第186話
ロディが経営する娼館を出てから、カイリは鬱蒼とした波に呑まれそうになるのを必死で踏ん張る。
綺麗すぎるから、来ないで欲しい。
そんな言い方をされるとは思わなかった。そもそも、カイリは綺麗だと自身では考えていない。買い被りにも程がある。
だが、カイリは実際この歓楽街や貧民街の暮らしがどれほど残酷なものか、本当の意味では知らない。これだけ一端を知ったとしても、所詮は『一端』でしかないのだ。だからこそ、ロディの評価を一笑に付すことは出来なかった。
それに。
「……俺、かなり幸せ者だよな」
「あら、今更ね」
「はい。……今更です」
ジュディスの皮肉に、カイリは反論も出来はしなかった。
衣食住に全く困ることもなく、本気で嫌なことは強要されない。寒い時は温かい場所に、暑い時は涼しい場所に。
詐欺に遭うことも恐喝をされることも暴行を受けることも無く、ぬくぬくと村で育ってきた。今だってフランツ達に守られ、比較的安全圏にいるのだ。
彼らにとって、カイリの存在は目につくのかもしれないと初めて思い至る。
存在するだけで、目障り。
そう思われたのだとしたら、悲しいが近付かない方が良いのかもしれない。
ただ、一方でそれで良いのかと、
「……そこまで落ち込むとは思わなかったわ」
「……レインさんやエディの知り合いだって分かったからだと思います。でも、……確かに、俺はここに再び足を運ぶのは恐い、と思うのも事実です」
ぎょろりと人を観察する様な目玉。求める様に伸ばされるがりがりの手。隙あらば金をむしり取り、果てには体ごと売り物にしようと集まってくる輩が多くいるこの地区に、休まるところは無さそうだ。
結局自分の身が可愛いのだ。つくづく穢いと、踏み付けたくなる。
何とかしたくても、クリスでさえ、あの娼館にしか秩序を与えることが出来なかった。今のカイリに何が出来るというのか。あまりの無力に絶望しそうだ。
「世の中ってのはね、ままならないことはいっぱいあるのよ。傷付きまくってたらきりが無いわ」
「はい」
「……本当に分かっているのかしら」
「分かっていなかったら、俺はあの場で言い返していました。そんなことは知らない、俺はまたここに来るって」
正直、あの場でカイリは自分に出来ることが何一つ見つからなかった。もし一つでも発見出来ていたら、堂々とそれを言い放っていただろう。
だが、何も知らなかったカイリでは、想像を軽く超えてしまっていた世界で、己の行動をどう取るべきか分からなかった。彼らに希望を示す一筋の光さえ生み出せない。完全にお手上げだった。
半端な覚悟で彼らを救えるわけがない。浅はかな行動で、気休めの言葉で、彼らを傷付けたくは無かった。
カイリが無言で俯いていると、ジュディスはふんっと鼻を鳴らす。周囲を簡潔に見回して溜息を吐いた。
「……あーあ。
「目論見って何ですか」
「誰か襲ってくれたら良かったんだけど。……貴方が聖歌騎士だからかしら。せっかく路地裏にも入ったのに、だーれも襲って来ないわね」
「――、えっ」」
物騒な願い事を口にされ、ぎょっとする。
だが、彼女の言う通り、娼館を出てから三十分ほど歩いてみたが、今ではカイリ達は見上げられるばかりで何もされない。むしろ恐いほどに
カイリは、ただ聖歌騎士というだけだ。強くもない。風格も備わっていない。
だというのに、その地位だけで無条件に崇め奉られるこの現状は、居心地が悪すぎた。
「仕方がないわ。目的も達成出来なかったし、そろそろ……」
「――か、カイリさま!」
怯えた様な声だ。
しかし、さっきすぐ聞いたばかりの声に、カイリは振り向かざるを得なかった。ジュディスも
そこには、先程のロディの娼館で見かけた子供の姿が在った。確か、サイと呼ばれていたはずだ。
娼館とは逆の方向から来たことが気にかかって、カイリはしゃがんで声をかけた。
「こんにちは。サイ君、だったよね。どうしたの?」
「……、か、カイリさま。おね、おねがいします。ぼくと、いっしょに来てください」
「え?」
「えっと。何処にかな?」
「ひんみんがい、です。この先に、……なんだか、ちまみれで、たおれている人がいて」
「……え?」
貧民街。
歓楽街の奥にあるというその場所に、彼は一人で行ったというのか。
ジュディスを振り仰げば、彼女は難しい顔をしていた。不審に思っているのは丸分かりだ。カイリも流石におかしいということくらい、気付ける。
ロディは、カイリにもう会いたくないと言っていた。
