第204話
ざばあっと、水と衝突しながらカイリは顔を引き上げられる。
もう何度目か分からない酸素を求め、カイリは盛大に
「がはっ! ごほっ、はっ、……がはっ!」
「もう良いであろう。――
「うむ。……お前達、用意する」
無機質なゼクトールと教皇のやり取りに、カイリは
「や、め……【離せ】……っ」
「愚かな。お前の居場所、ここ。もう、第十三位、いない」
「――っ」
間近で教皇に
「んっ! んうー!」
「聖歌語。威力、弱いが、念のため。……さっきの時、冷や冷やした」
がっと、頭を強く床に打ち付けられ、カイリは一瞬視界が真っ暗になった。
ちかちかと、電気が切れた様に明滅する世界に、カイリは流したくもないのに目尻から熱いものが溢れ出るのを感じる。
水責めをされては、洗脳するための聖歌語を集団で浴びせられる。
洗脳出来ていないと分かれば、また水責めで体力を更に奪われ、その繰り返しだ。気を失えば叩き起こされ、カイリは激痛と恐怖に絶えず
最初の頃はそれでも聖歌語を使って逃れようとしていたが、ゼクトールに抑え込まれ、脱出は全て失敗に終わった。今はもう体力が底を尽いている上に動くこともほとんど出来ず、聖歌語の威力が全く無い。
そして、ずっと暗示の様に繰り返される。
居場所は、ここ。
第十三位は、もういない。
「――っ!」
――そんなはずはないっ!
そう叫びたかったのに、口を封じられて言葉の抵抗さえもぎ取られていく。
フランツは、第十三位のみんなは、彼らに倒される様なひ弱な人間ではない。カイリの様に、簡単に捕まる様な人達ではない。
ふざけるな。舐めるな。――馬鹿にするな。
反論をその無表情の横っ面に叩きつけてやりたいのに、それすら叶わない。
せめてもと睨み上げれば、教皇の目元がぴくりと反応する。
そして。
「――生意気。カーティスの目、そっくり」
「――んうっ!」
どっと、腹を蹴り上げられる。
あまりの衝撃に、カイリは陸に上げられた魚の様に跳ね上がった。
吐息が、耳に触れる。ぞわりと、鳥肌が全身に走った。
「――っ、……っ!」
「往生際が悪い。――【わしのものになれ、カイリ】」
【【カイリは、教皇猊下のもの。それは等しく世界の真理】】
一斉に、カイリに向かって騎士達の聖歌語が豪雨の様に降りかかる。
ざっと、ノイズがカイリの頭の中に強く走った。それを合図に轟音が暴れ狂い、のた打ち回る。脳を直接指でなぞられ、侵されていく様な感覚に、カイリは布を噛み締めながら必死に耐えた。
「んっ、……め……っ!」
【お前、生まれた時からわしのもの。それが定め。諦めよ】
【カイリは、教皇猊下のために】
【全ては、教皇猊下のために】
【その身を
【身も心も全ては教皇猊下へ】
【【悦べ、選ばれし者よ。その身、その力、全ては教皇猊下のために】】
「――――――――っ‼ ん、……っ、あ、あああああああああああああっ‼」
――気持ち悪い……っ!
頭も心もぐちゃぐちゃに掻き回されて、自分のものではなくなる様な感覚に支配される。
無感動に、真っ平らに、近衛騎士と教皇が一斉に唱和してくる聖歌語が、ひどく気持ち悪くておぞましい。
言葉自体は平凡なのに、降り注ぐ威圧感が頭を、肩を、胸を、腕を、腹を、太腿を、つま先を、あらゆる場所を押し潰す。
外側から押し潰し、内側から言葉が文字という形となって、ぐねぐねと這い回る。その感触から逃れたいのに、内側を侵すその文字の暴力に手が届かない。発狂しそうだ。
「あ、が……っ、やだ、……っ!」
痺れる様な感覚が、記憶を奪う様に這いずり回る。いつの間にか口から布が零れ落ちていることにも気付かず、カイリは意味のない
「……い……っ!」
少しずつ、少しずつ、想い出が真っ暗な牙に食われ、消えていく。
掻き消される。塗り潰されていく。無かったことにされていく。
恐い。一つ無くなるたびに、カイリの中で大切なものが、ぱきっぱきっと繊細に、無情に砕ける様な音を立てた。
両親のこと、ラインのこと、ミーナのこと、リックのこと、村のみんなのこと。
フランツのこと、シュリアのこと、レインのこと、エディのこと、リオーネのこと、ケントのこと。
――みんなと過ごした、大切な日々のこと。
全てが、滴が漏れ出す様にカイリから止め
「――いや、だ……っ! あ……!」
嫌だ。――嫌だ。
忘れたくない。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
嫌だ。忘れたくない。嫌だ。
忘れない。そうだ。
忘れはしない。――【忘れない】。
絶対。
みんなのこと。大切な、人達のこと。
守ってくれた人達のこと。自分を支えてくれた人達のこと。発破をかけ、背中を押してくれた人達のこと。
忘れない。絶対。忘れない。
みんな。――みんな。
――【忘れないっ】!
