2-67 PM20:45/No path back,but light shines

「ようやく追い付いたぜ、このクソッタレが」

 プロメテウス最上層のベネトナシュ区南西に位置する自然公園。人気のない夜の噴水広場で、黒き冠のエヴァンジェリンは、自らの半身的存在である《イドの怪物》の背中をようやく視界の中に捉え、荒い呼吸混じりに悪態をついた。

 アンビリカル・コードから送られる気配のシグナルを辿りながらの全力疾走。慣れない人の体ゆえに疲労を覚えなかったと言えば嘘になるが、そんなことを言い訳にしている場合ではない。

 ようやくここまできた――そんな達成感が胸中に満ちる。

 怪物は、こちらに背中を見せる形でひとり佇んでいた。ゆっくりと首を左右に動かし、噴水広場の周辺を観察するかのような挙動を見せている。

 コードで繋がっている以上、向こうもエヴァの位置を把握して当然のはずだが、気づいたような素振りは見せなかった。彼我の距離、僅か十メートルしかないというのにだ。

「……条件を満たした瞬間に……なあニコラ」

 怪物の奇妙な挙動を前に、エヴァは納得のいったように何事かをひとりごちると、傍らで怪物の仕草を興味深そうに観察しているニコラヘ声をかけた。

「こうして最上層にいるわけだが、どこにいけばお前の願いは叶えられるんだ?」

「この自然公園を通り抜けた先です。岸壁に灯台があるはずなんですが」

「灯台……そこがゴールってわけだな」

「はい。もうすぐそこですよ」

「なるほど……だが、悪りぃ。三十……いや、二十分ばかし時間をくれるか? ちょいと片付けなきゃいけない用事があってな」

 エヴァの深刻げな物言いを受けて、ニコラが下から覗き込むような姿勢になって問い掛ける。

「まさかエヴァさん、あの怪物をどうにかする気なんですか?」

「どうにかしなきゃいけねぇのさ。アタシのためにも、ベルのためにも」

 多くは語らないという口振り。それでも、ニコラはエヴァの意を汲んで、静かに頷いてみせた。

「そういうことでしたら」

「分かってくれるか。ありがとうな。あぁ、それと……」

「まだなにかあるんですか?」

「……いや、なんでもない」

 自分が下手を打って怪物に食われることがあったら、その時はベルのところへ行ってくれないか――喉奥まで出かかったその台詞を、エヴァは無理矢理にでも飲み込んだ。全ての人類にとって平等であることを自認する奇跡の体現者に、そんなお願いをしたところで断られるのは明らかだったし、それに、なにより、

「(まるで敗北を見越したような言い方じゃねぇか)」

 心の靄を晴らすように頭を振り、深呼吸をひとつ。眦を決して、怪物の隆々とした漆黒の背へ意識を集中する。ここまできて、弱気に陥ってはならなかった。ベルハザードとの約束を果たすためにも、なにより自分を取り戻すためにも。

 そんなエヴァの覚悟を見届けると、ニコラは小走りで噴水広場を出て、歩道脇に林立する雑木林の陰に身を潜めた。

 さざめき。白い軌跡を描いて噴水が宙へ昇る。その拍子に夜風が吹き、霧吹きのように水滴がエヴァの頬を叩いた。

 おもむろに怪物が振り返った。その異様な体躯にエヴァは唾を飲んだ。仄かな月明かりの下でもはっきりと分かる巌のような体つき。手足は丸太のように太く、漆黒の表皮には頭から爪先まで赤い紋様が亀裂のように刻まれている。目も、鼻も、耳も、口もない、正真正銘の無貌。だがエヴァははっきりと感覚した。怪物がこちらを見据え、存在の匂いを嗅ぎ、心臓の鼓動を拾い、にたりと嗤ったかのような感覚を。こんなおぞましい怪物が、生まれた時から自分の体の中に巣食っていたとは。到底信じられなかったが、しかし信じなければ何も始まらなかった。

「さぁて、邪魔者はいなくなったぜ。屋上の時と違って、アタシもこの通りピンピンだ」

 無理を押して作り笑いを浮かべながら、右腕をこれみよがしに大きく回す。そうやって虚勢を張りつつ、エヴァは怪物へ語りかけた。

「それがなんだろ? 。だから人気のない場所に誘い込むように逃げ回った……ベルがそばにいちゃ、失敗するかもってビビってたんだろ? アタシに似て臆病な性格してやがるな。そりゃそうか。お前はアタシでもあるんだから」

