2-69 PM21:45/奇跡の海、風に還る戦士 その②

「求めれば、必ず手に入ります。しかし、必ず大切な何かを失います」

 眼下では、長大な数十本の赤黒い触手がうねり倒している。打擲の衝撃で大量の砂塵が舞い上がる光景を、ニコラは感情の読めない瞳で見つめ続けている。

「奇跡は業であるからこそ欲深いもの。私の願いを叶えてくださった時点で、エヴァさん、貴方がなにかを喪うことは決定づけられていた。なかなか、言い出せる機会がありませんでしたが」

 灯台最上階の手すりに腰かけ、砂塵の中で赤黒紫の閃光が明滅するリズムに合わせるように、ぷらぷらと足を動かす。

「でも、もしかしたら貴方は違うかもしれない。なぜだかそう感じる。貴方が鬼血人ヴァンパイアだから? わからないけど、ただひとつ言えるのは、あなたは私に全てをさらけ出した。仮面を自ら剥ぎ、醜い心を差し出すことを怖れなかった。だから、もし貴方が願いを叶えることができたら、私の在り方も変わるかもしれない」

 言い終えてから、ニコラはふと空を見上げた。瞬く星々に過去を見た。自分という軸を中心に、熱狂のままに回転して壊れていった、数えきれない無垢な歯車イノセンス・ギアたちのことを。





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 もっと鋭さを増さなければならない--自身にそう言い聞かせながら、エヴァは縦横無尽に襲いかかる触手を《真心の手》を宿した両手で捌き続けていた。触手のどの部位であろうが、触れたが最後、強制的に消滅させる血騰呪術アスペルギルム鬼血人ヴァンパイアにとっては輝灼弾並みに驚異的と言っても良い力だったが、人体のたった二ヶ所のみを発動起点にしているという大前提がある以上、物量と数に物を言わせたベルハザードの決死の猛攻を凌ぐのは容易ではなかった。むしろ、新たな力に溺れて実力を過信する危険性のほうが高かった。

 だからこそ、エヴァは焦慮に意識が向かわぬよう、戦いのなかで己の精神を律するように努めた。そうすると、自然と体が動くのだった。あるべき角度に膝を曲げ、あるべき勢いで腰を捻り、あるべき方向へ指をかざすことができていた。

 トップバレリーナよりも軽やかに、プロのアスリートよりも躍動に満ちた筋肉の収縮。これほどまで精度の高い動きが出来た試しなど、エヴァの人生において一度もなかった。内心で自分に対する驚きはあったが、しかし、自分ひとりで獲得した動きではないことは、十分に承知している。

 母の後押しがあるお陰だ。だからこそ、この力に目覚めた。古代の拳法家のように、動きに宿る素早さとキレが微増していくたびに、より強くそれを意識した。いままでの、時間に追われて安定性を欠いた力とは、全く質が異なっている。その証拠に、。自らの力が血ではなく魂に由来したものと理解したからだ。それを知らずにいたから、これまでずっといたずらに血を補給していた。自分の体にとって、不必要な養分を長年に渡って啜っていたのだ。

 不必要--濃密な殺意の渦に巻き込まれながらも、そのワードが脳裏にひっかかった。あらゆる状況において、とくに命のやり取りが懸かっている場では、状況を好転させるのに必要な要素と、そうでない要素とを見極めることが肝要だった。《緋色の十字軍クリムゾン・バタリアン》の狩人たちは、その要素を嗅ぎ分け、区別し、を即座に理解していたからこそ、集団戦において驚異的であったのだとエヴァは考えた。そこまで超速の思考を駆け巡らせた時、不意に、芋づる式に引っ張り出された言葉を意識した。

役割ロール』--それこそが戦況を揺るがす重要なキーワードであると悟ったと同時、目の前で猛威を奮っていた触手たちの先端部が、たちどころにぐにゃりと変化を遂げた。刀剣、槍、大鎚、戦斧、銛……より殺戮に特化した形をとり、一般的な操法とは大きく異なる軌道を描いた。鞭を振るうように刀剣の雨を降らせ、足首を狙った低空軌道で槍と銛を突き出し、両脇から挟み込むように大鎚と戦斧を横に薙いだ。たまらずエヴァの動きが加速を増した。バックステップと同時に両腕を大きく開き、左右から振り子のような勢いで迫る大鎚と戦斧に触れて消す。続いて、変幻自在の動きで眼前に迫る刀剣群のただ中へ潜り込み、体を入れ換えながらひとつひとつを確実に潰していく。目線は前を向きつつも、太股をリズミカルに上げて槍と銛の一撃を避けるのも忘れない。

