第218話


 呆然と、頭を下げるゼクトールをカイリは見つめる。

 両手を床に突き、額を床にくっつけるゼクトールの声にブレは無い。むしろ、カイリの方が『死』という単語に敏感に反応して怯えてしまった。

 そして、同時にふつふつと、マグマが破裂する様な熱が腹の底から沸き起こってくる。



〝死ねと言うのであれば、その通りに〟



 どうして、そんなことを軽々しく言えるのだろう。

 死ねと言われれば、死ぬだなんて。何故、そんな風に己の命を人に委ねてしまうのだろう。死のうとするのだろう。

 カイリの大切な人達は、死んでしまったのに。



〝愛しているわ、カイリ〟


 母も。


〝愛している、カイリ。父さんの心は、いつでもお前と母さんと共にあるからな〟


 父も。


〝……、か、い、……――――――〟


 ミーナも。


〝あー、あ……。まだ、教え、てない、こと、たくさんあ、ったの、になあ……〟


 ラインも。


 村のみんなも。

 みんな、みんな、死んでしまったのに。

 生きたかったはずなのに、カイリを守って死んだ。

 生きたくても生きられなかった人達が、確かにいる。

 だから。


「お、……っ、……」


 カイリは、絶対に死んだりはしない。


 顔を上げて生きていきたい。前を向いて幸せになりたい。ルナリアで改めてそう願って、今を必死に生き続けている。

 カイリは、彼らに守られて生き延びた。彼らの命と共に生きている。

 だから、例えどんなに死にたくなったとしても、死に物狂いで生きよう。そんな風に考えていた。そうしなければ、自分だけではなく、彼らの命さえ踏みにじることになると思ったから。

 それなのに。

 ゼクトールは、簡単に。


「――っ!」


 気付けば、カイリはシーツを跳ね飛ばしていた。フランツの驚いた声が聞こえた気がしたが、無視をしてゼクトールに掴みかかる。

 だんっと、彼を押し倒してカイリは唸る様に睨みつけた。

 息が焼き切れそうに熱い。殴りたくて拳が大きく震えた。



「……っ、何で……!」

「……、カ」

「何で! ……何でそんなこと言うんだ! 俺が死ねと言ったら死ぬ!? ふざけるなっ! あんたの命は、そんなに軽いものなのかよ!」



 叩き付ける様に罵倒した。ゼクトールが目を見開いてカイリを見上げてくる。

 彼の驚愕と困惑に満ちた瞳が憎たらしい。分からないと言いたげなその頭の無さに、憤って仕方が無かった。


「父さんも、母さんも、ラインも、ミーナも、みんなっ、……みんな! 死んだのにっ! ……生きたくて仕方がなかった人達がいるのに! 何であんたは、死ぬとか簡単に言えるんだっ⁉ 父さん達の墓標の前でも同じことが言えるかっ⁉」

「……っ、そ」

「あんたの命は、あんた自身が背負うべきものだ! 俺なんかの言葉で簡単に投げ捨てるな! 俺に責任なすりつけて、逃げるな! 死ぬんだったら、勝手にあんた自身が決めて――っ、……っ!」


 だんっと、床を殴り付ける。その先が、どうしても言えなかった。

 誰かに、例え冗談でも「死ね」だなんて。カイリには、絶対に言えない。

 大切な人達が目の前で死んだのに。命が尊いものだと泣きたくなるほど知っているのに。

 前世の頃から。



〝――カイリッ!!〟



 ――誰かの命に助けられたという絶望を、死にたくなるほど思い知っているのに。



 簡単に、言えるはずが無い。

 そんな残酷で呪いの様な単語。絶対に、口にしてなるものか。



「あんたは、結局逃げているだけだっ! 楽したいだけだ! そんなの責任なんて言わない! ただの卑怯者だ!」

「……っ」

「俺に罰する権利がある? だったら! 死ぬまで償え! 死んで償うなんて絶対に許さない! 死ぬな! 生きろ! 生きて、俺に、――第十三位に! 迷惑かけた全ての人達に! 命尽き果てるまで償い続けろっ!!」

「――――――――」



 どんっと、床に倒れ込んだゼクトールを突き飛ばす様に、カイリは立ち上がった。反動でよろけたが、何とか踏ん張って立ち続ける。

 遥か空から見下ろす様に、カイリは呆然とするゼクトールを睨みつけた。

 呼吸が苦しい。喉が貼り付く様に痛くて、そこで初めて自分の視界がぶれていることに気が付いた。


「なん、で、……っ」


 目の奥が、痛くて熱い。喉もひりつくし、胸は圧迫されるし、痛くて痛くて死にそうだ。

 命を簡単に放棄しようとする彼に腹が立つ。腹が立って腹が立って、どんなに怒鳴っても殴り付けても収まらない。

 だが、同時に自分自身にもどうしようもなく腹が立つ。今すぐ頭から踏み抜きたかった。

 どうして気付けなかったのだろう。こんなに近くにいたのに。

 あの日。カイリと顔を合わせたその時から。

 彼は。



〝……君は。名は、何と言う〟



 ――この人は、最初から死ぬつもりだったんだ。



 だから、軽々しく死ぬと口に出来る。

 孫であるカイリに、残酷な罰を下せと、平気で迫れるのだ。


「……っ、どう、……」


 どうして。決まっている。

 彼はカイリを餌にし、教皇を討つことを考えていた。それを周りが知れば、タダで済まないことは彼自身分かっていたはずだ。

 それでも、彼は実行した。

 彼は、先程エイベルとの思い出をとても懐かしそうに口ずさんでいた。親友と過ごしてきた日々は、彼にとって掛け替えのないもので、決して誰にも譲れない思いだったに違いない。

 だから。



 大切な人を殺そうとした大切な親友は、絶対に己の手で。



 そんな風に、一人だけで勝手に決めてしまった。



 ――何て、冷たい決意だろう。



 何て残酷で悲しい覚悟だろう。

 愛する娘を失い、その婚約者も失い、信じようとしてきた親友さえ失ったと知った時、自分一人で全てを貫こうと決めたその誓いは、ひどくさみしくて虚しい。

 家族に打ち明けることもせず、孤独の戦いをえて突き進んだ彼の目には、どれほど壮絶な光景が映っていたのか。ぬくぬくと守られて育ったカイリでは想像もつかない。

 本当は、止めてはいけないのかもしれない。このまま想いを遂げさせた方が、彼にとっては幸せなことなのかもしれない。

 けれど。



〝会わせてあげることは、出来ないかもしれんがな〟



 けれど――。


「……っ。……俺、一度だけ。たった一度だけ。父さんから聞いていたんです」


 祖父母の話は、禁忌の様な領域だった。

 だから、カイリも自分から聞くことは決してなかった。

 だが、あの日、あの夜、あの時だけは。

 父も、母も、とても優しい顔で。



「お前には、この絵本に出てきたみたいな、優しいおじいちゃんがいるんだぞ、って」

「――」



 ゼクトールの肩が揺れる。目が零れ落ちんばかりに見開かれた。

 カイリは、両親が貴族の出だと知った時、血なまぐさい事件に巻き込まれそうだと短絡的に会わないことを決めてしまった。両親が一度でも連絡を取らない相手だったのだから、嫌な相手に違いないと勝手に決め付けていた。

 今になって後悔する。

 そんな風に自分の目で何も見ず、偏見を抱いた自分が恥ずかしい。

 父にも母にも、カイリには優しい家族がいるんだって、小さい頃に教えてもらっていたのに。


「父さんには、二人のお父さんがいて。血の繋がりがある方とはあまり思い出がないけど、もう一人の方は本物の父親だったんだって」

「……っ」

「正義感が強くて、困っている人がいたら手を差し伸べ、弱い者いじめは許さない。いつだって熱くて、面倒見も良くて、真っ直ぐで、優しい強さを持った最高の家族なんだって」


 まるで父さんみたいだと、カイリは思ったものだ。実際に告げたら、母と二人の世界に入ってしまったのも懐かしい。

 それだけではない。


「それに、……そのお父さんには昔馴染みの人がいたって。……父さんはその人にしょっちゅう睨まれていたけど、……可愛いところがあったって」

「……っ、む……っ」

「母さんも同意していました。懐かしいって。大切そうに、語っていました。……それって、……ゼクトール卿のことですよね」


 今ならよく分かる。

 二人は、エイベルとゼクトールのことを話してくれていたのだと。

 祖父も祖母もとても優しい素敵な人だったと。

 誇らしそうに、懐かしそうに、切なそうに語ってくれた。


「父さんは、……エイベルさんに、すっごく感謝していました。剣技も、物事への在り方も、信念も、全部、全部その人から教わったんだって。大好きだったんだって。空気も言葉も声も、全力で語っていましたっ。……父さんにとって、エイベルさんは、本当に大切な家族だったんです」

「――……っ」

「だったら。俺にとってもエイベルさんは家族で。……それだけじゃないっ。……父さんや母さんが可愛い人だって、大切そうに語っていた……ゼクトール卿だって! 俺にとっては大切な家族ですよねっ!」

「――っ」


 ゼクトールの顔が崩れる。信じられないといった風に見上げてくる。

 その表情に益々腹が立った。

 どうして分からない。

 父も母も、離れていてもずっとゼクトールを愛していたことを。

 そして。



 ――俺にとっても、もう貴方は大切な家族なのだということを。



 彼には落ち込んだ時に励ましてもらった。何かと気にかけてもらった。色々足りないことを指摘してくれて、教え諭して導いてくれた。

 それなのに、肝心な時に自分は何も出来なかった。

 それが悔しく悔しくて、仕方がない。


「父さんと母さんがここにいたら、きっと怒ると思います。悔しがると思います。何で一人で全部背負ってしまったんだってっ。何で死のうとしているんだって! 絶対、……絶対! 怒ります!」

「……、それは……」

「俺だって怒ります! ……例え、これが貴方にとって最善のやり方だったんだとしてもっ。これしかなかったんだとしてもっ。……貴方が俺の両親を死に物狂いで守ろうとしてくれた様にっ。貴方にだって、死に物狂いで守りたいと思っていた人がいたんだって! 何で分からないんですかっ!」

「――」


 一人で抱え込まないで。

 一人で全てを決めないで。


 貴方に大切な人を思う気持ちがあった様に、貴方にだって大切に思う人がいたことを、どうか、知って欲しかった。


 せめて、教皇を――エイベルを討つ前に、たくさんたくさん伝えたかった。

 彼と共に、その場面に立ち会いたかった。支えたかった。

 何の力になれなくても、せめて傍にいて見届けたかった。全てが終わった時に、彼の傍に寄り添って、抱き締めたかった。



 一人ではないのだと。貴方の傍には、貴方を思う人がまだ確かにいるのだと。



 父の代わりに、母の代わりに。

 そして、誰よりもカイリが、ゼクトールに傍で伝えたかった。



 けれど、現実は残酷だ。

 ゼクトールは、結局最後まで一人で目的を遂行してしまった。

 だから今、彼は死を求めている。

 でも、お願い。



〝カイリ、すまない。……すまない〟



 お願い。



〝だが、俺たちはお前を置いていかなければならないんだ〟



 ――俺を置いて、死なないで……っ。



 父みたいに。母みたいに。友人みたいに。村の人達みたいに。

 置いていかないで。

 生きて。

 傍にいて。話をして。



 ――どうか、俺と一緒に笑って下さい。



「お……、……っ」

「……カイリ……っ!」



 体力が尽きかけて、カイリは倒れ込む様にベッドに座り込む。

 ゼクトールはまだ呆けたままだったが、カイリが座り込んだのを見て、のろのろと這いつくばる様に起き上がった。そのさまが、魂が抜かれた抜け殻みたいに映って、カイリの胸が一層押し潰される。