【――嫌だっ!! やめろ! 忘れてたまるかっ!】
「――――――――っ!」
ぱあんっと、頭上で何かが弾ける。同時に、胸元が熱く主張した。
教皇達が驚いて後ずさったのを目にして、カイリは動かない手足を亀の様に動かす。引っ繰り返った亀はこんな風に大変なのかと、場違いな感懐を抱いてしまった。
だが。
「……また、失敗。……忌々しいっ!」
「――あ、ぐっ!」
またも腹を蹴り上げられる。ごほごほっと、咳き込むカイリの背中を、教皇が容赦なく踏み付けた。
呻きを垂れ流して、ぐったりと床に身を預けるカイリを見下ろし、教皇はゼクトールを罵倒した。
「ゼクトール。やはり、甘い」
「……どうしてでありましょうか」
「水責めの時、間隔、空き過ぎ。水から引き上げた時の時間、長すぎる。もっと短くすべき」
「……あまり責め過ぎて、死んだらどうしますか。猊下、洗脳は少しずつ効いております」
「……だが」
「ならば、次は教皇と近衛騎士全員でやってみましょう。それでも出来なかったら、……、……次の手を打つ。どうでしょうか?」
「む……」
しばしの沈黙の後、教皇は唸る様にカイリを見下ろしてきた。
混濁した意識の中でも、教皇の視線は濁り切っていて不快だ。少しでも逃れるために顔を背けるが、視線が食い入る様に体に刺さって不快感が余計に増す。
「……滅多にない」
「ええ、そうでありましょうとも。半数は常に街に放っていますから。ですが、ケント殿に感付かれる前に片を付けるのでしょう? 彼はいつ気まぐれを起こして国境へ行かずに戻ってくるか分かりませぬ」
「
「……仰せのままに」
教皇の聖歌語に、騎士の一人が反応する。それを見届けるためか、ゼクトールが腰を折り、騎士と共に退室していく。
彼らを見送ってから、教皇はおもむろにカイリに手を伸ばしてきた。ぐっと髪を掴んで無理矢理体を持ち上げる。
「あっ、つ……っ!」
「本当に、忌々しい。カーティス、そっくり」
「……カー、ティス……」
本当に、父の名を憎々しげに呼ぶ。
彼は、父を亡き者にしようと画策していたという。そのせいで、父は一生剣を振るえない体になってしまったのだと。
ここまで
――教皇は、本気で父を殺そうとしたのだと。
「……ど、して……っ」
「……」
「どう、して……その人、……を」
「どうして。……無礼」
がっと、頭を床に叩き付けられる。割れる様な激痛が
声にもならない悲鳴を上げるカイリを見て、教皇は勝ち誇った様に
「わしに、逆らった」
「……っ」
「聖歌騎士、洗礼、やめよ。……愚か。聖歌騎士、……強い聖歌。全て、わしのもの。……わしだけの、ものっ」
言い終えた直後。
教皇は、カイリを思い切り水の中に叩き込んだ。
がばっと、勢い良く水を吸い込んでしまい、痺れる様な激痛が体中を貫いた。
吐き出したいのに、吐き出せない。喉が、肺が、頭が悲鳴を上げるのに、教皇の手が許さない。
ざばっと、強引に顔を引き上げられ、カイリは苦痛で意識が白濁とする。
そうして、酸素を吸えたかどうか分からないところで。
「――カイリ。お前も、わしのものだっ」
「――っ!」
ばしゃあっと、顔を突っ込まれた。
息が出来ない。苦しい。水が、口を、喉を、肺を、頭を、全てを刺して、殺していく。
嫌だ。痛い。恐い。痛い。吐きたい。痛い。痛い。痛い。いたいいたいいたいいたいイタイイタイいたいイタイいたいいたいイタイイタイイタイ――。
嫌だ。――嫌だ。こんなところで死ぬのは、嫌だ。
助けて。
〝……カイリ。どうか、俺の本物の家族になってくれ〟
「……っ、――っ!」
――フランツさん、助けて……っ。
再度顔を引き上げられ、カイリは
教皇は、苦痛に喘ぐカイリを眺め回して楽しんでいた。まるで見世物にされた様な不快感に、カイリは必死に酸素を求める。
そんな風に、カイリが生をがむしゃらに掴んでいると。
「――っ、……、か、……てぃ、す」
ぼろっと、零れる様に教皇の声が落ちる。
今までとは何かが違う声音に、カイリはおぼろげな意識の中、のろのろと彼を見上げた。