 すべて、アンビリカル・コードを通じて流れてきた怪物の思念の断片をエヴァが独自に組み上げた推論でしかなかった。その推論に則った煽り文句が怪物に届いているかどうかは、判然としない。なにせ怪物は、背を丸めて威嚇するかのように、あるいは獲物に飛びかかる肉食獣のように、低い唸り声を溢すばかりだったからだ。欲動イドの名を冠する者らしく、どうやら本能的な判断基準しか持たないらしかった。全ての理性は、いま、エヴァの側にあった。

「そうやって様子を窺ってばかりか? なら遠慮なく……アタシの体の中に戻ってもらうぞ!」

 そして、その理性に後押しされる形で体が動いた。漆黒に赤い亀裂の鎧を纏った怪物目掛けて、一直線に駆け出し、右拳を思い切り振り上げる。

 自分を取り戻すために何を為すべきか――漠然としていながら、だが「それをしなければならない」という明確な意志だけが、篝火のごとく燃え上がっていた。怪物の顔面を殴り付けるという行為がそれだった。そうすれば力が戻る確信はあった。なんの根拠もないというのに、不思議な心の働きだった。千切れ飛んだ雲はしょせん雲でしかないというのに、手を伸ばせばいとも容易く掴めてしまいそうな、そんな感覚だった。

 しかし実際のところは、エヴァは雲を掴むことはおろか、まともに殴り付けることさえ叶わなかった。

 ずぶり、と音がした。そう意識した刹那、痛みに近い冷たさが、右の拳を襲った。エヴァは瞠目した。自らに降りかかった事態に、思わず目を疑った。

 怪物の顔面に、自分の拳がめり込んでいた。凹むでも弾かれるのでもなかった。まるで池に小石を投げ込んだかの如く、拳が怪物の顔面に飲み込まれていた。

 恐怖――咄嗟に腕を引き抜こうとしたが、その時、強烈な痛みが掌全体に走った。その際の感覚をたとえるなら、鑢の泥沼のようだった。手による感触としては泥のように粘性があり、だが砂粒ひとつひとつがノコギリの刃のように研ぎ澄まされているようで、無理に引き抜こうとすると皮膚がべろべろに剥がれるような――あり得ない悪夢に思考が立ち眩んだ。

「_|―_|―――・///|||!!」

 エヴァの右拳を顔面で呑み込んだままの体勢で、怪物が、勝ち誇るように無貌の雄叫びを上げた。至近距離での叫声。強烈な音圧がエヴァの両耳から機能を奪った。破れた鼓膜を気にする間もなく、エヴァは右腕どころか、いつの間にか体のほとんどが怪物の体に呑み込まれかけていることに気づいた。怪物は、まるで愛しい人を抱き止めるように太い両腕をエヴァの背へ回し、その矮躯を包容しにかかっていたのだ。

 それは絶望の包容だった。少なくともエヴァにとっては。今この時ほど、人間の体でいることが恨めしくて堪らなかった。緊張と恐怖から心臓が早鐘を打つのが感覚された。自分が自分でなくなる――渦巻く屈辱に唇を強く引き結び、瞳に涙を湛え、無心に祈りを捧げた。この場にいない誰かベルに。それでも助けが割って入ってくることはなかった。

 全身が、幽界のような肌寒さに覆われた。そこでエヴァの意識は奈落の底へ堕とされ――だが次の瞬間には目覚めていた。

――エヴァ、おい、エヴァ。

 遠くから響いているかのような懐かしい声に、目を瞬かせる。うすぼんやりとした視界が徐々に明瞭さを取り戻し、世界が輪郭を象っていく。

 湿気を帯びた岩肌のそっけない感触を、固い布越しに臀部が感覚した。横に平べったい鉱石製の長椅子に座っているのに、そこで初めて気づいた。慌てて服装を確認するが、異常はない。しかし何かがおかしい。困惑混じりに上を見上げれば、遥かに高く、見る限りどこまでも続く岩天井が飛び込んできた。

 疑いようもない。コロニーだ。地下時代の《斜陽の冠》のコロニーだ。しかも……

「ここは……大角殿クシュット……の……あの日の……」

 目の前には鉱物混じりの土くれで焼き固められた大きな土俵があり、勇壮にして神秘なる古代の香りを漂わせる音色が、破れたはずの鼓膜を震わせている。

――大丈夫か? うなされていたみたいだが。

 すぐ横に座るベルハザードが、緊張を解すように穏やかに微笑みかけてきた。それから、エヴァの乱れた前髪に日焼けした指先でそっと触れた。まるで世話焼きな兄が、妹の身だしなみを優しく整えるかのようだった。

「ベル……」

 だが、エヴァの心中は全く穏やかではなかった。狐につままれたかのように、かつての友の姿をまじまじと見やる。褐色の筋肉質な体つき。健康的な黒髪。驚いて、今度は右のこめかみを盗み見る。そこに、忌まわしき呪いの眼は散らばっていなかった。

「………なんで……これはいったい……」

 ――後悔しているか?

「え?」

――俺たちの太母をその手にかけたことを、後悔しているか?

 相変わらず穏やかな笑み。自ら呪いを被り、狂気に奔った事など、すっかり忘れたかのような笑み。眩しい笑み。信頼を寄せる笑み。その笑みを激しく曇らせたのが誰であるか、エヴァはよくよく自覚していた。自覚せざるを得なかった。

「なにを分かりきったことを……当たり前じゃないか」

 エヴァは逃げるように視線を外し、答えた。極めておかしな状況であると頭では分かっていても、その問いを無視することは出来なかった。

――そうか。

 ベルハザードが頷いた。

――

「え?」

 驚いて顔を上げる。言葉が出なかった。さっきとは打って変わって、能面のような無表情を浮かべている。

 ピッとテープを剥がすような音がしたかと思うと、ベルハザードの顔の皮膚が、鼻の辺りを中心に縦へ横へと渦を描くように捲れていった。複雑に折り重なる花弁を一息に解放するかのように。皮膚、神経、血管と、次々におぞましい光景を露わにしていきながらも、血は一滴も流れなかった。そうやって渦の底で待ち構えていたのは、頭蓋骨ではなく、奈落のような闇であった。深淵の彼方かと思うほどの途方なき黒の濃度が広がっていた。さながら深海のようだった。そこで、橙に輝く半円状に近い何かがあるのをエヴァの光彩が捉えた。

 その瞬間、まともに呼吸できなくなっていた。

 ゴミで詰まった下水道の配管の中を水が無理やり流れているような奇音が喉元から洩れ、ぶわっと脂汗が全身から滲み出た。

「――は」

 やや遅れて、高熱バーナーを直に当てられているような激痛が首元を襲った。まさか――恐る恐る喉の辺りに手を伸ばすと、堅くて生暖かく濡れた何かに触れている感覚があった。

 視界がぐらついた。見ると、指先が赤黒く濡れている。悪寒に全身が痙攣しだした。直後、思い出したかのように、ひどく生臭い悪臭が容赦なく鼻腔を貫いた。間違いなかった。血の臭いだった。首肉に深くめり込んでいるのは、夕焼け色の刃だった。

 そう認識した途端に、一気に気が遠くなっていった。ベルハザードの呪詛に打ちのめされながら、エヴァの意識はそこで途絶えて――しかしながら、次の瞬間には目覚めていた。

「――っつぁ…………!?」

 反射的に喉元に手を触れながら半身を起こす。瀕死の傷は消えていた。

「どういう……」

 視線が激しく泳ぐ。鼻腔が汗を掻く。心臓が、何かを振り払いたくてしかたないとばかりに早鐘を打つのを、体と耳で感覚しながら、叫びだしたい衝動に駆られた。

 長い悪夢からようやく覚めた。そう思いたかった。だが眼前の光景は無慈悲にも変わらず、やはりあの大角殿クシュットの夜だった。

「な……に……なん……?」

 訳も分からず途方に暮れるエヴァを嘲笑うかのように、周囲を取り囲み、見下ろしてくるかつての同胞たち。いつの間に湧いてきたのか、揃いも揃って濃密な陰を纏いながら指を差し、歯を剥き出し、蔑みの視線を送りながら悪罵を吐き散らす。

――貴様は産まれてくるべきではなかった。

――勇者ベルハザードは貴様のせいで呪われた。

――母の愛を知らぬ仔よ。

――貴様の頭上で福音の鐘は鳴らない。もう何もかもが出遅れだ。

 違う、これから鳴らすんだ――そう口にしようとしたところで、同胞たちの纏う影が蔓のように伸びてきて、エヴァの口元を塞いだ。

――過去は取り戻せない。

――貴様の過去にも、母の過去にも、ベルハザードの過去にも。

――二度と、光が差すことはない。

 影は集い、群れ、絡まり、エヴァの体をきつく締め上げていく。手加減や容赦は一切なかった。それは間違いなく欲動が暴力の形を成した結果だった。締め上げられる体。見た目には地味でも、猛烈な痛みが全身に襲い掛かっていた。体の中から、筋肉が潰れ、骨が砕かれ、内臓がひしゃげる異音がするたびに、信じられない量の血を吐き出した。凄まじい激痛に白目を剥いて気をやりそうになるたびに、耳の奥へ影の触手がするすると入り込んで柔らかな脳を遠慮なく乱暴に刺激するものだから、奇妙な痙攣と共に叩き起こされ続けた。

 薄れゆく意識の中で、身体中の至るところから――それこそ目や耳や口からひどい悪臭のする体液という体液を撒き散らしながら、エヴァは心底思った。自らの罪を、この程度の拷問で贖えるのなら安いものだと。そう実感した直後に、首の骨が折れる音を自らの耳でしかと聞き届け――だがまたもや次の瞬間には目覚めていた。

 今度は、耳をつんざく轟音に肚の底を揺さぶられた。驚き混じりに体のあちこちを触り、確認する。どこにも異常は見られない。またもや体が復元していた。

 慌てて周囲を見る。あちらこちらへと逃げ惑う同胞たちの姿が目に留まった。場所は希少鉱物で装飾されたエントランス。怒号と足音の波を引き裂くように、鋭く響く風切り音。見上げると、岩盤の天井ではなく、頑強な木材で緻密に組まれた伽藍が目に飛び込んできた――爆撃を受け、既に半壊しているが。

「地上だ……つまり、ここは……」

 気づきはすぐに事象となって立ち現れた。外に展開していた護衛士たちの死灰を背景に、エントランスへと雪崩れ込む異形のサイボーグ集団。《緋色の十字軍クリムゾン・バタリアン》のいずこかに連なる部隊だ。血と硝煙を残響に、殺戮の合奏を轟かせながら瀑進していく。

 鬼禍殲滅作戦オウガ・バニッシュ結実の夜。狩人たちが同胞たちの背中を、腹を、顔面を、赤い弾丸で撃ち抜いていく。目の前で繰り広げられる地獄の光景が、しかしある時点で急に陽炎のように揺らめき、新たな光景が水彩画のように滲み出て、現実そのままの質感と空気感と、なにより臨場感を備えて展開された。

 新たに現れたそこは《夜奏宮》――地上拠点において唯一の半地下空間。低い天井に、溶接された鋼鉄製の壁。名前とは裏腹の殺風景な空間。次世代の息子娘を産むための隠れ家らしい、こじんまりとした一室。分厚い金属製の円形扉。寝食の世話をする際にのみ、外部から開けることを許されているはずのその扉が、いまは完全に開け放たれていた。エヴァが、その理由を知らないはずがなかった。

「太母……様……!」

 眼前の光景に絶句する。

 艶やかな蒼髪に、悪魔の火のように燃える緑瞳。血のようなアイシャドウ。白磁のようにきめ細やかな肌……洒落たベッドの方を向いて立ったままの太母。シルクの寝巻に包まれたまろやかな肢体。麗しの尊顔に憂いの陰を帯び、しかしながら、背後に立つ「裏切り者」の放つ殺気には気づいていない。

 ここに来て、ようやくエヴァは確信した。イドの怪物の目的を。自分を永劫のループ空間に閉じ込めたのは、こちらの心をもてあそぶためではない。

 激しく絶望させる――そのために、あの夜の決定的な惨劇を、当事者の前で忠実に再現しようというのだ。

「太母様!」

 気づけば駆け出そうと、足を一歩踏み出していた。そういう行動に出ることをイドの怪物は予期していたのか、足下から無数の影が怨嗟の声を上げながらすがり付くように飛び出して、無数の手がエヴァの足腰を掴んで妨害を仕掛けてきた。

――自分がそんなに可愛いのか?

――罪に向き合え。そして贖え。

――誰も救えないのだから。

「……っ……それでも!」

 鼓膜を不気味に揺らす呪いの言葉を受けても、エヴァは懸命に前へ進もうとした。歯を食い縛り、額に大量の汗を滲ませながら。だが一向に距離は縮まらない。もどかしいほどに。過去は現実に迫れるというのに、現実はどうあがいても過去に寄り添えないと暗に告げるかのようだった。

 口の中がカラカラに乾いていく。すぐ目の前で、過去の自分が獰猛な笑みを太母へ向けている。

 やめろ――精一杯そう叫んだはずだったが、恐ろしいほどに響かない。

 過去のエヴァの姿が二重にぶれて、ほとんど本人の体と重なるようにしてイドの怪物が姿を表した。夢で見たのと全く同じ光景だった。

 怪物の豪腕が太母の背中をぶち抜いたのは、あっという間だった。致命的な一撃だ。華奢な肢体が大きく弓なりに反れて、長く美しい蒼髪が絶叫を迸らせるかのように舞い、死相を隠す。膝から力なく崩れ落ちながら、千切れたはらわたから虹色の体液が辺り一面に飛び散り、真っ白なベッドシーツへ絶命のマーブル模様を刻み付ける。

――しかと見届けよ。貴様の罪のおぞましさを。

――心を殺せ。

――贖罪にその身を燃やすのだ。

 哄笑混じりに飛び交う怪物の嘲りが、刃となってエヴァの心を引き裂いていった。

――太母様! これは……なんという……! あぁ……!

 振り返ると、恐れていた視線とかち合った。ありうべからざる惨劇を目の当たりにしたベルハザードが、呆然とした面持ちでエヴァを見つめていた。史実通り、太母の安否を確かめるために半地下に続く階段を降りてきていた。

「(あぁ、なんだよ、ちくしょう)」

 下唇を血が滲むほどきつく噛み締めながら、激しい後悔の念に襲われた。

「(アタシは、こんな顔をさせちまっていたのか……たった一人の、大切な友達に)」

――エヴァ……! いいや、エヴァンジェリンッ……! き、貴様、貴様は……! 太母の想いも知らずに、よくもこんなッ……!

「(そうだ、あんたには、そうやってアタシを憎む権利がある)」

 深い悲哀から圧倒的な憎悪へ切り替わり、目から血を流す勢いで睨みつけるベルハザード。

 エヴァの脳裏に、階層間エレベーターでの邂逅が甦る。視線で射殺す勢いの復讐鬼へと変貌したかつての友を前に、己の甘さを痛感する。

 そうだ、本来ならこうなって当然じゃないか。結局、彼の中に残っていたわずかな優しさに甘えていただけなのだ。共闘関係を結んだこと事態が大きな誤りだったんだ。

 崩れかける心。とどめと言わんばかりに時が巻き戻り、もういちど太母殺害の手前まで空間時間が逆再生する。怪物は、完膚なきまでにエヴァの心を蹂躙しようというのだろう。現実世界へ帰還した時、肉体のイニシアチブを握れるように。

 ――過去は取り戻せない。

 ――貴様の過去にも、母の過去にも、ベルハザードの過去にも。

 ――二度と、光が差すことはない

「当たり前だ。だってこれは、アタシが始めたことなんだから」

 呟くような涙声。溢れる苦笑。前に進もうという気力は、すでに風前の灯火も同然だった。

 過去に光は差さない。その通り。なら過去に向き合い、激しい後悔の念を抱き、贖うしかないのだ。心が壊れるまで。決闘などとぬかして、潔くベルハザードの手にかかる資格すらない。惨たらしく殺されるのが筋だろう。

「ただ、それでも」

 沸き上がる想いがあった。そこに嘘偽りはなかった。

「太母様に……お母さんに……謝りたかったなぁ……」

 繰り返されるおぞましい過去を前に、エヴァは俯き、小さな肩をいからせてぽろぽろと熱い滴を溢した。太陽のように熱く、宝石のように光る滴を。

 凛とした、力強い声。

 はっとなって、エヴァは面を上げた。

 イドの怪物が、たじろいだ。

「それこそが、私のやるべき、最後にして真の務め」

 ベッドに視線を落とし、過去の牢獄に囚われるだけでいた太母が――蒼き黄昏のフラジィルが、過去のエヴァとほとんど同一化したイドの怪物へ、向き直っていた。

 これぞ本当の幻なんじゃないのか――エヴァは半ば本気でそう感じ、狼狽えた。そう直感したのは、慈愛と決意がない交ぜになった太母の瞳に見つめられた怪物も同じだったが、さらにそこに、明らかな恐怖の反応が見てとれた。握った拳を突き出すべきかどうか、迷いが生じているのがエヴァにもわかった。

 ――躊躇した怪物の様子をそう見て取ったのか、フラジィルは怪物へ優しく微笑みかけながら、そっと右手を相手の顔の正面へ翳して、宣告した。

。あなたのあるべき場所へ」

 刹那、フラジィルの右手を中心に、凄まじい勢いで光の大瀑布が起こった。その、ほとんど爆発と言って良い光の発散に、半地下空間のあらゆるものが飲み込まれていった。反射的にエヴァは目をつむり、両腕で視界を覆ったが、それでも光の軌跡がまぶたの裏に焼き付きそうだった。

 何十秒経過した頃だろうか。ゆっくり瞼を開けたエヴァの眼前に飛び込んできたのは、四方が完璧な白で覆われた空間だった。それでいて、完全な無音の世界でもある。あまりのことに、落涙は引っ込んでしまった。

 さっきまで獰猛な殺意を振り撒いていたイドの怪物の姿は、どこにも見当たらなかった。足腰に絡み付いていた影たちも同様だ。代わりに、不可思議な風景がエヴァの足下を流れていた。

 山間に沈む黄昏時の夕陽を、蒼のグラデーションで染め上げたような大スクリーンの風景。言うなれば「蒼の夕焼け」である。そんな風景を目にしたのはもちろんこれが初めてだったが、たしかにそれは、正しく「蒼い夕焼け」と言うしかない光景だった。

「エヴァ」

 十年も昔にこの手で消してしまったはずの声に、思わず反応して前を見る。

 真紅のシルクドレスに、鋭角に襟を立たせた闇色のマントと、装いを新たにしたフラジィルが背筋をぴんと張り、膝の辺りで両手を重ねて立っている。目元に、寂しくも懐かしさに浸る笑みを浮かべて。

「いまだけ、あなたとこうして巡り会えたのも、きっと運命の一ページなのでしょう」

 一片の敵意もないその呼び声に、だが、呼ばれた当の本人は僅かに表情を強ばらせた。それは、突如として生き生きと現れたフラジィルの存在を警戒しているというより、己の認識力を疑っている態度だと言った方が、正確かもしれない。

「これも、あの怪物が見せている幻……?」

 怪訝そうに眉根を寄せながら口にしたその呟きに、フラジィルが静かに反応した。

「イドの怪物は、すでにあなたの肉体へと還りました。幻ではなく、ここは現実の世界ですよ。ただし、あなたの心を鏡にした現実。より正確には、私の心象世界を映し出した世界です」

「心象世界……?」

「それが私の血騰呪術アスペルギルムが持つ特徴のひとつなのです。死後に魂のみの存在となって、鬼血人ヴァンパイアの再生機能では太刀打ちできないほどの肉体的・精神的危難に襲われた時に、我が子を守護する力……私自身の死をトリガーとして発動するこの能力も、あなた相手では色々と計算外の事態が生じましたが、それでも、こうして再び会えたのです。母としては、このうえなく喜ばしい……」

「ま、まって……あ、いや、待ってください。その、想定外ってのは……?」

「既にベルハザードの口から耳にしていると思いますが、あなたの操る血騰呪術アスペルギルムは、あなた自身の血に由来するものではありません。原動力となっていたのは、あなたの心に潜む欲動の化身でしたからね。あの怪物が先客として、あなたの心を占拠していた。私も抵抗を試みましたが、ついに追い払うことは叶いませんでした」

「どうしてその話を……」

「言ったでしょう? ここは、あなたの心を鏡にして映し出された私の心象世界。つまり、私はあの日から、ずっとあなたの中で生きていたのですよ。。おかげで、人間社会に対する理解がだいぶ進みました」

「……え?」

 衝撃的な事実の告白を受けて、エヴァが思わず固まった。その様子を見て、まるでいたずらが成功した幼子のように、フラジィルがクスクスと笑いを噛み殺した。

「ふふ、驚いているようですね? 母の目は誤魔化せませんよ? あなたが日々何を思い、何を見聞きし、どんな経験を積んできたか、全て把握しています」

 エヴァは閉口した。それから僅かに目を伏せた。自分が母殺しの事実から逃げていたことも、過去と真摯に向き合ってこなかった怠惰な振る舞いも、何もかもが筒抜けだったと分かった途端に、なんとも言い難い感情に支配されて、押し黙るしかなかった。

「計算外というのは、イドの怪物が障害となって、あなたの魂と同化できなかったこと。だから私は、自らの魂を宿し、肉体の側から魂に干渉し、イドの怪物を制御しようと試みたのです。エヴァ、一度目の命の危難を覚えていますか? あなたが今日、まさに体験したことを」

 指摘を受け、わずかに顔を上げる。捲られていく今日の記憶のページにおいて「必死」や「懸命」というワードは数多くヒットしたが、「命の危機」となると限られていた。だから、引き出すのに時間はかからなかった。

「……ヘリにしがみついて……中層に墜落した時……」

「あの時、あなたの再生機能の強度は著しく低下し、そのまま死んでもおかしくはなかった。私の力が発動したために事なきを得ましたが、二度目の危難に至っては、なかなかそうはいかなかった」

「……輝灼弾を撃ち込まれたから?」

 中層での、とあるビルの屋上での一戦。ワイヤー使いのサイボーグに手酷くやられた時のことを思い出しながら、エヴァは口にした。

「あの弾には溶血作用だけでなく、あなたの血に宿っていた私の魂までも掻き消そうとする力が込められていました。おそらくは当初から、がなにかしらの呪的効果を仕込んでいたのでしょう。そのために私の力は一時的に減衰せざるを得なかった。あなたの体を回復することはできても、イドの怪物を抑制する力は弱まり、顕現を許してしまった。もっとも、それがきっかけとなって、私の魂はあなたの魂と、こうして同化することができましたが、しかし貴方には更に辛い目を負わせることに……母として、情けない限りです」

「そんなことない!」

 反発するかのようにエヴァが大声をあげた。さっきまでと打って変わったようなその態度にフラジィルが目を丸くしたが、それでも構わずエヴァは続けた。

「あの怪物が外に出たおかげで、アタシは自分の過ちに気づけたんだ。大切なものはすぐそばにあったのに、それに全然気づこうとすらしないで……馬鹿だったんだ……自分だけが不幸そうな面構えして……だから、あんなことをした……」

「エヴァ……」

。アタシには、何もなかった。仲間にも馬鹿にされるし、居場所なんてどこにもないって塞ぎ込んでた。でも、貴方は違った。全部持ってた。自分を崇拝してくれる人も、自分が愛を注いでやれる人も……自分を理解してくれる人も沢山……そりゃあ、太母様なんだから当然だって、嫉妬したってしょうがないって分かってた。分かっていたはずなのに……苛立って仕方なかったんだ」

 罪の告白を切々と続けながら、ついに耐えきれなくなったのか。さめざめと涙を溢し始めた。震える喉の奥から、一言一言を噛み締めるように、「それがもう二度と戻らない」ことを強く自らに意識させるように、感情を紡いだ。

「でも、何もないなんてことはなかったんだ……ッ! いつもアタシのそばにはベルがいてくれた。あいつは、いつだってアタシのことを気にかけてくれていたんだ。それなのに、あんな最低な裏切り方をして……アタシは、アタシを理解してくれていた人を、自分の手で壊しちまったんだ……ッ!」

「……過ちを犯したという意味では、私も同じです」

 それまで静かに耳を傾けていたフラジィルが、靴音を綺麗に響かせ、歩み寄る。同化した魂の中で、それでも我が子の心に寄り添おうとでも言うように。

「私の方こそ、あなたにもっとしてあげることがあったのに、その役目を放棄してしまっていた。《太陽に呪われた子》というレッテルを外してやれなかったのは、ひとえに私の統率力が欠けていたから……ベルハザードひとりに責務を押し付けた私も同罪です」

「でも、アタシが太母様を……手に掛けなかったら、こんなことには……ベルも、太母様も、みんなも、平和に笑って生きていたかもしれないのに」

「それは、どうなんでしょう。あなたが凶行にはしらずとも、遅かれ早かれ、鬼血人ヴァンパイアはあのような道筋を辿っていたのではないでしょうか。これは何も気休めではなく、本心からそう思うのです。あなたが、あのニコラという少女に語ったように、偶然という名の必然が重なった末の運命だったのかもしれない。それを《種の滅び》であるとは感じませんが、しかし、私たちの栄華が化石として歴史の地層に刻まれたのは事実です。だからね、エヴァ」

 太母が微笑んだ。暗闇の眷族を統べる夜の女王が見せた、それは朝日のように穏やかな微笑みだった。

鬼血人ヴァンパイアであることに誇りを持てないことに、自虐的になる必要も。あなたは、あなたの人生を歩むべきなのですよ」

「……やって、いけるのかな。人間だけの世界で。それに、また間違いを犯すかもしれない……」

「間違いを犯すことは、誰にだってあるのです。そして、それがどんなに取り返しのつかない間違いだとしても……正しい向き合い方を見つけ出せば、必ずやり直せます」

「……正しい向き合い方……正しい、向き合い方……」

 まるで、初めて知った言い回しを自分の中に落とし込むように、エヴァはゆっくり噛み締めるようにして復唱した。その言葉を、どんな具体的アクションに昇華するべきか、よくよく考える必要があった。

「真に謝罪と感謝を伝えなければならない相手が、誰であるか、あなたはすでに知っている。彼との正しい向き合い方を、あなたならきっと見つけ出せるはず。それがきっと、あなたの新しいスタートになることでしょう。あなたのことをずっと見てきた私が言うのですから、間違いありません」

 どんな《奇跡》を願えば、彼を救えるのか。すでに組み上がっていた式を、もう一度分解し、吟味する必要があった。限られた、わずかな時間の中で。それをやるのが絶対的責務だった。

「……ベルの、ことですね?……」

 我が意を得たりとばかりに、フラジィルが頷いた。

「全てを押し付けてしまいますが、過去に囚われたベルハザードを救えるのは、あなたしかいません。生真面目で優しく、責任感の強い、だからこそ全てを背負い込んでしまった彼の弱さに、どうか寄り添ってあげてください。もう母のことを気にする必要はありません」

