第194話


「――何だっ!?」


 鋭い警戒がハーゲンから上がる。

 だが、ファルを始めとする第十位も、構えてはいるがそこまで緊迫した様子が無い。カイリでさえそう思うのだから、フランツ達は一層疑念を募らせただろう。


「カイリ、こっちへ」

「っ、フランツさん?」

「――狂信者だ! ひいっ、助け、……っ!」

「――え?」


 遠い悲鳴と共に、ぐしゃりと潰れた様な音が上がった。

 しん、と辺りが静寂に包まれる。この不気味な静けさが、ひたりと暗い足音の様にカイリに迫ってきた。



「……何。狂信者、って、……何さ?」



 ファルが、呆然とした様な声を出す。それまで平然としていた第十位の中でも、一気に緊張感が生まれる。

 ファルの一言も彼らの態度も更に引っかかったが、直後、またも遠くで何かが潰れる様な音が無残に上がった。心臓が潰れる様な物騒な轟音に、カイリは文字通り小さく跳ねてしまう。


「フランツさん!」

「……仕方がない。カイリ、お前は、……。……いや。共に来い」

「……、はい!」

「王女殿下はどうしますか」

「行くわ」

「ちょ、王女殿下!? 正気じゃないよね!?」


 思わずといった風にファルが怒気を飛ばす。

 だが、ジュディスの顔色は一切変わらない。むしろ泰然たいぜんとした佇まいに、ファルの方が気圧されていた。


「確かめたいことがあるの。ハーゲン、付いてきなさい」

「……言っても無駄ですよね。はあ。――第十位の方々! 陛下や王子殿下を頼みます!」

「って、また第十三位なわけ!? いい加減にしてよ! どうしてそいつばっかり……!」

「違うっす」


 もう敬語すら抜かしてがなるファルに、エディは至って冷静に反論する。

 そんなエディの冷え冷えとした響きに、ファルは固まってしまった。感情の全くこもらないエディの眼差しに、凍らされた様に動かない。


「あんたが言ったんすよ。新人は、狂信者に狙われてるって」

「……っ、い、いました、けど」

「だから。これは、第十三位で片を付けることっす。……あんたの言う通り、ボク達第十三位で、始末します」

「――――――――っ」

「――新人! 絶対一人になっちゃいけないっすからね!」

「分かってる! ……ありがとう」

「――」


 エディの気遣いがありがたい。

 だからカイリはお礼を告げたのだが、彼は一瞬きょとんとした様に瞬いてから、何故か破顔した。一体何がそんなに嬉しいのだろうとカイリは首を傾げるしかない。


「レイン! シュリア! お前達、一人でも行けるな?」

「あいよー。ったく。人使いが荒いね、うちの団長は」

「仕方がないですわ。わたくしとレインで、城全体を見回ります。……あなた、四人で行動するのですから、遅れを取るんじゃありませんわよ」

「……分かった。シュリア、……レインさんも、気を付けて」

「ああ、お前もな」

「……。言われるまでもありませんわ」


 レインもシュリアも、それぞれらしい回答を残した後。



 思い切り壁を蹴り上げ、駆け上がった。



 そのまま、あっという間に階上まで駆け上がり、華麗な身のこなしで奥へと消えて行く。

 壁の曲芸は初めてみたが、やはり二人は規格外の強さと脚力だと思う。カイリは呆然と見届けてから、意識を己に引き戻す。


 ――これ以上、足を引っ張らない。


 自分に出来ることをする。

 一人ではまだ役立たずでも、フランツ達と一緒にいてまでその言い訳は通用しない。落ち着いて、着実に、現状を把握しながら動いてみせる。


「行くぞ、お前達! まずは、音のした方からだ」

「分かりました」

「任せるっす! 新人、中央へ!」

「分かった!」


 フランツが先陣を切って駆け抜ける。それにカイリ、リオーネと続き、しんがりをエディが務めた。カイリとリオーネは、互いに聖歌語を使って彼らと足並みを揃える。

 そうして、通常よりも遥かに素早く廊下を駆け抜けた先では。


「……っ、なるほど」


 フランツが手を振って制止してくる。

 指示されるままに立ち止まれば、廊下の先には、中庭に続くテラスの扉のガラスが大量に破片となって散乱していた。一緒に、むわっとせ返る嫌な臭気に当てられ、カイリは頭が揺れそうになる。



