第200話


 かつ、こつ、とケントは暗闇を縫って夜の街を歩く。

 いつもならとっくに静寂を迎えるその場所は、しかし今は騎士達が行き交って騒がしい。さぞかし住民も迷惑しているだろう。ケントとしても、鬱陶しくて迷惑だ。


 ――カイリを捕まえて、良い気になっているのかな。


 馬鹿馬鹿しい。反吐へどが出る。カイリは、捕まったとしても教皇に良い様にされる様な人材ではない。

 例えどれだけ拷問を受けたとしても、カイリは教皇の道具にはならない。それだけは断言出来る。

 ただ。


「……ゼクトール卿」


 今、カイリを捕まえた彼は、付きっきりで傍にいるだろう。彼は、これ以上第十三位の妨害はしないはずだ。面倒なことこの上ない。

 いつか行動を起こすと予想はしていたが、予定より遥かに早い。生き急いでいると思うほどに。

 そう。



 まるで、その先を考えていないかの様だ。



「……。……大体、教皇も教皇だよね」



 教皇の言うことを素直に聞かないケントが、たかだか国境の平定のために本気で動くと考えるだろうか。

 普段の教皇なら、もう少し慎重になるはずだ。それこそ、誰かの入れ知恵でも無ければもっと用心に用心を重ねていただろう。

 そう。



 誰かの入れ知恵が、無ければ。



 いつも通り、もう少し用心深くケントの動向を探っていたはずだ。策の根を地底に張り巡らせ、それこそカイリの父やフランツの事件の様に、火種をきちんと仕込んでいただろう。

 つまり、今いつもと様子が異なっているのは、誰かの介入があるからだ。

 その一端がゼクトールであることは想像に難くない。教皇がカイリに異常な反応を見せたのも拍車をかけていた。

 生き急いでいるからこそ、ゼクトールは性急な行動に出たのだろうか。

 それとも。



〝うむ。分かっていないあたりが馬鹿なのである。……カイリがカイリであるだけで、恐らく彼らの力になっているであろう〟



「……。やっぱり、気に食わないなあ」



 通常なら放置しておく事柄だが、カイリが関わってしまった。ケントも動かざるを得ない。こうして夜の街を練り歩いているのが良い証拠だ。

 要するに、ケントも『誰かの』手の平の上ということになる。それが気に食わなくて、黒幕を頭から叩き潰してやりたい。

 とはいえ。


「ま、『彼』に会えるなら、乗ってあげるけどね」


 教皇がカイリに手を出した時点で、ケントの腹の内はとっくに決まっていた。父もきっちり落とし前をつける様だ。それならばもう、教皇の運命は決定したも同義。

 後は。


「……ああ、いたいた」


 目的の人物を発見し、ケントは上機嫌で歩み寄る。

 今は、聖歌語で姿を完全に消しているから、誰にも見咎められることはない。ケントの気配を悟れる優秀な騎士もいないから完璧だ。

 とんとん、とおもむろに相手の肩を叩いてみせる。

 途端、物凄い勢いで振り返ってくるが、この騎士の顔は平坦だ。洗脳の顔が出たまま歩くその姿は、夜の深さも相まって不気味の一言である。

 だが、ケントの知ったことではない。

 これが、昼間はそれなりに明朗活発なギルバートだというのだから、笑える。



「――【教皇猊下からのことづけだよ】、……僕が分かるよね?」

「――――」



 ギルバートの目が、少しだけ見開かれた。

 その様子に、きちんとを確認する。

 先程まで教皇の命令通りに動いていたのに、今はケントの言葉に耳を傾けるため、立ち止まっている。


 まるで、魂の無い人形の様だ。


 だが、それも無理からぬこと。

 教皇近衛騎士というのは、大体天涯孤独な人間から選ばれる。それは、『何かの不手際で消えたとしても』、誰も悲しむ者がいなくて楽だからだ。

 何故、天涯孤独な人間が対象なのか。

 理由は簡単だ。



 就任して一番最初の彼らの仕事は、何を差し置いても教皇直々に洗脳を施されることだからである。



 毎日何度も何度も繰り返し洗脳された、わば操り人形なのだ。

 キッカケの『言葉』さえあれば、途端に殺戮人形と化す彼らに、もはや意思はない。例え普段は己の意思を物にしていたとしても、洗脳効果が顔を出せば、あっという間に体を乗っ取られる。ケントとしては全く信用出来ない人種だった。



