2-63 PM19:55/そして戦禍は収斂する①

 夜の底より昏く広がる天上へ、学究局の優秀な技術官たちが日進月歩の勢いでこしらえた空飛ぶ箒――黒杖彗星ザッハトルテに跨ったまま、異形の二体の闖入者は、長大な魔杖を器用に脇の下に挟み込みんで、悠々とその場から去っていった。

 黒いローブに頭からつま先まですっぽり覆われたその小さな後ろ姿を、エヴァもベルハザードも、じっと目を凝らして観察していた。もうここに用はないと、そう無言で告げているような後ろ姿を。闇に溶けてしまうまで。

 突然に上空から飛来するかたちで出現し、ギュスターヴ邸とヘリポートをまとめて火の海と化していった正体不明の襲撃者。時間にしてわずか五分足らずの出来事だったが、その武力によってもたらされた惨劇は凄まじいものだった。だからこそ、なぜ彼らから見て最も目立つ標的である自分たちを、彼ら自身が狙わなかったのか。その理由がエヴァには皆目見当がつかず、ことのほか不気味に映った。

「なんだったんだ?」

 まるで、長い悪夢からようやく目覚めたことに安堵するかのように、エヴァがひとりごちるような調子で、操縦桿を握り締める傍らの鬼血人ヴァンパイアへ尋ねた。

「何かを試しに来たような感じだったな」

 ベルハザードが、思ったことをそっくりそのまま口にした。本人は当然のことながら全く意識していなかったが、その言葉はディエゴ・ホセ・フランシスコの思惑を正確に言い当てていた。

 エヴァは操縦桿を握るベルハザードのごつごつした青白い手にしばらく目を向けて、それから窓越しに下を見た。つい数分前まで己の足が掴んでいた地面を。ヘリポートおよびその周辺一帯には、火球の連弾によって爆発四散した倉庫の外壁や、倉庫に格納されていた残りのヘリの残骸が、叩き割られたクラッカーのようにばらまかれていた。融解しかけたアスファルトの地面からは煤煙が立ち昇って、ところどころで地割れが発生している。邸宅の屋根の一角までもが、巨大な拳でぶん殴られた跡のように、歪な円形にえぐり取られていた。すべて、あの二体の闖入者がやったことだった。だがそれらの惨状も、上昇し続けるヘリに乗っていると、どんどんと遠ざかるせいか、他人事のように見えてきてしまうから不思議だった。安全地帯に逃れたことで、精神が正常な認識を取り戻そうとしているのだろうか。

 地上でしっちゃかめっちゃかやっていた残りの者たちは、無事で済んではいないだろう。あと少しヘリに乗り込むのが遅かったら、危ないところだった……一歩間違えれば降りかかるかもしれなかった災難を想像して肌が軽く粟立ったが、眼前に広がる光景を目にした途端、そんなことがどうでもいいという気持ちで頭がいっぱいになった。

 プロメテウスの上層。そのパノラマ風景を前にして、エヴァは息を呑んだ。最上層の岩盤を支える漆黒の支柱に階層間エレベーター。それらが剣山のように建ち並んでいる様は、場所が違うだけで中層と比較して大差ない。しかしながら、全体に対して抱く印象はかなり違った。中層の約半分程度の面積しかない土地の至るところに、緑が溢れている。最上層岩盤の下部へ、ビーズのように埋め込まれた環境再現装置が放つ青白い疑似月光によって、人工の雑木林や広大な公園、あるいは富裕層の邸宅近辺に広がる庭園のところどころが、淡く照らされている。溶け合う闇とのコントラストが絶妙なグラデーションを生み出し、そのせいか、上層全体が空中庭園のように立体的に見えた。商業施設や小奇麗な高層住宅街に囲われ、どこか窮屈という印象の強かった中層と比較しても、上層の方が随分と住みやすく思えたし、なにより多くの緑で溢れていた。ビルと思しき背の高い建物の屋上までもが、丹念に緑化されていた。大陸間戦争で失われてしまった自然の姿を、自分たちの手でどうにか取り戻そうとする贖罪行為が、形を成した光景だった。

「すごい……」

 自分でも無意識のうちに、感嘆の声をこぼしていた。ベルハザードが、何か言いたげな風にエヴァの横顔をちらりと盗み見たが、結局は言葉を飲み込み、ヘリの操縦に再び意識を集中した。

