第201話


 パン屋の父と、店の経営を支える母。

 その二人の間に生まれたファルは、両親と同じく平々凡々な人間だった。

 日々、特に何か大きな出来事が起きるわけでもなく、何か一つの才能に秀でているわけでもない。

 何をしてもそれなりにこなし、器用に渡り歩いていく。

 ファルの人生というのは、最初の頃は実に平坦で刺激の無い日々だった。



 故に、一度教会騎士同士の試合を見に行った時、ファルは一発で彼らに魅せられた。



 物語に出てくる、魔法の様な聖歌語を駆使して戦う騎士達の勇姿。己の得意な武器を振るい、果敢に立ち向かっていく姿は眩しかった。

 だが、何より興奮したのは聖歌だ。



 聖歌を朗々と歌い上げる一人の騎士に、ファルは一気に目が釘付けになった。



 神々しいまでの旋律が流れれば、周りの騎士が一斉に高揚する。勇敢だった彼らは更に勇猛に勢いを増し、覇気に満ち溢れたぶつかり合いに導かれていく。

 聖歌語による現象も凄かったが、聖歌が辺りに満ちていく荘厳な空気は格別だった。きらきらと光の粒が辺りに満ち満ちていく様な光景は、別世界の如く美しかった。



 いつか、あんな風になりたい。



 幸い、ファルには両親とは一つだけ違う側面があった。

 それは、自分には前世があったという記憶だ。

 幼い頃は何故自分にそんな記憶があるのかと疑問を持ったが、騎士について調べていく内に理解した。

 教会騎士が扱う聖歌語は、前世の記憶を覚えている者が扱える力なのだ。


 つまり、ファルには聖歌語の才能がある。


 平凡なだけの人生を送る両親とは違い、ファルには輝かしい未来が待っている。

 パン屋の息子で終わりはしない。ただ毎日毎日パンを作って、売って、寝る。そんなつまらない一生ではなく、まだ見ぬ可能性へと向かって走り抜けるのだ。

 決意して、ファルは付け焼刃で武術を身に着け、教会騎士となるための候補生の試験を受けた。両親も手放しで応援してくれ、理解あるその点には感謝したものだ。

 そして、結果。ファルは、受かった。

 だが。



『……どうやら、君に聖歌語の扱いは難しそうだな』



 教会騎士候補の資格を得たその日に、ファルは試験官から絶望的な通告を受けた。

 どうして、と食い下がれば、彼らは一言。


『あまりに記憶が無さ過ぎるからだよ』


 それだけを告げた。

 ファルは、確かに前世の記憶があった。この世界が、前に生きていた世界とは違うとも分かっていた。

 しかし、それだけだ。



 ファルは、前世の頃の自分の名前さえ思い出せなかったのだ。



 聖歌語を少しでも扱える人間は、己の名前は必ず覚えているのだという。記憶の差によって力の差も付くが、聖歌語を扱えることはどれだけ弱くても希少なのだと。

 実際、教会騎士の半数以上は聖歌語を扱えない。そして、彼らの扱いは聖歌語を扱える騎士よりも下だ。表向きは平等でも、差別はいくらでも潜んでいた。

 候補生として騎士学院に通っていた間でさえ、細かく差別された。授業中の席は後ろとか、授業の準備や後片付け、放課後の掃除は必ず自分達とか、目立つことは他の候補生に譲るとか、食事の席も彼らの特等席は決して侵さないとか――。


 くだらないことばかりだったが、ちりも積もれば目障りなほど大きくなる。


 だが、ファルはまだ諦めてはいなかった。

 この世の中には、突然変異というものも存在したからだ。

 それまで記憶が無くても、ある日突然前世の記憶を思い出し、聖歌騎士になった人物もいると聞く。

 ならば、ファルにだって可能性はある。明日にでも更なる前世の記憶がよみがえり、今まで見下してきた相手を見下ろす日がくるかもしれない。

 毎日それを夢見て、ファルは修練に励んだ。同じ境遇の者達を少しずつ取り込み、研鑽を積み続けた。

 結果。



『君。少し、頼まれてくれませんか』



 もうすぐ卒業して教会騎士になるという時に、とある人物から声をかけられた。

 それは、聖歌騎士の中でも別格の者達。彼らが通れば教会騎士達は一斉に道を開け、頭を垂れる存在を指揮する者だった。


『少し、信心が足りなさすぎる団がありましてね。神よりの天罰を授けるため、協力をして欲しいのです』


 われて、二つ返事で承諾した。しかも見返りは、護衛の専門とうたわれる第十位への配属というものだった。受ける以外に選択肢などないだろう。

 ファルは今のままだと、教会騎士の中でも底辺に近い第十一位や第十二位に配属されることとなっていた。特に教会事の大事に関わることはなく、ただただ街の人達からの些細な依頼を引き受けて解決するだけの団である。

