第70話


「……眠い」

「おーおー、カイリ。あれくらいの聖歌でへばってるなんて、鍛え方、足りてないんじゃねえの?」


 日差しが柔らかく降り注ぐ朝の時刻。

 目をこすりながらベッドの上で起き上がるカイリにとって、朝日は時に暴力的である。同室のレインがからからと茶化す様に笑っているが、反論する気力もない。


 試合が終わって、一日が経過した。


 聖歌を連続で歌った後遺症か、途轍とてつもない疲れがカイリの体を支配していた。

 疲労を盛大に訴える体を何とか叱咤しったし、カイリはのろのろと朝の支度をする。その体たらくにレインが呆れていたが、ここまで響くとはカイリ自身も考えていなかった。


 本当に、もう少し体力を付けたい。部屋に備え付けられた洗面所で顔を洗いながら、切実に願う。


 冷たい水でさっぱりしたはずなのに、未だ眠気は散らない。タオルで顔を拭きながら、ふらふらと移動する足は覚束おぼつかなかった。


「んー……」

「何だよ、カイリ。お前、ほんとに今朝はぽやぽやしてんなー」

「はい、すみません……」


 からからと笑って頭を撫でてくるレインに、カイリは謝りながらもどこかホッとする。この触れ合いが、ひどく今のカイリを安心させた。

 試合で、体が疲れているのは間違いない。

 だが、体だけではなく心も擦り切れる様に疲弊ひへいしていた。心身ともに疲れている原因は、昨日の試合やエディ達とのぶつかり合いだけが原因でない様にも思える。

 そう。



 何だか、夢見も悪かった気がするのだ。



 内容はよく覚えていない。幸せな心地だった気もする。

 それなのに、どこかざわつく様な、不安をあおる寝起きだった。それも疲労に拍車をかけているのだろう。



 ――レインさんが、部屋に残ってくれていて良かったな。



 カイリが目覚める時間帯だと、レインが部屋にいる確率は半々なのだ。

 今朝は何となく落ち着かない覚醒だったので、存在自体が心強い。秘かに感謝をした。


「ま。でも、良くやったぜ? これで、大体の奴らにお前の聖歌の力が分かっただろうしな」

「……ありがとうございます」

「……まあ、教皇に目を付けられないかどうか、ってのだけが気にかかるけどよ」

「――っ」


 どきりと、レインの言葉にカイリの心臓が小さく跳ねる。寝起きの不安が余計に膨らむ様で、思わずぎゅっと胸元を握り締めた。



「目を付けられないかって……俺、何か変な歌を歌ってしまいましたか?」

「んー……、いやな。お前、聖歌の効果を完全に無効化しただろ。あれって、普通の奴らってなかなか出来ないやつなんだわ」

「……、え?」



 レインの軽い口調に反して、中身は結構重い。

 怯える心をなだめ、カイリは続きに耳を傾けた。


「通常は聖歌同士のぶつかり合いに発展するとな、無効化じゃなく、互いにプラスマイナスの打ち消し合いだったりするんだよ」

「打ち消し合い……ですか? その、効果がまるっきり違ったら?」

「そういうのは適用範囲にもよるが、互いを阻害しないんならお互い効果を狙い通り発揮すんな。ただ、……昨日使ったお前の聖歌は、違う」


 レインの表情が、一瞬だけ陰った。同時に、薄いカーテン越しに入る日差しさえも遮られた様に、部屋の中が一寸だけ薄暗くなる。


「単純な力比べじゃなく、お前は全てを無効化した。そういう風に歌ったんだろ?」

「……、はい」

「プラスだろうがマイナスだろうが、例え子守唄だろうが足止めだろうが、現れた効果を全部鎮めて無かったことにするってのは、結構難しいんだわ。やりたくても、出来ねえのが普通だ」

「……そう、なんですか」

「おー。だから、自然現象だけじゃなく、全て無効化ってやつはよっぽど珍しいんだよなー。だから、その点だけが気がかりってこった」

「……っ」


 ざわりと、胸の中を無遠慮に手でかき混ぜられた様な悪寒が走る。

 無効化が、あまり一般的ではない。カイリ自身は、適用する範囲が上手く指定出来ないから、いっそ全てを無効化してしまえば良いという単純な思考回路だった。

 だが、そこまで特殊な効果だったとは。一度フランツ達に相談すれば良かったと、今更ながらに後悔する。


「……、あの。すみません。やっぱり、それってまずいんですよね」

「いーや。一応俺が知る限り、一人いそうな気はすんが……」

「え?」

「……ま、多分問題ないだろ。教皇は大の第十三位嫌いでな。オレ達を公衆の面前でかばった時点で、ほぼ切り捨てられただろうよ。団長も、そこら辺は考えてたろうさ。だから、『故郷ふるさと』だけ注意したんだ」