 人間たちの生活の営み。その営みの摩擦から生じる清濁併せ持つ感情のうねりを結晶化したかのようなプロメテウスの佇まい。見た目には美しくとも、それこそ生臭い都市の風景そのものだった。そして、そんなものに不覚にも心を奪われた自分に、他ならぬエヴァ自身が最も驚いていた。自分でも自分の心の解像度を把握しきれていなかった。

 ただの血液袋に過ぎない、養分でしかないはずの人間たち。鬼血人ヴァンパイアと比べてはるかにちっぽけな存在にすぎない彼らの、しかし連綿と、脈々と受け継がれている生活の象徴を無視しようという気分には、なぜかなれない。

 ――難業を定められし我が子らよ、ついに地上へ出る時が近づいてきました。

 ふと、遠くに過ぎ去ったはずの言葉が忘れ物を取りに戻ってきたように脳裏で反響した。それがきっかけで、心の解像度がわずかに向上した気分になった。

 何か、似ている。

 エヴァは自然と、コロニーの風景を脳裏に思い描いていた。人間たちの居城を眺めながら。

 ――我々の世界を彼らに明け渡してはなりません。

 決然とした、それでいて、いまは虚しさの残る太母の宣誓。

 悠久の時を経て緻密に築かれ、一夜にして滅び去った《斜陽の冠》。それと反比例するように、鬼血人ヴァンパイアに歴史的な勝利を収めて以降、ますますの成長と拡大の一途を辿るプロメテウス。

 もっと広い視点で見れば、養分・・として世界に取り込まれたのは、人間ではなく、自分たち鬼血人ヴァンパイアだったのではないのか。なぜ、そのことに今まで気づけなかったのか。

 気づいたからどうだというのか。

 何か、変わるのか? それで。

鬼血人ヴァンパイアは、なぜ滅びを迎えた?」

 ベルハザードが視線は前方に向けたまま、エヴァに対して唐突にそんなことを訊いてきた。発言の意図するところは掴めなかったが、「コロニーは」ではなく「鬼血人ヴァンパイアは」と一括りにしてきたところに、人間の都市風景に愚かにも魅せられた自分への戒めとして、太母殺しの件を蒸し返そうとしているのではないことだけは、はっきりと感じとれた。

「そういう運命だったんだろ」

 下層でニコラに語った時のように、エヴァは長いこと自らの内に保管していた答えを提出した。サマー・シーズンの宿題を粛々と教師に提出する学生のように。出された課題の全てに、自分なりの答えを書き込んでいた。太母殺しの罪を自覚した後でも、回答を書き替えるつもりはなかった。そんなことは都合が良すぎると思ったし、自分という主体が欠けているような行為に思えたからだ。

「かつて地上を支配していた恐竜たちと同じだよ。隕石衝突か大規模な気候変動か、長期化した食糧不足のせいか。原因は分からない。ただ、そうなった・・・・・という話なだけなんじゃねぇのか?」

「すべての生き物は、滅びの宿命から逃れてはならないということか。種の最上位に立っていた鬼血人ヴァンパイアも、こうして栄華への道をひた走っている家畜たちも」

「十年前が分岐点だった。アタシらは、頂点の座を奴らに譲らざるを得なかった。そういう運命だったんだよ、きっと。でもよ、次はどうなるか分からないぜ? もしかすると、何かの手違いで明日になったらコロっと全員くたばってるかもな」

 言って、エヴァは苦笑した。ニコラという第三者がいる状況で、自分に憎しみを注ぎ込んでいたかつての同胞と、こうして二人で話すことに若干緊張しているのか。その緊張をほぐそうという意図がありありと分かる苦笑だった。

「……コロニーとプロメテウスか……」

 そんな意図を知らないまま、ベルハザードは続けた。

「何かしらの強大なコミュニティに属することは、当事者にある種の安心感を与えてくれる。鬼血人ヴァンパイアも家畜も、その点ではもしかすると似ているのかもしれない」

「意外だな。アンタが鬼血人ヴァンパイアと人間との共通項を認めるだなんて」

「あの狩人連中と戦っている時に、感じたことだ。奴らは各々が好き勝手に動いていたようにみえるが、群れを根底の部分でまとめ上げ、繋いでいるのは、あのブロンド髪の人物に違いない。あの男がいるからこそ、奴らは迷いや雑念を捨て、狩りに没頭できる。強大な力を持つ個人が築き上げた組織が掲げる規範が強固であればあるほど、そこに属する人間は窮屈さを覚える一方で、無条件で自分の生に確信を抱くものだ。都市に住んでいる者は、都市という巨大な傘の下で雨風を凌げると思い込んでいる・・・・・・・。だから生活圏を変えようとしない。俺たちが都市を狩場に見定めても、都市から逃げ出す家畜はほとんどいなかった」

