第12話


 雲に隠れたおぼろげな月明かりだけを頼りに、カイリは父とひたすらに小道を歩いた。

 家を出る時から引かれていた手はつながれたまま、父は真っ直ぐに前を向いて歩き続けていた。

 カイリの方を振り返ろうとはしない。その背中はいつも通り大きかったが、何となく震えても見えた。


 二人の足音だけが、闇よりも濃い夜に包まれた道に響き渡る。


 もう、日をまたいだ頃だろうか。カイリは夜空を見上げながらおぼろげに思う。

 星も出ているし、決して明かりが無いわけではない。

 だが、その光さえも闇に喰われる様な危うさに満ちていた。見上げた星はちかちかと頼りなげに点滅しており、おびえて縮こまっている様にさえ見える。

 空気も清冽せいれつなまでに切れ味が鋭く、今にもまとわり付いた首筋をっ切りそうな物騒さを帯びている。

 一言も発しない状況も後押しして、カイリは繋がれた手を強く握っているはずなのに、今にもほどけそうな頼りなさを覚えた。


「父さん……」


 これは夜逃げだ。


 まだ振り返れば、村が小さくも景色に溶け込んでいる。

 寝静まった様に、とても落ち着いている。まだ両親が危惧したことは起きていないのだと知って安堵した。


「父さん」


 もう一度呼びかければ、今度こそ父は反応した。指先がぴくりと微かに動き、握り直してくる。

 ようやく振り返ってきた父は、あらゆる表情を削ぎ落としていた。父の背後にそびえる山々はこちらを押し潰す様な圧迫感があって、カイリはびくりと心ごと強張る。


「カイリ。急ぐんだ。時間があまりない」

「……、どれくらいで街に着くの?」

「ここからだと普通に歩いたら丸一日はかかる。……寝ている時間は無いが」


 暗に、すまない、と父が告げてくる。

 今まで見たことの無い様な恐い表情をしているのに、父の優しさは変わらない。本当は繋いだ手だっていつでも離せるのに、父はカイリの怯えを拾って強く握りしめてくれていた。