 だが、武装触手に意識をすみずみにまで行き渡らせているベルハザードの手管が、エヴァのリズムを狂わせた。低空からの連続刺突に巧妙なフェイントを混ぜながらの一撃が、ついにエヴァの右足首を貫通。痛みはなくとも動きは鈍り、その隙を逃さないとばかりに二本の触手剣のうち一本が左肩に深く食い込み、もう一本が右脇腹を抉り抜き、鞭のように振るった一太刀が、作業服ごとエヴァの上半身を袈裟斬りに斬りつけた。

 大量の血で上半身と足元の砂を濡らしながら、しかしこれまでのように血騰呪術アスペルギルムの維持に支障が生じるからと慌てることなく、冷静にこちらを見据えるエヴァの気迫に、攻撃を与えた側のベルハザードが戸惑いを見せた。本当に、あのエヴァなのかと疑いかけるほどには、いまの彼女は大きな成長を遂げようとしていた。

 流れる血をそのままに、武装触手に貫かれながら、それでもエヴァの脳裏に依然としてあるのは、やはり『役割ロール』というワードだった。そこに込められている意味を深く噛み砕いて理解することに、全神経を集中させていた。失くした力を再び取り戻せたという『結果』に対する感謝ではなく、『力そのもの』に対する感謝をより強く意識することで、そのワードが放つ輝きはますます脳裏で強くなった。

 力とは、すなわちこの血潮流れる肉体そのものだった。母が与えてくれたこの肉体を、いかにして駆使するべきか。それを実行することが、己の魂がいまやるべき『役割ロール』であった。血騰呪術アスペルギルムの手綱は、自身の魂と同化を果たした母に任せる。肉体は、母の真心をベルハザードに届けるための意志持つ器に過ぎないと見定める。さながら、パイロットがヘリコプターを操縦するがごとく、魂の座に自我を座らせ、肉体を操縦するのだ--思いがけず多層的な視点を得たことで、エヴァの運動はさらなる滑らかさを手にした。

 上空から棘鉄球メイスに酷似した形状を取った十本の触手が勢い良く降り注いできても、なにも恐れる必要はなかった。時とも呼べない時流の最中、左手が肩に食い込んだ触手剣に触れ、右手が脇腹に突き刺さったもう一本の触手剣に触れ、姿勢を低くして右足首を貫通した触手槍に右手で触れた。魂による肉体の操縦がもたらしたその脱出動作は、高速という表現では足りないほどの神速ぶりだった。そのせいで、触手消滅に伴う三つの閃光爆破がほとんど同時に観測された。莫大な邪光の奔流が二人の視界を覆い尽くしたが、それでもベルハザードは目を見開いたままで、攻撃地点の目算を誤ることはなかった。

 十本の触手棘鉄球メイスが砂浜へ激突。砂塵のヴェールが辺りを包み込む。

 一発でもクリーンヒットすれば、脳天をかち割れた。だが、棘鉄球メイスはエヴァの頬に掠り傷をつけこそすれ、足を止めるまでには至らなかった。小さく舌打ちを鳴らすベルハザードをよそに、エヴァは傷口を再生して右足を支柱のように砂浜へ埋没させると、、舞を披露するかのような円運動の滑らかさで以て、砂塵のヴェールを晴らし、指先を確実に触手を這わせ、次々に消滅閃光を生じさせていった。

 苛烈な攻撃の連続。それでも一向に攻めきれない展開に対してベルハザードが業を煮やしていないことは、飛び込んでくる触手群の獰猛ながらも理性的な鋭さが証明していた。嵐のような怒涛の責め手であるには違いないが、その全てが狂気に染まっているわけではない。確実に命を狙ってくる触手と、回避地点を先回りして潰す触手と、フェイントを担う触手とがある。その三つを巧みに織り混ぜていた。それぞれの触手の軌道の差違を完璧に理解し、完璧に把握することが、エヴァが次に克服すべき課題だった。なんとなくの把握では駄目だ。それでは今の状況を維持するので精一杯。いずれ追い込まれて、呑まれるだけだ。

!? !?』

 自ら呪いを被った悲愴なる魂が放つ苦悶の叫びが、何度も何度も脳裏で反響する。強敵ともに味あわせてしまった絶望の質感を、決して忘れてはならないと己に言い聞かせると共に、今度また同じ絶望を彼に与えてはならないと固く誓う。

 太母様の心が、忠臣のベルハザードに届かないはずがない。全ては己の力不足のせいだと、エヴァは胸中で歯噛みした。

 もっと鋭く、深く、広く、強く、それでいて穏やかに、自らの肉体を操縦する必要があった。ただ単に相手を斃せば解決する話ではないからだ。。少なくとも、エヴァはそう定義していた。

 相手を傷つけるためではなく、伝えるために必要な行動--そこで求められるのは、弾丸のような一点突破の力ではない。そんなものでは、この巧みな触手操法を前に軽く防がれてしまうだろう。必要なのは直線的な単純運動ではなく、もっと複雑な、環境を意識した三次元的な動きだった。目の前でうねり続ける何十本もの赤黒い殺意を諌め、強敵の核心部分に自らを放り投げられる、その為の発射台となるような動きを習得しなければならない。残り少ない時間の中で。

 息が詰まりそうだった。そんな動きを獲得するのに必要な最後のピースがなんであるか。とっくに気がついていながら、あと一歩、実行するだけの勇気が湧いてこない。取り戻した力の真価に対する疑念がそうさせたのではなく、むしろ、数時間前に中途半端に目撃してしまっていたからこそ抱く、一方的な憧憬からくる得体の知れない恐れのせいだった。

 デフォルト・モード・ネットワーク--あれだけの技術を、この土壇場で、そう都合良く獲得できるのだろうか。強敵の十八番とも言える闘法を、ものに出来るのだろうか。

 猛然と砂を飛び散らせながら迫る触手の嵐にどうにか対処しながら、様子を伺うようにベルハザードの表情を見る。この闘いを、自らの人生における最期にして最高のステージに仕上げることに取り憑かれた男の右目が、徐々に底冷えするかのように赤味を失っていく様を目撃してしまった瞬間、エヴァの胸中で何かが弾けた。

 時間がない--わずかに焦慮が生じた。

 反射的に駆け出そうと前傾姿勢を取ったところで、しかし、もうひとつの声が脳裏を過った。焦りに侵される寸前の理性が本能に訴えかけるアラームだった。それを意識した時にはすでに、エヴァはうつ伏せになる格好で砂浜に倒れ込んだ後だった。

 腰から下の感覚がないことに驚く。完全に切断されていると気づいたところで、斬られた、という実感が遅れてやってきた。責めの役割ロールを担った触手にまぎれて、ギロチンめいた片刃状の触手が、音も立てずに背後から飛来し、エヴァの胴体部を一閃したのだ。

 激しく飛び散る臓物があたりの砂浜や触手にへばりつき、シャワーのように吹き出る血が虚空に描く怪奇的アートには目もくれず、ベルハザードの責めは尚も続いた。今度は砂浜に潜り込ませた五本の触手を即座に束ね合わせてエヴァのすぐ真下で絨毯化させた上で、瞬く間に剣山状へと変化させた。下半身の再生に意識が及んでいる間の強襲だった。赤黒い砂を弾かせて何本もの太い棘が、さながら杭打ち機から発射されたパイルのようにエヴァの肉体の至るところを貫き、蕾が花開くかのごとく剣山の先端部が六方向に開いた。の形成。これで手の届く範囲の上半身はともかく、下半身の身動きは封じられたと言って良かった。

「両手だけでは消せる範囲に限界がある。それはエヴァ、お前の限界でもあるのだ」

 赤光を放つ天網の向こうで、血が溢れ出ないように連続的回収を続けるエヴァを見下ろし、同胞の姿をした殺意の装置が粛然と言い放つ。宿敵を絶対絶命の淵へ追い込んだというのに、その表情は寸分も変わらずにいる。数手先のチェックメイトが見えていても、優越感や高揚感を露骨に態度に出さない。いや、エヴァを殺すと覚悟を決めた時点で、初めからそんな雑念など持ち合わせていなかったのだろう。それこそ、肉体と精神をことの顕れだった。

 歯噛みしつつも、エヴァはまだ戦いを諦めていなかった。自分がここで諦めたら、誰が太母の心を彼に届けるというのだ。その一心で、大脳の襞が汗を掻く勢いで、頭を働かせた。

 操縦と制御の違いはなにか? そのことに思考が及びかけるが、すぐに修正をかけた。本質へ駆け上がる階段はそこにはなかった。

 重要なのは、相手の力のルーツを探り、そこから僅かなピースだろうと拾い上げ、その形の意味を知ることだった。

 ピースのひとつはすでに己の中にあった。太母だ。かの絶対的存在へ向ける敬愛が、ベルハザードを勝利者へと突き動かす何よりの原動力となっている。主観の違いに差はあれど、それはエヴァも同じだった。太母という括りの中で見れば、自分と強敵ともは、ひとつの共通認識で繋がれた命そのものだった。緊密な関係性で結ばれた、個にして群れ。何億年という昔から星座の形が変わらないように、を中心に惑星が運動するように。--