「そうなんですか……」


 教会に来る前に、フランツは『故郷』の効果は決して知られない様にと忠告していた。

 それだけの力を見せ付ければ、教皇に囲われ、軟禁状態になると。

 だが、トップが第十三位嫌いだとは思わなかった。つくづくこの教会の体制が気に食わない。教会のやり方を嫌っていた父に大いに賛同したかった。


「さて。今日はエディが食事当番だったか。何が出てくるかねー」

「……。楽しみです」


 レインが切り替える様に朝食を話題にする。エディの名が出て、少しだけ緊張した。

 だが。


 ――大丈夫。


 試合の時に、あれだけ笑い合えたのだ。

 言い聞かせ、カイリはドアノブを自らの意思で掴む。そのまま、勢い付いて部屋を出た。



「あ、カイリ様。おはようございます」



 出ると、リオーネが開口一番に挨拶してきた。

 今さっき部屋から出てきた、というわけでは無い様だ。もしかして待ってくれていたのだろうかと、都合の良いことをカイリは考えてしまう。


「おはよう、リオーネ」

「おはよーさん」

「おはようございます、レイン様。……あの、カイリ様」


 一度だけうつむいてから、リオーネはカイリに笑いかけてきた。ふんわり香る花の様な微笑みに、少しだけ気恥ずかしくなる。

 しかも、今日は彼女のベルトに大きな空色のリボンがひらりと舞っていた。夜空の向こうにまっさらな空が見える様なデザインで、とても可愛らしい。

 普段は見ない、かなり気合が入った組み合わせだ。カイリはのほほんと感心しながら、何故か沈黙を保ち続ける彼女の言葉を待っていると。



「今日、一緒にアーティファクトを見に行っても良いですか?」

「え?」



 アーティファクトとは、カイリに懐いた専用の馬だ。

 普段は、第十三位と懇意にしている馬屋が世話をしてくれている。本当はカイリ自身で世話が出来たら良かったのだが、あいにくその暇は無かった。

 だから、時折彼の様子を見に行っていて、今日もその予定だった。昨夜フランツとそのことを話し、レインと行くことになったのだ。ついでに、遠乗りもする予定である。


「うん。良いけど……」

「――、そうですか。ありがとうございます」


 ほっと安心した様にリオーネが胸を撫で下ろす。

 いきなりどうしたのだろうと疑問に思ったが、レインがくくっと面白そうに喉を鳴らした。


「緊張は解けたか? リオーネ」

「……もう、レイン様」


 少し怒った様に名を呼ぶ彼女に、益々カイリの頭上には疑問符が大量に浮かぶ。

 だが、それには二人共答えず、ぽんっとレインがカイリの頭を軽く撫でた。


「良かったな」


 それだけを残して、レインは食堂に向かう。軽やかな口笛を吹きながら、そのまま食堂に姿を消した。

 彼らが何を言っているのかは分からない。

 だが、これだけは理解出来る。



 ――リオーネが、自分と話そうとしてくれている。



 その事実がカイリには嬉しかった。昨日の試合で少しはわだかまりが解けたのだと、実感出来る。


「今日のご飯、何だろうな」

「エディさん、張り切っていましたよ」

「そうなの?」

「ええ。ふふ」


 思い出した様に笑い、リオーネが食堂へ続く扉を開ける。彼女に続いてカイリが入ると、もうフランツとシュリアが席に着いていた。


「おはようございます、フランツさん、シュリア」

「おはよう、カイリ」

「……おはようございます」


 フランツとシュリアが、それぞれ二人らしい挨拶を返してくれる。

 カイリが奥へと視線を向けると、エディがキッチン台の前で一瞬ぴしっと敬礼する様に背筋を伸ばした。つられて、カイリも背筋を伸ばす。


「お、おはよう、エディ」

「おはようございます。……えー、新人!」

「う、うん」


 びしっと人差し指を突き付けられ、カイリもどもりながら何とか返事をする。

 エディが目線を右に左にと忙しなく動かしていたが、その後、覚悟を決めた修羅の様にカイリを睨みつけてきた。


「きょ、今日! 良ければ!」

「うん」

「……あ、ああ、あああああああ」

「……、あああああああ?」

「あ、あ、あ、ああああ、……アーティファクトー! 一緒に見に行っても良いっすか!」

「……、え?」


 アーティファクト。


 またもその名が出たことで、目が点になる。

 驚き過ぎて声が出せないでいると、勘違いしたのか途端にエディが体を縮めた。ずるずるっと、キッチンの向こう側に沈んでいく。


「え、エディ?」

「えーと。駄目っすか?」

「う、ううん! 全然! 大歓迎だ!」

「ほ、本当っすか?」


 ぱあっと瞳を輝かせ、エディがキッチンの向こう側から復活する。今にもぴょんっと飛び跳ねそうだ。

 その様子に、ぶはっとレインが堪えきれずに噴き出した。肩を震わせて、エディを意地悪く見据える。


「いやあ。お前達、発想が一緒なのな」

「な、ななななななな何が! 何がですか! レイン兄さん!」

「リオーネも同じこと言ってたなー」

「り、リオーネさん! ふおおおおおおっ! でででデートおおおおっ!」

「はい。カイリ様とデートです♪」

「な、なあああああああにいいいいいいいいっ!?」


 一瞬浮き足立ったエディが、次には鬼の形相でカイリを射殺す様に睨みつけてきた。あまりの殺気の乱舞に、カイリの肌が焼けそうだ。焦る。


「り、リオーネ! どうしてあおるんだ! わざとだろ!」

「はい♪」

「はい♪ じゃない!」

「新人……やはり、決着をつける必要があるみたいっすね」

「無い! 無いから!」

「てか、オレも行くってこと忘れてねえか、お前ら」


 レインが笑いながら突っ込むが、エディの怒りは止まらない。リオーネは笑うだけだし、シュリアは「馬鹿ですわ」と呆れるだけだ。カイリに味方がいない。

 極めつけに。



「うむ。仲が良いのは素晴らしいことだな。実に良い朝だ」



 フランツは微笑ましく見守るだけで、部下の暴走を止めてはくれなかった。完全に四面楚歌である。

 けれど。



 これが、第十三位の日常だ。



 その日常が帰ってきたことに、カイリは殺意を投げ付けられながらも口元が緩んでしまった。











「さて。カイリには、今日から聖歌語に抵抗する訓練をしてもらう」


 あらかた朝食を食べ終え、食後の紅茶をたしなんでいるとフランツがそう宣言してきた。

 他の者達も一様に頷き、フランツの意見に賛同する。


「そうですわね。昨日の試合、見事に聖歌を封じられましたわ。抵抗出来なければ、せっかくの力も意味がありません」

「ま、ある程度やり方は覚えただろ? 後は実戦あるのみかね」


 シュリアとレインが話を振ってきたので、カイリは軽く頷いた。


「えっと、封じられても、聖歌語で念じれば良いんですよね?」

「そうだ。他にも、気合で抵抗したり気合で弾き飛ばしたりもするが、……まあ、要はどれも気合だな」


 適当だな。


 フランツのとても大真面目な断言に、カイリの目が一瞬遠くなる。

 つまり、心から負けていては、勝てるものも勝てなくなる、ということだろうか。

 何となく理屈は分かるが、フランツの説明は割と雑だ。彼らしいと苦笑してしまう。


「後は、相手が聖歌語を放ってきた時に、聖歌語で反撃する方法だな。お前が聖歌封じを破った後、やったやつだ。……いや、あれは痛快だったな」


 相手が「黙れ」と言ってきた時に、咄嗟とっさに「邪魔をするな」と放った時のことを、彼らは指しているのだろう。

 フランツが思い出したのか、楽しそうに笑っている。他の者達も満足気だ。あれはそんなに意味のあることだったのかと、カイリは振り返る。

 確かに、無意識に反撃していた。おかげで、こちらが再び封じられることはなかったが、紙一重でもあった気がする。


「あの時は無我夢中でしたけど……今改めて、やれ、と言われると自信がありません」

「そうだな。カイリは、反射的に聖歌語が出る様に訓練する必要がある。結構な場面で、なかなかその方法が頭に出てこないだろう?」

「はい。……そうかもしれません」

「なら、日常的に聖歌語を放てる様に積み重ねていけば良い。体力が削られるから、限度はあるがな」

「でも、カイリ様は初日に比べて、大分体力もついてきましたし、配分も出来る様になってきました。聖歌だけなら、三曲続けていけます」

「なるほど。リオーネのお墨付きなら、大丈夫だろう。限界までやってみるか」


 恐ろしいことをさらっと言われた。

