2-70 PM:12:03/そして彼女は奉仕者《エヴァンジェリスト》

『プロメテウスを混乱の渦に引きずり込んだ、大規模な中層動乱。多くの死傷者を出した未曾有のテロ事件は、その全容が明らかにされないまま、終息を迎えることになってしまうのでしょうか』

 産婦人科病院の待合室に設置されたテレビモニター。そこから流れてくるニュース討論番組の司会者の深刻げな声色は、リラ・ブリッジスの耳に届きこそすれ、彼女の意識を不安と重圧の水底から引き上げるだけの効果はなかった。ここではない遠くの都市の、それもジュニアスクールに入りたての頃に起こった事件について、個人的な関心を向けることを要請する権利など誰にもない。今の彼女に必要で、そして考えるべきは、自分の体に偶発的に宿った命に対し、どのような権利の行使が認められるかを吟味することだった。

『今から十五年前の十一月十九日、プロメテウス都市中層で発生したイースト・ラウンド・ストリートでの爆破テロ、ならびに、同日に発生したレーヴァテイン社最高顧問を務めていたギュスターヴ・ナイル氏殺害の容疑で、逮捕および起訴されているアンジェラ・ミキサー、本名アンナ・サザーランド被告の最終公判が先ほど始まりました。第一審、第二審ともに無期懲役刑が言い渡されているなか、検察側は、一連の事件を起こしたとみられるハンター集団に属していた被告に対し、大量の死傷者を出し、社会を甚大且つ残忍極まる混乱に陥れた重大な責任を無かったことにはできないとして、当初から死刑を求刑しています』

 鼠色のカーディガンに包まれた膨らみのない腹を擦った。もう何度そんな風に手を動かしたか覚えてはいない。それは、命の誕生を心待ちにする祈りではなく、現実に己の身に降りかかってきた途方もない事態が事実であるのかを再確認する行為に近かった。

『これに対し弁護人側は、大陸間戦争での捕虜経験が、被告の精神状態に著しい悪影響を及ぼしている可能性について改めて言及し、被告の生育環境を真剣に考慮すべきだとの主張を変えず、依然として減刑を求めている模様です』

 ――それでようやくリラは顔を上げて、テレビモニターを見た。字幕が画面下を横にながれていく中、オレンジ色の囚人服を着せられた若い顔の女が映し出されていた。ニュースによると、老化遅延薬を打たれているため、実年齢は五十歳以上という話だ。勾留期間の長さが、そんな彼女の肉体的な欺瞞を露にしていた。黒い長髪は水分を失くして乱れに乱れ、目元には疲労の色が見てとれた。あらゆる接触を拒むように背中を丸めたその姿勢が、孤独の殻に自ら入り込もうとしているように感じられた。どこか自分に似ていると、リラは思った。

『このような状況の中、被告は一審の意見陳述から一貫して黙秘を貫いています。爆破テロはもちろんのこと、個人的な繋がりの全くないナイル氏をなぜ殺害するに至ったのか。プロメテウスのハンターズ・ギルド協会が出した声明では、当局は該当する人物の生命を物理的に剥奪する依頼は、どの個人・団体からも受けた形跡はないと発表しています。怨恨か、あるいは抗議の一環なのか。殺害の動機は今のところ全く解明されていません』

 黙秘を貫いている――それも今の自分が選択している状況に限りなく似ていた。夫にも――まだ婚姻届けを役所に提出していないため、ティーンエイジャーの彼にその立場が正式に与えられているわけではないが――両親にだって事の経緯は伝えていないし、そもそもどの時点から遡って彼らに話せば良いのか分からなかった。

『さらに現地での一部報道によりますと、ナイル氏の殺害に関して、被告人以外に複数の個人や団体が関わっていたとする根拠不明のデマがインターネット中に拡散しており、真実を明らかにすべきだと主張する下層の一部市民団体が、数日前から被告人の無罪放免を主張するデモを下層各地の階層間エレベーター前で実施している模様です。一部暴徒化した都民を鎮圧するにあたり、都市公安委員会は市警から分離独立した機動警察隊、通称・クリミナルと呼ばれる治安維持部隊を送り込み、事態の収集を試みています』

 何を話せば分からないでいるのは、自分に勇気がないからだ。それを自覚できる程度には、リラは愚かではなかった。そのくせ、ハイスクールのダンスパーティーで相手に恵まれず立ちんぼしていた自分に親切にしてくれたことがきっかけで、彼にぞっこんになり、卒業間近の今になって自分の愚かさに嘆いているのだから、成り行きを率直に伝えたら、さすがの両親も怒りを通り越して呆れ返るに違いなかった。とくに父親に至っては、ヘパイストス警察組織のトップに立つ者らしく、たびたび家を訪れる政治家たちに向ける慇懃なあの態度を自分に向けてくるのではないかと思うと、不安で不安でたまらなかった。

『戦後、ヘパイストスと貿易や外交面において緊密な関係性を結んできた、世界でも稀に見る階層構造都市のプロメテウス。政治的混乱がなおも続き、中層と下層の間に横たわっている差別意識が高まっているなか、今回の判決次第では、武装デモやヘイトスピーチがますます激化する可能性があると危惧する声もあります。プロメテウスが抱えている問題の火種が膨れ上がった時、我が都市ヘパイストスにとって、それは対岸の火事ではなくなってくる恐れがあるのではないか。今回はゲストに三人の識者を特別にお迎えして、その辺りを徹底的に討論……』

「お待たせしました。七十番の整理番号をお持ちの方は、受付までいらしてください」

 ニュースに見入っている途中で、唐突に自分の番号が呼ばれた。それでリラの意識はどうにか現実に立ち返った。手汗でしわしわになった整理券の番号を改めて確認してから、いそいそと立ち上がり、すぐ目の前の受付へすがりつくように向かう。十八歳の身が払うには決して安くはない診察料金を払い、作ったばかりの診察券と妊娠証明書を受け取ると、それらから目を逸らすようにショルダーバックの中へ押し込んだ。

「先生からも聞いているかとは思いますが、次の診察までに母子手帳を持ってき――あ、ちょっと!」

 受付の職員が言い終わらないうちに、リラは小走りでその場を後にした。俯き加減に待合室を横切り、示し合わせたかのようにタイミング良く開いた自動ドアを潜った。

 そこで足が止まった。晴れやかな春先の空の下。十二時を過ぎ、自動車で埋め尽くされた目の前の駐車場へ一瞬だけ視線を向けると、最寄りの駅へ向かうことはせず、左に曲がって少し歩いたところにある、病院敷地内の、青い三人がけベンチの真ん中に座り込んだ。

 バッグから携帯電話を取り出す。電話帳を開き、彼にかけるか、母にかけるか悩んだ。画面を睨み付ける。両手は石像のように動かないままだった。

 そのうち、諦めたかのように小さく溜め息をつくと、泣きたくなる気持ちを抑えて、携帯電話の電源を切ってバッグに戻し、背中を丸めて顔を伏せた。長い金髪がカーテンのように顔を閉ざした。それはミドルスクールの頃に身につけた、無遠慮な言葉を何気なく投げ掛けてくる世界に対しての、彼女なりの防御姿勢だった。

 誰にも今の自分の顔を見られたくなかった。知り合いに出くわすを考慮して、わざわざ七駅も隣の病院を選んだのには訳があった。だが見知らぬ人たちに今の自分をまじまじと観察されるのも、たまらなく腹立たしかった。視線を一方的に打ち切っても胸のあたりのムカつきが収まらず、みっともないからやめるようにと両親から再三注意されている貧乏ゆすりが、意識と関係なく始まった。

 リラの考えは一向にまとまりを見せないままでいる。だが選択は二つに一つだった。お腹の子供のことを彼と両親に打ち明けるべきか否か、ではなく、産むか堕ろすか。しかしながら、そう簡単に結論が出せる問題には思えなかった。つい先日合格通知を送付してきたカレッジの入学試験の方が、正解へ辿り着く筋道がはっきりしているだけ、ずいぶんと易しかった。だが人生は入試問題のように、それが答えだと保証してくれる根拠をいつも用意してくれるほど親切ではないと、他ならぬリラ自身が痛感していた。

 堕ろしてしまおうか……そんな囁きに対してすぐさま『悪魔的な発想だ』と内心で反論したくなるくらいには、リラの中にも良心と呼べるものがあった。だがそれを良心とするなら、産んだは良いものの、子供をうまく育てられずに悲劇の沼に引きずられていった母親たちの良心はどうなるのだろうか。だったらいっそのこと、この重荷をさっさと切り捨て、悪い夢を見ていたのだと、無理矢理にでも自分を納得させてしまった方が良いのではないだろうか。

「ねぇ……ねぇちょっと」

 堂々巡りの思考の末に、それが正解か不正解なのか分からない道を選びかけていた時、カーディガン越しに右肩を誰かの手で軽く揺すられた。とっさにその手を振り払って、走って逃げてしまおうとしたが、できなかった。自分の肩を叩いてきたその誰かの手を通じて、なんとも言えない暖かさを不思議と感じたせいだった。

 顔を上げると、ひとりの女性が隣に座っていた。医療従事者に特有の装い。汚れのひとつもない白い半袖に白い長ズボンを履いている。この産婦人科病院に勤めている女性職員とみて間違いなかった。リラが驚いたのは、その女性の顔かたちが……正確には肌艶からして、自分とそんなに歳が離れていないように見えたせいだ。

「大丈夫?」

「あ、あの……?」

 戸惑っていると、女性がなにも心配しなくて良いとばかりに軽く微笑んだ。宝石のように綺麗な赤い瞳をしていた。

「さっき受付を担当していた者よ。なんだか思い詰めた様子だったから、心配して後を追ってみたんだけど……あなた、顔色悪いわよ? どこか具合でも悪いの?」

 これから母親になるんだから、もっと体調管理に気を配れと言外に含むような言い方ではなかった。純粋にこちらの身を案じているのだと理解した時、すでにリラの貧乏ゆすりは止まっていた。そんなことは初めての経験だった。

「いや、具合が悪いとかではないんですけど……」

「そうなの? うーん……ちょっと待っててね」

 言うと、彼女は正面玄関のそばに設置してある自動販売機へ向かっていった。ポケットからクレジットを取り出して飲み物を購入している。その若々しい横顔や、後ろでゴムバンドひとつで纏められた青い髪が控え目に揺れる様を、リラは横目で伺うように追っていた。ハイスクールの授業と授業の合間の休憩時間にクラスの中心人物たちが盛り上がっている様子を、自席に突っ伏して耳をそばだてているのに似ていて、だが異なる仕草だった。

「はい、これどうぞ」

 戻ってきてすぐに彼女はリラの隣に腰を下ろすと、ミネラルウォーターのプラボトルの底面を相手に向けるかたちで差し出した。まるでずっと前から、そこが彼女の定位置であったかのような自然さ。そんな地に足のついた肯定感に満ちた、けれども他人に自らの強さをひけらかすような空気からは遠く離れた振る舞いが、リラの心を多少なりとも揺さぶった。

「あ、あの……」

 差し出されたミネラルウォーターを前にどうするべきか悩む。すると彼女が、またもや微笑んだ。自らの行いで負った傷を見られたくないと警戒する手負いの獣を前に、どうやって宥めれば良いか熟知している者の微笑みだった。

「はい、どうぞ」

「……ありがとう、ございます……」

 おずおずと右手でプラボトルを受け取りながら、バッグに左手を差し入れた。ごそごそと、なにかを探るような動き。それだけで、リラが何をしようとしているのか、彼女はすぐに気づいた。

「お金なんて良いから、気にしないで」

「え? い、いや、でも……」

「いいからいいから。アタシが好きでやってることだからね。それにさ、人からの好意ってのは遠慮せずに貰っといたほうがお得ってもんですよ?」

 彼女は、唇を右手で小さく隠すと、目の端に皺を寄せて、笑い声を漏らしてそう言った。その仕草と声の抑揚だけを切り取れば、リラにとっての、近所に住む世話焼きの叔母さんと何も変わらない。だが彼女の声の響きには、不思議と加齢はもちろん、図々しい優しさの押し付けも感じなかった。彼女の若い顔のせいだろうか。

 冷えたミネラルウォーターを遠慮がちに少し口に運ぶ。それが帯びる妙な暖かさの、胸の辺りを癒していく流れに心地良さを覚えながら、リラはちらりと彼女の胸元を見た。首から下げた職員証カード。プラスチックケースに収められたそこには、今の彼女とそう大差ない顔写真がプリントされてあって、その横に所属と名前が記されていた。

「ここに勤め出してもうそろそろ十四年になるけど、アタシ、妊婦さんたちの気持ちが、まだ良く分かっていないのよねぇ」

 口に含んだミネラルウォーターをリラが飲み込んだタイミングを見計らったかのように、車から降りてくる妊婦や付き添いの人たちを見つめながら、彼女がそんなことを唐突に口にした。

「十四年って……そんなにですか?」

 てっきりアルバイトか何かだろうと思っていたから、リラは驚きをそのまま口に出していた。外見年齢だけで言えば自分とそんなに違いはないのに。アンチエイジング技術を適用した親戚をたびたび困らせている、不自然な肌の照りや張りが全く見られなかったから、ますます疑問に感じた。だが、嘘をついているようには見えない。

 彼女は、自らの若さをそれとなく自慢することも、リラの反応を期待通りのものとして面白がることもなく、ただただ淡々と話を続けた。

「自分のお腹を痛めて子供を産むって、きっと想像だけじゃ追い付けないくらい凄いこと。でもそれは多分、子供を育てるのとはまた微妙に違う凄さだと思う。アタシは片方の凄さに振り回されるので精一杯でね。それでも妊婦さんたちの凄さをもっと良く知りたくて、だからこの仕事を続けてる」

「……お子さんが、いらっしゃるんですか?」

「男の子がひとり、ね」

 彼女は頷くと、背後にそびえる五階建ての病院を見上げるようにして言った。

「忘れもしないわ。ここに勤め出して三年。今から十一年も前のクリスマスの日の朝だった。うちの病院は《新生児信箱ベイビーボックス》も併設されているんだけど、夜勤が終わって帰ろうとしたら、宿直室のブザーが鳴ってね。様子を見に行ったら、あの子がボックスの中で泣き喚いていたの」

 彼女の話を聞いて、リラは想像した。お腹を痛めて産んだ我が子を育てる義務を放棄して、聖なる日の朝に背を向けて道を歩く女の後ろ姿を。それが、そう遠くない未来の自分の姿なのかもしれないと思うと、ロングスカートに包まれた己の足が、無性に冷たく感じられた。

「本当なら役所に届け出て、しかるべき手続きを経てから養子縁組に出すべきなんだけど、当時の婦長さんと院長先生に頼み込んだの。。二人とも最初は首を縦に振らなかったけど、何度も何度も頼み込んでいるうちに、根負けしてくれた。アタシの熱意が通じたってところよ」

 ふふん、と得意気に彼女は鼻を鳴らした。そんな風に誇れるのが、リラには不思議でしょうがなかった。だから好奇心も手伝って尋ねた。

「どうしてですか?」

「ん?」

「どうして育てようって思ったんですか? だってその赤ちゃんが捨てられた事と、貴方の人生には、何の関係もないですよね? それなのにどうして? 自分の為に時間を使いたくないんですか?」

 言って、リラはしまったという顔つきをした。調子に乗って、いらない事を口走ったと後悔した。親しくなりつつある相手に対して時折出てしまう、彼女の悪い癖だ。それを誰よりも自覚していたから、リラはすぐに頭を下げた。

「ご、ごめんなさい! 私、いますごく失礼なことを言ってしまって……」

「いいのいいの。そう思うのが当然だもの。当時は周囲からも変な目で見られたからね」

 顔を扇ぐように手を振りながら、笑って彼女は許した。それから軽く腕を組んで考え込み、まるで黄昏時の風景を眺めるように綺麗な目を細めて、駐車場を見渡しながら、静かに口にした。

「アタシ、きっと確信していたの」

「……何をですか?」

「アタシ自身が為すべき役割ロール。それがなんなのか確信していたから、あの子を育てようって決めたの。怖くはなかったわ。間違いだらけだったアタシの人生を、もう一度やり直すって、ずいぶん前から決めていたから」

「……間違いだらけ、だったんですか?」

「間違いだらけよ。大切な人たちを沢山傷つけてきた。取り返しがつかないくらい。身近にいる人たちの思いやりや優しさに気づこうともしないで、勝手に塞ぎこんで、勝手に暴れて。そうやって自分の過ちから目を逸らし続けてきた。今でもたまに思い出しては、情けなくてどうしようもないなあって、自分が嫌になる時もあるけど、でもそれも大事なアタシの一部よ。今さらなかったことには出来ない。だからせめて、自分の役割ロールだけは見失わないようにしようって、誓ったの」

 間違いだらけの人生。とてもそんな足跡を歩んできたような風には見えないとリラは思った。だが、駐車場を眺める彼女の横顔に、ほんの少しばかりの翳りを見たのも確かだった。その拍子に、ただ若いだけと思っていたその顔の奥に、歴史のような積み重ねの痕跡を見た。それはきっと、彼女が切り離すことなくいつも心の奥底に抱いている、間違いだらけな過去そのものなのかも知れないと思えた。

 いるのか。世の中には、こういう人が……リラは途端に自分が恥ずかしく思えてきた。

「強いんですね。羨ましいくらいです」

 だからこそ、心からの称賛が自然と口をついて出た。それを受けた彼女は、気恥ずかしそうに笑いかけの口元を手で隠すと、少し申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさい。本当はあなたを励まそうとしたのに、なんだかアタシばかり喋っちゃって」

「いいんですよ。それより、もっと聞かせて下さい。男の子って言ってましたよね? どんなお子さんなんですか?」

「ええ? うーん、そうねぇ――」

「あ! いた! お母さーん!」

 彼女が話し出そうとしたその時、駐車場の方から声がした。まだ変声期を向かえる前の、子供の声だ。

 リラはふと、広い駐車場へ視線を投げた。どこから聞こえてきたのか。居並ぶ車の陰に隠れているのか、視線を泳がせても、声の主は見えなかった。

「あれ、あの子……」

 だが、隣に座る彼女だけはいつの間にか、子供の存在を視認していた。スニーカーに短パン姿で、大きなロゴ入りの半袖シャツを着たその少年は、いつのまにか駐車場を横切ると、リラから見て左手の方向から、ベンチに座る二人に向かって一目散に駆けてきた。

「ベルじゃない。どうしたのよ」

 彼女は、男の子にしてはやや変わったニックネームを口にするなりベンチから腰を上げ、少年の予期せぬ到来に驚いているようだった。浅黒い肌に黒い短髪をした、いかにも健康優良児といったその少年は、呆れたような調子で、右手に持っていた花柄のランチボックスを突き出して言った。

「お昼、持っていくの忘れてたでしょ」

「え? あ! しまったそうだった!」

「もしかして、ぼやぼやしてた? 日曜日だから」

「別にぼやぼやしてた訳じゃないよ。今もこうして妊婦さんのお話を聞いていたところなの」

 ご挨拶しなさい、という意図を目に含ませて少年を一瞥してから、彼女はリラの方を見た。その目に引っ張られるかたちで、少年は軽い挨拶をリラに寄越した。「あ、どうも、こんにちは」と、遠慮がちに小さくお辞儀をする。その様が、見た目の活発さとは裏腹に、実は引っ込み思案な彼の性格を覗かせているようで、リラは微笑ましく思った。

「あのね、急いで持ってきたから、中身がぐちゃってるかも」

 少し申し訳なさそうにそう口にする少年に対し、彼女は優しく微笑みながらランチボックスを受け取ると、少年と同じ目線になるようにしゃがみこんだ。

「全然、気にしないわそんなこと。届けてくれてありがとう」

 感謝を言葉にして伝えると、彼女は少年の右のこめかみに、十四年の歳月を感じさせない指先で小さく触れた。

 少年の右のこめかみには、小さな手形を張り付けたような、白い痕があった。なぜだかリラは、それが気になった。小さな小さな手形の白い痕。聖痕とは違えど、だが生まれてきたことに対する祝福の証には違いない。リラにはそう思えて仕方なかった。

「じゃ、午後はベンたちとサッカーして遊んでくるから。いつもの公園で」

「学校の宿題は?」

「もうやってあるー!」

 母親とのスキンシップを早々に打ち切りたいかのように、少年はするりと彼女の手から抜け出すと、もときた道を走って帰っていった。

「車に気をつけてね。五時には帰ってくるのよ!」

「分かってるー!」

 少年は背中をこちらに見せたまま、青になった横断歩道を一息に駆け抜け、あっという間に見えなくなった。

 血は繋がっていなくても、二人には緊密な関係性が構築されている。二人のやり取りを側で見守っているうちに、リラの胸の奥で、何か熱いものが沸き上がってきた。いても立ってもいられない気分になった。