「都市の規範に囚われているって見方もできる。どうしてそんな話をアタシにするんだ?」

「純粋に気になった。今のお前は何に安心感を抱いているんだろうかと」

 ベルハザードが左を向いた。エヴァの視線とかち合った。

「コロニーにいたとき、よく愚痴をこぼしていたな。自分の居場所はここじゃないんじゃないか、同胞たちが同胞ではなく他人にしか感じないと。お前は《斜陽の冠》という巨大な鬼血人ヴァンパイアコミュニティに属していながら、安心感を得ることはできなかった。だが自身の力に逃げられ、人間となったいまはどうだ? 前と変わらず、この都市が狩場に見えるか、それともまた別の意味合いを持つ場に見えてくるのか?」

「そんなこと、今は考えている場合じゃねぇよ」

 目を伏せ、答えに窮して口ごもるだろうと予測していたベルハザードは、質問を断ち切るようなエヴァの返事に本気で驚いた。

「アタシはアタシを取り戻すんだ。まず先にやるべきことはそれだ」

 自身の臍の辺りから緩やかな勾配をつけて上に向かう、その黒い《アンビリカル・ケーブル》に視線を落としながら本心を口にするエヴァを、ベルハザードは品定めするように眺めた。

「もちろん、そうでなくては困る」

「あのー、なんだか普通にお喋りしてますけど、これはベルさんの誤解が無事に解かれたってことでいいんですかね?」

 会話が途切れたところを狙いすましたかのように、後部座席で足をぶらぶらさせていたニコラが、跳ねるようにして助手席に身を乗り出し、出し抜けにそんなデリケートな部分を訊いてきたので、さすがのエヴァも少したじろいだ。気を利かせて小声で耳打ちするのではなく、ベルハザードにも聞こえるような、ごく普通の声の大きさでだ。そういうところが、いかにもニコラらしかった。

 真面目になんと答えていいものか、ベルハザードの横顔を伺いながら少し悩んだものの、事実をありのままに口にするしかないと、腹を括った。

「誤解じゃなかった。やっぱりアタシが太母を手にかけたていたんだ」

「え?」

「それで色々とあって、今はなんというか、コイツとは半友好的・・・・な共同戦線を結んだところだ」

「え、え?」

 そう答えるのが精いっぱいとだと言外に含ませるように、エヴァは苦笑いを浮かべた。ベルハザードが横から口を挟むことはなかった。エヴァの説明に間違いはほとんど・・・・ないからだ。

「なんだか頭が痛くなってきました」

 ニコラが眉間に皺を寄せて、むつかしい顔をした。予想していた回答ではなかったのだろう。何度も目をぱちくりさせると、エヴァとベルハザードの間で視線を忙しなく泳がせた。