「そうそう。【教皇やゼクトール卿が、最上階に来て欲しいみたいだから。お仲間に声をかけて、全員教皇の元へ集まってあげてね】」



 頼んだよ、と肩をにこやかに叩けば、無表情のままギルバートは頷いた。そのまま、機械的にかっくん、かっくんと、直角90度ずつ回れ右をし、仲間を求めて闇の向こうに消えていく。

 教皇近衛騎士は、洗脳状態になった場合は基本的に教皇の命令しか聞かない。そして、散らばった彼らに命令を伝達するためには、教皇以外では同じ洗脳状態となっている騎士同士で伝え合ってもらうしかない。


 本当に面倒な仕組みだ。どれだけ用心深いのか。


 その仕組みを利用するために、ケントは昔から長い時間をかけて、彼らが正気の時に聖歌語を何度も何度も吹っ掛け続けた。一人一人に施すのは骨が折れたが、おかげで何とか主導権を一時的に奪える様になった。

 とはいえ、所詮しょせんまがい物だ。教皇がこの後もう一度命令し直せば、ケントの命令は無かったことになる。

 綱渡りの様な計画に、ケントはとんとんと、人差し指で二度胸元を叩いた。何となく、目的を果たす前にしてしまう癖の様なものである。

 緊張しているのだろうか。カイリの命運がかかっているから。


「……カイリは、大丈夫だよ」


 言い聞かせる様に、夜風に紛れてささやく。

 きっと、拷問は避けられない。カイリの心には、下手をすれば生涯癒えない傷が残るだろう。

 だが、ケントにも目的がある。この機は絶対に逃せない。

 会いたい相手は、普段は姿を現すことはない。恐らく、教皇を含めた付近の人間――つまり近衛騎士も一緒に壊滅し、危機的状況に陥らないと、出て来てはくれないはずだ。

 そうでなければ、こんな面倒な手順を誰が踏むものか。時間がかかればかかるほど、カイリの心に傷が付くのに。



 ――カイリを大切とうたいながら、彼を犠牲にする。



 己の穢さに、ケントはこういう時だけは失望した。

 家族のことだって、必要があれば命は死に物狂いで助けても、多少の犠牲には目を瞑るだろう。


「……教皇がカイリに目を付けなければ、僕も大人しく人生を終わらせていたのに」


 だが、無理な願いなのは重々承知していた。『彼』が放置しておくとは考えられない。

 だから、このタイミングでケントは目的の人物に会う。

 カイリを、この手で守るために。例えカイリが教皇達に傷付けられることになったとしても、彼を守るためにはこれしかない。



 追いかけてきてくれたカイリは、ケントのものだ。



「誰にも渡さない」



 例え、神が相手でも。

 ケントは、反逆の刃を手にして立ち向かう。


「カイリ、……ごめんね」


 これほど強く執着していることを知った時、カイリはどんな顔をするだろうか。

 怯えるだろうか。気色悪いと、また避ける様な態度を選んでくるだろうか。――前世で、避けてきた様に。

 そうなったら、さみしくなる。考えただけで気が狂いそうだ。

 この人生では、カイリはケントと共に笑って、口をいてくれるから。それに慣れてしまった今、逆戻りはもう考えられなかった。

 だから、もし避けられてしまったら。


「……本当に、閉じ込めちゃうかも」


 狂っているなあと自嘲しながら、ケントはしかし実行する自分が容易に想像出来る。益々嫌われるだろうなと、目を瞑って想像を散らした。

 今はとにかく、目的を叶えるために――カイリを助けるために動くだけだ。


「……他にも騎士を探さないと」


 集まる時間は、早ければ早い方が良いに決まっている。その分カイリへの負担が減るのだから。

 方針を決めて、ケントは壁を蹴り上げ、華麗に近くの建物の屋根に飛び移る。そのまま、屋根から屋根へと飛び、獲物を狩る目で渡り歩いた。

 その姿は夜のとばりに完全に溶け込み、誰も視界に捉えることは叶わなかった。











 どっと、乱暴にカイリは教皇の前に座らされた。

 強制的に眠らされたせいで、まだ頭がぼんやりしている。視界もあまり良好ではない。

 しかし、両手を後ろ手にきつく縛られ、両脇を近衛騎士に強く押さえつけられているせいで、痛みが意識を覚醒させてくれる。あまり良い目覚めではないし、己の現状は最悪だが、カイリは絶望に落ちそうになる心から必死に這い上がり続けていた。