そこにいたのは、ひどく困惑した表情の教皇だった。カイリをぱちぱちと瞬きながら見下ろし、呆然とカイリの頭を掴んでいる。
どこか迷子の様な幼い顔つきに、カイリも伝染する様に当惑を覚えた。心なしか瞳にも生気が宿っている気がする。
「……、え、……げい、か?」
「か、……っ、……あ、……あああああ、……は、や」
震える手で、教皇がカイリを手放す。どさっと床に落ちながら、カイリは懸命に彼を視線で追う。
一体何が起こったのか。一瞬洗脳が解けた時のパリィを思い出し、かちっと歯の奥が怯える様に鳴る。
「は、や、……っ、……かー、てぃ、……に、……ろ」
「え……」
「は、や、――っ、――――……っ」
かたかたと表情を震わせる教皇は、しかし息を呑む様にカイリを凝視する。
「あ、……あ、………………ああ、……っ」
ひどく震えながら、教皇がカイリに手を伸ばしてくる。
けれど、先程とは全く違う。今までの押さえつける様な圧迫感や見下す様な
カイリを見つめる瞳は、とても綺麗だった。夜の煌めきを宿す様な澄んだ色に、こんな瞳をしていたのかと驚きさえ覚える。
「あ、……あ、あ、……っ」
教皇が、懸命に手を伸ばしてくる。カイリも、釣られる様に力の入りにくい体を一生懸命起こす。
教皇の手が、カイリの頬に触れる。
痛みを伴う暴力ではない。とても大切なものに触れる様な仕草に、益々カイリは困惑した。
「……カ、…………っ、は、……カ………………っ、に……」
「……、え?」
「……っ、……カー、…………ス、よく、……似……っ、…………――」
「――――――――」
教皇の言葉を聞いた瞬間。
〝お前にはな、この絵本に出てきたおじいちゃんみたいに優しい人がいるんだぞ〟
何故だろうか。
ぶわっと、あの日教えてくれた父の優しい声が
目の前にいるのは、教皇だ。ミサの時と同じ、いやそれ以上に残酷で、威圧的で、拷問さえ平然と命令して洗脳しようとする、人を人とも思わない極悪非道な人間だ。
それなのに、どうしても重ならない。
先程までとは全く違う人物が、眼前に在る。
そんな気がしてならない。
「……っ、げい、……っ」
果たして、「猊下」と呼ぶのが正しいのだろうか。
目の前の人物は、本当に『猊下』なのだろうか。
本当は。
〝……おれにも、おじいちゃんとおばあちゃんが、いるの?〟
〝ああ。……会わせてあげることは、出来ないかもしれんがな〟
本当は――。
「……っ、あ、なた、……は……」
カイリは必死に声を絞り出す。
答えが欲しい。真実が知りたい。
貴方は、誰なのか。
そう、問おうとした瞬間。
だんっ! と。その場にいた近衛騎士が、一斉にカイリを取り押さえた。
「――っ⁉ い、……あぐっ!」
思いきり床に叩き付ける様な押さえ方に、カイリの全身が悲鳴を上げる。
絶対に逃がさない。
そんな脅迫めいた声が聞こえてくる乱暴さに、カイリは大きく震えた。
「……や、め……っ!」
「駄目だ。逃がさない」
「猊下。……猊下。お気を確かに」
「あ、……あ、あ。――……」
騎士達数人に揺さぶられ、教皇がゆっくりと息を吐く。
カイリの目の前で、教皇の瞳からはまた光が消え去っていった。
そして、次に開いた彼の瞳は、今まで通り冷淡で無感動の光の無い深淵に囚われていた。
「やはり、害悪」
「――っ! か……っ!」
どっと、思いきり腹を蹴り上げられる。何度も何度も蹴り上げられ、カイリは噎せる様に咳き込んだ。
「油断出来ない。お前、洗脳、する。絶対。……絶対っ」
「……っ、い……っ」
「だが、――ふむ。……母に、似たか」
「――、……え……」
教皇の視線の濁りが、劇的に増す。本能的に危険を悟り、カイリは何とか彼の手から脱しようと頭を動かした。
だが、そんなカイリの抵抗は虚しく、あっさりと教皇に腕を引っ張られる。そのまま、隣の部屋へと連れていかれ、奥へと投げ込まれた。
ぼふんっと、柔らかな感触がカイリを受け止める。
何故、と思う間もなく。