 ファルが目指す未来はそんな矮小わいしょうなものではない。もっと崇高な、それこそ皆が見上げてひれ伏す様な功績を掲げるのだ。

 第十位は、護衛を生業なりわいにしているだけあって、実力派揃いの集まり。ファルの野望がまた一歩近付く。



 承諾し、そうして入った第十三位は、噂通り問題児だらけの場所だった。



 一人残らず仲間を全滅させ、のこのことんぼ返りしてきた団長。

 敵味方問わずに戦場を血塗れにした副団長。

 親殺しに、監禁された元王女、しかも男娼までいるときたものだ。

 何故こんな底辺の犯罪者達が、騎士としてまだ活動を認められているのだろうか。

 思いながら、ファルが作った満面の笑みで挨拶をすると。


『どうも』


 気の無い返事で、遠巻きに警戒している少年が目に入った。

 年齢的には、自分と同じくらいだ。エディ、と呼ばれていたので、彼があの男娼かと当たりを付ける。

 しかし。



 ――あんまり、それっぽくないな。



 ファルの偏見ではあるが、そういう出身の人間はもっとこう隠し切れない色気が醸し出されているものだと思っていた。色も白く滑らかで、見ればその気が無くとも引き寄せられる。そんな人物を想像していたのだ。

 しかし、目の前の彼はおよそそういう偏見像とはかけ離れていた。

 確かに肌の色は白いかもしれないが、やんちゃという風貌だ。黙っていればそれなりに見目は整っているかもしれないが、その辺りにいる人間と遜色そんしょくがない。


 つまり、はっきり言えばある意味期待外れとも言える印象だった。


 その後、初対面は色々とすったもんだがあったが、上手く入りこめたとは思う。エディも最後は渋々といった風ではあったが、差し出した手を握り返してくれた。

 どうせ一ヶ月もいない団だ。適当に仲良くして、その後は言われた通りに外の騎士達に悪意を吹聴して回ろう。

 腰掛けの団に、特に思い入れなど無かった。輝かしい未来を目指すための踏み台。ただ、それだけだった。

 けれど。



『ファル。また、無茶な訓練して』



 第十三位は、みんな親切だった。

 その中でも、特にエディは抜きん出てお人好しだった。


『先輩。でも、オレ、まだまだ弱いから』

『弱いからって無茶な自主練したら、変な癖ついて余計に強くなるのに時間かかるっすよ。……ほら』


 くいっと手首を軽く捻られ、ファルは悲鳴を上げた。

 すみません、とエディは素直に離してくれる。それが意外だった、とは口が裂けても言えなかったものだ。


『でも、ほら。痛いっすよね?』

『……。それは、まあ』

『じゃあ、今日はここまで。ほら、座って下さい。手当てするから』


 半ば強制的に地面に座らされる。エディは割と強引なところがあるな、とファルは渋面になった。

 けれど、手当てをしている彼の横顔は真剣そのものだ。いつものお茶目な感じの笑顔が鳴りを潜め、何故かファルは目を離せなくなる。



『ファルは、真面目っすよね』

『それはもちろん! エディ先輩と違って』

『あー、言ったっすね! ……まあ、ファルはセンスがあるっすから。その内ボクのことも抜いて強い騎士になると思うっすよ』

『――』



 ふわりと笑って評価され、ファルは咄嗟とっさに言葉が出て来なかった。

 いつもなら軽口で切り返せるのに、何故だろうか。彼の笑みや響きに揶揄やゆが無かったからかもしれない。


『……あははっ。先輩ってば。後輩には抜かされないー! とか言わないと、威厳が出ませんよ?』

『事実っすから。持ち方を正しく直したり、無茶したりしなければ強くなると思うっすよ』

『……』

『あと、武器も変えてみたらどうっすかね?』


 おしまい、と言ってエディが手当てを終えると同時に提案してくる。

 今現在ファルが使っているのは、槍だ。剣や斧、短剣に刀など色々試しているが、どれもそれなりにこなせるので、いまいち己に合っているのか分からない。例外的に、投げ道具や飛び道具だけは壊滅的だということだけは判別が付いているくらいだ。