 目の前の豪奢ごうしゃな椅子に腰を下ろした教皇は、足を組んで冷たくカイリを見下ろしている。視線を放り投げられているだけなのに、頭からぺしゃんこに押し潰される様な圧力だ。

 ミサの時と同じ。教皇の底知れぬ真っ暗な空気に、カイリは喉や胸を圧迫される様な激痛を味わった。


「――久方ぶりだ。カイリ」


 彼が言葉を発するだけで、びりっと空気が裂ける。耳を侵す様な振動に、何とかカイリは声を絞り出した。


「……、……お、……久しぶり、です。教皇、げ……」

猊下げいかと呼べ。頭が高い」

「ぐっ……!」


 教皇の低い怒りに、両側の騎士がカイリの頭を無理矢理掴んで下げさせる。急に負荷をかけられて、カイリはうめきを必死に噛み殺した。

 少し離れた場所には、ゼクトールがいる。頭を下げたままの体勢なのに、視界の隅に彼の靴が入ってしまう。

 彼は、教皇側にいる。

 その現実に、カイリは泣きたくなりそうな思いを懸命に押し殺した。



 ――おじいさんは。ただ、このために近付いただけだったんだ。



 裏切られた、というよりは落胆が大きかった。

 信じたカイリが愚かだった。それだけだ。

 誰も彼もが善人でないことなど、カイリはよく知っていた。それなのに、彼を信じたのは他ならぬカイリである。

 けれど。

 ただ。



〝おじいさんと呼ぶが良い〟



 ――ただ、悲しい。



 カイリは、涙を零す様に心の中だけで嘆きを落とした。



「さて、カーティスの息子」

「……」

「申し開き、あるか」


 申し開き。

 それは、教皇の晩餐会を蹴ったということに対してだろうか。そもそも、それだけでここまで強引な方法を使えるのだろうか。

 最初から、カイリを捕まえるためだけの口実にしか思えない。何を言っても無駄なのは分かり切っていた。


 教皇と顔を合わせるのは、これで二度目。


 一度目はミサの時。あの時も、カイリは彼に連れ去られそうになった。ケントが割って入ってくれなければ、もっと早い段階でこうなっていたかもしれない。

 因果なことだ。思いながら、カイリは震える心を叱咤しったして声に力を込めた。


「……教えて、下さい。どうして、俺をここに連れてきたんですか?」

「聞こえなかったか。申し開き、あるか。聞いている」

「あ、ぐっ!」


 教皇の怒りが膨れ上がると同時、騎士に背中を強く蹴られた。揺さぶられる様な激痛に、げほっと、咳き込んでしまう。


猊下げいか。あまりやり過ぎると、洗脳した後、ケント殿を誤魔化せなくなります」

「――っ」

「……うむ。やめよ」


 ゼクトールの進言に、ぴたりと騎士達の暴行が止む。

 だが、カイリはそれどころではない。聞き捨てならない単語が耳に捻じ込まれた。


 ――洗脳。


 その意味を知り、カイリはざっと血の気が引く。

 それは、パリィが長年苦しんできた最たる元凶だ。フランツを攻撃し、大事な仲間や恋人を失い、終わりの無い憎しみに囚われ、ひたすら渇きに飢えて復讐に身を投じてしまう。

 そんな恐ろしい状態にする方法を、あっさりとるというのか。改めて知る教皇の極悪さに、カイリは必死に頭を振った。


「……嫌だ! 【離せ】っ!」


 咄嗟とっさに出た聖歌語だったが、しかし両脇の手はびくともしない。

 それどころか、押さえつける力が更に増した。骨がきしむ音に、カイリは思わず悲鳴を上げる。


「あ、……っ、いっ!」

「……流石、カーティスの息子。そうは思わんか、ゼクトール」


 教皇のにたっとした笑みに、カイリの背筋が震える。

 ゼクトールは無表情。すぐには返事をしない。

 けれど。


「……ええ。……やんちゃで、無鉄砲で」


 目を閉じ、ゼクトールは唇を引き結ぶ。

 細々と息を吐き出す音が、何故か震えている様に聞こえた。



「――やはり、駄目であるか」

「……、え」



 ゼクトールのささやきは、本当にささやかだ。ともすれば空気の音の様に聞き逃してしまいそうなほど小さい。

 それなのにカイリが拾い上げてしまったのは、何の悪戯か。

 何が駄目だったというのか。聞きたかったのに、すぐにゼクトールは表情を切り替えた。振り払う様な横顔に、カイリの心が大きく跳ねる。


「彼は、やんちゃで、無鉄砲で、……教皇猊下に逆らう不届き者」

「うむ」

「父と同じ。……見過ごせるわけがありませぬ」

「――っ」


 不意に、ゼクトールの大きな手がカイリの後頭部を掴む。指が食い込みそうなほど鷲掴わしづかみにされたその強さに、カイリは焦燥と恐怖で視界が滲み始めた。


「お、じ……!」

「洗脳騎士に、聖歌語は効かん」

「……っ!」

「カイリよ、【動くな】」

「あっ! う、ああああっ!」


 びしっと、ゼクトールの聖歌語がカイリの全身を鞭打つ。雷が直撃した様な痛みに、カイリは堪らず絶叫した。

 のた打ち回りたかったのに、カイリの体は己の意思に反して全く動いてはくれない。益々激痛から逃れる術を失い、痛みが増して発狂しそうになる。



「お、じい、さ……っ!」

「カイリ。お前、今から、わしのもの」

「――っ!」



 かつっと、あっという間に教皇の気配がカイリの前に届く。

 嫌だ、と思う間も無く、あごを思い切り強く掴まれた。そのまま上向きにされて、間近で濁った視線を叩き込まれる。

 ぎらぎらと、血走った黒い瞳が恐ろしい。底なしの穴の様に深く、一気に飲み込まれそうだ。

 毒々しいうねりを思わせるその眼差しに、カイリは目を逸らしたいのに逸らせない。

 恐い。熱のこもった吐息が顔に触れ、カイリは動かない体で必死に抵抗した。


「っ、やだ……っ!」

「馬鹿め。――【カイリ、わしのものになれ】」

「――っ!」


 途端。

 ぎいんっと、甲高い雑音が頭の中を物凄い勢いで掻き回した。ぐちゃぐちゃっと、脳を握り潰して掻きむしられる様な衝撃を味わう。



「あ、ああっ⁉ が、あ、ああああああああああああっ‼」



 頭が割れる様な激痛に、カイリは目を見開いて絶叫した。

 痛みだけではなく、生温い感触がうねりながら頭の中を這いずり回り、滅茶苦茶に侵していく。自分というものを書き換えられていく様なおぞましさに、零したくないのに目尻から何かが零れ落ちた。



「あ、……っあ! あ、は、がっ、あ、……ぐ、あああああああああああっ!」



 痛い、割れる、苦しい、嫌だ、気持ち悪い――っ!



