2-68 PM21:30/奇跡の海、風に還る戦士 その①

 エヴァはニコラの道案内に従うかたちで、自然公園の整備された通りを抜けると、閑静な都道三号線を信号無視で横断し、道沿いにまっすぐ歩いていく。

 やがて、右手側に仕切りのフェンスが見えてきた。そのフェンス沿いに進んでいった先には、としか言えない場所があり、たしかにそこにはニコラの言った通り、ぽつんと寂しく灯台が建っていた。

 都市の階層構造的に、海に直接面した正真正銘の浜辺は、最下層にしか存在しない。だが、治安の行き届いた住み処に居ついたまま、自分たちも擬似的な観光体験をしたいと欲求する者たちがいたのだろう。都市公安委員会が彼らの声に応えて、《希望岬》と名付けた擬似的な浜辺地帯を最上層外縁部の一画に建設したのは、いまから二十年ほど昔の話だ。

 それから今に至っても、灯台はまだそこに建っている。月光に照らされて、ところどころに重金属酸性雨による赤褐色の痕跡を刻んだ、白い塗装の佇まいを、闇夜にぼんやりと浮かばせている。

「ささ、岬の管理人さんに見つかる前に、さっさと乗り込んじゃいましょう」

 言って、ニコラはフェンスの金網に小さな指をかけると、まるで木登りに興じる小猿のような身軽さで乗り越えて、希望岬へと侵入した。はしゃぐ子供のような足取りで、迷いなく灯台を目指して歩みを進めていく。

 慌ててエヴァもフェンスを、遅れまいとニコラに続いた。絨毯のような感触の砂浜を踏みしめながら、なんでこんなところにニコラが行きたがっていたのか考えてみたが、まるで見当がつかなかった。

 だいたい、エヴァはプロメテウスの海辺に良い印象を持っていない。都市最下層に定住して日が浅かった頃、夏場に狩場の拡張を目的に海辺へ足を運んだ時もあったが、結局、狩場として定着することはなかった。重金属を多く含んだ排水が流れ込み、戦時廃棄物の違法投棄で深刻なほど汚染された海は、悪臭がひどく、浜辺に近寄ることすらエヴァにはできなかった。人間たちのなかには、嗅覚に関係する受容体や鼻腔部分にサイボーグ手術を施し、嗅覚感度を下げる機能を有してまで浜辺にやってくる者もいたが、それでもサーフィンや海水浴を楽しむ者はいなかった。

「なあ、本当にここで合ってるのか?」

 うろんな視線をニコラの小さな背中へ送りながら訊く。

「そうですよ。どうしてそんなことを?」

 歩みを止めることなく、ニコラが逆に問いかけてきた。

「だってここ……フッツー過ぎるというか……ただの砂浜じゃねーか。何か宝箱みたいなもんでもあるのかと思ったら、違うみたいだし」

「宝箱とは……よくそんなアホなことを思い付きますねぇ。金銀財宝ごときが私の願いだとでも思っていたんですか?」

「じゃあ何が……」

「決まってるじゃないですか」

 ニコラは足を止めると振り返り、息ひとつ乱していない調子で、目の前の灯台を指差した。

「あそこのてっぺんまで登るんですよ」




 ▲▲▲





「うっひょ~~! これこれこれ! これですよ! きったぁ~~! きたきたきたきたきた! これが見たかったんですよ!」

 灯台の最上階。手すりを両手で掴んだニコラは、身を乗り出すような格好で夢中になっている。輝きに満ちた視線を遠くに泳がし、興奮冷めやらぬ調子で歓喜の声を上げている。

「これですよエヴァさん! 私の願いは、これを見ることだったんです!」

 無邪気にはしゃぐその声に誘われるかたちで、ニコラの隣に立ったエヴァは、そこで目にした光景に唖然となった。

 眼下に悠然と広がる銀色の海--人間たちの業欲を背負い込まされた広大な母なる海が、星々の煌めく夜空を引き連れ、果てしなくどこまでも続いている。悪臭こそ届いてはこないが、それでも、異様とも言える迫力は健在だ。海面は穏やかな波頭を描き、そのたびに、重金属の鈍い光沢に輝いていた。何十、何百万という電飾を敷き詰めても、この海のを前にしては、かなわないだろう。