「私があのサイボーグさんたちと行動を共にしている間に、そっちはそっちで大変だったみたいですね」

「ホントだよ。ったく、お前を取り戻すのにどんだけ苦労したことか」

「今のお話を聞いてこうして観察してみると、うん、なんだかエヴァさん、ちょっとだけ雰囲気変わりましたね」

「んぁ? そうか? このクソダサイ作業着のせいじゃなくて?」

「ええ、そのクソダサイ作業着のせいではなくて。血肉の香りが違うというか……」

 血肉の香りが違う。ずいぶんと的確な表現だった。

「私がいない間に、いろいろと経験なされたんですねー。男子三日会わずばなんとやら、ってやつですね」

「なんだそれ」

「東洋に伝わる古い言い回しですよ。遠いご先祖様が東に棲んでいたと言ってたので、馴染みのある表現かと思ったんですけど」

「……念のため聞いておくが、こいつのどこが男に見えるんだ?」

 ベルハザードが操縦桿に意識を集中させながら、はじめてニコラに尋ねた。驚いて一瞬息を呑むエヴァだったが、一方のニコラはにこやかな調子で答えた。

「男じゃないですか、戦い方が」

「何もわかっちゃいないな。俺からすれば――」

 素人考えに反論しかけたとき、ヘリの後方から、鋭く、燃えるような悲鳴が迸った。

 直後に衝撃。コックピットが座席ごと激しく揺れ、ぐらりと仰角を描いた。

 ベルハザードは咄嗟に操縦桿を固く握り直し、暴れるヘリをどうにかコントロール下に置こうとしたが、そこで二度目の衝撃が発生した。先ほどと同じく、後方からだ。

 ただならぬ危難を感覚した直後、コックピット全体が左方向へ急旋回。原因はテールローターの破損にあった。機体が螺旋回転を描きながら、高度を下げていく。凄まじい遠心力が肉体の真芯を弄び始める。それこそ稼働中の洗濯槽のように、エヴァもベルハザードも、猛烈な慣性の嵐に飲み込まれた。

 驚き声すらも、体にかかる激しい振動のせいで言葉のかたちを取れなかった。高度確保を求める警告音声が無機質に鳴り響く。暴れ狂う遠心力に抗おうと、エヴァは上半身を捻って、助手席の背もたれに必死でしがみついた。ベルハザードがコックピットじゅうのスイッチやレバーを操作しているが、まるで改善の見込みがない。

 ベルハザードは睨みつけるようにすべての計器類に目を向けていたが、ふと、何かに思い当たったかのように、視線を上部に設置された横長の自己診断モニターへ向けた。そこに赤いエラーコードが表示されていた。ベルハザードの舌打ち。ただちにデフォルト・モード・ネットワークを発揮する。環境の知覚。ヘリの装甲を透過して、心の眼が異常事態の原因を捉える。その原因を直接的にもたらした人物の相貌も。

「尾翼をやられたようだ」

 しかし困惑と焦慮に苛まされている時間などなかった。ベルハザードは、次にエヴァが取るべきアクションについて、素早く指示を出した。

「シートベルトを外せ!」

 脳髄を揺さぶるような回転の最中、エヴァは辛うじて理性を働かせると、言われた通り無我夢中でシートベルトを外しにかかった。その間、ベルハザードは操縦席に片膝をついて腰にチェーンで括りつけた手斧を――ヘリに搭乗する際にエヴァから返却してもらった、太母の忘れ形見である逸品の武器を――右手でしっかりと持ち、闇色のフロントガラスへ寸毫と待たずに赤刃を奔らせた。斬撃が踊り狂い、割れたガラスが粉微塵と化して風に攫われていく。ぽっかりと生じた逃げ道へ殺到するかのように、極限下の寒風がコックピットへ容赦なく雪崩れ込んできた。

 顔面をしたたかに殴打してくる烈風に臆することなく、ベルハザードは回転を続けるコックピット内で、邸宅近郊の森にてヘイフリックとナックルを相手取った時と同様、その際立った身体恒常性の一端である恐るべきバランス感覚を発揮してみせた。

 操縦席の上に両足を乗せると、シートベルトを外し終えたエヴァの胸元を左腕で抱き寄せ、その細い――しかし数時間前までは鬼血人ヴァンパイアの力がたっぷりと込められていた――両腕を自身の首元へ回させて背負い込み、続いてニコラの腰に左手を回すと、ちょっと大きめのバッグを持つような要領で左脇に抱え込んだ。その態勢のまま、割れたフロントガラスへ向かって、もう一度右手の手斧を×印でも描くようにして振るった。破孔面がさらに広がり、十分な脱出口が出来上がった。

「よし、外へ出るぞ・・・・・

 手斧の柄を腰元のチェーンへ括りつけ終えると、躊躇なくそう予告した。

「なんだって!?」

 エヴァが思わず聞き返すも、答えを返す代わりに、ベルハザードは二人をその身に抱え込んだまま、真っ暗な空中へと果敢にも飛び出していた。真下や真横から吹き付ける暴風を受けて、黒衣のコートがめちゃくちゃに翻り、白い髪が限界まで逆立った。

 ベルハザードのとった無謀すぎる行動に、エヴァが声にならないといったように喉奥を恐怖で引き攣らせて瞠目していると、ある地点まで急降下したところで、全身にかかっていた重力加速度がぴたりと止んだ。その前後で、視界の端に赤黒い発光を捉え、それで何が起こったのかすぐに判断がついた。落下中にベルハザードが足下へ向けて血騰呪術アスペルギルムを発揮し、ちょうど両足で踏めるサイズの面を持つ正八面体を現出させたのだ。八面体の一面が仰角六十度近い上方へ向かって伸長し、新たな足場を形成。そこへ向かって一気に跳躍し、降り立ち、また触手を伸長させて跳躍する。復讐心に燃えてエヴァを追いかけ、中層への階層間エレベーター目指して移動していたのと同様の移動手段だった。あの時と違うのは、怨敵を向けていたはずのエヴァを、今はこうして図らずとも守るような格好になっているという点だ。