 迷う様にカイリを見つめる彼の視線は、ぶれていた。

 今のカイリに、彼の視線を受け止めるのは胆力がいる。


〝【眠れ】、カーティスの息子。――お前には、生贄になってもらおう〟


 拷問を受けたのは事実だから、心はまだ全然追い付かない。

 けれど。


〝おじいさんと呼ぶが良い〟


「――……っ」


 けれど――。



「……、……『おじいさん』」

「――」



 出会った頃は、半ば強制的に示してきた呼び方だった。

 だが、今は自分の意思で舌に転がす。じんっと、痺れる様な熱が胸でうずいたが、カイリは食い縛って気付かないフリをした。

 ゼクトールの目が力を込めて見開かれる。久しぶりに力強い反応を見たなと、カイリは疲れた心で少しだけ笑ってしまった。

 そんなに月日など経っていないはずなのに、懐かしい。


〝そうであるな。本人が嫌だと思ったのならば、大したことはない、というのは詭弁きべんである〟


 あれだけ距離が近くなったはずだったのに。



〝カイリよ、【動くな】〟



 今は、こんなにも遠い。



「……、っ……」



 手を伸ばしながらもう一度立ち上がろうとして、足に力が入らなくなった。崩れる様に床に座り込み、カイリはそのまま動けなくなってしまう。

 フランツはもちろんだが、ゼクトールが慌てて駆け付けてくれようとした。

 それなのに。


「……っ」


 ぴたりと、ゼクトールの手が中途半端な位置で迷う。薄い壁に阻まれた様に、彼の手が力なく垂れていく。

 それが、ひどくさみしい。

 当たり前の反応で、どこかでホッとしている自分もいる。

 だが、それでも。



「……っ。……どうして、手を引っ込めるんですかっ」



 怒る様に言葉で殴り付けた。

 ゼクトールが困惑しながらカイリを見つめてくる。その遠慮が一層腹立たしくて、睨みつける自分の視線が刺々しくなるのが分かった。


「伸ばして下さい。ちゃんと、俺に触れて下さいっ」

「……、う、……うむ」


 戸惑いながらも、ゼクトールが手を伸ばしてくる。フランツは少し迷った様だが、引き下がってくれた。

 ゼクトールの手が、間近に迫る。大きな手が、背中に回る。

 途端。



〝二、三十分ほど続ければ、体力は格段に落ちるでしょう。……そうであるな、カイリ〟



「――っ! ……っ、………………っ‼」



 潰れた様な悲鳴が喉からほとばしる。思わず喉を抑えて、カイリはうめいた。

 ゼクトールが驚いた様に再び手を引っ込めようとするのを、カイリは怯えながら手を伸ばして掴む。

 びくっと、彼の腕が震えたのが分かったが、力が入らないながらもカイリは必死にすがった。


「……っ、……お願いです、から。……撫でて、下さい」

「し、しかし……」

「お願いします。……このままなのは、……嫌なんです……っ」


 かちかちと歯を鳴らしながら、それでもカイリは懇願する。

 ゼクトールは迷ったようだが、それも一瞬。彷徨さまよわせながらも、手を恐る恐る頭の後頭部に置いてくれた。

 そろそろと、頭を撫でる感触がカイリに伝わってくる。自分を抱き締めてくれる腕も、気遣う様に力が加減されていた。

 あの時とは、違う。


 自分を捕まえた時とも。

 水責めをした時とも。


 どちらとも異なる温かな感触が、カイリを包み込んで温めてくれる。

 はあっと恐怖を吐き出しながら、ゼクトールにしがみ付いた。

 彼にしがみつく手は、みっともなく小刻みに揺れている。気を抜いたら指が落ちそうで、必死に力を込めた。

 まだ、恐い。彼がとてつもなく大きく見えて、食われそうなほどに恐ろしい。

 だが、それでも。


「……おじいさん」


 それでも、彼と共にいたい。

 祈って目を閉じ、カイリは震える息を吸い込んだ。

 彼といたいからこそ、残酷な現実を告げるために。



「……俺、……今。とても、水が恐いんです」

「――」



 彼のカイリを撫でる手が、ひどく跳ねた。全身が戦慄おののくのを感じ取りながら、カイリはそれでも無情に続ける。


「水を飲む時、一人では飲めないんです。フランツさん達が傍にいて、ようやく水の入ったコップを手に出来るんです」