「来れてよかったあ……まさか本当に見れるなんて」

 ニコラは手すりから手を離すと、両肘を手すりに乗せ、花のように開いた両手の上に顔を乗せながら、溜め息をつくように感嘆の声を漏らした。

「……これだったら、別に中層からでも見れたんじゃないのか」

「なーに言ってるんですかあ。ここじゃないと駄目なんですよ。この画角から見ないと駄目なんです」

 エヴァの冷静な突っ込みに対して、ニコラは説得力に欠けた言い訳で応じた。この美しさが分からないなんて、と軽く相手を下に見るような感じが込められていた。

 事実、エヴァには分からなかった。?――そんな、ある種の虚脱感にも似た感覚を抱くばかりで。

 うっとりと銀と黒の水平線の彼方を見つめるニコラの表情と、夜空を照らす銀色の海を交互に見やり、それから、この戦いで散っていった者たちのことを考えた。自分と同じく死に物狂いで《奇跡》を求めて、血で血を洗う闘争の渦に自ら飛び込んでいった、名も知らない者たちの顔を思い浮かべた。

 敵対者として行く手を阻んだ彼らを、己の手を汚して退けたことに対して、懺悔の念など抱いちゃいない。時に力を振るわなければ、この世界では生きられない。ゆえに、彼らの境遇に同情するつもりはさらさらなかった。なかったが、しかし、これではあまりにも、

「釣り合わない……そう思いますか?」

 まるで心のうちを見透しているかのように、ニコラの指摘が突き刺さった。いつの間にか海から視線を外し、じっとこちらを見つめている

「もしかして、顔に出てたか?」

 エヴァが、ばつが悪そうに頬を掻いた。しばらくその様子を見ていたニコラは、少し俯き加減になると、足で何かを蹴るようなジェスチャーをしながら、不貞腐れたように言った。

「言いたいことは分かります。私の願いが、ショボいと感じたんですよね。なんだよたかが海見たかっただけかよって」

「いや、別にショボいなんて……」

「無理しなくていいですよ。きっと、私の所有権を途中で手にしていたあのサイボーグの人たちも、もしこのことを知ったら呆れていたでしょうね。でも」

 ニコラは途中で言葉を切ると、再び銀色の海を見つめた。あの目付きになっていた。エヴァが何度となく遭遇した目付きだった。普段の飄々としていてわがままな態度は鳴りを潜め、じっと物事の本質を見つめるような、あの目付きで銀色の海を眺めている。

「私は《奇跡の体現者》なんですよ。だから、を求めてしまう。言うなれば、生理的な欲求といったところでしょうか」

「……まあ、もっと聖なるものをイメージしていたのは事実だけどな。みんなの願いから生み出された存在のわりには、その、平凡というか」

「願いとか祈りとか、聞こえは良いですけど、本質はそんなカッコいいもんじゃありませんよ。みんな、奇跡に対して無垢で清廉なイメージを勝手に抱いてますけど、そんなわけないんですよ。理想を手にしようともがく心、怠惰な希望的観測論、他人を押し退けて幸せになりたいと願う気持ち……奇跡というのは、そういった人間の業から滲み出たものなんですから」

「だから、ここを見たかったのか?」

「引き寄せられた、と言ってもいいかもしれません。人間たちの業欲がかたちを為した存在が、私を呼んでいたのかも」

「……辛くならねぇのか? お前からしてみたら、自分がやってきたことの間違いを見せつけられているようなもんだろ? 人間の間違いを直視して、悲しくならないのか?」

「もちろん、そういう気持ちにもなります」

「だったらなんで……」

……人間たちに対して、常にそういう想いを抱いているから、ですよ」

 臆することなく人間の業を全面的に肯定するその発言を、もしこの場でエヴァ以外の誰かが耳にしていれば、怒りの声を上げていたかもしれない。反省しろ、自らの罪深さを思い知れと--だが、そんなこと知るかとばかりに、人々の奇跡を求める心が産み出した少女は、淀みなく言葉を編み続けた。

「自然、道徳、対話、他者との関係性……意識的か無意識的であるかに関係なく、人はそれらを犠牲にしなければ生きていけない。その結果として、時に重大な間違いを犯しながら、それでも前を向いて歩いていけるからこそ、人間は素晴らしいのです。屍のように横たわる過去を無に還すことはできない。それは、間違いなくそうなってしまったのだから、開き直ってでも前を見なくては。どれだけ罪深いとそしりを受けようが、そういう生き方を人間は古来より続けてきたんです。間違いを犯しながら、それでも未来を望み、開拓していこうとする貪欲な精神……その意志の力だけは、尊重してあげなければなりません。このを見て、改めてそう思いました」

「奇跡の海……か。人間の業の全てを受け入れてくれた母なる海には、感謝の限りを尽くさなくちゃいけないな」

「言い訳にしか聞こえませんよね。鬼血人ヴァンパイアであるエヴァさんにしてみれば、人間の素晴らしさなんて知ったことかって感じですよね」

「いや……そうでもねぇさ」

「え?」

「お互い様だよ。罪深いのは人間だけじゃねぇ。アタシだって間違いを犯した。それでも、まだ自分には出来ることがあると思いたい……間違いを犯したからこそ、覚悟を持たなくちゃならない。自分がやるべきことを……届けるべきものを絶対に届けるんだって覚悟をな」

「では、その覚悟が無事にかたちを為したのを見届けてから、エヴァさん、あなたの願いを叶えるとしましょうか」

「お? なんだ、やけに察しがいいな」

「だってエヴァさん、先ほどから近くを気にしている風でしたから、目線がちらちら砂浜の方に流れてましたよ」

 何もかもお見通しだとばかりに、ニコラが軽く微笑んだ。

 エヴァもまた、微笑みを返した。それから手すりに手をかけて、砂浜の方を改めて確認した。砂漠に放り出された旅人のように歩くのは、黒いコートを身に纏った、よく知った顔の男だった。フードの向こうからこちらを探るような目線を送ってきているのが、--力は完全にこの手に戻っていた。敬愛する母のおかげだった。その愛は、独り占めにして良いものではないと、エヴァは固く心に決めていた。

「ベル、あんたに必ず届けてやるよ。この愛を」

 静かに、だが確かな覚悟を秘めて、エヴァは手すりに右足をかけると、そのまま勢いをつけて跳躍。地面まで三十メートルはある高さをものともせず、着地の寸前で体を捻り、砂浜を転がって衝撃を分散し終えた直後に立ち上がり、向かい来る男へ堂々と胸を張る。

 彼我の距離が十メートルと少しにまで縮まったところで、砂を掻き分けていたベルハザードの足が止まった。

「血の共鳴反応が作動して、まさかと思い辿ってみたが……俺の力を借りずとも、心の怪物を宥めてみせたか。その動き、完全に力を取り戻したとみたぞ」

 いっそう低く掠れた声に、わずかな驚きが混じっていた。

「力を貸してくれた人がいたんだ。その人のおかげで、いまのアタシはあんたの前に立つことが出来た」

「……ずいぶんと、しおらしいな」

「……それって……昔のアタシと比較して言ってるのか?」

「……さあな」

 沈黙が流れた。エヴァはじっとベルハザードの顔を見た。わずかではあるが、口元が血に濡れている。

「誰か食ったのか?」

「そこの小屋にいた小男をな。決闘前の腹ごしらえには丁度いい」

 軽く夕飯を済ませてきたような口調で、背後にちょこんと建つ守衛小屋へ右手の親指を立てて差した。

 たしかに栄養は補給したのだろうが、それでも十分な回復には至っていないと、フードの奥にある顔を見てエヴァは察した。

 ベルハザードの左目は完全に白く濁り、右目の赤光も輝きが弱まりつつある。体内の恒常性が著しく乱れているために、血をエネルギーに変換する効率が低下しているのだ。

 きっと、毒にやられたんだ。それも猛毒。細胞の壊死が進行し続けている--気づいた拍子に、エヴァは知らず知らずのうちに右手を固く握り込んでいた。

 どうやら、狩人の長との戦いは、かなりの熾烈を極めたらしい。ベルハザードの手に握られているはずの唯一無二の得物が失われていることが、その証拠と言っても良かった。

「……斧はどうしたんだ」

「戦いの彼岸に消えたさ。俺の身代わりになってくれた。太母様の御力添えがなければ、こうして貴様の前に立つことだって出来やしなかった」

「あの斧がなきゃ、アタシを殺せないんじゃなかったのか?」

 あえて挑発的な台詞を投げ掛けると、ベルハザードは凄絶な笑みを浮かべて応じた。本来なら立っているのもやっとな状態であるにだ。

「心配するな。再生能力が追い付かないくらい、徹底的に、根こそぎ蹂躙してやるつもりだ。その体を臆面なく流れる…………裏切りの血の全てを、ここの砂一粒一粒に吸い取らせてやる」

 一時的な共闘関係にあった事実を無視するかのような、恐ろしいまでの破壊宣告を口にすると、ベルハザードの右手が赤黒い光を瞬いた。文字通り、命を削り続けた連戦に次ぐ連戦を経た後とは思えないくらいの術の冴え。血の力が枯渇しかけているはずなのに、未だに強烈な存在感を放つのは、手のひらに現出したベースボールサイズの正十二面体。この世ならざる魔性の幾何学図形。各面から太く短く生えた十二本の触手が、大輪の花を象るように円を結ぶ。

 いよいよの時が来た。エヴァは唇を引き結ぶと、腰を落とし、足を大きく開いて両手を構えた。鬼血人ヴァンパイアとして母から授かった五感を研ぎ澄ませ、己のやるべきことを脳裏で再確認する。

「決闘に臨む前に、ひとつ、聞いておきたいことがある」

 不意に、緊張を削ぐようなタイミングで、ベルハザードが口を開いた。深い虚無が取り憑いた右目と、残り僅かな命の赤熱を灯した左目とでエヴァを見つめると、固い弓を引き絞るように尋ねた。

「なぜ、あの奇跡の少女の秘密を、俺に黙っていた?」

「秘密?」

「……奇跡を信じる者にしか、姿が見えない。その事実を、……?」

「……っ!」

 返す言葉に詰まった。それこそベルハザードの狙いだった。

 生じた間隙を突くように、ベルハザードの先制攻撃がエヴァを直撃した。彼の背後から、先端部が鎚の形態を取った触手の一本が飛び出し、エヴァの鳩尾を鋭く叩いた。

 一瞬、息が詰まり、思わずエヴァはその場に右膝をついた。苦悶に表情を歪ませながら、何が起こったかを素早く把握。不意打ちに近い攻撃の起点に気付き、驚愕した。

 ベルハザードの足下。股の間からそれは見えた。ベルハザードの立っている位置から、ちょうど十メートル後方の地点。砂が仄かに赤黒く光っている。それで理解した。

「(右手はブラフ。わざと意識が向くようにちらつかせて……すでに別の多面体を砂浜に配置済みだった……)」

 恐らくは、エヴァがニコラと会話している最中に、前もって仕込んだのだろう。戦いは、両者が向き合う以前から始まっていたという訳だ。

 血の完全枯渇に伴う肉体の形象崩壊を全く恐れていないかのような、血騰呪術アスペルギルムの同時多展開。当然、地雷のように配置された多面体の維持にも力は消費する--ベルハザードの覚悟を、エヴァは痛みと引き換えに強く分からせられた。

「(学ばせてもらったぜ……ベル)」

 意識を改め、眦を決する。素早く呼吸を整え、次に備える。

 本気だ。本気で立ち向かわなければならなかった。一時的な共闘関係であったことを根拠に、戦況を甘く見ようものなら、向こうの宣言通りに力ずくでなぶり殺される。なにより、ぐらぐらと煮え立つの右目が、それを物語っていた。

「奇跡に縋りついていることを自覚させるのに、なぜ躊躇いを覚えた……秘密を明かせば、俺が惨めになると思ったのか? 二度と取り戻せないものを愚かにも願う道化へと、仕立て上げることになるからか?……見くびるなッ!」

 怒りを言葉に乗せながら、続けざまに砂中から襲いかかる触手の群れ。片膝をついたままの姿勢で、エヴァは咄嗟に足腰の力を緩めて爪先だけに力点を集中させると、上半身を素早く捻り、すんでのところで外縁側へ--すなわち右へ跳んだ。

 触手が宙を空振り、だが素早く旋回し、エヴァの背後を取ろうとする。その時点でエヴァは、砂ではなく浜辺を支える最上層の岩盤そのものを無意識のうちに両手で掴もうとしていた。背後から迫る殺意をしかと感覚しながら、しかし決して焦ること無く、冷静に、素早く全身のバネを駆動し、四足獣類めいた姿勢から、クラウチングスタートを切るように砂浜を靴底で捉えて蹴り抜き、猛然と駆け出す。背後で爆音が鳴り響く。岩盤ごと穿つ勢いで、エヴァのいた地点を触手が叩いたのだ。その衝撃によって大量の砂が舞い上がり、パラパラとエヴァの頭上へと降り注ぐ。だが、そんなものに意識は奪われない。視線の先だけに集中する。フードを被るかつての友にして、立ち向かうべき敵の一挙手一投足に集中しつつ、懐へ潜り込まんと加速する。

 二撃目を躱してからここまで、およそ二秒。その二秒のうちに、エヴァの胸に去来していたのは……取り戻した鬼血人ヴァンパイアの力に対する、に他ならなかった。喉の渇きに悶える旅人が、コップ一杯の水を差し出されて咽び泣くように。家を失くした者が、新築された家屋に歓喜するように。を、喪失と奪還の過程を経て覚えたことで、エヴァの意識は大きく更新され、そして一方的に結び付けていた。感謝の糸で。他者という存在と。かつて自分に愛情を注いでくれていた、大切な強敵ともの存在と。

 ならば、今なら出来るはずだと確信する。感謝という名の、何物にも代えがたい重みを掴んだ今なら、あるべき心の形を宿

「ほう、近距離戦を挑むか」

 その度胸は買おうと不敵な笑みで告げると、ベルハザードは身体を右に入れ換えつつ、驚異的な速さで懐へ潜り込みかけたエヴァの顔面へ、触手の大輪咲き誇る右手を突き出した。その挙措に、一切の迷いは見られなかった。

 だが、大輪のように咲いた触手がエヴァの頭部を撃ち抜こうと勢い良く伸長しかけた刹那、両者の間で激しい閃光が散った。大角殿クシュットの最中に、たまに目撃された現象--力と力の衝突と拡散。血騰呪術アスペルギルムがぶつかり合った際に起こる、赤と黒と紫色の眩きが層状になった、稲妻じみた閃光だった。と同時に衝撃波が吹き荒れ、フードが捲れ上がり、ベルハザードの醜い相貌を月の下に露にした。

「なっ……!?」

 さしものベルハザードも、これは予想していなかったのだろう。虚を突かれた顔で、己の右手に視線を落とす。束ねていた触手の大輪が、己の意志に関係なく完全に消失していた。ただ、何かに弾かれた感触だけが、右手を痺れさせていた。