 心臓が、どくんと高鳴った。体の中心を、稲妻のような煌めきが走り抜けた。

 --いま、なにかが繋がりかけた気がする。

 気付きに手を伸ばしかけたエヴァをよそに、ベルハザードが、終曲の始まりを告げる指揮者コンダクターさながらに、空いたままの左手を掲げた。その動作に連動するかたちで、現在展開されている七十九本の触手のうち六十八本が、エヴァのはるか頭上で巨大な何かを編み上げるように、先端部から互い互いに複雑な軌道を描いて物々しく絡み合い、結びつき、やがて頭部が異様なほどに大きい、巨大な龍の姿を象った。シンプルな触手の複合体には一見して思えない、精巧なつくりの、有機的にして沈黙する龍の顎だった。相互理解の為の言葉を持たない、冷徹な殺しの魔技だ。

 巨大な力が頭上でとぐろを巻いている気配は、うつ伏せのままとはいえ、それとなくエヴァも感じ取っていた。それが龍であるとは視認出来ずとも、ベルハザードがチェックメイト寸前の一手を仕掛けてくる予兆を感じ取り、だがそれ以上気に止めることはなかった。不思議と、そんなことに構っている場合ではないとさえ思えた。鬼血人ヴァンパイアの再生能力を以てしても心許ない一撃の到来が間近に迫っているにも関わらず、エヴァは時間が静止したかのように、じっと己の右肩を貫く触手剣山の一部分を凝視し付けていた。

 不思議な感覚だった。かつてこれほど間近で、真剣に、純粋に、ベルハザードの血騰能力アスペルギルムの姿形を凝視したことはなかった。右肩を貫いた触手剣山は、いかにも硬質そうな輝きを放つ力の象徴でありながら、よくよく注意して観察して見ると、生き物のように僅かな収縮を繰り返している。さながら呼吸でもするかのように……それこそ、最後の課題を克服するのに重要な要素だった。

 触手龍が赤黒い牙を剥き出しに咆哮し、莫大な音圧があたりを震わせた。その衝撃に全身を貫かれそうになりながらも、どうにか踏みとどまり、深く深く思考の海に魂を沈ませていく。極限下の集中--次第にに発汗作用が活発化していった。身体の奥深くに熱を感じれば感じるほどに、『これだ』という確信を深める。刹那を越えて六徳の境目に至り、目の前で収縮する力のルーツを掴まんとする。

 ……日向を歩く者デイライト・ウォーカーとして太母の胎内から産み落とされた自分には、まるで関係のない話だと決めつけていたベルハザードの血騰能力アスペルギルム。だがそれは、惑星を見守る一族の中心軸として生きた太母が遺した力の片鱗そのものであり、それは今、他でもないベルハザードの手によって遥かに高度な領域まで練り上げられている。自己認識の革新がもたらしたそれが意味するのは、全ては緊密な関係性で互いに結ばれ、宇宙の軌道に従い、円環の流れの中で息づいているという、厳粛な真理の実体証明そのものだった。強敵ともの力のルーツは、己自身の深層と緊密な繋がりを持っているということだ。

 そんな偶然があるのか。思いがけず得た気付きに驚き、思わず失笑を浮かべそうになる。だが、真理に違いはなかった。すなわち、太母という名のピースは、一にして全であるということだ。目的という名のパズルを組み上げることが重要なのではなく、むしろ目的がはっきりしているからこそ、組み上げる過程で決定的に欠けているピースの形や質感や重さの解像度が高まっていく。円環の流れにおいて、因果律に固執してはならない。結果から逆算する形で、目の前にぶら下がる一にして全てのピースを完全に掌握したその時、右肩を貫いている触手剣山の収縮が、

 まさか、この期に及んでベルハザードが躊躇したのか。半ば本気でそう思ったのも束の間、今度はすぐそばで誰かの息づかいが聞こえた。その場の状況からして、息づかいの主は一人しかいなかった。鼓膜を揺らすのは秋の冷たいささやきなんかではなく、エヴァ本人の呼吸音だった。胸で吸い込んだ冷たい空気が、肺を巡って仄かに暖まり、気管を通り、薄く開かれた唇から漏れ出でる、その一連の音の。それは命の波長そのものに他ならず、また同時にベルハザードの血騰呪術アスペルギルムが発する呼吸そのものに他ならない。