 そこには、数人の男性が無残に事切れていた。



 恐らく、先程の悲鳴の犠牲者だろう。

 何か恐ろしいものでも見たかの如く、表情は恐怖で引きつっていた。目を見開いたまま倒れ伏している者もいれば、貧民街の時と同じ様に綺麗に首だけ飛んでいる者もいる。

 フランツが、辺りを警戒しながら近くの扉を見つめた。


 一つだけ、うっすらと扉が開いている。


 他の部屋はぴっちり扉が閉まっているのに、何故あの部屋だけが開いているのだろうか。しかも、薄くだ。部屋から漏れ出る明かりが、誘っている様に薄暗くて不気味だ。

 フランツは、足音を忍ばせて扉の方へとするっと歩み寄る。

 カイリも続こうとしたが、ぴちゃっと、足元で上がる不穏な真っ赤な音に、一瞬すくんだ。

 ここには、数人の死体が転がっている。彼らの血が派手にぶちまけられているのだから、血だまりが出来ているのは自然の摂理だ。


 ――本当は、恐い。


 今すぐにでも逃げ出したい。人の死を見るのは、きっといつまでも慣れるものではないだろう。

 けれど。


 ――大丈夫。


 後ろにも、隣にも、人の温かな気配がある。

 カイリは、一人ではない。村の時の様に、一人で彷徨さまよっているわけではない。

 だから、――前に進める。


 なるべく音を立てない様にしていたが、難しい。恐らく部屋の中の主には気付かれているだろう。

 だが、フランツ達は百も承知だ。フランツが大剣を構え、そのまま扉を勢い良く蹴り上げ、剣だけを突き出す。

 途端。



 がんっと、フランツの大剣が大きく揺れた。



 激しい衝突音と共に、床に複数の短剣が転がり落ちる。

 攻撃を誘ったのだと、その時初めてカイリは気付いた。フランツ達から学ぶことは、まだまだ山の様にある。

 フランツと共に中へ踏み入れば、広々とした大広間が姿を現した。真っ白な薔薇の如きシャンデリアが吊り下がる以外は、特に家具も何も置かれていない。ダンスホールだろうか。カイリにはいまいち用途が知れない。

 その中央で、複数の黒ずくめの者が立ち並んでいた。昼間、貧民街で出会った人物だ。リーダー格のディオン、と呼ばれていた者もいる。


「……ここが当たりとはな。囮かとも思ったのだが」

「戦力を考えたのだよ。……カイリという人間は、縦横無尽に駆け回るとは思えなかったのでな」


 それは、今城を駆け回っているシュリアやレインのことを指しているのだろうか。確かにカイリの足では、あの二人と共に駆け抜けるという行動は不可能だ。

 しかし、カイリの情報がかなり相手に伝わっている様だ。フランツも厳しい顔で、更に一歩踏み出し盾の様に立ちはだかる。


「随分と詳しいな。スパイでもいるのか」

「……我々には、我々独自の情報網があるのだ」


 ディックという男が、薄く笑う。

 彼は、カイリを連れ去ろうとした張本人だ。舐める様に視線を投げられ、あの時の手の感触を思い出してしまう。ぐっと、木刀を握る手に必要以上に力を込めてしまった。


「その者は、聖歌騎士としてまだまだ未熟。……だが、聖歌の力は強いと聞く」

「まあな。俺の自慢の息子だからな」

「親馬鹿、大いに結構。……頂いた時は格別の喜びが駆け巡るだろう」

「――させんっ!」


 フランツが吼えると同時に、周囲から一斉に黒い影が湧き出た。

 鋭い風切り音を察知し、カイリは木刀やさやで振り払う。がん、がんっと、カイリの肩や腕を目掛けた正確な投擲とうてきを弾きながら、リオーネを背中にかばった。


「――新人、リオーネさん! 援護を頼むっす!」


 言うが早いが、エディが一気に飛び出した。銃をぶっ放しながら、風の様に部屋を駆ける。

 だん、ぎんっと、激しい金属音と火花があちこちから弾け飛ぶ。エディは一つ所には止まらず、攪乱かくらんする様に縦横無尽に駆け回った。狂信者も狙いを付けにくいのか、舌打ちする様に無表情が微かに歪んでいる。