「……っ」

「お風呂にも、一人では入れません。疲れを洗い流してくれるお風呂が大好きだったのに、そのお風呂が恐いんです。好きなのに、……恐くて堪らないんです」


 ぎゅうっと、彼にしがみつく手に力を入れ直す。

 彼が離れていきそうなのが気配で分かった。逃がすまいと、カイリは彼を捉えて離さない。


「貴方の手が、恐いんです。頭を掴んで押さえ付けられるんじゃないかって、……水に突っ込まれるんじゃないかって。……恐いんですっ」

「……っ、カイリ……っ」

「例え、拷問をする時に配慮してくれていたんだとしても、……それでも……」


〝水責めの時、間隔、空き過ぎ。水から引き上げた時の時間、長すぎる〟


 教皇が渋い顔をしていたのだ。あの時は意識が朦朧もうろうとしていたが、恐らく間違いは無いのだろう。

 だが、それで恐怖が軽減されるわけがない。

 あの時受けた苦痛が、魔法の様に消えるわけがない。


「貴方の手が、恐いです」

「――っ」

「貴方だけではなく、男の人の大きな手が、……恐いです。恐くて恐くて堪らないんですっ」

「……っ、そ」

「だからっ」


 顔を上げて、カイリはゼクトールを間近で睨み据えた。

 ゼクトールも、逸らさずに受け止めてくる。必死に逸らすまいと、彼が気張っていることが唇を噛み締める強さで読み取れた。

 カイリは、彼が恐い。水が恐い。どんな理由があったとしても、どんなに彼が内心で気遣ってくれていたとしても、恐いものは恐い。許すことも出来はしない。

 だから。



「おじいさん。……俺が、貴方に触れられて、怯えずに心の底から笑えるまで。ちゃんと、傍にいて下さい」

「――――――――。……な、に?」



 驚きに満ちた声がカイリの顔に、心臓にぶつけられる。

 周りの空気も、戸惑う様に揺れていた。きっと、愚かなことを頼んでいると呆れられているだろう。

 だが、それでも良い。カイリには関係ない。カイリがそうしたいと願ったのだ。


「俺は、貴方を許すことはありません。俺を餌にしたのは事実だし、拷問されるのも分かっていた。そうですよね?」

「……、うむ」

「だったら、許す必要は無いですよね。俺は、貴方を許しません」

「……、ならば、何故」

「でもっ! ………………、……俺は、貴方と話がしたい」

「――」


 またも、ゼクトールの気配がぶれる。

 あれだけ普段厳つく、覇気が吹き荒れる御仁でも、こんなに揺れるものなのだと、カイリはこんな時なのにおかしくなった。


「……孫として、祖父と話したい。祖父と触れたい。祖父と一緒にいたい。……そう思う俺は、おかしいですか?」

「……、う、む? いや、おかしくは……いや、しかし」

「おじいさんは。俺とはもう、口も利きたくないですか」

「そんなことはっ! ……無い、のである」


 最後はかなりぼそぼそと、聞き取りにくい小声だった。

 しかし、間近にいたカイリにはばっちり拾える声量だ。ふんっと、怯えを散らす様に鼻息を鳴らす。


「だったら! 俺とちゃんと、目を見て話して下さい」

「……っ」

「こうして、おじいさんに触れられても、怯えずに、恐がらなくなるまで。……怯えを交えずに、笑える様になるまで。……傍にいて下さいっ」


 ようやく出会えた祖父なのだ。

 父を可愛がり、母を愛し育ててくれた人。

 懐かしそうに、大切そうに、両親が一度だけ語ってくれた人。



 彼と、本当の家族になりたい。



 村での両親の話を、たくさんたくさん聞いて欲しい。

 ゼクトールが見てきた両親の話だって、いっぱいいっぱい聞きたい。

 エイベルとは、最後までそれが叶わなかったけれど。

 二人の祖父の最後のやり取りを、見届けることは出来なかったけれど。

 だったらせめて、父が愛した二人の祖父の思い出を知りたい。


 会えなかった分、それを埋めるだけの思い出を、これから語り合っていきたい。


「俺の知らない、父さんや母さんのこと。エイベルさんのこと。いっぱい、いっぱい、聞かせて下さい」

「――」