 フランツは優しいが、時々かなり鬼になる。流石団長だ。


「でも、凄いっすよねえ。聖歌騎士の重ねがけ、吹っ飛ばしたんですから。ボクじゃとてもじゃないけど無理っす」

「お前は、この中で一番聖歌語苦手だろうが。一緒にすんな」

「ぶー。でも、……やっぱ、新人の聖歌が一番好きっすね。相手の歌、ほんと嫌いですよ。曲はともかく、中身がなあ」


 テーブルにあごを乗せ、エディがふて腐れる。

 さらっと自分の歌が一番好きだと言われ、カイリは気恥ずかしくなった。誤魔化す様に、「あー」と声を出して質問する。


「でも、俺、なかなか他の人の歌を聞けなかったから新鮮でした。あれは、何の歌なんですか?」

「あれは、主に聖歌隊が覚える歌の一つだな。『神の賛歌』だったか。独自で曲や歌詞を考えるのが面倒だったり苦手な者は、教会が作った聖歌を覚えるのだ。後は、自分で効果をイメージするだけで良い。手っ取り早い」

「……教会が」


 他の考え方は認めない。

 あの歌詞は、そんな風にも聞こえた。あれを教会が作ったのかと思うと、カイリも少し気落ちする。


「けどま、色んな聖歌があるよなあ。カイリのは、聞いたことないタイプのやつだったけど、オレも好きだぜ」

「あ、ありがとうございます」

「あれは、童謡唱歌ですよね? 懐かしいです。今まで忘れていましたけど」


 リオーネが両手を合わせて同意してくる。曲を当てられたことに驚いたが、同時に首も捻ってしまった。

 彼女は、今の今まで童謡唱歌の存在を忘れていたのか。百人一首は覚えているのに、と違和感を覚える。



「思い出したの? 今?」

「正確には、あの『雪』を聞いてからです。とはいえ、思い出したのは『童謡唱歌』ということだけで、カイリ様が歌ったもの以外、他にどんな歌があったかは思い出せないんです」

「そうなんだ……」



 覚えていることと覚えていないこと。

 フランツは、前に聖歌を歌える者でも前世の記憶は穴だらけだと説明してくれた。

 カイリも、全てを覚えているわけではないが、それは生きていく上では当然の風化という程度だと思う。学んだ歴史や歌の詳細は忘れていても、キッカケがあればすぐに「あったな」というくらいには思い出せる。


 だが、リオーネは違う様だ。童謡唱歌は、今の今まで忘れていたという。


 リオーネも日本が前世の出身国だと前に言っていた。

 それなのに、童謡唱歌を忘れていた。あれだけ日本に馴染んでいる歌なのに、と何となく引っかかる。

 そんなカイリの違和感を遮る様に、リオーネは両手を合わせた。


「カイリ様は、百人一首も覚えているんですよね」

「ああ、小倉百人一首だけだけど。一回全部覚えたんだ」

「まあ! 凄いです! 私もそうなんです。好きだったので、これを歌にしたいと思いまして」


 にこにこ楽しそうに語る彼女は、本当に百人一首が好きなのだと空気が笑っている。

 カイリは、受験に必要だから覚えただけだ。もちろん、色々楽しい内容もあったが、リオーネほど興味を持っていたわけではない。

 人によって本当に興味を持つ分野が違う。その違いが、今のカイリには楽しくて仕方が無かった。


「……しんじぃん……っ。リオーネさんと、楽しくおしゃべり……許せん」


 エディが、顎をテーブルに乗せたまま、かっと目を見開いてこちらを見つめてくる。あまりに恐い見開き方に、カイリは思い切り身を引いた。


「エディっ。恐いんだけど」

「こわくなあい。だいじょおぶ。こわくなあい」

「絶対恐い! 別に、リオーネとは普通に話していただけだから!」

「ふつうにはなす。だいじょおぶ。こわくなあい」

「恐いから! ああもう、お願いします! 大丈夫なら、皆さん、早速訓練させて下さい!」


 涙混じりに懇願すれば、フランツ達が笑いながら承諾した。


「さて。どんな聖歌語を浴びせてやれば良いか」

「楽しみだなあ? カイリ、覚悟しとけよ?」

「ぼっこぼこにして差し上げますわ」


 フランツとレインとシュリアが、揃って企んだ様な顔つきになる。



 ――早まったかな。



 前門の虎、後門の狼。

 その言葉をカイリは今、身をもって知ったのだった。


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