 理由も分からないまま逃げること。それは、カイリにとってはひどく不安で、先の見えない暗い口に、頭から突っ込む様な恐ろしさがあった。


 だが、己が原因だということも理解している。


 現に、あの教会騎士の――狂信者という偽者の狙いはカイリだった。もっと言うと、歌を歌えるカイリだ。

 落ち着いたら、きっと話してくれる。そう信じて、カイリはひたすら足を動かし続けた。

 ――が。


「……っ」


 急に父が足を止める。同時に、ぱっとカイリの手を離した。急激に手の平が冷えた空気にさらされ、安心をもたらす熱が一気に零れ落ちていく。


「父さん、どうし――」


 最後までカイリが続ける前に、がさりと前方から乱暴な物音が上がった。

 父がカイリを隠す様に動く。その動作だけで、物騒で嫌な空気を察した。


「っへへ。あいつらの言う通りだぜ」

「街につながる道、全部塞いだらヒットするってさー。おれたち、当たり引いちまったよ」


 粘つく様な声がカイリの耳にまとわり付く。

 思わず耳を手で払ったが、今度は知らない視線が絡む様にカイリを舐め回した。

 いつの間に、こんなに見知らぬ男共が群がっていたのだろうか。カイリと父の行く手を阻む様に、十数人ほどの荒くれ者が得物を担いで陣取っていた。


「……野党。……なるほど。最近この村を嗅ぎまわっていたのは、お前たちか」

「そーそー、ご名答めいとー。あのお偉いさん? に頼まれてさあ。歌える奴探せって」

「でも、一向に聞こえなかったから、次の作戦に行ったってわけ。いやあ、そいつかあ」

「もっと可愛いお嬢ちゃんが良かったぜ。そしたら、オタノシミもあったのに。……なあ?」


 絡み付く様な視線に、ねばついた物が混じった。無意識に震えた体を、カイリは懸命に叱咤しったする。

 一体彼らは何を言っているのだろうか。よく分からないが、あまり良い意味でないことだけは悟った。

 父が低い声でうなるのを、カイリはすがる様に見上げる。


「……、奥にもまだいるか。……現役から久しい俺じゃあ、そこまで効力は持たせられんな……」


 悔しそうに噛み締める父に、カイリはまたも疑問符が浮かぶ。

 現役とはどういう意味だろうか。効力とは、一体何の話だろう。

 今夜は疑問ばかりが津波の様に襲ってくる。それなのに、問うことも出来ないままだ。

 混乱で頭が凍り付きそうになっていると、父がわずかに振り返ってきた。

 何、とかすれた声で口の中に転がそうとした瞬間。



「――【隠せ】」

「――、え?」



 弾かれた様に見上げた途端、自分の周りの空気がさらりと溶ける様に変わるのをカイリは肌で感じた。

 瞬間、野盗の目が一斉にいたのも目に入り、周囲が飛び跳ねる様にざわつく。


「な、……き、消えたあっ!?」

「お、おい、貴様、何しやがった……っ!」

「騒ぐな。すぐ分かる」


 牽制けんせいする様に父が野盗を見渡す。

 だが、カイリはそれどころではない。今、父が口にした単語に、――発音に、雷が落ちるよりも強い衝撃が走った。


「今の、……っ、え? どうしてっ?」

「カイリ、村の方角へ逃げろ」

「え?」


 村から出るとあれだけ急いでいたのに、今度は逆に。

 だが、父は奥の方にもいるという言い方をしていた。野盗も言った通り、街に繋がる場所には幾人も自分達を待ち伏せしているのだろう。

 だから、村の方角へ逃げろと言うのか。


「でも、……父さんは?」

「いいか、村の中には入るな。恐らくお前をそこまで隠してはおけない。行けそうなら、村を避け、反対方向の山の奥深くへ行け。フランツなら、絶対お前を見つけられる」


 カイリの質問には答えず、父はまくし立てる様に指示を出していく。

 それだけで、嫌な予感が爆発的に膨れ上がる。

 嫌だ。


〝お誕生日おめでとう、カイリ〟


 それだけは。


「……カイリ」


 お願い。



「――誕生日、おめでとう」

「――――――――」



〝笑って、生きてね〟



「……愛している、カイリ」



 野盗と距離を取り、背中を向けたまま、父が笑う。

 顔なんて見なくたって分かる。何年も一緒に暮らしてきた。



「父さんの心は、いつでもお前と母さんと共にあるからな」

「……っ」



〝愛している、ティアナ。……俺の心はいつでも、お前とカイリと共に〟

〝愛しているわ、カーティス。……私の心はいつでも、あなたとカイリと共に〟



 母との別れ際、両親が交わしていた言葉。

 今更ながらにカイリは気付く。むしろ、何故気付けなかったのだろう。

 あれは。あの言葉は。



 ――今生の別れを意味する、最後の告白だったのだ。



「……、父、さん……っ」

「さあ行け、カイリ。父さんの決意、無駄にするなよっ!」



 ぶんっと、腰に差していた剣を勢い良く父が横にぐ。

 父は、この村では剣を振るわなかった。昔大怪我を負ってしまい、日常生活に支障はなくとも、剣は振るえなくなったのだと聞いた。


 そんな父が、剣を振って勇ましく仁王立ちしている。


 それが、何を意味するのか。

 カイリは知りながら、迷いながら。

 それでも。



〝無駄にするなよっ!〟



「――っ! 父さん、……俺も!」



 愛してる。



 叫んで、カイリは背を向ける。一目散に元来た道を走った。がむしゃらに走って、走って、走り続けた。