「……もし、貴方が俺自身に罰して欲しいと思うのなら。それを、俺からの罰にします」


 本当は、罰なんか望まない。

 だが、彼が望む罰を得たいと言うのならば、カイリはえて与えよう。

 罪によってカイリと傍にいることを恐れるのならば、それを踏み越える道を作る。


「……お願いです。絶対、避けるなんてことはしないで下さい。もちろん、死を選んだりもしないで下さい」

「……っ」

「俺は、……おじいさんのことが、恐いけどっ。それでもっ。……馬鹿だと言われても、駄目だと言われてもっ。……おじいさんと仲良くなりたいんです……っ!」


 何て我がままなのだろうか。何て酷い言い草だろうか。

 恐いのに仲良くしたい。怯えられて、傷付かないはずがないのに。

 だが、カイリに嘘は吐けない。これ以上他に何も言えなかった。例え無慈悲だと罵られようと、カイリの願いは変えられない。

 伝わるだろうか。この複雑な思いは、彼に捻じ曲がって届いてしまうだろうか。

 彼は、ずっと無言を貫いている。恐ろしいほど無反応だ。

 あまりに反応が得られないので、だんだんと焦れてきてしまった。カイリがもう少し言葉を募るべきかと悩み始めていると。


「……愚かな」

「――っ」


 低いささやきと共に、背中に回る腕に力が込められた。

 反射的にカイリの体が恐怖で跳ねるが、一瞬止まっただけですぐに彼の手が頭を撫でる。

 優しく、温かく。

 宝物に触れる様に、熱が注がれる。



「……君は、……甘いな……っ」

「……、……そう、でしょうか」

「ああ、……甘すぎる。……それでは、罰にならん……っ」

「――」



 語気が弱々しく震える。静かな嗚咽おえつの様に声が濡れていた。

 カイリも痛みを吐き出す様に、目の奥から熱が零れ落ちる。心が産声を上げる様に叫んで、堪らなくなった。

 ゼクトールは今、ひたすらにカイリを抱き締めて、頭を撫でてくれている。

 あの時の、恐怖を感じさせる触れ方ではなく、気遣う様に優しい手つきだ。

 強引に押し付けられる圧迫感は無い。乱暴に扱う暴力も無い。

 ただひたすらに、おっかなびっくりに、ごつごつしていながらも真綿に包む様な柔らかい触れ方だった。

 未だ囚われた怯えは、簡単には解放されないだろう。今だって、体が強張って力が完全には抜けていない。

 でも。



 ――温かい。



 ゼクトール本来の気持ちが、カイリに沁み込む様に与えられる。ゆっくりと、静かに震える心を温めてくれた。

 彼と、思い出を積み重ねていきたい。少しずつ、時間がかかっても良いから、恐怖を上書きしていけたら良いと願う。

 そう。



「……初めまして、おじいさん」

「――」



 もう一度、ここから。



 ゼクトールの、はっとした様な息の呑み方に、カイリはおかしくなって喉を鳴らす。

 彼の、今まで見ていなかった一面が今日だけでどれほど見られただろうか。まだまだ沢山あるのかと思うと、先が待ち遠しくなった。



「俺は、カイリって言います」

「カイ、リ」

「はい。父はカーティス、母はティアナ。二人の息子です。今は、フランツさんの息子でもあります」

「……、……うむ」



 滲む様な声が、感慨に満ちていく。

 うむ、ともう一度深く頷き、ゼクトールは抱く腕を震わせながら応えてくれた。


「……初めまして、カイリ。わしは、……ゼクトールという。ティアナはわしの娘で、カーティスは……義理の息子だ」

「……はい」

「だから、……だからっ」


 途切れる声を懸命に整える音がする。

 そうして、ようやく吐き出された言葉は。



「……わしのことは、……おじいさんと呼ぶが良い」



 出会った時と変わらない、無骨さに溢れていた。



「……っ。……、はいっ。……おじいさん」

「……、うむ」



 ゼクトールの頷きに、カイリは緩やかに破顔する。

 また、ここから始めよう。

 もう一度、最初から。ここから、想い出を積み重ねていこう。

 願いながら、カイリはゼクトールの腕の中で意識を彼に委ねた。


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