「まったく照れちゃって……ああ、ええと、あれが息子。見ての通り元気盛りでね、体に似合わずたくさん食べるから、毎日の献立を考えるだけで一苦労よ」

 彼女は立ち上がってしばらく息子の背中を追っていたが、思い出したようにリラを見下ろして、この場から去った少年について口にした。口調こそ手を焼いているかのようなニュアンスだったが、幸せの波長は隠しきれていなかった。

「聡明なお子さんですね」

「そんなことないわよぉ」

「将来の夢とか、決まってるんですか?」

「消防士になりたいって言ってるわ。ほらあれ、なんて言ったっけ………そう、マスターキーが気に入ったみたいで」

「ああ、あの大きな」

「そうそう、火災に遭った家のドアを無理やりこじ開けるための、大きな斧。あれが気に入っちゃって。この前息子と一緒に消防士が活躍する立体映画ホロを観に行ったんだけど、それがきっかけだったみたい……あぁ、そうだ」

 彼女はベンチに腰掛け直すと、ランチボックスを膝の上に乗せて、リラに顔を向けて告げた。

「さっき、自分の為に時間を使いたくないのか? って、言ってたわね?」

「あ……はい……」

「もしもね、貴方がそう思いたくなる時が来たら、こう考えれば良いと思うの。親は子供を産んで親になるんじゃなくて、子供と一緒に成長しながら親になるものなんだって」

「一緒に成長、ですか」

「そういう風に意識を変えるとね、子供のために時間を浪費してるって感覚、多分だけど無くなってくると思う。子供と同じ時間を共有して、足並みを揃えていけばいいんだって覚悟しちゃえば、心にかかる負荷も軽くなると思うから」

 覚悟――たしかに彼女はそう言った。やはり、分かってはいたつもりだったけど、改めて他人からそれが必要なのだと告げられると、怖じ気づいて目を背けたくなる自分がいる。間違いを恐れて。『人生のミスは二度と取り返せない』が口癖の父の顔が浮かんだ。だがいまは、記憶の中の習慣的重圧ではなく、目の前の声に耳を傾けるべきだった。間違いを繰り返しながらも立ち上がる彼女の気高さから学んでいくべきだと心底思えた。

 世の中をうまく渡り歩く術ではなく、途方もない困難を前に自らを見失わない力を学ぶべきだ。それは確かなことだった。

「私……もうちょっと真剣になってみようと思います。自分の人生と、この子の人生について、もう一度しっかり考えてみます」

 リラはそう言って、自らの下腹部へ視線を落とし、ゆっくりと右手で円を描くようにして撫でた。今までとは違う意識で。

 彼女が、小さく首を縦に振って笑った。素敵な笑顔だった。そんなに若い笑顔ができるのは、きっと彼女が気高い精神の持ち主だからなのだろうと、半ば本気でリラは感じた。

「あの、それでなんですけど……」

 リラは意を決した。彼に自らの心を預けた一年前とは違う、もっと前向きな姿勢で望みを言葉にして伝えた。

「時々で良いので、貴方の仕事が忙しくないときに、こうして話相手になっていただいても良いですか? 今度は、私の話を聞いてほしいから」

「いつでも構わないわ。受付でアタシの名前を出してくれたら、すぐに会いにいくから」

「あ……ありがとうございます! あ、えっと、私、リラ・ブリッジスって言います。この春から大学に通うことになった十八歳です」

 遅い自己紹介を終えると、リラは左手を差し出した。静かで、細く、まだ社会の本当の恐ろしさを知らない、しかしながら多くの学びを掴む可能性に満ち溢れた、きめ細やかな白い手だった。

「リラさんね。覚えたわ。どうもはじめまして」

 差し出された想いに応えるかのように、彼女は目の前の人間の左手を、己の右手で力強く、そして優しく握った。かつて、多くの他者と自らの魂を存分に傷つけながら、だがしかし、それでも、母の儚い無尽蔵の献身と、友の壮烈な戦いと理解を経て真に祝福された、その歴史ある手で。

「アタシはエヴァ。エヴァ・フラジィル。それが、アタシの名前」





































 2nd Story フェイト・オブ・ジ・イノセンス・ギア ~End~

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