 サイボーグ化を施された兵士ですら叶わない神懸かり的な膂力で、ベルハザードは休むことなく最上層目掛けて跳び駆けていく。強風に煽られても体幹が崩れないのは、さすが数々の死線を潜り抜けてきた猛者といったところか。

 何度目かになる触手先端部への着地を決めて安全圏を確保したところで、ベルハザードは背後を振り返り、下を見た。テールローターを失ったヘリが尾翼部分から黒煙をたなびかせ、芒洋とした暗闇の底へ真っ逆さまに墜ちていく様が目に入った。その落下軌道の付近から並々ならぬ殺気を感じて目をやると、ベルハザードは思わず頬をこわばらせた。

「あいつ、まだ追ってきやがるのか」

 ベルハザードの気持ちを、エヴァが驚愕と共に代弁した。

 蒼い月に淡く照らされた異人の影。真紅のジャケットを羽織ったブロンド髪の男が――《緋色の十字軍クリムゾン・バタリアン第三小隊サード・プラトーン改め《天嵐テンペスト》の隊長を務めしボルケイノ・ザ・ノックスが、これまでにない眦を決して、こちらを見上げている。その乾いた灰色の瞳の奥で噴火寸前の怒気を理性の楔で抑え込み、両手や腰から銀色の怪煙をまき散らしながら、獲物の元へ追いつこうと、空中を闊歩している・・・・・・・・・

 狂猛を轟かせる狩人を三人も打ち倒したベルハザードが怪物そのものであるなら、ボルケイノもまた正真正銘の怪物じみた人間だった。魔導機械人形マギアロイドの猛攻を凌いだ彼は、その持ち前の異能力を十全に発揮し、ギュスターヴ邸へ乗り込んだ時と同様に空中へ銀煙の階段を作り出して駆け上がり、すんでのところでヘリの尾翼部分へ飛びついたのだ。巨大で鋭利な銀色のかぎ爪を体中から生やし、険阻な岩肌に挑む登山者の使用するピッケルがごとくヘリの装甲へ突き立てて体を固定。そのまま、腰から噴射する煙に万力を誇る怪腕を象らせて、テールローターを煙の毒性で腐食させ、耐久力をある程度奪ってからねじ切ったのだ。毒性銀煙の凝集および具現化を司るその異能は、文字通り、過酷な環境下において優位性を発揮することこの上ない能力と言えた。

 ヘリ墜落のどさくさに紛れてニコラを奪取する目論見でいたのだろうか。あまりにも乱暴すぎる行動のようにベルハザードの眼には映ったが、しかし、銀煙の盾を防風壁のように四方へ展開させつつ、一歩一歩着実に銀煙の回廊を駆け上がるボルケイノの眼は狂気だけに染まってはいない。人間とも昆虫とも微妙に異なる目の輝き。強いて言うならば猛禽類のように、ギリギリのところでコミュニケーションが可能であると思わせる「残酷な知性」に彩られた瞳で、しっかりとこちらの位置を見定めている。決して逃がしはしないと、志半ばで斃れ、彼岸へ渡っていった同胞たちへ約束するかのように。

「どうやら最上層で決着をつけたがっているようだな」

「一気に距離を詰めてこないのはそのせいか。妙に礼儀正しいというか」

「今はまだ、な。着いた途端、本性を剥き出しにして襲ってくるぞ。ここまで来て奪われるのは癪だろう。その娘を、どこかに隠しておく必要があるな」

「アタシが引き受ける。ベルはその間、あいつの足止めを頼む」

 触手移動をしながらの会話の中で、ふとエヴァが提案を告げた。その言葉の真意を取りこぼさないベルハザードではなかった。言葉を失い、それから絞り出すように忠告をよこす。