 。相対的な流れの中で近似することはあっても、だが限りなく平行線を辿るだけだった互いのリズムが、彼女の目線からは完全な合一を果たした直後、ベルハザードが掲げていた左手を振り下ろした。

 寸毫と待たぬ勢いで、大気を押し潰すかのような轟音を引き連れ、触手龍がエヴァ目掛けてダイブした。全てを灰塵に帰すかのような力の爆撃が炸裂し、血を吸った砂という砂が潰れ、赤黒い噴煙が立ち上った。辺りに衝撃波が吹き荒れ、弾かれた無数の砂粒が灯台の外壁を鋭く叩き、フェンスがギシギシと大きく揺れ、遠く離れた管理小屋の窓ガラスが粉微塵に飛散した。

 しかしながら、もうもうと立ち込める霧のような砂塵のヴェールの奥で、月明かりに照らされた影がゆらりと揺れ動いたのを、光の枯渇しつつある右目の端で捉えざるを得なくなった瞬間、ベルハザードがうっと声を上げた。自らが、文字通り命を懸けて奏でた怒りの終曲は、決闘舞台の幕切れを飾ったのではなく、新たな序曲の始まりを告げるきっかけでしかないと悟った。その序曲の最初の音階とは、他でもない。砂塵のヴェールを突き破って勢いよく宙へ踊り出たエヴァが、砂浜に頭から突っ込んだ触手龍の背鰭部分へ足をつけた際の着地音だった。羽毛のように軽やかで、しかし神話の彫像のような力強さを感じさせる音が、爪痕一色の戦場を清めるかのごとく響く。もはやボロ雑巾も同然の作業服を身に纒い、身体のあちこちに細かい擦り傷を作りながら、その目から光は失われていない。むしろ、春の木洩れ日のような穏やかさえ感じる。

 睥睨の眼差しを向けながら、堪らずベルハザードが不甲斐ない結果を揉み消すかのごとく、左手を強く握り混んだ。途端、あれほど複雑に稠密していた触手龍が、いとも簡単にほどけた。足場が崩れたことでそっけなく宙へ放り出されたエヴァだったが、一気に三十メートルばかしの高さから落下していくなかで、彼女は冷静に自分のいる場所を感覚していた。それは数理的な位置ではなく、もっと大局観的な点であり、線だった。ほどけた六十八本の触手。そのただ中に自らの運動を馴染ませ、あたかも同一の現象と化していくのだ。そうすることで、力の渦そのものになり、力の渦そのものを理解するに至る。止まり木から小鳥が飛び立った後の枝の揺れ動きのように。空に浮かぶ雲が風に流れて千切れながらも抽象的な造形を象るように。

言葉がひとりでに文字へ還元されて意味を喪失するように……恐ろしいほどに精密で、だが一切の作為的な雑念を排した流れに身を投じていく。すると、位置に、触手が顕れた。すぐ足元だ。

 偶然という名の必然を呼び寄せた。ついに発射台を得た。

 宙で身体を軽やかに捻り、パズルのピースをしっかりと嵌める滑らかさそのもので、足元の触手に爪先を引っ掛け、踏み抜き、さらに空高く、見えない翼でも得たかのように跳躍を決め、月光を背に鋭く飛び込む。その異様な輝きを放つかつての友の姿に、今度こそベルハザードは小さく口を開いて戦慄した。それでも攻撃の意志は途切れなかった。力の発現と維持に血を使いすぎ、次第に手足が痩せていく。そんな自分の不甲斐なさを心底許せないのか。怒りと憎しみをますます滾らせるように、血が滲むほどに唇を噛み締める。仰角を描いて空中から飛び込んでくるエヴァへ向けて、連結する数多の正六面体が激しく煌めき、幾条もの触手の嵐を浴びせていく。

 そのひとつひとつの呼吸を、緊密な関係性の中で、互いを繋げる円環の流れの中でエヴァは完璧に理解し、知らず知らずのうちに肉体は操縦の域を越え、制御の段階へ到達していた。わざわざ触手の呼吸を知覚する必要はなく、呼吸のリズムをカウントするまでもなかった。どの触手が攻撃の役割ロールを担い、どれがフェイントの役割ロールを担っているか、今度こそ完璧に掴んでいた。

 はからずとも、数時間前の状況の疑似再現になった。ギュスターヴ邸近くの林の中で、狩人二人を見事に相手取ったベルハザードの勇姿を、エヴァは思い出していた。あの時の彼は、意欲漲るままに、飛来する多くの丸太を手玉に取っていった。そして今は己こそが、牙を剥ける触手という触手を慈愛の手で宥めながら、強敵の核心部分へと迫っている。

 似ているのは状況のみで、本質は全く異なっていた。なによりも鋭く、滑らかで、力強く、広く、そして奇跡の海のように穏やかなエヴァの立ち回りがそれを物語っている。それは、血管と神経のワイヤリングという、個人の肉体内で完結する原理を根拠を持つベルハザードのデフォルト・モード・ネットワークでは、決して辿り着けない境地でもあった。力に対するそもそもの捉え方が、前提条件が、両者では大きく違っていた。

 乱獲士として前線で活動してきたベルハザードにとっての力とは、自己という単体による制圧の象徴だ。個人の生存力を練り上げ、ぶつかり合う力の奔流を感覚し、敵の呼吸を掴むことで、戦況そのものを制圧するのがベルハザード版のデフォルト・モード・ネットワークの要諦である。

 それに対して、今のエヴァが認識する力の定義は、ベルハザードとはまるで正反対だった。それは極めて奇妙なことに--少なくともベルハザードにはそう映るはずだ--相互理解へ至るためのツールであった。戦況という名の世界で、対峙する相手と己の目に映るもの。主観同士の錯誤を受け入れるのでもなく、諦めるのでもなく、叩き潰すのでもなかった。で結ばれた以上、そこには必ず関係性があり、徒手や技といった言語があり、やはり流れとしか言えない必然的な偶然で満ちていた。その数理的な常識の範疇に収まらない生臭さのある空間から、自分と相手の相互理解--。ただ、上へ辿り着くという漠然とした目的意識を持ち、ただの敵としてしか見定めていなかったサイボーグや狩人たちと死線の潜りあいをしていた頃には、気づくことさえなかった、。相手と自らのバックボーンを円環の中で結び付けているのだから、どれだけベルハザードが理性的で獰猛に仕掛けてこようと関係なかった。縦横無尽、前後左右から飛び込んでくる触手が、丹念にエヴァの呼吸を捉えて制圧に力を注ごうとも、そんな触手の呼吸すらも、エヴァは己の一部として認識しているのだ。自身の手が勝手に自身の首を絞めることがないように、必然、掠りなどするはずもない。間一髪のところで、だが歴然とした力量差を感じさせる回避を宙で繰り返し、斜め下に陣取るベルハザードへ向かって、まるで飛び石が川の水面を切り跳ねるように触手から触手へと足場を転じて急降下。行く手を阻む触手を諌め、優勢を維持し続けることに、プレッシャーを感じないと言えば嘘になる。だがそれ以上に、円環の流れを通じてエヴァの心に重くのし掛かってくるのは、ベルハザードが抱える無限遠とも言える痛切だった。

 緊密な関係性の流れに混じる黒いノイズを、エヴァは知覚した。涙が出そうだった。ベルハザードの憎しみと怒りの根源。、また別の部分を向いていることに気づいたからだ。憎しみと怒りはガン細胞のよう永劫の痛みを彼に与え続けていた。何年もずっと。彼が呪いを被った日から。ならば治療を施してやらねばならない。他ならぬ自分自身が。それが責務だと痛感する。

 そのための最終フェーズが、真の終わりを目指しての指揮棒が、遂に振られた。

 触手の群れを完全に無力化しながら、力強く四つ足の姿勢で着地。息を荒げることもなく。砂が円形に舞い上がる。目の前には赤光を放つ天網が壁のように展開している。彼我の距離は五メートルしかない。

 顔を上げる。ベルハザードの、ただでさえ痩せこけた頬がさらに窪んでいた。それでいて、右目は手遅れなほどに白濁としている。歴戦の勇者の面影は、すでにそこにはなかった。

「ッ……来るなッ!」

 絡み合い、交差する視線。一方には静かな熱意が、もう一方には怯えの色が灯っていた。

「ベル、今すぐ助けてやるからな」

「黙れッ!」

 耐えられないとばかりに、ベルハザードがたたらを踏みながら、右手の指をさらに内側へと深く折り曲げた。自らの内に牙を突き立てるかのようなその指の動きに連動して、正六面体の各部が歪み、それらをつなぐ線が振動を起こし、天網全体が大きくたわんだ。それは拒絶としての象徴を失い、見たくないものを永遠に隠そうとする必至の大風呂敷となって、ちっぽけなエヴァの全身を包みにかかった。

 だが、エヴァはなおもベルハザードを見つめたまま、四つ足の体勢から左手を前方へと迷いなく突きだした。赤く光るグローブと同色のリングが手首を軸に弧を描いて素早く出現。その光るリングから、いくつもの小さな白光弾が扇状の射角で発射され、正確に正六面体の群れを撃ち抜いていく。

 ベルハザードの表情から、血の気が引いていった。エヴァは決然とした赤き瞳で、相互理解の機会を探り続けている。

 風呂敷は畳まれた。白光弾で撃ち抜いた箇所からたちどころに亀裂が広がり波及していき、そのうち悲鳴にも似た残響を鳴らして、天網は粉々に砕け散った。二人の頭上へ穏やかな閃光の雨を降らせた。

「やめろ……! ! !」

 この戦いでただの一度も肉体的損傷を負っていないはずの男が、白濁した両目で目の前の女を睨み付け、手負いの獣のように後ずさる。黒いコートが夜風に揺れて、ぴたりとベルハザードの身体に張りついた。痩せ細った体躯--コートの象りが、間接的に肉体と精神の酷使の痕跡を強くエヴァに意識させた。だからこそエヴァは静かに歩み寄るのを止めなかった。血力が底を尽きかけ、もはや罵詈雑言を投げ放つしかないベルハザードに、どれだけ拒まれようとも。

「なんだ……なんなんだエヴァ……お前は何がしたいんだ……」

 口をぱくぱく動かし、困惑するベルハザード。エヴァは穏やかな態度で応じた。あらゆる危難から貴方を救いたいのだと言いたげに。

「あんたに伝えたい。太母様の心を。あの人が、お前をどれだけ大事に想っているかを」

「そうやって、慰めようというのか? 俺から全てを奪った貴様が……そんな勝手を押し付ける権利がどこにあるというんだ」

 二人の距離は次第に縮まっていくが、差し出された手をベルハザードが取ることはなかった。

「裏切り者の血はここで絶やす。それが嫌だと言うのなら、証明してみせろ!」

 ベルハザードが吠えた。右手の指を再びかぎ爪のように曲げる。じわじわと赤黒い光が収束していく。いままでと比較して明らかに展開の速度が遅い。正真正銘最後の抵抗だった。そうしなければ納得できないという彼の想いが、痛い程伝わってきた。

 それなら--どれだけ説得しても止まらないのなら、しかと受け止めて進むだけだ。エヴァがやるべきことはそれだった。それこそが、彼女なりの証明方法だった。

 正六面体の一面が盛り上がり、一本の触手が凄まじい回転を描いて、あっという間にエヴァの腹を貫通した。肉片が血飛沫と一緒くたになって飛び散った。それでもエヴァは慈愛に満ちた表情を崩さなかった。

「ッ……なぜだ………!」

 唖然としたのは、攻撃を仕掛けたベルハザードの方だった。再生能力を持つ鬼血人ヴァンパイアにとって、肉体の欠損は必ずしも致命的なダメージにはなりえない。それでもベルハザードは驚愕せざるを得なかった。--反撃も回避もしない選択を自らの意志で選び取るなんて--自分の知るかつての彼女と、あまりにも解離した光景に言葉が出ない。しかしその解離が示す差こそが、彼女が伝えるべき観念を伝えるための器として覚醒した、なによりの証明だった。

「どうか聴いてくれ。あのひとの声を」

 触手に貫かれたまま、エヴァは寄り添うような柔らかさでベルハザードに近づいていった。一歩一歩、砂浜をしっかり踏みしめる度に、肉々しい触手と内臓が擦れ合う異音が聞こえた。その音を過敏なほどに恐れているのか、ベルハザードは一歩もそこを動けずにいた。かぎ爪のように曲がった五指がひそかに震え出している。血色の著しく悪い幽鬼じみた相貌が緊張に強張っている。白濁した両目の奥で哭いているのが、エヴァにもはっきりと感覚された。だからこそ相互理解のための前進を諦めなかった。

「見ないでくれ……頼む……」

 ベルハザードがいやいやをするように皺だらけの首を左右に揺らし、か弱い懇願を漏らした。自らの醜さを晒したままにはしておけないとばかりに左手をコートのフードへ伸ばそうとするが、ぱっとエヴァの右手が動いて左手首を掴み、動きを止めた。自らの手に握ったナイフで命を絶とうとする自殺志願者を諌めるように。