 全体だと、睡眠か。


 しかし、リーダー格の男は聖歌語の力が強かった。他の者達はともかく、リーダーを確実に妨害出来るものが良い。

 睡眠だと、自力での抵抗が強ければ効果が出るのに時間がかかる。

 ならば。


「……リオーネ、手伝ってくれないか?」

「……カイリ様? ……もしかして」

「ああ。……あの、初任務の時のを歌いたいんだ」


 それだけで、リオーネも理解してくれた様だ。

 カイリは、まだ適用範囲が不透明である。万が一エディやフランツに効果を及ぼしてしまえば、目も当てられない。

 子守歌の聖歌は、リオーネにまだ教えていない。失敗すれば確実にこちらも不利になる。

 だが。


「……目くらましだったら」


 恐らく、あのディオンという男はすぐに抵抗はしてくるだろう。

 しかし、――幻だ、嘘だ。

 そう念じているわずかなすきが出来れば良い。



 ――視界を、刹那でも良いから奪う。



 フランツもエディも知っている曲であり、効果だ。二人ならば正確に意図を汲み取ってくれる。

 リオーネと目配せをし、カイリは息を吸い込む。

 そして、緩やかに音を空気に溶かし、旋律をつづった。



【【秋の夕日に 照る山紅葉もみじ】】



 高い旋律と低い旋律が、混じり合う様に辺りへ流れる。

 その瞬間、ぶわっと綺麗な色が輝く様に部屋の中を舞うのをカイリは歌い手として確かに見た。



【【濃いも薄いも 数ある中に】】



「――っ、何だ!?」

「――! ぎゃっ⁉」



 一瞬、流れる様に舞い散る紅葉に気を取られた男達が、エディの刃によって倒れ伏していく。

 フランツも、ディックへと一気に詰め寄った。彼は鬱陶しそうに瞬きながら、辛うじてフランツの重い一撃を受け切った。

 だが。



【【松をいろどる かえでつたは】】



 カイリが声を大きく乗せると同時に、ディックの顔が忌々しげに歪む。瞬きの回数が多くなる。

 その隙を、フランツが見逃すはずが無い。



「――仕舞いだ!」

「……っ! ちいっ……!」



【【山のふもとの 裾模様すそもよう】】



 どっと、フランツの大剣が確実にディックの腹を捉える。



 同時に、エディも最後の一人を薙ぎ倒すところだった。そのまま、重い音を立てて床に転がって行く。

 はっと、息を吐きながらカイリが一番を歌い終えると、ディックが膝を突いた。ぐうっと唇を噛み締め、フランツの剣を受け入れる。


「……く、……やはり、聖歌、……強い、か」

「お前達狂信者に、カイリを渡すつもりはない。……伝えろ、と言ったところで、もう無理か」

「……はっ! 戯言、を。……狂信者、か……。……ははっ」


 憎しみを叩き付ける様に、ディックがフランツを睨み上げる。

 だが、次の瞬間、彼は口から大量に血を吐き出した。ごふっと、喉に詰まった様な音に、カイリの身がすくむ。

 その様子を見て取ったのだろう。彼は、勝ち誇った様にカイリへと顔を向け、雄々しく、凄絶に笑った。フランツが庇う様に体をずらす。



「馬鹿な、奴、ら……よ! 教会、の、犬……がっ!」

「……何とでも言えば良い。俺達は」

「おまえ、も……っ。いく、ら、きょう会に、ほえたとこ、ろで……所詮、犬、よっ。狂信しゃ、と言ってい、る、じてんで……まけ犬の、とおぼえ、よっ!」

「……何だと?」

「……我々を、狂信者にした、のはっ。……お前、達、きょうかい、……のくせに、なあ……っ‼」

「――――――――」

「貴様ら、きょうかい、が、……我らを、生み出した、……は、……はははっ!」



 笑いながら、血を撒き散らし、ディックがずるりとカイリにい寄る。