「……イドの怪物、俺の見立てでは、貴様にどうこう出来る相手ではないように思うが」

「それでもやるしかないんだ。アタシの体から出た化け物なんだから」

 おぶわれたまま、エヴァはコート越しにベルハザードの大きく盛り上がった両肩を、ぎゅっと掴んだ。戦闘継続に伴う命の消耗。暗闇へ奪われゆく体温。再び冷たさを宿す肌の感触。その事実を、しっかりと意識しながら。自分の人生の趨勢を決定するのに、彼の力を借りるわけにはいかないという、決然とした意志の表れだった。

「もし貴様があの怪物に取り込まれたら、その時は何の躊躇もなくお前を殺す。きっと、なんの殺し甲斐もないんだろう。だからな」

 長い逡巡の後にそう答えたのと、彼の足がプロメテウス最上層の地平・・を踏みしめたのは、ほとんど同時だった。

「せめて、殺し甲斐のあるお前になって、帰ってこい」

 言うなり、足場として使っていた触手が手形を象り、エヴァとニコラをひとまとめに掴むと、足を踏み入れたばかりの真新しい世界へ――都市が誇る偉大にして冷徹な空気の満ちる最後の袋小路へ二人を送り込んだ。触手は、まるで壊れ物フラジィルかのような手つき・・・で、ベルハザードから少し距離を置いた場所へ避難させた。

「さっさと行け! お前自身を取り戻してこい! エヴァ!」

 いかなる心境で発せられたか分からない、だがそれでいて力強い叱咤に、エヴァもまた迷いを振り切るような無言の靴音で答えた。だんだんと離れていく足音に想いを馳せながら、ベルハザードは来るべき最後の狩人を迎え撃つ意識を整える。

 すぐにその時はやってきた。手のひらに穿たれた孔から銀煙をジェット噴射させて、名前通り噴煙ボルケイノの如き速度と威力で後追いの高速移動を発揮したボルケイノ。彼は空中へ飛び上がると、腰から生えた丸太ほどのサイズを誇る銀爪を振り下ろした。

 すかさず、ベルハザードはあらかじめ右手で掴んでいた手斧を勢いよく上方へ振るいあげて、これを迎え撃つ。夕焼け色の刃と、銀光を放つ魔性の爪とが、激しくかち合う。大量の火花が闇夜に散った。

 爪を振り下ろした勢いを殺すことなく、ベルハザードの側頭部目掛けてボルケイノの右足が鞭のようにしなって襲い掛かる。タイミングを狙いすましたかのような蹴撃。寸毫、辛うじて左腕を盾にして、これをガードするベルハザード。お返しとばかりに右手を力強く振るって横薙ぎの一閃。だが斧刃は空を切った。危険を察知したボルケイノの後方跳躍の方が僅かに先んじていた。両者の間に、ぽっかりとした空間が生まれた。

 調子を確かめるように、ベルハザードは己の右こめかみ付近に手を当てた。そこに、あばたのように広がる大小合わせて八つの瞳。後天的な日向を歩く者デイライト・ウォーカーと化した者が背負う呪いの代償。一定時間のうちに瞳が瞬く回数は、屋敷襲撃時より増えている。アルコールも底をついた。徐々に失われ、回復の見込みもない鬼血人ヴァンパイアとしての力を、実感していないと言えば嘘になる。だが悲観的な感情は皆無だった。あるのは、短時間のうちに目の前の敵を殲滅しなければならないという、戦闘思考のみだった。

 しかして、その戦闘思考一色に染まったはずの感覚で、ベルハザードはまた別のことを捉えていた。デフォルト・モード・ネットワークが備える全環境感覚の力が、それを拾っていた。

 相変わらず不敵なアルカイック・スマイルを浮かべるボルケイノ。人とも昆虫ともつかない、猛禽類の如き残酷な知性に彩られた灰色の瞳。常人には決して気取られることのない、瞳の微かな揺れ動き。瞳孔の開き具合。呼吸のリズムに混じる雑音。ベルハザードに意識を向けているようで、だがもう一つ、別の気がかりな面にぶつかっているような……それこそ、歴戦の狩人には似つかわしくない「狼狽」に近い感覚を、デフォルト・モード・ネットワークを通じて、たしかにベルハザードは掴んでいた。

「(まさか、この男)」

 そんなことがあるのだろうか、という疑念が浮かぶも、だが己の感覚が捉えた違和感の原因を無視するわけにはいかなかった。

 その呟きに近い問いかけは、しんと静まり返った闇夜で、驚くほど大きく木霊した。

 狩人のアルカイック・スマイルが僅かに硬直。その変化を見逃さないベルハザードではなかった。畳みかけるように尋ねる。

 姿

「だからどうしたというのだ」

 開き直るように傲岸不遜な態度で言い放ちながら、ボルケイノが右腕を振るった。右手の孔から噴出する銀煙が前腕部から手先までを覆うように凝集/固着し、たちまちのうちに堅牢なプロテクターが形成され、先端部に肉食獣めいた極太のかぎ爪が三つ並んで生えそろった。掴みグラップルではなく拳打ストライク刺突スティングを主目的とした武装だった。

我が偉大なる・・・・・・同胞たちには・・・・・・あの娘の・・・・姿が見えていた・・・・・・・。だから私は彼らを信じた。信じたからこそ・・・・・・・あの少女の・・・・・姿が私にも・・・・・見えていた・・・・・

 それは、容易に比肩することなど不可能な、異様すぎる信頼関係の告白だった。

「至極単純な話だ。個の集合体としての完璧な群れであり、完璧な個を発揮する群れであることを意識し続けていた我々にとってはな。ここで貴様の心臓に終焉の楔を打ち、その灰と化した遺骸を彼岸の同胞らへ捧げることで、死者と生者の意識は、より強力無比な共感エンパシィの力で結びつくだろう。再び私の瞳は《奇跡》の存在を捉える。そのための供物になってもらうぞ、名も知らぬ鬼血人ヴァンパイアよ」

 がちり、がちりと、獣が牙を嚙み合わせるように、硬質な銀光を放つかぎ爪を、一定の間隔で鳴らすボルケイノ。

「どういう意味だ」

「なんだ貴様、知らなかったのか? あの娘は、奇跡を信じる者にしか、その存在が知覚不可能であるという真実を」

 絶句――体のど真ん中を正確に射抜かれたような衝撃に襲われた。心に深く食い込む感覚を、どう受け止めればよいか、判然としなかった。

「私一人では、奇跡を信じることなど到底叶わない。あまりにも多くの地獄と血を見過ぎてしまったからな。だが……。偉大なる同胞たちの魂が、血となり、肉となり、私に活力を与えてくれる限り、私は我々クリムゾンでいられる。そのことに深い感謝の念を抱きながら、この銃に込められし真紅の弾丸を送り込んでやるとしよう」

 言って、左手をジャケットの内側へ差し込み、ホルスターから輝灼弾が装填済の自動拳銃をゆっくりと抜き取り、だらりと構える。これで両手が塞がった格好になったが、問題はなかった。ボルケイノの左右の腰に一つずつ穿たれた孔から銀煙がスモークのように立ち込め、瞬く間に神話の怪物めいた巨腕を形成したからだ。

 すると、それまで茫漠とした荒れ地を往く死者の葬列じみた気配を放っていたボルケイノの瞳が、急に生気を取り戻したように爛々と輝き出した。灰色の瞳を基調としていながら、青、赤、黄と、様々な光を刹那のうちに放ち始めた。常人には到底起こり得ず、かと言って肉体改造されたサイボーグの生態にも当てはまらない、ボルケイノ・ザ・ノックスに特有の精神感応の肉体的出力。

「あぁ……感じるぞ。共感エンパシィの恍惚を……奇跡を手に入れるのは我々天嵐《テンペスト》……いや、《緋色の十字軍クリムゾン・バタリアン》だ。我々は必ず奇跡を手に入れ、再びこの世界を鬼禍に沈める。我々の命を、再び輝かせるために」

鬼血人ヴァンパイアを、この地に蘇らせるつもりだと?」

 ボルケイノはすぐには答えなかった。顎を軽く上げて深く何度も夜の風を吸い込んでいる。無防備でいながら、しかし隙などどこにもなかった。おかげでベルハザードは、その場を一歩も動くことができなかった。

 家畜と蔑む人間たちの中で、千人にひとりいるかどうかの、正真正銘の狩人の風格。

 ボルケイノが再び正面を向いた。瞳の色は、さっきまでと同様の灰色に落ち着いている。

「戦禍の楽土を築くための、尊い礎となってもらうぞ、鬼血人ヴァンパイア

 瞬間、腰から生えた銀煙の巨腕が、だん、と力強く最上層の地面を叩いた。その反動を利用して、亡者の執念を背負いし最後の男が、ましらの如き勢いで飛び掛かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る