 エディはそんな彼の迷いに気付いていたのか。よく人を見ているなと、少しだけ感心した。


『ファルは、素早いからショーテルとか、そっちの方が向いているかもしれないっすね。教えるから、試してみましょう』

『え……、ショーテルですか?』


 ショーテルは剣の中でも、先がくるんと曲がった特殊な武器だ。正直扱いにくそうだと感じていたのだが、エディは結構自信満々に勧めてくる。


『ファルは、割と誰に対しても防御をすり抜ける目を持っているっすから。ショーテルはその点で相性が良いと思います』

『……、え』

『ショーテルは元々、相手の防御をすり抜けたり、盾を持つ相手に対して効果を発揮する武器っす。間合いも錯覚させやすいですし、切れ味も良い。物にできれば、これほど優位な剣は無いっすよ』


 滔々とうとうと解説され、ファルは目を見開く。

 正直、ここまで武器に対する知識があるとは考えもしなかった。彼は大体団の誰かに茶化されたりパシリにされたり死んだことにされたりと、酷い扱いだったから。

 けれど、彼は決して侮られているわけではない。

 団長も副団長も、その他の二人も。エディの腕を信用しているというのは、少しいるだけのファルにも伝わってきた。

 その根底を、今まさに垣間見た気がする。


『ファルは飲み込みも早いし。ショーテルは今まで試したことないっすよね?』

『え? あ、はい』

『じゃあ、明日から早速やってみましょう。持ち方に癖もついていないし、きっとこれ以上ない武器になるっす』


 ね、と朗らかに微笑まれ、ファルはぐっと飲み込む様に口を引き結んだ。

 何故、彼はここまで親切にしてくれるのだろうか。今までの教官も騎士候補生も実際の騎士も、こんなにファルに丁寧に指導してくれたことなどない。

 彼はファルよりも下のはずだ。第十三位など、掃き溜めの集まり。聖歌語を扱えない教会騎士よりも馬鹿にされ、蔑まれ、下に見られている騎士団だ。

 そうだ。ファルよりも、上にいるはずがない。ここは、一生輝けない舞台だ。

 それなのに。


『じゃあ! 明日を頑張るために、今日はラザニアにしましょうか!』

『……エディ先輩』

『好物を食べて、頑張りましょう! フランツ団長達にも話して、訓練してみましょうね』

『……。……はい』


 自分のことの様に嬉しそうに、彼が笑う。

 親身になって、傍にいてくれる。笑顔で自分を迎え入れ、鍛えてくれる。己よりも上へ行くことを、妬みもせずに上へ引っ張り上げてくれるのだ。

 そんな人間は、今までいただろうか。

 長らく底辺の生活を送ってきたファルにとって、ここは――。



『……っ』



 思いかけて、ファルはぶんぶんと頭を振る。遠くで自分を呼ぶ彼の声に、笑いながら心が引きつった。

 何を考えているのだろう。ファルはもう、噂をばら撒き始めている。

 広まるのは時間の問題だ。そして、彼が根も葉もない黒い悪意にぶち当たる未来は、遠くない。

 だから、これで良いのだ。

 ここは、所詮しょせんは腰掛けの掃き溜めの場所。ファルの居場所は決してこんな、未来も無い終わっている様な団ではない。

 だから。











『オレのこと、……や、役に立たないからって、……何度も何度も殴って、蹴って、……昨日は、……お湯、ぶっかけられて……っ』


 いつもの様に、ファルが他の騎士達に『助け』を求めていた時のことだった。

 草の陰から、エディの姿がちらりと垣間見えたのだ。

 そろそろ、もう良いだろう。

 いつか彼らに見つかって、爆発して退団する。それが、依頼の遂行だった。

 彼が呆然とした様な表情を見せたことに、胸が透く様な思いだ。簡単に人を信じるからこんな裏切りに遭うのだ。最初から警戒して親切心など起こさなければ、ここまで傷は深くならなかっただろうに。


