第10話
教会騎士二人が訪れた夜は、とても賑やかだった。
全員でご馳走を用意し、村長宅で彼らをもてなす。
村の住人のエリックの知り合いということもあり、彼の両親は特に力を入れていた。もしかしたら、将来に
「……疲れた」
宴も最高潮と言った様子で、誰も他の目を気にしていない。カイリはこっそり村長の家から出てしまった。
吹き付けてくる夜風が涼しい。綺麗な空気が辺りに広がり、カイリは思わず天を仰いだ。
頭上には数えきれないほどの星が、鮮やかな濃紺の海に散らばっている。きらきらと煌めく様は今にも降り注いできそうなほど圧巻で、カイリは知らず頬が緩んだ。
「綺麗だなあ。悩むのが馬鹿らしくなってくる」
「あら。悩んでいるの? 青春ねえ」
「――――」
聞こえてきた声に、驚いてカイリは振り向く。
視線の先には、先程宴会の中心になっていた女性騎士が
全然気配を悟れなかった。そんなに注意力散漫だったのかと、己の
「寒いわよ。中へ入ったら?」
「えーと、……お気遣いなく」
もっと気の利いたことを言えないのかと落ち込みたくなったが、余計なことを話すわけにもいかない。
しかも、相手は全く動く気配が無かった。これはカイリの方が動かなければ、気まずいまま立ち尽くすパターンだ。
「えっと。俺、中に入りますね」
「待って、カイリ君」
名前を呼ばれた。
別に名乗った記憶はないが、村人の話の中に名前が混じったとしても不思議ではない。両親も自分の名前は呼んでいたし、何も
だが。
「……どうして、俺の名前を?」
「あら。聞いていなかったかしら?」
「はい。自己紹介をした覚えが無いので」
「うーん、確か話をしている時に、カイリ君のことが話題になったからかしら」
その内容を問い質したかったが、怪しんでいると気付かれるのも避けたい。
だから、そうですか、と軽く会釈をしただけで終わらせた。警戒し過ぎると、向こうの手の平で踊りそうだ。
「それで、俺に何かご用ですか?」
「ええ。昼間、この本のことを気にしていたでしょう。だから、どうかしらと思って」
「え?」
はい、と懐から一冊の本を取り出した。
それは紛れもなく、昼間テーブルに無造作に置かれた書物だ。教会騎士の身分を証明する大事なものらしい。
だが、そんな大切なものをほいほいと他者に見せて良いものだろうか。カイリとしては、
「確かに気にはなりますが、……そんな大切な身分証明書、乱暴に扱わない方が良いのでは?」
「あら。貴方は、乱暴に破るつもり?」
「そういう意味じゃ。……それに、俺が見てもよく分からなさそうだし。やめておきます」
「どうして?」
「どうしてって」
むしろ、何故彼女はカイリにこの書物を見せたがるのだろうか。裏があると告白している様なものだ。
それに改めて表紙を見ても、ほとんど文字が潰れていて読めない。辛うじて読めるのは、【き】と【ピ】である。これだけではさっぱりだ。
――中の文章も同じなのだろうか。
かなり興味はそそられたが、彼女の手中に飛び込むのは正直恐ろしかった。墓穴を掘るのは避けたい。
「あの。……そんなに、教会騎士にとって、その本は軽いものなんですか?」
「え?」
「普通、大事なものなら知らない人間に貸したりしないと思います。俺だったら、……恐ろしくて無理です。多分、普段も見せません」
「――」
気心の知れた相手ならともかく、会って間もない人間に貴重なものを手渡すなんて恐怖以外の何物でもない。
だからこその質問だったのだが、彼女の表情が一瞬変わった。何となく地雷を踏んだ様な気がして、思わず一歩引く。
「あ、あの。すみません。俺」
「……無知な子供と思っていたのに。なかなか面倒ね」
「え?」
「いいえ。何でも」
ぼそりと呟かれた言葉を聞き取れなかった。
だが、あまり歓迎出来そうな内容ではないはずだ。目の前で笑うその顔が、薄ら寒い空気を
「ねえ、カイリ君」
「――」
どっと、心臓を強く一突きされた。
「――っ、かっ、……」
思わず胸を押さえて、――
一突きされたと思った心臓のあたりは、何も変化は無かった。穴も開いていないし、血も流れていない。
だが、彼女から吹雪いてくる黒い気迫に、胸は激痛に苛まれた。
少し息をするだけで、体中が痺れる様に動けない。はっと、息を短く吐き出して、吐息を震わせながら目の前の女性を見上げた。
「私たち、【探し人】がいるのよ」
「――――」
言葉に、『何か』が混じった。
何、と問う余裕もなく、カイリは単語をオウム返しに繰り返す。
「……っ、さ、がし」
「……。そう。……昼間、言っていた人のことよ」
〝実は、この村から『歌』が聞こえてきたと、言っている人がおりまして〟
不意に、彼女の声が脳裏に木霊の様に響く。ぎいん、と耳障りな甲高い音が乱反射して、カイリは思わず
びりびりと、体中が痛い。雷に撃たれた様に動けなくて苦しい。殺意だと気付くには、カイリにはまだ経験値が足りなかった。
ただ、恐ろしい気迫を向けられている、ということだけは分かる。このままでは、頭から食われそうだと恐怖した。
――嫌だ。
カイリは後退ろうとしたが。
「探し人。そう。……、やっぱり、貴方かしら?」
「――っ、え?」
「ねえ、カイリ君。……【蛇】はお好き?」
「――っ!」
いつの間にか彼女が目の前にいる。
そのことに恐怖を覚える前に、するっと、首に巻き付く様に触れられた。
途端、ぞっとするほど黒い、蛇の様な感触が体の中にうねる様に入り込む。肌の裏を撫で回す様に
「っ、うあっ! 嫌だ……っ!」
「ああ、やっぱり。『抵抗』出来るなんて、……最高よ」
「何が、……っ!」
四肢が何かに巻き付かれる様に締め上げられ、カイリは声にならない悲鳴を上げる。
――嫌だ。恐い。助けて。誰かっ。
そっと首から肩を
「エリックさんに聞いたの。歌が歌えるって」
「……、ひっ、……っ!」
逃すまいと、彼女の手が腰を抱き寄せる。
撫でる端から、巻き付いて離れなくなる感覚が気持ち悪い。カイリが
そのまま、口付ける様に顔が近付いてくる。
「カイリ君、お願い」
「……っ!」
「私たちのために――」
嫌だ、とカイリが声も出ないまま拒絶していた矢先。
「――カーイーリーっ!!」
「――――」
どおん、と横から猛烈に突撃された。そのまま、カイリは抵抗も出来ずに地面に押し倒される。
ごん、と頭をしたたかに地面に打ち付け、カイリの目の前は夜空と同じく星が舞った。
「……、いった、……」
「カイリ、急にいなくなるんだもんなー。あそべー!」
「ら、ライン……?」
突撃してきた犯人を認識し、カイリはどうしようもなくホッとした。がくっと、一度震えた足を誤魔化す様に動かし、身を起こす。
「べ、別に良いぞ。……うん、遊ぶかっ!」
「お。めずらしくすなおだなー! いっつも、つかれたーとか言うのに!」
「あ、はは。そうだっけな」
何でも良い。今は一刻も早くこの女性から離れたかった。
震えそうになる手を力を込めて見下ろせば、そこには何も巻き付いてなどいなかった。
幻だったのだろうか。
だが。
「あらあら。楽しいお
「むー。ぶすいなのは、そっちだろー! カイリは、おれたちのおにーさんなんだからな!」
膨れながら、ラインがぎゅっとカイリに抱き付いてくる。
その力が強すぎて苦しかったが、先程の嫌な感触が消されて、妙に安堵してしまった。不意に目の奥が熱くなって、慌てて唇を噛んで堪える。
「まあ、いいわ。……じゃあね、カイリ君。また明日」
「……、え」
