第161話


「おお、帰ったか。すまないな、せっかく久々のケント殿とのデートだったのに」

「デートじゃありません」

「ついでに、ゼクトール卿とも仲良くデート中だったぜ」

「デートじゃありません!」


 レインに連れられて宿舎に帰ると、何故かカイリへのデート攻撃が始まった。

 フランツはともかく、レインの茶化しっぷりは明らかに面白がっている。カイリがムキになって否定すればするほど、レインの顔は益々ますます輝いた。彼にはいつか仕返しをしたいと、本気で考える。


「それより、フランツ様。このデートで浮かれていた人間に、説明をしなければなりませんわ」

「ああ、そうだったな」

「って、デートじゃないぞ! シュリアまで乗るなよ!」

「あら。楽しんでいたんじゃありませんの?」

「楽しかったけどな!」


 あまり冗談を言わないシュリアまで口車に乗っかったのが意外で、カイリはごっそりと生気を吸い取られた様に脱力する。やはり彼女も第十三位の一員ということを嫌と言うほど痛感した。

 しかし。



「「……」」



 エディとリオーネが、一言も口を開かない。



 どう楽観的に考えても任務のことしか心当たりが思い付かなかった。

 カイリがフランツを見上げると、彼は苦笑気味に頭を撫でてくれる。


「そんな顔をするな」

「……別に、どんな顔もしていません」

「ふ……流石はカイリだ。優しくて可愛いし最高だな。カーティスが天使と連呼していたのも分かる気がする。実際天使だからな」


 そこは関係ない。


 何だか、最近フランツが本気で父の言葉を持ち出してくる回数が増えた。一体何故ここまで対抗するのだろうと、カイリは羞恥しゅうちと困惑で死にそうだ。居た堪れなさ過ぎて、その内悶死もんしする。

 だが、もう第十三位では慣れた光景の様で、「親馬鹿ですわ」だけでまともに取り合ってはくれなかった。その方が心の平穏は保たれるが、カイリは切に対策を練りたい。


「あの、……聞きました。任務、受けることになったって」

「うむ。……その通りだ」


 フランツが少しだけ顔を歪めて腕を組む。重い話になりそうだ。

 取り敢えず、心を落ち着けるために水を飲もうとコップを取り出していると、フランツが席に着くのを待たずに話を切り出してきた。


「さて、カイリ。まず、リオーネについて話しておかねばならんな」

「え? リオーネ?」


 核心に触れられたのか、そうでないのか。

 いまいち判然としない切り出され方だったが、フランツはとんでもない爆弾を放り投げてきた。



「リオーネは、現国王の妹だ」



 ごっとん。



 カイリの手から、派手にコップがテーブルに落下した。割れなかったのがいっそ奇跡である。

 現国王の妹。リオーネが。

 つまり、彼女は王妹ということか。それとも、王女というべきか。というより、王族が王族へ依頼をしてきたということか。もう訳が分からない。

 だが、とにもかくにも取り敢えず、何か反応はしたい。

 焦りに焦って、口から出た結果。


「へえ。リオーネ、王の妹さんなのか。へえ。そうか。うん。リオーネ、確かに気品あったし、うん。そうだな。えーと。王の妹って、何て呼べば良いのかな」

「ああ……流石はカイリだ。表情が全く変わっていない。もうポーカーフェイスを身に付けたのか……ポーカーフェイスの天才だ!」

「いや。ポーカーフェイスだけ身に付けたって意味ないだろ。こいつ、言葉と行動が動揺しまくってひっどいことになってるぜ」

「むしろ表情が固まっていますわ。ぶっさいくですわ。……この人、腹芸は本当に出来無さそうですわね……」


 酷い言われ様だ。


 散々にけなされながらも、カイリは落としたコップを拾い上げる。水を入れる前で良かったと、場違いな安堵を抱いた。

 だが。


「……ごほっ!」


 水を入れて勢い良く飲んだら、せてしまった。ごっほごっほとき込んでいるカイリへの、シュリアの白い目が痛い。

 そんなカイリの一人漫才の様な反応を見てか、リオーネの目元が少しだけ和らいだ。アクアマリンの双眸そうぼうに微かに光が舞い戻る。


「カイリ様。確かに私は前国王の娘ですけど、十年前に身分は剥奪はくだつされていますから。もう王女ではないんです」

「え? 剥奪?」

「元々庶子でしたから、一緒に住んではいませんでしたし。現国王の娘とも、同じ歳なんです。面倒でしょう?」

「え? ……え?」


 十年前に身分を剥奪された。庶子ということは、リオーネの母は平民ということか。

 しかも、現国王の娘というのは、任務で護衛する対象である王女のことだろう。そんな彼女と同じ年齢ということは、現国王とリオーネは親子ほどに歳の差があるということになる。