 ああ、気持ちが良い。


 あの明るかった笑顔が、憤怒と悲憤と哀愁にぐちゃぐちゃになって落ちていく様が、気持ちが良い。これをファルが引き出せたのだと思うと、ひどく良い気分だった。

 彼はファルより下なのだ。ファルの方が上なのだ。彼もそう言っていた。いずれファルは、彼を抜かして上に行くのだと。

 だから、彼を支配下に置けるのは気持ちが良い。今まで見下されることが多かったが、いざ自分がその立場になると気分が良くて最高だ。第十位にも正式に移籍出来るし、栄華を誇ることだろう。

 そうだ。気分が良い。



〝じゃあ! 明日を頑張るために、今日はラザニアにしましょうか!



「――……」



 ――気分が、良い。



 後は、エディの過去をおとしめる様なことを口にするだけだ。

 先程のお湯をぶっかけられた云々だけでは、インパクトが薄い。名前も何故か出しそびれてしまった。

 だから、夜に何度も襲われたと言うことにしよう。男娼であった彼の経歴もぶり返せて、更に傷をえぐれる。

 そうだ。後は、それにしよう。

 締めくくって、彼に思いきり殴り飛ばされよう。

 そうしよう。それが良い。


『それに、……』


〝じゃあ、今日はここまで。ほら、座って下さい。手当てするから〟


 それに――。


『……、……っ』


 ああ、本当に邪魔だ。

 こんな時にまで。



〝好物を食べて、頑張りましょう! フランツ団長達にも話して、訓練してみましょうね〟



 ――こんな時にまでっ。



『……それに、……リオーネ先輩は、オレに目をつけたみたいで、……毎晩ベッドに押し倒されて……』



 気付けば、勝手に別の名前で口走っていた。

 それは、エディの罪状にするはずだったのに。何故、別の名前で誤魔化したのだろう。

 けれど、結果的に上手くいった。

 エディが、きっちり殴り飛ばしにきてくれたからだ。

 感情を無くした様な表情で、一心不乱にファルやその場にいた騎士達を殴り続けた。

 彼は一滴も涙など零してはいなかったのに。



 その無感動の顔は、ひどく泣いている様に見えた。



 ファルの行為が、彼に一生消えない傷跡を残した。それがひどく嬉しいとも思った。

 彼はもう二度と、ファルを忘れることはないだろう。過ちを犯すことも無いだろう。人を信じるなどという愚かな行為を戒める、良い教訓だったのだと嘲笑ってやった。



 そうして、ファルは第十位に移籍し、彼との繋がりはそれっきりになった。



 謹慎を食らったというが、ファルにはもうどうでも良いことだった。第十三位に用は無い。すなわち、彼も用済みだ。

 それでも、彼とすれ違う度に、いつも彼の顔が歪んでいくさまにホッとした。

 彼にとって、ファルは忘れられない存在だ。自分に釘付けだ。自分にはそれだけの価値がある。見下されるだけの存在ではない。



 ファルは、誰かに強い影響を与えることが出来る、優れた存在なのだ、と。



 それなのに。



〝ボクは、……あんただけは、絶対選ばない〟



 彼は、ファルの呪縛から脱出しようとしていた。

 彼は、いつの日からか、新人であるあの聖歌騎士と仲良く並んで歩く様になった。以前から笑う人間ではあったが、最近は更に屈託なく笑う様になったと思う。

 遠くから見かけた時も、彼は仲間と一緒に、特にあの新人と快活に話をしていた様に思う。

 すれ違っているはずなのに、彼がファルを認識しない日も増えた。

 何故だ。

 ファルは、彼に一生消えない傷跡を残したはずだ。彼に影響を与え続けてきたはずだ。ファルはそれだけ彼にとって、忘れられない存在になったはずだ。

 それなのに。











「おい、ファル。見つかったか?」


 意識を引き戻され、ファルは面倒ながらも振り返る。

 駆け寄ってきたのは、第十位の仲間だ。歓楽街で一緒にあの新人聖歌騎士を陥れようと共謀した奴。彼もまた、聖歌語を扱えなくて理不尽な扱いを受けている人間の一人だった。


「いいや。……第十三位、誰も見つからないよ」

「ったく。あいつら、逃げ足だけは一人前だな」

「まあ良いじゃねえか。あのカイリって奴は、聖歌騎士なのに色々調子に乗って、教皇の制裁受けるんだからよ」

「ああ、そうだな」


 ははは、と笑う薄汚い笑みに、ファルはしかし全く心が晴れない。

 確かに、ファルはカイリをおとしめようとした。彼の言動に腹が立ち、あそこまでエディ達に大事にされる彼が気に食わなかった。いっそ破滅して欲しかったのも事実だ。

 だが。



〝ファル。あんたが新人に勝てない理由、教えてあげるっすよ〟



 その気に食わない生意気な奴のために、エディ達は今、追われる身となっている。



 日も完全に落ちたこの市内で、第十位と第一位が忙し気に周辺を巡回していた。草の根を掻き分けてでも探し出そうとしているが、一向に痕跡が見つからなくて焦ってもいる。

 だが、ゼクトールの指示により、ファル達が第十三位を妨害したおかげで、カイリは目論見通り教皇に捕まった。洗礼を受ける予定だという。

 良い気味だ。そして、洗礼された聖歌騎士は、もう二度と戻っては来ない。戻って来ても、遠からず死ぬ。

 だから、彼もこれで終わりだ。エディ達も良い気味だ。彼のせいで追放される身となって、さぞかし後悔しているに違いない。

 それなのに。



〝新人は、人を馬鹿にしない。人の痛みをちゃんと考える。それでも傷付けたら謝るし、誰かに対して感謝の気持ちを忘れない〟


〝不都合なことが起こっても、無闇むやみに人のせいにしたりしない。自分に足りないことと向き合って、必死に顔を上げて努力をし続ける。新人は――カイリは、そういう人間っす〟