「こんなこと、アタシが言えた義理じゃないけど……

 エヴァが労るように告げた。そうして左手の平でぴたりと触れた。ベルハザードの右のこめかみへ。そこにあばたのように広がる小さな八つの目を、世界から隠すように覆った。

 左手から淡い赤光が溢れ出た。呪いの目を浄化するようなその輝きに当てられたかのように、びくんとベルハザードの体がのけぞり、しばらく硬直した。瞼が引きちぎれそうなほど見開いた眼球に、虹色が差した。両手の指が虚空をかきむしるように蠢いている。エヴァはじっと息を潜め、右手に意識を集中させた。緊密な関係性、魂で結ばれた円環の流れをレールとして構築しながら、自身の魂をピストンのように操り、太母の魂を情報化してベルハザードの大脳と血流へ押し出していった。大容量の情報を一気に流し込まれたことでかかる負荷を受けて、八つの目がぐるぐる白目を剥いて、瞳孔から白煙が生じていった。その間もベルハザードは口の端から泡を垂らし、両目から白い血をだらだらと垂らしていった。十年間、彼の強烈な自責の念を糧にその身を蝕んでいた呪いの根源--屍腐獣ボルボスの血だった。

 ぼんっ! と何かが小さく爆発する音がした。八つの目のうち五つが連続して飛び出し、エヴァの右手に阻まれて砂浜へ落ちていく。残りの三つもたて付けに内側から引き剥がされた。化石のように過去は堆積するだけとなり、呪いは痣に近い痕跡でしかなくなった。それは確かなことだった。

「太母様……いまも、そこにいるのですね……」

 うわ言のようなその呟きは、たしかにエヴァの耳元に届いた。

 ベルハザードの身体から、呪縛が解かれたように、すっと力が抜けて、そのまま崩れるように砂浜に両膝をついた。右手は乳房を抱くように開かれ、すでに力は跡形もなく消滅していた。

「聴こえたか?」

 貫かれた腹部の再生を終えると、エヴァは両足を折ってその場に腰を下ろし、目線を合わせた。辛い注射に耐えた我が子を褒める母のような眼差しを向けて。

 ベルハザードは目を閉じていた。眠っているように穏やかだ。やがて、深い海の底から目覚めたかのように、ひび割れた唇が開かれた。

「たいしたものだ……よくそれだけの力を……」

 エヴァが小さく鼻を啜った。喉が痙攣しそうで、泣きそうになるのをどうにかこらえるのに精一杯だった。だが、聞き逃すわけにはいかなかった。いつも寄り添ってくれた友の声を。最期の声が語る想いを。

「もう思い遺すことは何もない。太母様がいまもお前の中で生きているなら、それで十分だ」

 ベルハザードの肌がみるみるうちに灰色に染まり、海からの風にあおられて、白い髪が綿毛のように飛んでいく。唇を動かす度に、身体のあちこちが灰化していく。それは、止められない命の流れだった。

「まるでお前が太母様そのものになったと、そんな風に思えてくる……どうだ? これ以上にない褒め言葉だろ?」

「うん」

 すっかり熱を失くした両手にそっと触れながら、力強く頷いた。

 また海風が吹いた。コートの膨らみが歪に崩れた。

「色々と、迷惑をかけたな」

 ベルハザードが静かに目を見開いた。両者の視線が結び付いた。エヴァはこらえきれずに、嗚咽を上げ、熱い滴をぽろぽろと溢した。そこに過去を見たからだ。血塗られた歴史ではなく、勇猛果敢な勇者として皆から尊敬され、いつも親しげに声をかけてくれていた、大切な人の眩さを見たからだ。

「泣き虫め」

「……うるさい」

 減らず口を叩き合う仲に戻れたことが、何よりも嬉しかった。

 ひとしきり泣き笑った。

 ベルハザードが、あの優しげな笑みを作った。

「俺は……本当に良い友を持った」

 それだけを言い遺し、偉大な戦士は風に還った。

 あとには、彼の匂いが染み付いたコートと、かつて彼の一部だった魂の抜け殻が、灰となって残った。

 涙を拭い、エヴァは両手で灰を掬い上げた。全ては過去に還ったが、緊密な関係性が死によって別たれて良い訳がなかった。生まれ変わった今の自分が、この先の時代を歩む上で出来ることがなんなのか。それを考えなければならなかった。己の生き様を、誰に披露するべきなのかを。

「きっと、また会えるさ」

 足音が、遠くの方から近づいてくる。顔を上げずとも、ニコラのそれだと分かった。

 誰のために、どんな奇跡を願うか。

 答えは自ずと導き出されていた。

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