第11話


「……カイリ、話してくれるか?」


 ラインが村長の家に入り、程なくしてカイリの両親が外に出てきた。

 彼は言った通りのことを実行してくれたらしい。少し心配そうに出てきた両親の顔を見た時に、不覚にも泣きそうになってしまった。

 言葉少なに家に戻り、そこでカイリは教会騎士の女性とのやり取りを説明することになった。

 椅子に腰かけると、両親がそれぞれ椅子を持ってきて隣に座ってくる。ぽんぽんと、リズミカルに背中を優しく叩かれて、それだけでカイリは震えてしまった。


「……っ」


 女性とのやり取りを思い出し、恐怖が足元からよみがえってきた。がたがたと震えるのは、しかし決してその恐怖だけではない。

 両親は、どう思うだろうか。

 こんな滅茶苦茶な話を信じてくれるだろうか。嘘だと思われたらどうしよう。

 だが。



〝ご両親は、絶対信じてくれるさ。カイリ、お前は信じられないか?〟



 ――信じると、決めた。



 腹をくくって、カイリは二人を交互に見つめてから口を開いた。


「宴会を抜け出して、涼んでいたら。あの教会騎士の女性が、話しかけてきて、……それで」


 最初は、持っていた書物を何とかカイリに渡そうとしていた。

 断っても断ってもしつこく勧めてきて、だから「その本は軽いものなのか」と聞いたら。


「何だか、逆鱗げきりんに触れたみたいで」


 何事かを低く呟き、呼びかけられた瞬間。


「……、あの人の目を見たら、心臓を貫かれたみたいに痛くなって、それで」

「……っ」


 両方から息を鋭く呑む音が聞こえた。

 ぎゅっと、肩を掴まれた手に力がこもって、それに背中を押される様にカイリは続ける。


「あの、文字……」

「……。文字?」

「あの人が持っていた書物の、文字。……」


 だが、どう説明すれば良いのか。

 前世のことを話すとしても、長くなる。そもそも、前世の世界の文字だと言って、意味はあるのか。あまり関係無い気がした。

 ならば、もうそのままを話すしかない。変なことを言う息子だと思われようと。



〝カイリ、お前は信じられないか?〟



 ――この両親は、そんなことで不気味に思う様な人達ではない。



「あの、……」

「……」

「あの文字を……言葉を。……あの人、俺に言ってきたんだ」

「――――」



 両親の動きが止まった。瞬間的に、ぴくりと二人の指先がわずかに揺れたのをカイリは衣服越しに感じ取る。

 その反応は、一体何を意味するのか。おびえはあったが、それでも話を終わらせることは出来なかった。


「その言葉で『蛇』って言われたら、蛇が、体の中に入り込んだ様に気持ち悪くなって」

「……、っ」

「歌を歌える人は、……俺なんじゃないかって。多分、……いや、絶対。俺が歌を歌えるの、バレたと思う」


 村の外の者に知られてはいけない。


 そう言われていたのに、カイリは守り通せなかった。

 激痛に襲われていたからと言って、日本語を認識せずに反応してしまった時点で自分の落ち度だ。


「……ごめんなさいっ」

「……」

「俺、約束、守れなかった。……知られちゃ、いけなかったのに。俺のせいで、村、どうなっちゃうの?」


 きっと、歌を歌えることが知られてしまったら、この村もただでは済まない。だからこそ、村長達はカイリの歌のことを隠したがっていたのではないだろうか。



〝殺されるぞ〟



 ――本当に、自分のせいでみんなが殺されてしまったら。



〝――カイリッ!!〟



「――っ」



 また、あの時みたいに。


「……カイリ」

「……っ」


 低い震えが、カイリの耳の奥を突く。

 聞いたことのないほど真っ暗な音に、ぎゅっと思わずカイリが目をつむると。



「――っ、……よく、無事でいてくれた……っ」

「――――」



 がばっと、強い力で父に引き寄せられた。同時に、背中にはふわりと優しい香りが柔らかな感触と共に寄り添う。

 苦しいほどに抱き締められ、カイリはようやっと自分が父に抱き寄せられたのだと知った。背中には、母の震える様な熱い体温が伝わってくる。何となく周りが泣く様に濡れている気がして、カイリは混乱で頭が真っ白になった。


「……、え。あの」

「お前が受けたのは、聖歌語せいかごの力だろう」

「せ、せいかご?」

「……抵抗出来るのは、幸いだった。……もう少しで、お前を失うところだったのだからな」


 物騒な仮定を示され、カイリの体が一気に真っ黒な冷気に取り巻かれていく。

 すくんだカイリの体を再び抱き締め直し、父がぽつぽつと説明していった。


「聖歌語は、古代語、あるいはこの世界とは別の世界の言葉と言われている」

「古代、……別世界」

「そうだ。あの偽教会騎士が持っていた本の文字。あれが聖歌語だ。聖歌を正しく歌うための言葉という意味で名付けられた」

「……、聖歌……。って、に、偽?」


 あのリンダという女性を偽物と決め付けた父に、カイリは鈍った頭を無理矢理動かす。

 父は彼女達のことをずっと真剣に観察していたが、どこに見抜く箇所があったのだろうか。カイリにはさっぱり分からなかった。


「……本来教会騎士は、総本山のことを『聖地』と呼ぶ。総本山という言い方を、騎士は、教会に仕える者は説明以外では使わない」

「……、え?」

「それに、あの本も。本当に教会騎士の証明として身に着けているならば、あんなにこれ見よがしには見せびらかさない。目的があるならともかく、……最初から不自然だった。だから、怪しいと思っていたのだが、……すまない」


 恐い思いをさせた。


 力強い父の腕は、まるで泣き縋っている様だった。いつも明るく笑って、頼もしい父がこんな風に動揺するなんてと、カイリは心を潰される様だ。


 何故、父が『日本語』を――聖歌語のことを知っているのか。

 何故、父が教会騎士の決まり事を把握しているのか。


 疑念が山の様に溢れ出てくるが、それ以上に父の辛そうに悲鳴を上げる抱き方がたまらなく苦しかった。

 故に、ぎゅうっと父を抱き締め返し、自分はここにいるのだと言葉なく告げる。疑問も不安も喉を圧迫して、上手く言葉が出ない。だからこそ、せめて行動だけでも伝われば良いと、願いながら背中に腕を回す。

 父もその仕草で少し落ち着いたのか、名残惜しそうに身を離す。

 瞳は微かに揺れていたが、その奥には決意の光が灯っていた。――戻れない予感に、カイリはまた足が情けなく竦みそうになる。


「カイリ。支度をしなさい」

「……、支度? 何の?」

「村を出る。ティアナ」

「ええ。分かったわ」


 短いやり取りで、ティアナが心得た様に席を素早く立った。そのまま台所の棚を開き、大き目のかばんを取り出す。


「ここに、食糧や水、旅に必要なものが入っているわ。一週間は持つはずよ」

「……、すまない」

「いいのよ。いつかこんな時が来ると思って、用意していたんだもの」


 微笑んだ母の顔は、一点の曇りも無かった。それは今まで見たどの母よりも綺麗な笑顔だったが、何故だろうか。



 カイリには、ぞっとするほど暗い穴倉に、自ら母が落ちて行く様な。そんな不吉な予感しかしなかった。



「……、旅? 父さん、どこに行くの?」

「聖地だ。……本当は嫌だったが、仕方がない。フランツもここに近付いているはずだ。上手くいけば早く合流出来て助けも呼べる」


 聖地。

 つまり、教会の総本山があるフュリーシアに行くということか。

 いきなり事態が急転していって、だがカイリは付いていけない。あの教会騎士が危険だから、村から出るという考えなのだろうか。

 だが、そんなことをしたら、村は。


「俺が、いなくなったら。村はどうなるの?」

「……」

「ねえ。だったら、フランツさんが来るまで俺がここにいて時間稼ぎをしたら」

「駄目だ」


 強い口調で否定される。

 有無を言わさぬ父は初めてで、カイリは一寸言葉を詰まらせた。


「どちらにせよ、あの二人はお前を狙うだろう。恐らく狂信者だ。お前が捕まったらどうなるか、目に見えている」

「目に見えてるって……俺にはさっぱり分からないよっ。狂信者って何? 村が危険にさらされたら、みんなは!? みんなはどうなるんだっ!」

「お前が歌を歌えると知った時から、村はお前を守るという選択をした。村長たちとは何度も話し合って決めたことだ。お前に拒否権は無い」

「……っ」


 選択肢を奪われ、カイリは突き落とされた様な衝撃を味わう。

 歌を歌えると知った時から。

 何度も話し合って決めたこと。

 それは、カイリ当人を抜きにして、知らないところで決められたことだった。

 ただ一人、カイリを守るために。



 ――村人の命を、犠牲にして。



「……、そんな……っ」



 ふるふると頭を振って拒絶する。

 カイリ一人のために、みんなの身が危険に晒される。最悪、命を失うかもしれない。あの女性は、カイリを甚振いたぶって手に入れようとしていた。それくらいやりかねない。

 そんなことをしたら。


 みんなは。

 ラインは。ミーナは。リックは。



 父さんは。母さんは。



〝――カイリッ!!〟



 ――ケントの時の、様に。無残な、姿に。



「……っ、嫌、だ……っ!」



 真っ赤な血飛沫。潰れた体。壊れた車に、つんざく様な悲鳴。



 自分をかばったせいで導かれた、人だった命の成れの果て。



「嫌だ、……嫌だっ! 俺、もう、誰かが死ぬところなんて見たくないっ!」



 そんなのは嫌だ。自分のせいで誰かが死ぬのはもう嫌だ。

 生まれ変わってからも、ずっとあの悪夢に苛まれているのに、またそれ以上の悪夢に追いかけられるのか。

 そんなのは嫌だ。もう誰も死んで欲しくない。誰かの血を、死に様を見るのは、もう嫌だ。

 それなのに。


「……カイリ、すまない」


 両肩をつかまれ、父が項垂うなだれる。

 泣いて、苦しんで、それでも決定はくつがえさない。そう、真っ向から空気が宣言していた。

 母も、何も言わないままカイリを抱き締める。その腕が、燃える様な熱が、母の底知れぬ覚悟を訴えていた。


「説明は道すがらする。お前が捕まるわけにはいかない。特に、狂信者には。世界が破滅に近付く」

「……っ、で、も」

「あいつらは、目的のためなら何でもする。人殺しも、拷問も、……口に出したくないあらゆる犯罪をな。お前も、四肢をもぎ取られてもおかしくはない」

「……、父、さん」

「言うことを聞けないのなら、気絶させてでも連れていくしかない。……どうか、分かってくれ」


 あえぐ様に眉を寄せ、父が肩に乗せた手に力をこめてくる。

 本気だ。それを悟って、カイリは崩れ落ちる様に力が抜けていくのを感じ取った。それでも踏ん張って堪えたのは、もう最後の抵抗でしかなかった。

 理由はよく分からないが、カイリの歌は何かの鍵になっているのかもしれない。それが狂信者に伝わってしまったら、恐らく酷いことになるのだろう。

 それが分かっていて、カイリが我を通してしまえば、もしかしたら村が危険に晒されるよりまずい事態になるのかもしれない。そんな予測が出来てしまったら、もう従うしかなかった。

 だが。



 ――どうして。



 カイリは、思わずにはいられない。



 ――どうして、自分にはチート能力が無いのだろう。



 幼馴染達が話していた物語。

 異世界に転生した物語ならば、こんな絶体絶命の時、華麗に抜け出せる展開になっていたはずだ。

 最強の剣。誰もがひれ伏す魔法。前世の知識を駆使した類稀なる策略。圧倒するほどの発明。

 なのに。



 ――自分には、何も無い。



 教えてもらっている剣も中途半端。攻撃すら出来ない。前世で仕入れた知識を何かに役立てられるわけでもなく、ただ負け犬の様に逃げるだけ。



 無力だ。



 お世話になった村に。幸せを教えてくれた彼らに。

 カイリが出来るのは、見捨てて逃げることだけだ。


「……、ティアナ」

「……カーティス」


 大人しくなったカイリを見て、父が母に歩み寄る。

 母も父に近付いて、互いを求める様に抱き合った。そのまま顔を寄せていくのを見て、カイリは反射的に顔を背ける。見てはいけない気がした。



 しばらく音もなく触れ合う両親は、相手の熱を奪う様に荒く息を吐き。



「愛している、ティアナ。……俺の心はいつでも、お前とカイリと共に」

「愛しているわ、カーティス。……私の心はいつでも、あなたとカイリと共に」



 想いを交わし、そっと離れていく。

 こんな時くらい、息子のことは置いておけば良いのに。

 そう呆れながらも、カイリはどんな時でも自分を忘れないでいてくれる彼らに感謝した。愛されているのだと、こんな大変な時にでも感じ入る。


「……、カイリ」


 母がさみしげに笑う。

 そして、懐から何かを取り出して、ふわりとカイリの首に回した。しゃらっと、綺麗な金属音が鳴り響き、首にも涼しげな熱が伝わってくる。

 見下ろしてみると、胸元には一つの丸い石が下げられていた。金色に輝くその石は、穏やかなのに強い意志を秘めた様な激しさが込められている気がした。

 光り輝く太陽というよりは、どっしりと構える大地を連想させる。力強い熱に包まれた様な感覚に、カイリは戸惑いながら母を見つめた。


「母さん? これは?」

「パイライトっていう石よ。我が家に伝わる魔除まよけでね、ラリエット風のネックレスにしてみたの。……本当は、二日後に渡したかったのだけど」


 石の下から更に綺麗に流れる鎖を、母が優しく整えてくれる。

 そのままそっとカイリの両頬を包み、母は幸せそうに笑った。



「お誕生日おめでとう、カイリ」

「――――――――」



 誕生日。



 そういえば、二日後はカイリの誕生日だ。一日の強烈な経験のせいですっかり頭から抜け落ちていた。

 だが、どうして今なのだろうか。己にかけられた石に、ざわざわとした胸騒ぎが大きくなっていく。


「毎日ね、お父さんと一緒に祈りをこめていたの。だからきっと、カイリを守ってくれるわ」

「母さん……」

「私は一緒に行けないけど。母さん、ちゃんとそばにいるからね」

「――」



 一緒に行けない。



 その言葉に、カイリは父の方へと振り向く。

 父は少しだけ俯いていたが、否定はしない。その無言が、事実なのだと断定してきてカイリは子供の様に首を振った。


「そんなっ、……嫌だっ。母さん、どうして」

「私がここにいて、家に明かりを灯していないと、あの二人が不審に思うでしょう? それに、時間も稼がないと。私がいても足手まといにもなるし」

「どうしてっ! 一緒に……」

「カイリ」


 こつん、と額を軽く合わせてくる。

 まるで小さい子に言うことを聞かせる様に、――愛しそうに、母はカイリの額に口付けを落とした。


「愛しているわ、カイリ」

「……っ、母……」

「だから、――幸せにね」



 笑って、生きてね。



 にっこりと笑うその笑顔は、とても――本当にとても幸せそうな、輝く様な眩く美しいものだった。



「……っ、母さん……っ」

「では、ティアナ。……後は頼むぞ。村の者たちにも、……」

「ええ。……気を付けて」


 母の見送りと共に、ぐっと父が問答無用でカイリの腕を掴む。その乱暴さに焦りが見えて、カイリは必死に抵抗した。


「い、いやだ……っ。ねえ、父さん! 俺、……俺っ……!」

「母さんの気持ちを無駄にするな!」


 雷を落とす様に激しく叱咤された。

 振り向いた父の顔は、圧する様な険しさが滲み出ていた。あの女性騎士よりも鋭く苛烈な視線に、カイリの喉が刺された様に引きつる。

 でも。



 ――誰よりも、きっと。父さんが――泣きたいんだ。



 カイリを掴む父の手が小刻みに震えていて、もう何も言えなくなった。


「カイリが捕まったら、俺たちは死んだも当然なんだ」

「……っ」

「……、――行くぞっ」


 連れられるまま、家の裏口へと向かう。カイリの家は街に続く道にほど近い。隠れて移動するには都合の良い場所だった。


 もしかしたら、この可能性さえ視野に入れての家の位置だったのかもしれない。


 カイリが知っている歌は。

 歌を村の外に知られるというのは、何を意味するのか。



 母の優しくも強い笑顔に見送られながら、カイリは初めて記憶を持って生まれてきた意味に疑問を持った。








 ――カイリとカーティスが出ていって、どれほどの時間が流れただろうか。



「うさぎ追いし、かの山」



 こぶな釣りし、かの川。



 カイリが歌っていた歌を、どれだけ繰り返しただろうか。

 ティアナは、本当にこの歌が好きだった。

 カイリが歌う歌は、暖かくて切なくて、けれど優しい歌が多かった。きっと彼の性質が反映されているのだろう。



 そんな風に優しい子供に育った彼を、誇りに思う。



 かたん、と外で物音がする。

 ランプに微かな火を灯し直し、椅子に座っていたティアナはゆっくりと立ち上がった。

 カーティスの予想は正しかった。ティアナもそうではないかと思ったから、二人を早々に行かせることに決めたのだ。


 カイリは、泣くだろうか。


 きっと泣くわね、とティアナは小さく笑う。

 息子は、小さい頃から泣き虫だった。

 滅多めったに表に出しては泣かなかったけれど、何かに一生懸命になって挫折した時、痛いところを突かれて傷付いた時、悪いことをして父に叱られた時、母が料理中に怪我をした時。



 誰かが、傷付いて泣いている時。息子は、その場にいる誰よりも心を痛めて泣いていた。



 きっと、トラウマになってしまうだろう。

 だが、それでも。


「……カイリには、幸せに生きて欲しいのよ」


 可愛い可愛い自分達の息子。

 普通に生きられないというのならば、せめて少しでも安全が保障される場所へ。

 そう願うのが、親なのだ。


「どちらさまですか?」


 扉から少し離れて、ティアナは立つ。

 外の気配は、一つ。恐らく女性だ。――カイリを傷付け、恐怖させた不届き者。


「こんばんは。こんな時間に申し訳ありません」

「そうですね。息子ももう眠ってしまっています。起こしたら可哀相なので、急ぎでなければ明日にしてもらえますか?」

「――いいえ」


 急激に尖った気配に、ティアナは大きく後方に跳躍する。

 同時に、扉が吹っ飛ばされる様に叩き破られた。がらん、と大きな破片が突き破る様に床に弾ける。



「早急に、息子さんをいただきたいんです。今、どちらに?」



 月明かりが不穏に鈍く差し込む中。

 妖艶な笑みを携えて、女性騎士が無遠慮に足を踏み入れてくる。乱暴に我が家を踏み荒らされたことに、怒りがふつふつと湧き上がってきた。

 外は静かな寝息が聞こえそうなほどに落ち着いている。普段、村の者達全員が眠りに就いている時間ならば、日付も変わり、それなりに夜も深いだろう。

 ティアナとしては、もう少し時間を稼ぎたかったが仕方がない。



「乱暴な方ね。……息子を渡すなんて、とんでもない」



 手近にあった椅子を、ティアナは適当に掴む。

 そのまま振り払い、凄絶せいぜつに微笑んだ。女性騎士の顔が一瞬醜く歪んだことに心がく。

 昔から、腕力だけは自信があった。小豆を一トン街から運ぶのも造作もない。


 ――これで、剣術の才能があれば完璧だったのだけれど。


 そこだけは残念だ。カイリの剣術の才能がかたよってしまったのは、自分のせいかもしれない。

 息子はこれから、どんな人生を歩むのだろうか。本当は、何事もなく平和に過ごして欲しかった。

 だが、もう叶わない。ティアナに出来るのは、息子がせめて笑って生きてくれることを祈るだけだ。

 ああ。


 だけど。


「息子は渡しません。どうぞ、お引き取りください」

「……子供が子供なら、親も親。……下民は下民らしく、大人しく言うことを聞いていればいいんだよっ!」


 本性をき出しにして、騎士がティアナの方へと猛突進してくる。

 ただの椅子はもろい。どこまで持つか分からない。

 ティアナに出来るのは、ただ息子の無事を、笑って生きてくれることを祈るだけ。

 けれど。



 ――もう少しだけ、あの子の成長を、見守っていたかった。



 出て行く時の、息子の泣きそうな顔が忘れられない。

 悪夢から覚めた時と同じ。昔から辛そうに顔を歪めるその姿に、いつだって自分達は胸を痛めていた。

 守りたかった。痛みが薄れればといつも願っていた。

 だが、今度は自分達が、そんな顔をさせてしまったのだ。守りたいと思ったそのせいで。


「……、母親失格ね」



 ――ごめんね、カイリ。



 それでも、どうか生きて欲しい。

 願いながら、祈りながら。息子の行き先に思いを馳せ、ティアナは振り下ろされた剣を、椅子を振りかぶって受け止めた。


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