「アタシを、赦すんですか……?」

 伏せていた面を、恐る恐る上げる。やっぱり幻なんじゃないか。そんな不安が再び鎌首をもたげた。全ては、あの怪物の見せる夢なんじゃないかと。

「赦すも赦さないもありません。親子の間に、憎しみの入り込む余地なんて、あってたまりますか」

 だが、たしかにそこに、母は母の顔で立っていた。

「……! 太母様ぁ!」

 気付けば、エヴァはしがみつくようにフラジィルへ抱きついていた。

 母の匂いがした。懐かしい匂いだった。心が覚えている匂いだった。

 大粒の涙を溢し、鼻水をすすり、嗚咽を漏らしながら、エヴァは、あらんかぎりの言葉をかけた。

「太母様……! ごめんなさい……! ごめんなさい……! お母さん……!」

 フラジィルは幼子をあやすように、エヴァを両腕で包み込むと、その小さな背を優しく撫でた。何度も何度も。

「ありがとう、エヴァ。私の愛しい娘。あなたを産めたことを、母は誇りに思いますよ」

 無性の愛を注いだ直後、フラジィルの全身から、煙のように光の粒子が発散しだした。

 もうそろそろ、しばしのお別れが近づいている……エヴァはそう直感した。

「時間ですね……」

「うん……」

 名残を惜しむように、母と娘の身体が離れた。

「私の血騰呪術アスペルギルムが効果を発揮するのは三度まで……そしていま、三度めの危機は回避された。この心象風景は別れの場でもあるのですよ。ですがそれは、永遠の別れではない……」

「うん、なんとなくだけど、アタシにも分かる……きっとまた、会えるよね?」

「いつでも会えます。あなたが想い続ける限りは。いつだって私たちは、同じ景色を見ているのですから」

 光の発散が、いよいよ加速度を増していく。彩度とコントラストが下がっていくように、だんだんと母の姿形がおぼろげになっていく。

「過去は戻らない。それでも、光は差すのです。あなたは、もう大丈夫」

「太母様……お母さん……」

「さあ、起きなさい。そして生きるのです。《太陽に祝福されし者デイライト・ウォーカー》、黒き冠のエヴァンジェリンよ」

「……ありがとう」

 お母さん――そう口にしたところで、まさに太陽のような眩しさが辺り一面に弾け、エヴァの意識は覚醒した。







 ▲▲▲






「あ! 起きた! エヴァさん! エヴァさーーん!」

 目覚めてすぐ、ニコラの騒々しい声に鼓膜を揺さぶられた。

 ゆっくり瞼を開けると、見渡す限りの夜空が飛び込んできた。どうやら、ずっと地べたに倒れ込んでいたらしい。だが気だるさは皆無で、それどころか、爽やかな朝日で目覚めたかのような快感があった。

 上体を起こしたところで、雑木林の陰に隠れていたニコラが、さながら、はぐれた飼い主を見つけた犬のように駆け寄ってきた。

「ちょっとちょっと! 大丈夫ですか!」

 ばしばしと身体のあちこちを叩いてくる。遠慮というものがないのだろうか。うっとおしげに髪の毛についた砂利を右手で払いながら、エヴァのはたきを左手でいなす。

「やめろよ。痛ぇから……ったく。なんだよ人の心配するなんて、おまえらしくもねぇ」

「ああ! 良かったぁ。そのふてぶてしい態度、いつものエヴァさんですね!」

「いつものって……今日出会ったばかりだろーが。調子のいいやつだな」

「いやいや、でも本当に心配したんですよ。だってもう、奇跡の体現者たる私が今まで見てきた光景? 風景? とにかく物凄かったんですから!」

「ほぉー、どう凄かったんだ」

「えっとえっと、まずですね、あの怪物がエヴァさんを包み込んだ途端、大きな真っ黒いボールになったんですよ。それで、ボール自身は全然動かないんですけど、表面がうねうねトゲトゲ奇妙に変形しだして……控えめに言ってキモかったです!」

「ふんふん」

「なんですけど、突然ですね、黒いボールがパンッ!って内側から弾けて、ものっそい美人がエヴァさんを膝枕してたんですよ。エヴァさん、すんごいスヤスヤ眠ってましたよ。赤ん坊みたいに」

「……その人の顔、見たのか?」

「いいえ、後光がすごくて、眩しくて何も」

「じゃあなんでわかる?」

「そりゃあ、私は奇跡の体現者ですからね。あれは間違いなく女の人でした。それも超絶美人だと確信してます。あんな美人は初めて見ました。あ、でも」

「でも?」

「……今になって思うと、なーんか雰囲気がエヴァさんに似ていたような……うーん? でも美人だったしなあ」

「アタシに似てるはずないって? 相変わらず失礼なやつだなぁ、お前は」

 わずかに棘を残しながら、どこか楽しそうな、それは穏やかな声色だった。ニコラが、不思議そうに小首を傾げた。

「エヴァさん? なんでそんなに嬉しそうなんですか?」

「決まってるだろ、そんなの」

 両足に力を込めて立ち上がる。一陣の夜風が、行き先を示すように、灯台の方角へ向かって吹いた。その先を見つめて、エヴァはニコラには聞こえないぐらいの小さな声を、風に乗せた。

「母親を誉められて、嬉しくない娘なんて、いねーよ」

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