 ――やっぱり王族って、面倒ごと多そうだ。


 申し訳ないが、カイリにはそういう感想しか抱けなかった。リオーネの言葉に、大いに頷きたい。

 それに。



〝それから、リオーネ殿! 彼女もやんごとなき出の娘さんだったんですがね〟

〝十年前に拉致らちされて――〟



 あの時、第一位の者達が暴露しようとしていた言葉。『やんごとなき出』というのは、つまり前国王の娘――王族という意味だったのだ。

 考えてみれば、貴族なら貴族と言えば良いだけの話だ。わざわざぼかす意味はない。

 十年前という単語が引っかかって、芋づる式にカイリは嫌なことを思い出していく。

 拉致されたと言っていたが、内容は恐ろしい予感がする。リオーネも笑顔ではあるが、どこか緊張した面持ちだ。

 下手に触れると古傷をえぐるだろう。故に、明るく振り切った。


「そっか。じゃあ、これからも、リオーネって普通に呼ぶよ。それで良いかな」

「――」

「リオーネ?」

「え? あ、はい。お願いします。是非」


 慌てて頷くリオーネの反応に、何となくカイリは違和感を抱く。何故、意外そうな顔をするのだろうと首を傾げるしかない。

 しかし、あまり突っ込むと突きたくないものまで突き破ってしまいそうだ。話は終わらせて、カイリはさっさと任務の話に移った。


「じゃあ、あの王室近衛騎士団のハーゲン殿は、そういう縁があって、リオーネがいる第十三位に依頼をしたいということですか?」

「……腹が立つが、そういうことだな。普段は国王が依頼主なのだが、今回は王女の申し出だそうだ」

「え? 王女の?」


 何故、そこで王女が出てくるのだろうか。確かにリオーネと面識があってもおかしくは無いが、仲良くしたいとかそういう簡単な話では無い気がする。

 案の定、フランツが苦虫を潰した様に唸った。腕を組み、遠くを見据える眼差しが物騒に光る。



「恐らく、自分との立場の違いを改めて見せつけたいのだろう」

「……は?」



 フランツの言葉は予想の斜め下過ぎて、カイリの思考が真っ白になった。はくっと、口も間抜けに一度開閉し、呼吸を一瞬忘れてしまう。

 立場の違いを見せつける。

 立場の違い、とは何だろうか。王族と騎士――いや平民の違いということだろうか。

 何故、そんな愚かな話に流れていくのか。疑問符しか湧かない。


「王族というのは、フュリーシアでは教会の権力が強すぎて色々形骸化けいがいかしている面もあるが、それでも権力はある。政治も行っているしな」

「……、そうなんですね」

「ああ。教会と共同統治という形を取っている。教会の意見が強く反映はされるが、雑多ごとは彼らの仕事だ。故に、民の中でも彼らに敬意を抱いている者は少なくない。教会の威光に隠れているから、普段は実感が薄すぎるが」

「……、そうなんですね」


 同じ返事しか出来なかった。カイリの表情が次第に不穏に変遷してくのが鏡を見なくても分かる。

 だんだんと言いたいことが分かってきたが、分かりたくない。

 そんな葛藤を見透かしながらも、フランツは残酷に続けていく。


「王族達は教会を妬みながらも、己の地位に誇りを持っている。国を維持している、という誇りがな」

「……」

「だから、リオーネに警告するのだ。……お前は、もう王族ではない。万が一にも戻れはしない。思い上がるなと。……定期的に釘を刺さないと、王族側も納得出来ないと見える」

「……は?」


 声が低くなった。

 カイリの目が剣呑に染まったが、フランツは淡々と予測を並べていく。


「つまり、王女の申し出であるとは言うが、国王の意向でもあるかもしれん。今までもそうだったしな」

「い、ままで、って」

「何度もこういった依頼はあったということだ。王族を第十三位に護衛させ、そこでねちねち嫌味を拝聴するという任務がな。公の場であからさまに待遇に差を付けられることもあった。特に国王が相手の場合は最悪だ」