 もはや体に力が入らないのかそのまま崩れ落ちたが、それでも彼の目はぎらぎらとカイリを見上げて狂気と共に笑っていた。まるで視線だけでもカイリを絡め取ろうとするかの如く、死の間際だというのに激しい狂った熱を感じる。

 ずるり、ずるりと這うディックから、カイリは目を逸らせない。それどころか、首を直接鷲掴わしづかみにされた様な感覚に襲われ、思わず首元に手を当てた。


「きょうかい、の、罪。……なに、も、知らず、……のうのう、と。……ああ……っ。……かわ、いそう、なこども、よ……」

「……っ」

「いつ、か、……か、なら、……ず。……きょう、か……いを、……うら、っ、――――――――……」


 ごぼっと、断末魔を上げる様に、ディックは最後に血を吐いた。

 そのまま、目と口を半開きにしたまま、彼は動かなくなる。その目も口も、二度と閉じることはない。

 見届けて、カイリは心が叩き落とされた様に沈む。

 それに。


「……教会が、狂信者にした」


 それは、どういう意味だろうか。

 カイリには、単なる戯言には到底聞こえなかった。彼らは、人の命を奪うことを何とも感じていない悪人だが、こんな今際いまわきわでまで嘘を吐いて惑わすだろうか。

 カイリでは判断が付かない。

 だからこそフランツを見上げたのだが、彼も難しい顔をしていた。彼の言葉を簡単に切り捨てたりはしない。それは、きっと彼が教会に疑心を抱いているからだ。


「狂信者の言葉と一蹴するのは簡単だが、……」

「フランツさん……」

「……ここで考えていても仕方がないか。……王女殿下、入るのは遠慮して欲しいのですが」

「あら。これしきのことで卒倒するほど、やわな女じゃないわ。……ハーゲン」

「……はいはい」


 ハーゲンの返事がぞんざいになっている。ここに来て、彼らの関係性が見える様だ。こんな時なのにカイリは微笑ましくなってしまった。

 しかし、ジュディスは本当に平気な顔で辺りを見渡している。ぐるんと遺体を睥睨へいげいする様は、どこか冷静に観察する様にも見えて辛い。


「……そこにいるのは、昼間の奴ね」

「ええ。リーダーと思われますが」

「そう。フランツ団長が言うのならそうなのかしら。……ハーゲン、騎士達に命じて、綺麗にしなさい」

「……かしこまりました」


 綺麗に、という言い方にカイリは反発を覚えたが、ジュディスの目は一瞬だけ険しくなった。

 きっと、慣れてはいるのかもしれない。己の命さえ、駒に出来る様な言い方をする人間だ。



 だが、それでも、何も感じないわけではない。



 カイリは、彼女のあの一瞬の眼差しに希望的観測を乗せることにした。故に、不平は飲み込む。

 そんなカイリの心情を見透かしているのか、絶妙なタイミングでジュディスがこちらを振り向いてくる。不敵に笑うその表情に、カイリは一歩引きそうになった。


「イモ騎士。さっきの聖歌、素晴らしかったわ」

「……、ありがとうございます」

「まだ、集団戦でしか役に立たなさそうね。さっさと一人でも成り立つ様に精進しなさい」

「……鋭いご指摘、痛み入ります」

「ええ。早く、イモの騎士から脱出してちょうだい、イモ騎士?」


 イモ騎士イモ騎士と連発され、カイリとしてはぐうの音も出ない。実際、彼女の言う通り、カイリはこうしてリオーネの手も借りないと聖歌が上手く扱えないのだ。

 課題が山積みだと頭を抱えていると、エディが神妙な顔で狂信者達を見下ろしていた。その難しそうな顔が、カイリの心に一抹いちまつの不安を落とす。


「エディ?」

「……何だか、変っすね」


 釈然としない彼の声に、カイリは首を傾げるしかない。


「えっと、何が変なの?」

「やけにあっさりしてるなって。……貧民街では、あれだけ強かったのに。……新人とリオーネさんの聖歌の合わせ技は強力っすけど、……あっさり死に過ぎて、肩透かしを食らう様な、……」


 簡単に片付き過ぎだと言いたいのだろう。フランツも腕を組んで唸っていた。

 カイリとしてはよく分からない感覚だが、戦闘を重ねて来ている二人だからこそ引っかかるものがあるのだろう。

 二人が、狂信者の遺体の検証に入るらしく、おもむろにしゃがみ込む。カイリとしては、全く知識が無いのでお手上げだ。

 手持無沙汰にカイリが立ち往生していると。



 かつっと、扉の方から足音が聞こえてきた。



 やけに高潔で重厚な足音に、全員の注意が向く。

 誰だろうと、カイリも一緒に振り向き――意外な人物の姿に目を見開いた。



「……お、おじいさん?」

「ゼクトール、だ。カイリ殿」



 思わずいつもの呼び方をしてしまってから、訂正される。

 あ、と口元に手を当てて、カイリは気まずさで視線を逸らした。もごっと口元を動かしてから、頬に集まってくる熱を散らす。今は任務中だ。プライベートの呼び方はご法度である。


「す、すみません。ゼクトール卿」

「うむ」


 満足気に頷き、ゼクトールはカイリ達の足元に転がっている人物達を見渡す。微かに眉根を寄せ、唸る様に吐き出した。


「……狂信者か?」

「は、はい。……俺を狙ってきたみたいなんですけど……」

「――」


 一瞬、ゼクトールが鋭く息を呑んだ音がする。

 慌ててカイリが見上げると、ゼクトールは目を見開いて凝視してきていた。あまりの眼光の鋭さに、カイリはどきりと心臓が跳ね上がる。



「お、おじ……ゼクトール卿?」

「……っ、無事で、良――、――、……っ」



 一度、カイリに向けて伸ばされた手が、我に返った様に下げられる。

 ぎゅうっと、拳を握り締めてゼクトールは俯いた。何かに耐える様に唇を噛み締める姿はひどく痛々しい。

 何故、そんなにも苦しそうな顔をするのだろうか。心配をかけてしまったからだろうか。

 だとするならば、何とか安心させたい。

 目にしているだけで締め付けられる様な姿に、カイリは静かに歩み寄った。ゆっくりとゼクトールの手を取る。


「おじいさん」

「――」


 呼び方を、敢えてプライベートに戻す。

 ぴくり、と怯えた様に彼の手が反応したが、構わずにカイリは握り締めた。

 彼の手はひどく冷え切っていた。まるで生命の灯火すらも全て奪われてしまったかの様に凍え、一切の温もりを感じられない。

 だからこそ、自らの熱を与える様に、更に握り締めた。この身はここにあるのだと、そう伝わって欲しいと、心から願う。



「……おじいさん。俺は、ここにいます」

「――、……カイリ」

「狂信者に連れ去られませんでした。俺はここにいます。だから、……もう、大丈夫です」

「――――――――」



 にっこりと安心させる様に笑えば、ゼクトールは益々顔を歪めた。ぐっと恐いほどに目に力を入れ、口を強く引き結ぶ。

 何だか、泣きそうだ。

 子供も大泣きしそうな形相なのに、何故かそう感じてしまう。

 本当にどうしたのだろう。カイリは不安になって、ゼクトールの手を更に握り締めた。


「おじいさん? どうしたんですか?」

「……っ、……わしは、……」

「そういえば、ゼクトール卿。こんなところに何の御用ですかな? 今は、教皇の晩餐会中では?」

「――――――――」


 フランツが息絶えた狂信者を調べながら問いかけてくる。

 その一言で、ゼクトールも我に返った様だ。震える様に一度目を閉じ、息をゆっくりと吐き出している。

 そして次に開いた時には、悲壮なほどの決意を瞳の奥に秘めていた。

 肌を深く切り裂く様な、鬼気迫る覇気を感じ取る。死地に赴かんとするほどの殺伐とした気迫は心臓を容易くなぶってきて、カイリの肩が小さく跳ねた。


「……おじい、さん?」

「うむ。わしは、……、……カイリ……殿に会いに来たのである」

「え?」


 何故カイリに、と思う間もなく。



「――カイリっ! 離れろっ!!」

「――、え」



 フランツが怒鳴る様に叫んだ次の瞬間、カイリはゼクトールの懐に引っ張り込まれた。

 何だと見上げる前に、がばっと口元を大きく白い布で塞がれる。


「――っ!? ん、んーっ!? ん、うっ!!」


 いきなりの暴挙に、カイリは混乱しながらも抵抗する。

 だが、突き飛ばそうとカイリがもがけばもがくほど、ゼクトールの腕が締まって身動きが取れなくなる。だん、と胸板を叩いても、足を蹴り飛ばしても、びくともしない。


「や、だ、おじい、……んーっ!! は、っ!」

「抵抗するでない。楽にすると良い。すぐに眠くなる」


 そんな甘い言葉に、騙されるわけがない。

 どうして、――どうして。



 ――どうして、おじいさんが、こんなこと。



 信じられない気持ちで、カイリはにじむ視界の中ゼクトールを見上げる。

 そんな彼の眼差しには、何処にも一切熱が見当たらなかった。ただひたすらに、血の一滴まで凍える様な視線を、カイリにたっぷり注いでくる。

 まるで、視線だけで全てを死滅させそうな冷たさに、カイリの心が恐怖で震えた。


「――っ、お、じ」


 おじいさん、と呼びかける声は、しかし更に強く布を被せられて塞がれる。心臓を丸ごと抜き取られた様なショックで、カイリの視界が一層滲んだ。

 反抗する合間にも、どんどんと手に力が入らなくなっていく。くたりと全身から抜けていく抵抗力に、カイリは焦りと絶望に追い詰められる。

 息を吸うたびに、甘い刺激がカイリの鼻や口から一気に流れ込んでくる。同時に、匂いが強くなればなるほど、思考や視界がぼやけていった。

 だから、ゼクトールの声も、周りの喧騒も、少しずつ遠くなる。その事実に、カイリは恐怖で目の前が真っ暗になった。


「カイリ・ヴェルリオーゼ。……いや」


 ゼクトールの声が、耳元に落とされる。

 その堅苦しい響きはいつも通りなのに、どこか威圧的にカイリの心を喰らっていく。



「――カイリ・ラフィスエム」

「――――――――」



 聞き慣れない名に、カイリの思考が更に鈍って行く。

 だが、背後ではっきりと揺れる気配がした。カイリ、と微かに聞こえた叫びは、誰だろうか。


 ――知らない。


 ラフィスエム、なんて。自分は、知らない。

 視界も思考すらも閉じて行く感覚に焦燥を覚える合間にも、力はどんどん抜けて行き。



 遂に、手が抵抗なく落ちていくのが分かった。



 足も、だらんと伸びてしまうのをぼやけた頭で理解する。

 遠く、霧の向こうで、叫び声や金属音が頻繁に飛び交っている。

 だが、その意味を考えるには、既にカイリはどうしようもない真っ黒な眠気と痺れに支配されていた。



「教皇の晩餐会を蹴った真偽を問い質したい。一緒に来てもらうのである」

「――っ、や、……だっ、……っ」

「【眠れ】、カーティスの息子。――お前には、生贄になってもらおう」

「――――――――」



 カーティス。

 父の名を、耳にしたのを最後に。



 カイリの意識は、ぷっつりと闇の中に落ちていった。


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