それなのに、その娼館の子供であるサイは、何故かその後一人で貧民街へ行き、カイリに助けを求めてきた。ほとんど時間を置かずに。三十分くらい経過しているとはいえ、明らかに不自然だ。
――罠か。
しかし、一体誰が。可能性してはロディだろうか。だとしても、カイリの中で
そもそも、ロディがそんなことをするだろうか。
彼は、レインがお得意様だと告げていた。その上、仕事仲間だったエディのことも心配している素振りも見せていた。
演技と片付けることも可能だが、嘘を吐いている様にはカイリの目には映らない。
ならば、考えられる可能性は。
「……分かった」
「……え?」
「行こう。案内してくれ」
カイリが頷いたのを、サイが震えながら見上げてくる。彼の瞳から、恐怖で光が消え去ったのを間近で見て確信を抱いた。
――こんな子供を脅すなんて。
誰に頼まれたかは知らないが、放置するわけにはいかない。フランツ達もきっと許してくれる。
後は。
「ジュディス王女殿下。すみません。危険な場所だと思いますが」
「いいわ。ここで民を見捨てるなんて、王族としては恥ずべきことよ。好きにやりなさい」
腕を組んで、不敵に微笑む彼女は凄まじい迫力を放っている。流石は王族と言うべきか。覇者の様な気迫に、カイリは少しだけ呑まれそうになる。
だが、心強い。いざという時は、大声でフランツ達を呼ぼう。
それに一緒にいたフランツ達の気配から、一人が
だから、きっと大丈夫。
「サイ君。大丈夫。……必ず、助けるから」
「……っ、……はい」
頭を撫でてカイリが
そして、逃げる様にサイが先頭を切って走り始めた。結構な健脚だ。子供にしては早い走りに、カイリはジュディスの手を左手で取って走り出す。右はもしもの時のために木刀をすぐ抜ける様にするためだ。
一言置けば良かったと後悔したが、ジュディスは何も言わずに一緒に付いてきてくれた。
そうして、サイに誘導されて貧民街へ移動する。
空気は、歓楽街とほぼ変わらない。ただ、娼館や怪しげな店が、住民が居座るための建物に変化したというだけだ。
その上、衛生もあまりよろしくない。ゴミはそこかしこに散乱しており、酒瓶を放り出してぐーすか寝こけている者達もあちこちに転がっている。カイリ達を見る目は憎しみさえこもっている様な気がして、胸元が苦しいほど乱れてしまった。
「……サイ君。血塗れで倒れているっていう人は?」
「……こ、……こ、こっち、です」
近付くにつれて、彼の足も声も震えが増している。
手を伸ばそうとすると、彼は逃れて更に足を速めた。本当は手元に置いておきたかったが、仕方がないので彼の行く先を追いかける。
そして。
「……、ここ?」
何も無い。
細い路地を抜けた先は、広い袋小路だ。
一足早く辿り着いたサイは、ぽつんと何も無い空間で立ち尽くしている。
そして。
「……っ、……ご、……っ」
「サイ君」
「……ご、……ごめん、な、さい……っ!」
「――――――――」
彼が謝るのと同時に、カイリはジュディスの手を引いて一気にサイの元へと走り出す。
それとほぼ同じタイミングで、上から塊が複数降ってきた。
「――【止まれ】っ!」
「――なっ!」
聖歌語を放ち、カイリは木刀を勢い良く振り抜く。
サイに振り下ろされた刃を、カイリは別の方角から木刀で叩き飛ばす。間を置かず、サイを木刀を握ったまま右腕で抱え込み、出来る限り距離を取り、背後に二人を追いやった。
「王女殿下! サイ君のこと、抱えていて下さい!」
「……仕方がないわね。サイ、言う通りにしなさい」
「……で、……でもっ。……でも! ぼく!」
「サイ君! 必ず助ける! ロディさんのことも、絶対! フラ……レインさん達が何とかしてくれてる! もう、動いてる!」
「――っ!」
聞いた瞬間、ぶわっと泣き崩れる声がした。
やはり脅されていたかと、カイリは唇を噛み締める。卑怯だと
脱出路も男達が陣取って塞がれている。文字通り、袋小路に追い詰められたわけだ。広くて暴れ甲斐があることだけが救いだ。
「何だよ、大したことないって言ってたくせに……こいつ、素早いぞ!」
「けど、聖歌無しじゃ、複数相手じゃ大したことないってよ。だから――」
空から降ってきた輩が、へへっと舌なめずりをする。そのまま
じわじわと、周囲から狭まってくるごろつきに、カイリは木刀と
やはり聖歌を歌うしかないかと、カイリが息を吸った。
直後。
突如、目の前の男の顔だけが、視界から綺麗に消え去った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます