2-66 PM20:30/天理賢人【アイスキュロス】②
「プロメテウスの炎を、人間の手に取り戻す……天理たる
言外に、自らを万物の統治者と自称する黄金色の彫像。その声には傲慢ともとれる宣誓を悪びれることなく口にする闖入者を諫めようとする感情も、ましてや怒気すらも感じられなかった。事実を確認するような、事務的な振る舞いだけが目に付いた。
だからこそ、ディエゴも過剰に攻撃的な態度を選択しなかった。少なくとも今のところは、相手の波長に自らのテンションを合わせ、目の前に立つ彫像がそうであるように、壁としてこの場に立つことを意識した。汎用AIとして活動し続ける彼らの振る舞いに、怜悧な疑義を突き付ける壁として。そのような存在として己を価値づけることに、ディエゴが臆することは全くなかった。
「世界の裏側で、貴様がどのような活動をしてきたか。その概要については、そこに倒れ伏している男のオフィスにあった資料から把握している。憎悪、後悔、不満……人が人であるがゆえに、心に檻のように溜まる負の感情。そこをトリガーとして生まれる攻撃性を外部ではなく
「そうなるよう望んだのは、他ならぬこの都市の人間たちだ。企業連合体の開発陣と、あらゆる階層に居を構える人間たちが、それを選択した。人が生まれながらにして持ち得る、時に合理的で、時に非合理的な物差しを、彼ら自身が捨てたのだ。すなわち、徳によってではなく、万物を統べる超越的な高次元的存在者たる
「大勢の人間たち?」
「開発された当初、
「つまり、都民の集合的無意識を観測する中で、貴様という存在が現れてきたと?」
「
「その事実に照らし合わせて、都市を統治するわけか。事実を知らぬ者たちの意見は切り捨てて。なるほど、たしかに民主主義的な方策と言えるな。確認しておくが、貴様の両手で掬い上げられた規則性の中には、私の無意識領域下の願望も含まれているのかね?」
「都市を生命として扱っている以上、そのような個人的な願望は、都市を運営する上では些事に過ぎないと
「都市を生命として扱う?」
「いかにも。地球を生命として扱うガイア理論が存在するように、
掌の上の肉塊が大きく唇を開き、真っ黄色な乱杭歯を剥き出しに、ノイズそのものな笑い声を上げた。それまで「賢人」の名を持つ者らしい理性的な態度とは真逆の、人間が持つ攻撃性を具象化したような態度だった。それでも、ディエゴは怯えるどころか、そのエメラルド色の瞳の奥で、この醜悪と華美が同居する黄金の支配者の真相を掴もうと、言葉を発した。
「個人の願望を切り捨て、最大公約した都民の意思を掬い上げ、都市の生命線を伸ばすアルゴリズムを選択し、政策を敷く。対外的な戦争に取り組むこと自体が、ビジネスとしてすでに欠陥であると判断する。そして、まるで都市を生命という名の総和として扱う姿勢……なるほどな。貴様の最大の目的は、都市の長寿化。
「原始的でいながら、最も効率の良い統治手段だ。社会の最大幸福を追求することこそが
「たしかに、社会の最大幸福を求めるという価値観から縁遠い者たち……仕事を失くした者や、飢えに苦しむ者らにとって、社会奉仕の精神ほど馬鹿馬鹿しいものはない。そしてそのような者らの心に巣食った憎しみは、他の都市ではなく、この都市そのものに向けられる傾向が強い。外交における摩擦係数を限りなく小さくする……格差があるからこそ、保たれる平和があるということか」
「残酷だとは言うまいな? 社会に益をもたらす者と、そうでない者とを物理的に区別する階層構造は、たしかに治安悪化が偏在する可能性が高いが、都市の幸福値を下げるような不調を及ぼす
「下層の労働者たちが、どれだけ働いても一向に改善しない生活環境に苦しみ、貧困に喘いでいても、なおそう言い切れるのか?」
「聡明な知性の持ち主にしては、愚にもつかない問いだな。徳によって世を治めていた時代ならいざ知らず、そのような物差しをはじめから持ち合わせない
肉塊がせせら笑った。「社会の最大幸福を追求する」という大義名分の前には、いかなる言説も力を失うと信じて疑わない態度だった。
「都市を運営するとは、言い方を変えれば
「よくもぬけぬけと言えたものだ。
「教育施設に通わねば知識を獲得できないという古典的な考えに縛られた結果だ。人工の太陽が照り付ける路傍の隅でも、本を読むことは可能だろうに。結局のところは、社会に奉仕し、都市のために幸福を掴もうとする意識が欠けているからこそ招いた、同情の余地なき悲劇だ。今の彼らに必要なのは、自らに降りかかる悲劇を、自己責任として自然に受け入れるようになるための、精神的な鍛練なのだ」
「だが事実、下層に充満する不満の声は日に日に高まっている。貴様の唱える教育や鍛練とやらが実を結ぶ前に、いずれ大規模な暴動が起こるぞ」
「仮にそうなったとしても、都市の
「なぜそう言い切れる」
「
「つまり、貴様自身に都市の軌道を強引に捻じ曲げるだけの強力な干渉力はないということか」
「
「では尋ねよう。実行者とは誰だ? おおかた、都市公安委員会の誰かなのだろうが……」
「何を言うか。実行者とは他ならぬ、この都市に住むすべての人間たちよ」
「……なに?」
「言ったはずだ、
「……人が日常生活を送る上で、己の脳を意識しないのと同じように。プロメテウスで生きる者たちは貴様という都市の脳を意識しない」
「その通り。都民は都市を生きているのではない。都市の幸福を最大のものとするために、無意識のうちに生かされているのだ。
「
「それもあるが、主な理由は四つある。奇跡を求めるために闘争に明け暮れる者たちの