「……は……」

胸糞むなくそ悪い仕事だが、変に勘繰かんぐられると更にややこしいことになるからな。……リオーネ」

「はい。大丈夫です。流すのはもう慣れました」

「は? ……何だよ、それ」


 心得た様に微笑むリオーネに、カイリは頭が沸騰しそうだ。


 流すのは慣れた。


 そんなはずはない。カイリは強く叫び出したくて仕方が無かった。

 本当に慣れているのなら、二日前の任務の話に立ち会っていた時、リオーネは暗い顔などしていなかったはずだ。朗らかにいつも通り会話に参加し、可愛らしくしたたかに微笑んでいたはずだ。

 だが。



 彼女は、笑顔なのに凍り付いた様に無表情だった。



 何も感じていないはずなどない。この任務だって苦痛のはずだ。

 それなのに。


 王族の、勝手な論理で振り回されるなんて。


「な、んで。……だって、そんな。リオーネだって、そんなこと、何か企んでるなんて、そんな」

「……カイリ」

「こっちは、ただ普通に暮らしているだけなのに。関わってもいないのに。それなのに、何で、……何でっ。嫌味とか、立場とか、……そんな、心の無い残酷な任務を!」

「カイリ」

「――っ」


 強い口調で呼ばれ、カイリはびくりと肩を跳ねさせる。一緒に呼吸も跳ねて、苦痛が気管を駆け上がった。

 分かっている。事情を深く知らないカイリだって、この件はどうしようもないことなのだと。当事者には当事者の、想像を絶する背景があるのだと。

 だからこそ、フランツは団長として引き受けたのだ。断り切れないからこそ、受けたのだ。

 第十三位は、依頼を普通に蹴っていると最初の時に断言していた。



 それでも受けるということは、受けなければならない理由がある。



 例え、教会がこの国を――世界を支配しているのだとしても、王族の意向を完全に無視することはきっと不可能なのだ。そうでなければ、王族は今頃もうとっくにいなくなっているはずだ。

 どんなにパワーバランスが傾いていても、相手を完膚かんぷなきまでに叩き潰すことをすれば、あらぬところから不安や不平が巻き起こる。

 それに、今のフランツの話は所詮は推測でしかない。

 王女が、本気でそういう意図で依頼をしてきたのかも分からないのだ。今までは国王の意向で遂行されていたというのならば、王女は違う考えの持ち主なのかもしれない。

 けれど。


〝こんな奴らの元にいたら、せっかくの宝石も腐って、仕舞には泥水になってしまいますよ!〟


 ――けれど。



「カイリ。……良い子だ」

「……っ」



 ぽふん、とフランツがカイリの頭を一撫でする。

 途端、カイリはせきを切った様に堪えていたものが溢れ出そうになった。自分が泣くのは筋違いだと、カイリは懸命に唇を噛み締める。


「お前も色々推測はしているだろうが、そう。王族を邪険にし過ぎると、暴動が起きる可能性がある。教会、ひいては聖歌を崇め奉っていても、権威をないがしろにし過ぎるとろくなことにはならない」