 今来た道を無茶苦茶に走りながら、カイリは涙を振り払う様に頭を振る。母と別れ、父とも別れ、理不尽に逃げ惑う己の状況に頭が破裂しそうだ。

 何故、こんなことになってしまったのだろう。

 何故、両親と別れなければならないのだろう。

 そもそも、何故。


「――っ、……え……」


 何故。



「……、村、が」



 何故、今。暮らしていた村から、激しく煙が上がっているのだろう。



「……嘘……」



 走り続けていた足がふらりとよろける。何もないところでつまずき、崩れ落ちる様に転んだ。思い切り手を地面に擦り付けてしまい、皮が破れたのか痛みがにじむ。

 だが、そんなことになど構っていられない。はあっと、荒く息を震わせながら、カイリは吸い込まれる様に村へと意識を奪われた。

 先程振り返った時には静かに眠りに落ちていた村が、今は真っ赤な光に包まれている。煙があちこちから空に上り、綺麗な夜空をくすぶる様に汚していた。

 もう村は目前だ。つんざく様な悲鳴が、微かに聞こえる。野盗に出会った時のあの下品な笑い声が、村の中でも耳障りなほど飛んでいた。


〝あいつらは、目的のためなら何でもする。人殺しも、拷問も、……口に出したくないあらゆる犯罪をな〟


 家を出る前の父の言葉がよみがえる。

 彼らが――あの偽物だという教会騎士が、もし本当に狂信者なのだとしたら。

 カイリを捕まえるために、あらゆる手段を講じるのだとしたら。

 もし、そうなのだとしたら。

 また。



〝――カイリッ!!〟



「――――」



 あの、真っ赤な惨劇が再び起こるのか。

 自分のせいで。

 自分が捕まらないせいで。



 自分が、逃げたせいで。



〝村の中には入るな〟


 父に厳しく言いつけられた。カイリは、逃げろと。逃げ続けろと。決して彼らに捕まってはいけないと。

 だが。


「……っ、俺、……」


 ふらりと立ち上がって、カイリは前に進む。その際、ずきりと右足首が痛んだが、構わずに村へと近付いた。

 逃げなければいけない。きっと、それが一番正しい。

 それでもカイリは、村に近付いた。一歩、一歩、出来るだけ早く、村に辿り着く様にと足を動かし続けた。

 何が正しいのか、自分はどうしたいのか。


 何より、――みんなはどうなったのか。


 正反対にせめぎ合う心に激しく揺さぶられながら、カイリは隠れる様に今や激しく燃え盛る村の中へと入っていった。


「……っ」


 村の中は、空気中を全ていぶった様な臭いで充満していた。


 舐める様に炎が村中の家を焼き尽くし、壁は無残に崩れ落ちていた。

 あれだけ瑞々しく咲き誇っていた草花は炭になって真っ黒に散らばって。大地は枯れ果て、木々は半ばで折れる様に倒れ。

 そして。



「――っ、う、ぐっ」



 その中で、ゴミの様に転がされた屍がカイリの目に映った。

 一番、見たくなかったもの。

 それが屍だとも、認識したくなかった。

 なのに。



「……、り、リック……」



 視界に入ったのは、村の中で一番幼かったリックの遺体だった。

 小柄だが元気に駆け回っていた彼の体は、あらゆる方向に捻じ曲がっていた。その隣では、彼の両親が体中に穴を開け、守る様に倒れ込んでいる。真っ赤な血飛沫があちこちに飛び跳ね、血だまりの中で沈んでいた。

 はっと口を押え、カイリは辛うじて壁の役割を果たしていた影に逃げ込む。

 かたかたと、寒くもないのに全身が震える。その度に、ざりっと足の裏が土をこすって止まらなかった。


 ――嫌だ。どうして。


 こんなこと、望んでなどいなかった。

 ただ、カイリは歌を歌っただけだ。ふと浮かんだ懐かしい童謡を、唱歌を、口遊くちずさんだだけだ。

 それなのに。


〝歌える奴探せって〟


 どうして――。


「おいおいおいおい! いねえじゃねえかよ!」


 苛立った声が、村を荒らす。がっと、何かを鈍く蹴り飛ばす音に、カイリの体も一緒に跳ねた。


「あんたらが言ったんじゃねえか! 歌える奴がこの村にいるってよ!」

「ええ、そうよ」

「じゃあ、何でいねえんだよ! 報酬はどうすんだ!」

「まあまあ、大丈夫よ。だから、この子を生かしてるんじゃない」


 知らない声と、聞き知った声。

 片方は、あの教会騎士と名乗った女性だとカイリが認識した途端。


「――だから! いないって言ってるじゃない!」

「――」


 声高に否定するその声に、カイリの思考が止まった。

 生きている人間がいる。

 それも。


「……ミー、ナ」


 掠れた声で、彼女の名を呼ぶ。

 自分の妻になるのだと、小さい頃から――それこそ物心ついた頃から言っていた。

 絵が上手で、少しませていて、けれど素直で可愛らしい、大切な友人だ。


「嘘言うんじゃねえよ! カイリって名前のガキがいるんだろっ! どいつもこいつも逃がしやがって……! この、ガキが!」

「はん! ガキはどっちよ! レディにこんな乱暴して……! カイリが歌えるかなんて知らないけど、カイリはここには戻って来ないわ!」

「んだとおっ!?」

「ふんっ! あんたたちなんかにはもったいない男なんだから! 弱いけど強いのよ! 優しくって、あったかくって、子供相手でも真摯に対応する、素敵な男性なんだからね!」