あっさりと引き下がった彼女に、カイリは肩透かしを食らう。
やはり、さっきまでの言動は自分を試していたのか。本当に幻だったのか。そう思い始めた矢先。
「良い返事、待っているわ。……だって」
【どうせ貴方の言うことなんて、みんな信じないもの】
「――――――――」
はっきりと、目を見開いてしまった。
すぐに我に返ったが、既に彼女の目的は果たされてしまったことを知る。
現に、彼女はしめたとばかりに目を細めていた。ふふふ、と楽しそうに、いやらしく口元に手を当てて微笑んでいる。
――馬鹿だ。
「……、カイリ?」
少しふらつきながら立ち去る彼女と自分を交互に見つめながら、ラインが気遣わしげに見つめてくるが、それどころではない。
今の、言葉。
それに、彼女と交わした言葉の中に混じった、『何か』。
それは。
日本語だ。
彼女は、確かに日本語を使ったのだ。
書物の文字と同じ。彼女は、――教会騎士は、日本語を扱えるのか。
きっと、彼女は何かをもって確信した。歌を歌えるのはカイリだと。
その判断は、日本語なのか。分からないが、確実にもう狙われた。
「……、バレた」
「……」
どうしよう、とカイリは口元を押さえる。吐き気を
ラインが神妙な顔で見上げてくるのが、やけに恐ろしい。先程の感触をまた思い出して、みっともなく体が大きく震えた。
村の外の者に、カイリのことが露見した。
それはきっと、村長や他の者達にとって良くないことだ。
それに、どう説明すれば良い。今受けた感覚には証拠が無い。日本語のことだって、どんな風に話せば信じてもらえるのか。
八方塞がりだ。手立てが全然思いつかない。
「……、あんなに、勉強してたのに……っ」
前世の知識が何も役に立たない。こんな時の対処法を、全然思いつけなかった。
本当に自分は愚かだ。勉強ばかりで、他の分野の知識を身に着けようともしなかった。もう少し視野を広げていれば、柔軟に対応出来ただろうに。
――自分は。
「……カイリ」
「……っ」
ぐっと、肩を掴まれる。
強い力に、カイリは思わずラインを見下ろした。
だが、何故だろうか。
カイリの方が、ラインを見上げている様な錯覚に陥った。
「今のこと、ちゃんとご両親に相談しろ」
「――、え?」
しっかりした口調で諭された。
どうして、と思うよりも、カイリはラインがひどく大人びていることに目を奪われる。
時折見せる彼の顔。いつも疑問だった。
そんな疑問が今、はっきりと目の前で形となって現れる。
「……、ライン?」
「ご両親は、絶対信じてくれるさ。カイリ、お前は信じられないか?」
「……、それは」
笑い飛ばすことはしないかもしれない。彼らなら、――いつだって大きすぎるほどの愛情を注いでくれた彼らなら、信じてくれるかもしれない。
そう思ったら、少しずつ震えが冷める様に落ち付いていった。代わりに、いつの間にか冷え切っていた手足が熱をじわりと持ち始める。
「それに、俺たちだって信じる。お前のこと、信じてる」
「……」
「いいか、カイリ。俺がご両親を外に出す。ミーナも多分協力してくれる。村の奴らもな」
「え? ミーナ? 村?」
どうしてここでミーナの名前が出てくるのだろうか。しかも、村もとはどういうことか。
不思議に思うも、ラインは口を挟ませてはくれない。ぐっと更に肩を掴む手に力を込めて、真正面から目を見据えてきた。
「そうだ。……あいつらの気は、俺たちが全員で引く。だから」
一度目を伏せて、ラインは意を決した様に顔を上げる。
「だから、……信じろ、俺たちを」
「――――――――」
真っ直ぐに告げられて、カイリはぐっと喉に力を入れた。
自分の方が大人なのに、何故いつも自分の方が子供になってしまうのだろう。恥ずかしくて泣きたくなる。
信じる。