教皇が、カイリを組み敷いて馬乗りになった。
「――。……な、に」
「よく見ると可愛い顔立ち。……なるほど」
「――え?」
濁った瞳がいやらしく笑った途端。
びりっと、コートとシャツが一気に縦に裂かれた。
そのまま胸元を開かれ、教皇の顔が首元に落ちる。
一体何を、と疑問に思う間もなく、生暖かい感触が首筋を這い回った。
「……っ⁉ い……!」
その気持ち悪い感触に、カイリは硬直し、すぐに足で彼を蹴り上げた。
だが、全く力の入っていないカイリの抵抗は、あっさりと封じ込められる。老体のどこにそんな力がと疑問に思う程、教皇の腕力は強大だった。
「や、め……っ! 何っ! やめ、ろっ!」
「すぐ、気持ち良くなる」
「何、言って、――っ!」
胸元を撫でる熱が蛇を連想させる。荒い吐息が肌に触れるたび、カイリの全身が粟立って震えた。
嫌だ。気持ち悪い。何だこれは。意味が分からない。
「嫌だ……っ! 触るな! 触らないで……っ!」
「――、猊下!? これは、……何をしているのです!」
「分からぬか。『喰って』いる」
駆け付けたらしいゼクトールが
だが、教皇は意にも解さない。そのままカイリの胸を
「ひっ……!」
「カイリ……っ! 猊下! おやめください! ケント殿にバレたら……っ!」
「洗脳する。こいつ、口、割らない。問題ない」
ゼクトールに構わず、教皇の手はどんどんと体を這いずり回っていく。
嫌だ。恐い。嫌だ。気持ち悪い。気持ち悪い。触るな。
――嫌だっ。触るな……っ!
必死に抵抗しているはずなのに、カイリの手足は上手く動かない。それどころかその嫌がる姿さえ面白いのか、楽しげに喉で笑われた。
嫌だ。どうして。こんなの、嫌だ。
お願い。嫌だ。嫌だ。嫌だ。――嫌だ。
――俺、は。
〝――信じますわ。あなたは、本当に何も言っていないのだと〟
「――――――――っ」
――シュリア。
不意に聞こえてきた声に、カイリは泣きたくなるほど胸が熱くなった。
ぽろぽろと、カイリの胸の内から、零れ落ちる様に声が追いかけてくる。
〝第十三位の目的を押し付けておきながら、こうお願いするのは酷かもしれません。ですが、……カイリ様にはそのままでいて欲しいんです〟
〝……まあ、そんな新人だから、信じられるんですけどね〟
〝ま、どうしても泣きたくなったら、おにーさまが胸を貸してやるけど?
懐かしい。そんなに時間が経っていないはずなのに、聞けなかったこの時間がとてつもなく長く感じられる。
ずっと、聞きたかった。ずっと、会いたかった。
彼らに会いたい。彼らの声が聞きたい。
第十三位の仲間達。一方的かもしれないけれど、カイリが大好きな人達。
〝じゃあね、カイリ! また休日、お話しようね!〟
それに、きっとケントも待っている。
今度の休日に会うと約束した。会って、話をしようと。その約束を破るわけにはいかない。
そうだ。会いたい。会って、話がしたい。
そして。
〝これからも第十三位にいてくれないだろうか。……俺の、息子として。傍にいてくれないだろうか〟
――フランツさん。
〝こんな穢い俺の傍に、……まだ、いてくれるだろうか〟
「――っ、……フランツ、さん……っ!」
家族になりたいと言ってくれた人。
自分は穢いと言いながらも、大切なのだと、傍にいて欲しいと抱き締めてくれた人。
帰りたい。
そうだ。帰りたい。
あそこに――第十三位に、みんなの元に帰りたい。
こんなところで教皇に弄ばれるなんて真っ平ご免だ。教皇の操り人形になんてなりたくない。
カイリの居場所は、あそこだ。フランツがいる、みんながいる、第十三位だ。
だから。――だから。
「――嫌だっ! 【俺は、フランツさん達のところに絶対帰るんだ】……っ!」
強く、深く、力を振り絞ってカイリが叫ぶと同時に。
ばちいっと、雷の様に弾け飛ぶ音と共に、カイリは勢い良く教皇の下から引っ張り出された。
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