「アタシの血騰呪術アスペルギルムだ」

 決然とした声に振り返る。閃光の眩しさに乗じて、いつのまにか後ろを取っていたエヴァが、真剣な面持ちで立っていた。右手で左手首を掴み、胸の前で捧げるようにして構えながら。

 彼女の左手を見て、ベルハザードは沈黙した。赤黒い半透明のグローブが、エヴァの左手首から先を覆っている。ボクシング・グローブとは異なり、指の形状がはっきりとわかるオープン・グローブに近い形状をしていた。それこそ、身体を流れる血の呪いでなく、祝福された自身の魂を形にしたものだった。

血騰呪術アスぺルギルムだ」

 秋の湖面のような声音で、噛み締めるように宣言するエヴァに対し、ベルハザードは沈黙を保ったままでいる。エヴァと、生まれ変わった彼女の力を交互に左目で見比べながら。

「力を弾く力。それが貴様の選択か」

 おもむろに、探るようにベルハザードが問いかけた。

 エヴァは静かに首を横に振った。

「力を諌める力だ。弾く必要はないし、嵐に身を任せたりもしない。アタシはこの力で、ただ、アンタに伝えてみせただけだ」

「まどろっこしいな。何が言いたいんだ」

「触手が消滅したのは、この手を通じて『心』が伝導したからだ。力を諌める力である、この《》を前にしては、全ての血騰呪術アスペルギルムは意味を成さない」

「誰の心を伝えたというんだ? まさか『自分の心だ』などと口にするんじゃないだろうな」

「……この人のだよ、ベル」

 左手のグローブが月夜に煌めき、手の甲に浮かび上がる紋様をベルハザードの左目へ届ける。それはレリーフを象った紋様だった。麗しい長髪をした美女の横顔のレリーフだ。その横顔が誰であるか--目にした瞬間にベルハザードは認識し、だからこそ憤怒し、吠えた。

「……どこまで太母様を愚弄するつもりだ貴様ッ!」

 怒りに我を失いかけ、素手でエヴァを横薙ぎに殴り付ける。しかし、拳は空を切った。紙一重のところでエヴァが後ろに下がったためだ。だがそんなことに構わず、ベルハザードは唾を飛ばして激昂した。

「あのお方の心を伝えただと? そう豪語するなら、!? !?」

「ベル、それはあんたが、まだ――」

「もういい……その臭い口を今すぐに閉じろ」

 今度は一転して、冷たく突き放すように呟きを落とす。

「戯れ言は沢山だ。力を試すなどと口にした俺が愚かだった」

 世界へ対する徒労感を声に滲ませながら、ベルハザードは死んだ右目でエヴァを視界に捉えつつ、大きく後方へ跳躍。着地と同時に右手の指をかぎ爪のように折り曲げ、前方へ突き出す。

「どうやっても貴様を殺せないなどと、そんな甘ったれた台詞を感傷に乗せて口にしたのが間違いだった。だからこそだ。だからこそ、己の未熟さと決別する意味でも、この局面で最期としてやろう」

 右掌を起点にして、ベースボールサイズの正六面体が一個現出。すると今度は、正六面体の各頂点から針金のような線が伸び、線の端部が正六面体を実らせ、その各頂点から再び針金が伸び--エヴァの眼前に、正六面体同士の連結により完成を迎えた大網が展開された。瞬きをする間もない、一瞬のうちだった。

「《僥倖なる命の運び手ヴルート・ヴラスト大戦武討クリーク・テンツァ》――」

 赤黒い眩きを放ちながら、空高く君臨する奪命必至の巨大幾何学図形を前に、しかしエヴァは狼狽えるどころか、鋭く息を吐きながら両手に拳を作り、構えた。素手の右手に赤黒い粒子がどこからともなく凝集し、たちどころにグローブの形を取った。

「つきまとう腐れ縁ごと、その矮身を捻り潰してやる」

 怯える様子を見せないエヴァに闘争心を焚き付けられたか。大技を展開した途端、急速に熱を喪っていく左目の奥で、ベルハザードの意志が妖しげに輝いた。

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