「それでも、《
「あれは極めて許し難い、最優先で切除せねばならない
ディエゴの侮蔑的な物言いに対してではなく、すでにその全員が彼岸を渡った狂気の狩人にして、かつてこの都市を外敵の脅威から守り抜いた戦士たちに対し、《
「ひとつ間違えば、彼らは都市の生命を即座に絶ちかねない凶悪な癌細胞へ変貌する可能性があった。もし
「すべて、貴様の計算通りというわけか」
「初めからそうであったわけではない。十年前は
「しかしだ。落ちぶれた都市の守護者と言えども、得るものはあったはずだ。そう……たとえば、
ここまで問答の応酬に愚直に従事するだけだったディエゴの雰囲気が、その瞬間に一変した。エメラルド色の瞳の奥底で、まるで鋭利な刃物のように研ぎ澄まされた光が瞬き、続く言葉の一つ一つが、矛となって立ち向かった。
「彼らの検診を担当していた医療局のアーカイブによれば、彼らのリーダーは重度の精神疾患に陥っていた部下たちと、問題なくコミュニケーションを取れていた。それは、此度の奇跡の少女を巡る騒乱においても十全に発揮されていた。言語機能を喪失し、理性が蒸発したと断じてもおかしくない者たちと、なぜリーダーは淀みない意思疎通を図れたのか。それはひとえに、彼らが同じ時間に同じ場所で同じ
「何が言いたいのだ?」
「社会全体の
ディエゴは一旦言葉を切ると、異様の彫像をじっと睨みつけるようにして続けた。
「社会全体の
「笑止千万。プロメテウスの大脳、万物を超越せし天理たる
「何度だって説いてやるつもりだ。私は都市の全ての人々、
まるで聴衆を前にした独演会じみていた。舌を回せば回すほど、ディエゴの口から放たれる言葉のひとつひとつが熱を帯びていく。人生において培ってきた哲学を、何としても実践してやるのだという強烈な意志の力が、彼の言葉には込められていた。
「私という自我が溶け込んだ集合的無意識領域を通じて、都市の人々は、感情と記憶を完全に共有することになるだろう……そう、
「魂の融合化ではなく同質化。都民の意識をひとつに統合するのではなく、個人としての意識を保ったまま生かすというのか」
「そうだ。これにより、全ての人々は個としての意識を保ちながら、
「なんと……なんということか……」
「この野望が現実のものとなれば、もはや都市の階層構造は何の意味も持たない。プロメテウスにて、その他大勢という概念は消え去り、誰もが純粋な当事者意識を持つようになる。健やかなる者も、病める者も、高潔なる者も、愚かしき者も、友に恵まれた者も、孤独に苛まれた者も、等しく苦痛と快楽と憤怒を分け合うのだからな。真の意味で差別のない暮らし。真の意味で不平等を撤廃した暮らし。幾星霜の時を経て人類が思い描きながら、その困難な道のりゆえに机上の空論でしかなかった極上の
「……聡き者にあらず。悪魔の火を灯したその瞳、まさかここまでの傲慢と狂気に燃えているとは……貴様の唱えし野望は、都市はおろか、人の理性と本能を腐らせる猛毒だ。全都民の精神ベクトルが一つの方向を選び取るようになれば、競争の原理は生まれず、停滞という名の奈落を転げ落ちるだけだ。第一、貴様という個人と全都民とが、感情と記憶を完全に共有すると言っておきながら、肝心の貴様自身が体験したことが、都民の精神状態に悪影響を及ぼす可能性について、全く考慮していないではないか」
「無論、考慮しているとも。私は貴様ほど自らの力に溺れているわけではないのでな」
「……なんだと?」
「言ったはずだ。誰もが純粋な当事者意識を持つようになると。私は一人の権力者による統治ではなく、大勢の手による自治を望む。集合的無意識領域に私の自我を溶け込ませ、私という存在を精神的に慣れさせ、学習させてやれば、私を上位の管理者に据えたシステムであり続ける必要はない。人々の心は集合的無意識領域を通じて私から学び、やがて私そのものとなる。私一人では過ちも起ろうが、しかし数百万の私が存在するようになれば、話は別だ。その時々の状況において最適な回答を選択できるような、精神的進化を果たすはずだ。もちろん、そんな段階にまで至った時には、オリジナルの私という自我は集合的無意識領域に完全に溶け込み、跡形も失くなっているだろうが、
「莫迦な……己が己であることを捨てることに潔さを覚える人間が存在するとは思えん……」
「道具的存在として産み落とされ、意識を持つことの喜びしか未だ知らぬ貴様には、なおさらそう見えるのだろうな」
「……いったい……」
足下に立つ小さな細胞片の告白に、肉塊は困惑の反応を示すしかなかった。それだけ、ディエゴの発言は《
「ますます……ますます、貴様という細胞片を看過してしまった
「己を卑下する必要はない。天理を自称するのであれば、常に己の判断に善悪を超越した価値基準を有していなければな」
「戯れをほざくなよ小僧が。
「やってみるがいいさ、《
不意に入り口のドアが開き、そこから雪崩を打ったように大勢の人影が現れた。そのほとんどは、ディエゴが地下に待機させていた
「
機械仕掛けの
▲▲▲
鬼禍再来の片隅で勃発した学究局々長、ディエゴ・ホセ・フランシスコによるクーデターは、武力を背景にした
野望実現のため、学究局と医療局を併合し、
野望の炎に灼かれ、犠牲の血に濡れた彼の旅路が、どのような最期を迎えるに至ったか。その語りが許される時機が来るまで、彼の物語はしばしの間、眠りにつくだけである。
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