 何故だろう。

 彼の静かな言葉が、ファルの耳にやけに焼き付いて離れない。

 ファルは下っ端で終わる騎士ではない。誰よりも上に立ち、見下してきた者達すら足蹴にして輝く人間だ。


 けれど、エディは全く思い通りにならない。


 あの時、真剣な彼の瞳の中には、微かにだがファルを案じる色もあった。

 彼は、こんな時でも甘い。仲間を馬鹿にされ、自分のことすら嘲笑する人間に対して、何故優しさを生み出せるのか。

 ファルには、分からない。


「これで、目障りな聖歌騎士様も消えて、静かな教会生活が戻ってくるか」

「あー。あいつら、俺達脅迫してきたもんな。あの時は冷や冷やしたけど、結果オーライだな」

「ファルも、これで一矢報いること出来ただろ。後は、第十三位を始末するだけってな」


 口々に笑う彼らの声が耳障りだ。ファルの思考を邪魔するなど良い身分である。

 そうだ。これで全て終わったはずだ。カイリは消え、エディ達もまた暗い顔に逆戻り。ファルが望んだ通りの結末だ。

 けれど。



〝――カイリッ!! カイリ! ……カイリッ!!〟


〝新人! 何で! ……おい! やめろ! 新人を離せ! 連れていくな!〟


〝カイリ様……っ!! ……シュリアちゃん、レイン様! お願い、……お願いっ……!〟



 これは果たして、本当にファルが望んだ結末だっただろうか。



 あの生意気なカイリが、ゼクトールにぐったりともたれかかっている姿を見ても、全く心は晴れなかった。むしろ、一瞬愕然と思考が止まってしまった。

 それを望んでいたはずなのに、実際に目の当たりにして頭から叩き落される様な気分だった。

 第十三位が泣きそうに叫びながらカイリを追い求める姿は、確かにファルが望んだものだったのに。彼らが泣き叫び、打ちひしがれる姿を目にするのが悲願だったのに。



〝大体! こんな姑息な手を使って、正しいも何もあるか! 本当に自分達が正しいって言うんだったら! 真正面から堂々と新人を召喚すれば良い!〟



 一体、自分は何をやっているのだろう。



 そもそも、歓楽街でカイリにごろつきをけしかけたのは、彼が痛い目を見て少しはしおらしくすれば良いと。そんな軽い気持ちだったのではなかっただろうか。

 それが、どんどんどんどん穢い気持ちが膨れ上がっていって、もう良心すら痛まなくなっていた。

 だが。


〝カイリを取り戻した時! わたくし達の一人でも欠けていたら! カイリは村の時と同じく、生涯消えない傷を負いますのよ! それでもよろしいんですのっ!?〟


 あの必死に奮い立たせる様な絶叫に、ファルの意識は吸い込まれていく。

 ファルは一体、何者になりたかったのだろう。

 退屈な日々。平凡な日常。刺激が欲しかった。

 しかし、上に上り詰めたかったのは決してそれだけが理由ではなかった。

 ああ、嫌だ。思い出したくない。



〝だっていうのに……! こんな卑怯な手を使う時点で! 従う道理なんてない!〟



 ――思い出したく、無かった。



 だって、本当は。

 上に上り詰めたかった、本当の理由は。



〝――どうせパン屋の息子なんだから、そこらにある平凡なパンでも売ってれば良いのに〟


〝騎士になるなんて、ほんっと傲慢な奴だよな〟



 自分を、――家族を馬鹿にした奴らを、見返してやりかった。

 ただ、それだけだったのだから。



〝おとーさん。パン、おいしい!〟