 吐き気を堪え、ひたすらに耐える。声を上げ続けることで何とか痛みを逃し、カイリは狂いそうな意識を必死に繋ぎ止めた。

 頭が、気持ち悪い。何かがいる。這ってる。嫌だ。気持ち悪い。気持ち悪い。――気持ち悪いっ。



「いや、あ、だ、あ、あああ、っ! ……あっ⁉」



 だが、何とか正気に食らい付いていると、胸元がひどく熱くなった。

 同時に、頭の中の向こう側に、微かに真っ白な光がちらつく。

 訳が分からない。

 けれど、その星の様に頼りなく輝く光が、欲しい。手を伸ばす様に、意識を必死にそちらへ向けた。


「ひ、ぐっ、あ! ああ、あ、……っ、あ、は、……はあ……――っ」


 光をがむしゃらに求めたせいだろうか。次第に、気味の悪い音や感触が遠くへと消え去っていった。

 何故だろうと、疑問を浮かべる暇もなく。


「……っ、何故っ」


 困惑をさらす教皇の声がする。

 顎を掴まれたままカイリが見上げれば、信じられない化け物を見る様に見下ろしてきていた。

 何故そんな表情をするのか分からず、カイリは何も答えることが出来ない。ただ、先程の痛みや気持ち悪い感覚を思い出し、ぶるっと体が知らず震えた。


「いや、だ……っ」

「……。まさか。効いて、いない、……っ」

「いいえ、猊下。一瞬ですが効きました。……恐らく、抵抗力が強いのでしょうな」


 ゼクトールの冷静な訂正に、教皇はにわかに落ち着きを取り戻す。

 まるで、彼の言いなりだ。そんな印象を抱いたことに気付かれたのか、教皇はカイリの顎を更に強く上向かせる。


「いっ……!」

「生意気。……生意気生意気生意気生意気っ! ……ゼクトール!」

「……。……拷問、ですか」

しかり。少しずつ爪をげ。むちを用意しろ。火を持て。釘も。それでも駄目なら――」

「……ひ……っ!」

「猊下」


 物騒な単語の羅列に、カイリの体が一層震え上がる。

 だが、ゼクトールは教皇を押し止め、カイリの後頭部を掴んだまま凄絶に微笑んだ。


「それでは、体に傷が付きます。ケント殿に知られたら、殺されましょう」

「……う、む」

「体に、傷は無いに越したことはない。体力を奪って、洗脳すべきでありましょう」

「……、……任せる」

「御意。――水を持って来るのである。分かるであろうな」


 近くの騎士にゼクトールが淡々と命じる。

 音も無く騎士達が奥の部屋に行き、次にはカイリが目をみはるほどの大きなおけの様なものが持ち込まれた。


 底が深いその入れ物には、たっぷりと水が注がれている。


 何に使うのかと、カイリはふるふると嫌な予感と共に頭を振った。ゼクトールにかけられた聖歌語の効果が切れたことを、それで知る。

 だが、それに安堵する間もなく。


「……さっさと落ちた方が、楽であっただろうにな」

「――――――――」


 ゼクトールのどこか憐みを誘う言葉と共に。



 ざばあっと、顔を水の中に突っ込まれた。



「――っ!? が、ごぼっ!」



 衝撃で息を吸い込もうとしてしまい、水を大量に飲み込んでしまった。ごぼっと咳き込むのに、息は全く出来なくて、ただひたすらに水が凶器と化してカイリを攻撃する。

 ざばっと、顔を引き上げられ、カイリは酸素を求めてき込んだ。

 しかし、水が気管に入ってしまって、上手く吸い込めない。ごふ、ひゅっと、嫌な呼吸音と、それでも息が出来ない苦しさがカイリをあっという間に追い詰める。


「あ、はっ、ごぼごほっ! はっ……!」

「二、三十分ほど続ければ、体力は格段に落ちるでしょう。……そうであるな、カイリ」

「――っ! やめっ……!」


 耳元でささやかれた宣告に、カイリが抗議を上げる間もなく。

 もう一度、水の中に深く顔を押し付けられた。ごぼっと、非情にも酸素が音を立てて水面に浮かぶ。

 息が出来ない。水圧が胸を、喉を激しく圧迫する。押さえ付けられた後頭部の大きな感触が、凍えるほどに容赦が無かった。

 嫌だ。苦しい。痛い。息が出来ない。

 水が、痛い。嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――嫌だ。

 このままでは。



 死――。



「――っ、……っ‼」



 嫌だと首を振ると、更に押し込める様に手が頭を固定する。

 長い時間をかけて水を大量に飲み込まされ、ざばっと、またも引き上げられた。

 だが、カイリが必死に求めて酸素を吸える様になったところで、また派手な水音を立てて顔を突っ込まれる。

 その繰り返しの合間に、何も考えられなくなっていく。ただ酸素だけを求めて口はもがき、そうすればそうするほど、奪われ、追い詰められていった。

 嫌だ。助けて。痛い。恐い。死ぬ。



 ――嫌だっ。誰か。



 ――だれ、か。



〝……カイリっ。……無事で良かった……っ〟



 いつも大切そうに抱き締めてくれたあの手が、今はとても恋しくて堪らない。

 頭を撫でてくれたその温もりが、今はひどく遠い。



〝――カイリっ! 離れろっ!!〟



 ――フラン……ツ、さ、ん。



 最後に聞いた彼の声が、あんなに焦った叫びだったことが、カイリには残念でならなかった。










「……ひんっ」


 夜に似つかわしくない騒々しさの中、アーティファクトが吸い込まれる様に空を見上げる。

 その眼差しの先には、教皇がいるだろう部屋があった。つぶらな真っ黒な瞳に、その建物が鮮明に映し出される。

 一緒にいた馬が、アーティファクトに語りかける様に近寄った。それに頷き、アーティファクトは周囲の馬に「すまないな」とでも口にする様に一度だけ頭を垂れ。



 次には、ばりいっ! と、さくを思い切りぶち破った。



 そのまま、アーティファクトは黒く塗りたくられた様な夜の世界に躍り出る。ぱっかぱっかと、夜の街を縫う騎士達を尻目に歩き始めた。

 視線は既に、教会区へと定められている。



 ――待っていろよ。



 そんな声が聞こえてくる様な勇ましさで、アーティファクトはある者達の匂いを追いかけ駆け出した。


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