それは、カイリの中で一番難しい行動だ。
前世で生きた十八年間、ずっと。
――ずっと、人が信じられなかったから。
〝あいつ、付き合い悪すぎだよな。話しかけても愛想無いし〟
〝そうそう。いっつも勉強して先生にもご機嫌ばっかり取ってさ。べんきょーとお友達ってやつ? 笑えるー〟
〝持ってる物もこれ見よがしにいいもんばっかりで見せびらかすし。感じ悪い〟
〝医者と裁判官の子供だからな。ねだればすぐにもらえんだよ。あー、いいねー、金持ちは。何かあってもすぐ泣き付けて〟
周りを取り巻くのは
最初は、話しかけられたら普通に返していた。
必要以上の
必要な時にこそ、金を、手間を惜しむな。
それが口癖だった両親は、地位に、権力に、財力に頼るだけの方法を嫌った。確かに両親のおかげで不自由をしたことは無かったが、それを一度も自慢したことは無かった。
だが、そんなことが世間に分かるわけがない。
孤立するキッカケは、恐らく小学校でクラスのボス的な存在が、カイリを仲間外れにしたことから始まった。
〝ねえねえ、聞いて。あいつ、この前ユウタくんのこと、べんきょうもできないくせにいばりちらす嫌なやつって言ってたよ〟
〝見た? さっき、泣いてるエミちゃんのこと、笑ってたよ〟
〝さっきドッジボールした時、わざとトモキにぶつけてたし。ひどいよねー〟
やってもいないことを本当の様に語られ、気付けばいつの間にか孤立していた。
否定をさせてはもらえなかった。気付けば、集団で責められる様になったからだ。もうカイリの言葉など届かなかった。
初めての時は傷付いたが、すぐに人などそんなものかと諦めた。
余計に勉強に打ち込んだのも、この頃からだった気がする。彼らに気を揉まなくて良い様にする手段だった。
中学も、高校も、環境は変わらなくて。ただ、その頃にはもう、カイリは彼らの相手をしなくても平気になっていたし、適当にあしらえる様にもなっていた。
――ああ。
だけど。
〝カイリー! おはよう! 今日もむっすりしてるね! 笑って笑って!〟
――それでも、話しかけてくれる人はいたな。
彼が死んでから気付くなんて遅すぎたけれど。
カイリがもう少し前を向けば、何かが変わっただろうか。
人を信じることを諦めなければ、前の人生でももう少し何とかなったのだろうか。
〝なるほど! 照れているなんて……可愛い子供よ……! むぎゅー!〟
〝どんなことがあっても、どんな運命が待ち受けていても、あなたは私たちの大切な子供で、自慢の息子。何かあれば、すぐに駆け付けるからね〟
〝そんなことないよー。カイリおにいちゃん、そのまんまだよ!〟
〝わ、わわわわわかったわ! カイリのよきつまになるために、わたし、がんばる!〟
〝それに、俺たちだって信じる。お前のこと、信じてる〟
自分を育ててくれた人達。共に過ごしてくれた友人。
信じるのは、本当は恐い。
けれど、それはこの真っ直ぐで優しい視線に無礼だとカイリは思った。
「……、うん」
一度だけ俯いて、すぐに前を向く。ラインから目を逸らさずに、カイリはひたすら顔を上げ続けた。
「分かった」
「……」
「話して、みる」
教会騎士の女性にされたこと、言われたこと。
あの書物と同じ言葉を話されたこと。
信じてもらえるかどうかは分からない。思いながらも、彼らなら頭から否定や拒絶をしないと信じることも出来た。
「ありがとう、ライン」
「……、おう! おれは、カイリのおししょーさまだからな!」
にかっと歯を光らせて笑うラインは、もういつも通りだった。
けれど、彼はカイリにとってどんな大人よりも大人に見えて、また尊敬の念を抱いた。
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