〝む。……そ、そうか〟

〝まあ、お父さんったら。息子に褒められたからって照れちゃって♪〟



 毎日毎日飽きもせずにパンだけを作り続ける父。それを呆れもせずに毎日毎日売り続ける母。

 平凡な両親。変わらない日常。

 けれど。



 それが、どれだけ大変なことなのか。



 昼夜問わず、パンと向き合い続ける父の背中を見てきた。

 嫌なことがあっても、どんな理不尽なことをされても、客に対しては常に笑顔でいた母の背中を見てきた。

 だから、知っている。

 平凡な日常は、果てしない彼らの努力があるからこそ、保たれているのだということを。



〝パン屋なんて、誰でもできる仕事だろ?〟


〝それなのに、よくもまああんなに笑って。お前の親って、あんな程度の低いこと、よくぞ毎日毎日楽しそうにやるよなー〟


〝まあ、それしか能がないんだから仕方がないよな。ははははは!〟



 ――馬鹿にするなっ。



 お前達に何が分かる。

 確かに父も母も平々凡々の、何の特徴も無いどこにでもいる一般人かもしれない。

 だが、それでも。



〝ファル。貴方、ちゃんと食べてる? お父さんのパン、少し持っていきなさい〟

〝……少し、痩せた。ちゃんと食べろ。立派な騎士になるんだろう〟



 ――俺の両親のパンは、どこの店よりも美味いんだっ。



 子供の頃、誰かに馬鹿にされてからは、素直にそれを認められなくなってしまった。

 何度も何度も誰かに馬鹿にされるたび、それが何故か恥ずかしくなってしまった。

 両親は何の取り柄も無いつまらない人間だと言い聞かせ、自分は誰にも馬鹿にされない人間になるのだと決意した。

 そのためには、幼い頃に魅せられた、聖歌騎士になる。

 そうすれば、誰にも馬鹿にされなくなる。誰も何も言えなくなる。誰もがひれ伏す。

 だから、きっと。



 もう、両親が馬鹿にされることもなくなるだろう。



 立派になって、馬鹿にされず、誰にでも尊敬される騎士となる。

 それが、本当の本当にファルが願っていたことではなかっただろうか。



 だが、自分が今していることは、何だろう。



 本当にこんなことで、馬鹿にした奴らを見返せるのだろうか。

 分からない。――分からない。

 どうして、この場にエディはいないのだろうか。

 エディがいたらきっと、正してくれるだろうに。



〝ファル。また、無茶な訓練して〟



 ――どこかで、そんな風に。また、説教したりしてくれないだろうか。



 今のファルを叱って、手当てをしてくれないだろうか。

 ファルが望んでいたことは、本当にこんなものだったのか、と。

 そんな風に言ってくれれば良いのに。


 もうファル自身、よく分からない己の願いが真っ暗な夜に沈んでいく。


「おい、いたぞ!」

「広場だ! 広場に急げ!」


 遠くから野次の様な粗雑な声が飛び交っているのが聞こえてくる。

 エディ達が、いたのだろうか。

 そこに、ファルの求めるものはあるだろうか。



 今度こそ、自分でも分からないこの胸の内を、暴いてくれるだろうか。



 未だ、夜明けは見えないまま。

 ファルは、気力が湧かないながらも、歩みをのろのろと進め。ただただ無為に、真っ黒よりも暗く落ちる夜空を見上げた。


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