。
――父さんの愛してくれた手を、離そうとしている様で。
「――……っ」
苦しい。息をするのも辛い。世界がぶれる。視界から色が抜けていく様な錯覚に陥った。
たかが演技でこうなるのだから、本気で成立させようとしていたら、カイリは発狂していたかもしれない。フランツ達が止めてくれて良かった。感謝する。
まごついていると、レナルド達の視線が一斉に集中砲火してきた。早く出せと視線だけで罵倒されている様で、カイリは気分が落ちていく。
――父さんが亡くなっていることは
父がどうなったのか、と。結局彼らは一度も聞いてはこなかった。
ただ、関心があるのは己の権威と財産のみ。
その無関心さが、カイリの心をじわじわと崖の端に追いやっていった。
「……じゃーあー。これが、お待ちかね! 永久血縁断絶の書類でーす!」
ぴらっと、カイリはこれ見よがしに三人に見せつける。ひらひらっと書類を振って、彼らの目線が合わせて動くのが
たかだか書類一枚に、ここまで踊らされる。
カイリにはきっと、一生理解出来ない境地だろう。理解出来なくて良いと、心の底から実感する。
「お互い、お互いの書類に手をかけ、同時に引き抜く。それで良いですな?」
「もちろんだ!」
「私達は構いませんよ」
「俺もでーす!」
レナルド達とカイリが了承を示し、フランツが「では」と見守る態勢に入る。途中で横槍が入らない様に目を光らせるのが彼の仕事だったからだ。
仲間達がどこにいるのかは、もうカイリには分からない。フランツは分かっているのだろうか。
しかし、フランツがこうして事を進めているのならば、大丈夫だと言う証だ。ならば、カイリはそれを信じる。
悟られぬ様に息を整え、カイリは書類を目の前に出す。同時に、許可書の方に右手を置いた。レナルドもカイリと同じ様に書類に手をかける。
そして。
すっと、互いが互いに必要とする書類を引き抜いた。
レナルドが、素早く当主であるネイサンに血縁断絶の書類を渡し、カイリとフランツは村の調査と解決の許可書を覗き込む。
やはり、不備は無い。これで、一応半分は目的を達成した。
後は、ファルエラとの繋がりなり、色々証拠を発見していればもう用は無い。
「……。……書類の契約部分に不備は無い様だな」
文面に視線を落とし、ネイサンが淡々と告げる。
しかし、そのまま微動だにしない。カイリが内心で首を傾げていると、伯父二人はあからさまに
「父上? 不備が無いのであれば、早くサインを! 総務にすぐ届けねばならないですからな」
「そうです。それとも、何か細工がされているのですか?」
「何だと!? 貴様、やはり我らの財産や家督を……!」
「えー。そんなことないですー。一緒にしないでくださーい」
「ぐぬぬ、ほんっとうに腹が立つ喋り方をするな、貴様……!」
良い具合に
ネイサンはじっと書類に視線を落とし、目を閉じた。眉間に指を当てて
何故か一瞬、探る様に真っ直ぐ射抜かれたが、カイリは目的を見抜かれているのかと冷や冷やしてしまった。なるべく表情を変えなかったつもりだが、彼の洞察力が恐ろしい。
「……
「え?」
予想外な角度から確認を投げかけられた。
いきなり何だろうとは思ったが、カイリは一応答えてみる。
「それは、もちろんそうでーす! だってこの書類、証人が複数いないと成立しない、すっごい難しい法律だって、……フランツさんから聞きましたー!」
「ああ。カイリはいつだって、難しいことでもすぐにこうやって理解するからな。誇らしいぞ」
「あ、りがとうございまーす! それでー、クリスさん達にー、協力してもらったんでーす!」
「……」
人差し指を立てて、なるべく可愛らしく、腹立つ様な感じに見える角度からウィンクしてみれば、レナルドとフィリップの顔は怒りで真っ赤に爆発していた。彼らは演技が出来なそうだな、と一瞬評価しかけたが、村の管理者だと振る舞っているあたりは油断出来ない。
ネイサンは、じっとその証人の欄を凝視している様だった。
特に仕掛けたつもりもないし、フランツ達と確認した時も疑問を持つところではなかったのだが、彼にとっては気になる点があったのだろうか。
隣にいるフランツも、少しだけ緊張した様に空気が張り詰めていくのを肌で感じていると。
「……あの小僧が。……よけいな口出しを」
ぼそっと落とされた低い声が、テーブルに落ちて跳ねた気がした。
小僧とは、クリスのことだろうか。確かに年齢差を考えれば、ネイサンにとってはクリスも若い部類だろう。実際外見年齢はとても若くカイリにも映る。
しかし、証人の欄に何か仕掛けでもあっただろうか。フランツを振り返ってみたが、彼も微かに首を振るだけだ。覚えはないらしい。
そうしてしばらく、ネイサンはじっと書類に視線を落としたまま微動だにしなかったが。
「……、……そもそも、これを受け取る意味は、わしには無い」
「……え?」
言うが早いが、ネイサンは大きな溜息を吐いて書類を放り投げる。
そして、不遜に胸を張り、温度の無い冷徹な眼差しでカイリを真っ直ぐに刺した。
「そもそも、貴様がカーティスの息子だという証拠は無い」
「――――――――」
「よって、わしは貴様を孫とは認めん」
決して大きくはないのに、やけにはっきりとした死刑宣告が、室内の隅々にまで広がっていった。
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