「……、はい」

「教会としても、王族を立てることで矢面に立ってもらうなど、色々真っ黒なメリットもある。面倒ごとも隙を見ては押し付けているしな」

「……。……それは……」

「ましてや、リオーネは第十三位の一員。第十三位の痛みなど、教会本部にはどうでも良い。むしろ、このことで王族側が満足するなら、喜んで生贄に差し出すだろう」

「……っ。……、………………」


 頷くことなど出来なかった。

 どうしても、無理だった。

 最後の『生贄』という単語に、頷くわけにはいかない。



 第十三位だって、人間だ。



 道具ではない。人の心を持った、れっきとした人間なのだ。

 教会の上層部がどういう考えの持ち主だろうが、カイリはその事実を否定したくない。

 リオーネが傷付いている。それが、真実だ。

 カイリにとっての真実は、それが全てである。


「……カイリ様」

「――っ」


 そっと、リオーネがカイリの右手に触れてきた。驚いて飛び跳ねると、彼女が静かにカイリの指をほどいていく。

 そこで初めて気付いた。己が、無意識の内に強く、深く、拳を握り締めていることを。

 二日前のエディの時と、同じだ。

 怒りを必死に押さえて、己を傷付けていた彼と。今、カイリは同じことをしていたのだ。



「ありがとうございます」

「……っ、俺は、何もしてないよ」

「いいえ。カイリ様が、カイリ様でいてくれるのなら、私は貴方が第十三位に来てくれたことに意味があると思います」

「……え」



 何だか、最近同じ様なことを耳にした気がした。


 どこだっただろうと思い出す前に、フランツが疲れた様に話を進める。


「とにかく。五日後には王女を護衛する。国王は、城で待機するそうだ」

「……どうしてですか?」

「一応、政務があるからな。第十位と連携して、護衛を担当する」

「……第十位」


 つまり、あのファルも一緒に来るかもしれない。

 そう考えて、カイリの気がより一層重くなる。もはや地面に沈みすぎて、浮き上がるのが困難だ。

 フランツ達は、彼と一体どんな顔をして話を進めていたのだろうか。任務が決定した時にその場にいなかったことを激しく後悔した。

 いや。



 もしかしたら、カイリがケントと出かける日を見計らって場をもうけたのかもしれない。



 カイリは、ファルに色々と突っかかられていた。彼が帰った後に腰が抜けたし、フランツの腕を掴んで泣きそうにもなっていたのだ。当然見抜かれていただろう。

 彼らは過保護だ。守られていると痛感し、同時にまだまだ弱いと思い知らされる。

 せめて、彼らと共に挑めるくらいに強いと、いつか認めてもらえる様に。今は一歩ずつ頑張るしかない。


「第十位は、国王側の護衛と、王女の護衛両方に着く。ファルは、王女側。つまり、俺達と一緒だな」

「……っ、そうですか」

「ファルは、……恐らくカイリも察しがついているとは思うが、前に第十三位に三週間ほどいた元新人だ」


 やはり。


 予想など当たって欲しくは無かった。酸素が薄くなった様に息苦しくなっていく。



「……おらっ」



 ぱしん、と軽くレインがカイリの頭をはたいてくる。

 カイリの顔は、想像以上に沈んでいた様だ。呆れた様に溜息を吐かれた。


「せっかく身に付けたポーカーフェイス、全く役に立ってねえぞ」

「……はい。すみません」

「もうシュリアから聞いてるだろうが、第十三位は三年前から一年間、一時期新人が入ってくる回数が増えてなー。その時に、悪意をばら撒いて去って行くというのを繰り返しやられた。その新人の一人があのファルだ。むしろ最先端だな」

「……はい」

「で、だ。ファルは、恐らくお前にロックオンするから気を付けろよ」

「え?」


 何故、カイリが標的にされるのだろうか。

 よく分からなくて視線で問うと、レインが苦笑気味に肩をすくめた。


「あいつ、教会騎士なんだけどよ。全く聖歌語とか使えないんだわ」

「……はあ」


 思い返せば、本人も自己紹介でやけくそ気味に言い放っていた気がする。

 しかし、それが何だと言うのか。

 更に疑問符を浮かべると、レインの目が冷たく細められる。それがカイリに対してなのか、ファルに対してなのか。判断は不能だった。


「だから、権威にひどく執着する。お前は聖歌語だけでなく聖歌を使え、しかも第一位団長のケント殿と友人だろ」

「……、……はい」

「加えて、最近は枢機卿のゼクトール卿との繋がりも出来た。新人のくせに、第十三位には三ヶ月以上いる。いやあ、恨み放題だな。妬み嫉妬ってやつは、ほんとに恐ろしくて、……くっだらねえよなあ」


 最後は二段ほど声が低まった。地底を這う様な不敵な笑みは、凄味が相まってカイリの心が震える。まるで何度も刺し貫かれる様な気迫に、反応も出来なかった。

 気付いたのか、レインは吹雪く気迫をひそめる。どくどくと心臓が暴れるのを必死に押さえながら、カイリは納得した。



 嫉妬というのは、時に凄まじい暴力となる。



 それをバネにして這い上がるのなら良いが、相手を傷付けるとなると話は別だ。

 カイリは散々前世の時にその嵐を受けたし、カイリ自身もケントに嫉妬した経験がある。嫉妬を口にしたくなくて素っ気なくし、結果的に傷付けたという結果は、身につまされるものがあった。