 ぷいっと外向そっぽを向く彼女が目に見える様だ。

 けれど、何故だろう。いつもよりも大人びた口調に思える。ラインの時も時折同じ現象が起きていたが、ミーナは初めてだ。

 父の先程の言葉といい、ミーナの口調といい、カイリは混乱してばかりだ。


「ふん、いっちょまえな口をくじゃあないか。そうとうカイリって子に惚れ込んでるようだねえ。あんな甘ったるいガキ、どこがいいんだか」

「あんたたちに分かんなくたって結構よ。私は、彼の妻になる女――だったんだからねっ」

「――」


 最後の自嘲気味のミーナの言葉に、カイリはどくりと心臓が跳ねる。収まっていたはずの震えが思い出した様に右手だけに現れた。

 何故、彼女は過去形で語るのだろう。どうして、現在形で語ってくれないのだろう。


〝誕生日、おめでとう〟


 ――やめてくれ。


 母みたいに。父みたいに。

 そんな風に、最後の別れみたいなことを言うのはやめてくれ。


「……そこまで言うんだったら、俺の相手でもしてくれよっ!」

「きゃあっ!」


 どっと、地面にもつれる音がする。

 隠れたままのカイリは、何が起こったのか分からない。ただ、ひどく乱暴な音と、びりっと何かが破れる嫌な物音に、体の底からざわつく様な気持ち悪さが走った。


「立派なレディなんだろ? おら! ガキだけど女なんだから、満足させろよっ!」

「ふっ、……っ! ……っ、し、らない、わ!」

「あー、やっぱちいせえなあ。もっと大人の嬢ちゃんだったら良かったのによ」

「……っ!」


 むごい仕打ちだ。

 ミーナが何をされているのか分かった途端、カイリの頭が瞬時に沸騰した。

 こんな目に遭わされているのを知って、何もせずに怯えて隠れていたら。

 例え、ここで生き残ったって。



 自分は、一生後悔する。



「……ミーナっ!!」



 己に全ての意識を向けさせる様に、カイリは声の限りに叫んだ。同時に、物陰から一気に飛び出した。

 ずきんと、右足が刺す様に痛んだが、ここで崩れ落ちるわけにはいかない。辺りを見渡して――血の気が引いた。



 そこに見えたのは、乱暴な男に組み敷かれているミーナの姿だった。



 衣服を引き裂かれ、綺麗な肌が露わになっている。殴られたのか、片方の頬も赤く腫れていた。

 こんな酷いことをされてまで、ミーナはカイリを守ろうとしたのか。自分の情けなさに、奥歯を噛み締めて耐えた。


「――カイリッ!」

「ミーナを離せ! 目的は俺なんだろうっ!」

「馬鹿! 何で出てきたのよ! カーティスさんに逃げろって言われなかったのっ!」

「ミーナが酷いことされてるのに、黙って見てろって言うのかっ! ふざけるなっ!!」


 怒鳴り返せば、ミーナがぐっと詰まった様に押し黙った。唇を噛み締めて必死に耐えているが、彼女の目尻からは涙が溢れている。

 どんなに虚勢を張っていたって、彼女は一人の女の子だ。

 どれだけ恐かっただろう。どんなに痛かっただろう。

 思って、カイリの胸が引き千切れそうなほど暴れた。


「あらあら、カイリ君。やっと出てきてくれたのねえ」

「ああ、出て来たぞ。俺が目的なんだったら、もうミーナは解放してくれっ。早く――」

「ああ、確かにもう、用はねえなあ」


 不意に、ミーナを押さえ付けていた男がぐいっと彼女の片腕を持ち上げた。

 そして。



「じゃ、お前は用済みだ」



 ――どっ、と。



 鈍い音と共に。

 カイリの目の前で、太い刃がミーナの体を貫いた。


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