 それに。



〝だから、君を売ったんだ! 教会騎士だっていうあの二人にっ‼〟



 エリックも、そうだった。



 歌を歌えるカイリに、嫉妬していた。村にいた頃から積もりに積もって爆発したその妬みが、最終的に最悪の結果をもたらしたのは記憶に新しい。

 カイリは、十二分にうらやまれる立場にある。望む望まざるに関わらず、自覚をしなければならないと再び戒めた。

 つまり、ファルは恵まれている様にしか見えないカイリが目障りなのだろう。

 二日前もやけに突っかかってきた。感情的になるのは、込み入った胸の内や主観があったのかもしれない。

 だが、それは好機でもある。


「……分かりました」

「おう。せいぜい気を付け――」

「俺が防波堤になれるのなら、構いません。適当にいなします」

「――。……あのな。別に、そんなの求めちゃいねえよ」

「でも、俺に攻撃をして、フランツさん達から意識が逸れるなら、それはそれで良いです。むしろ、望むところです」


 精神的な疲労は多大ではあるが、フランツ達が悪く言われることの方が黙っていられなくなりそうだ。二日前が良い例だ。

 ならば、いっそ自分に攻撃をしてくれた方が遥かにマシである。前世でつちかったスルースキルを、今こそ発揮する時だ。

 気合を入れて心の準備をしていると、こつん、と頭を軽く叩かれた。

 驚いて顔を上げると、そこには苦渋に満ちたフランツの顔が近くに迫っていた。


「え、……フランツさん?」

「……お前は、本当に」


 苦渋だった顔を更に潰して、フランツがカイリを見下ろしてくる。周りを見れば、レイン達も複雑そうな表情でカイリの方を向いていた。

 何故、そんな不可思議な反応をされるのだろう。困惑して、カイリは叩かれた箇所を右手で押さえると。



「お前が何か言われて、俺が何も思わないとでも考えているのか?」

「――、……え」



 一瞬、言われた意味が理解出来なかった。

 ぱちっと、大きく一度瞬きをすると、フランツが再び拳を軽く下ろしてくる。右手を叩かれ、少しだけ痛みが増した。


「あ、の」

「お前が怒ってくれる様に、俺もお前が悪く言われたら怒るに決まっているだろう」

「――」

「だから。……あまり、無茶はしないでくれ」


 ぎゅっと優しく抱き締められる。あやす様に背中を撫でられて、カイリの胸の奥に熱が集まっていった。何となく父を思い出して、更に熱が加速していく。

 カイリは、ただフランツ達を悪く言われるのが嫌だっただけだ。故に、彼らから意識が外れるのなら、その方が良い。本当にそれだけの意味合いだった。

 けれど。



 ――俺のために、怒ってくれるのか。



 誰かに悪く言われたら、腹を立ててくれる。

 前世では無縁だったその関係に、カイリはじわじわと視界がにじんでいった。誤魔化す様にフランツの胸元に顔を押し付け、撫でてくれる温かい手の平を享受する。

 前世では考えられなかったのに、この世界では優しい人達が傍にいてくれる。それだけで、カイリの心は満たされていった。

 だから、そんな風にフランツが怒ってくれるだけで充分だ。


「……ありがとうございます、フランツさん」

「……カイリ」

「無理に防波堤になろうとはしないと約束します。……ただ、前世より堪え性は無くなったので、言い返したりはするかもしれませんけど」

「……っ、ああ。それで良い。……だが、何か言われりされたりしたら、ちゃんと俺に言うのだぞ。報復はきっちりするからな」

「ははっ。……はい」


 心配そうに見下ろしてくる彼に、カイリは笑って答える。

 本当に優しい世界だと思う。カイリを思ってくれる人達がいる。両親やライン達や村の人達だけではない。ここにも、そんな人達がいるのだ。

 前世では手に入れられなかった、欲しかったもの。

 エディやリオーネとぶつかった時、諦めずに食い下がって良かった。ルナリアで、フランツとの仲を諦めなくて良かった。


 カイリはこの時改めて、それを深く実感した。


 だから、負けはしない。

 例え、当日に予想もしなかった事態が襲いかかってきたとしても、屈しはしない。

 決意して、カイリは前を――五日後のその日を見据える。

 けれど。



 最初から最後まで、一言も。エディが喋らないことだけが気がかりでならなかった。


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