2-64 PM20:05/そして戦禍は収斂する②

 共感エンパシィの力――熾烈な暗闘の果てに彼岸へ渡っていった死者たちとの間に、そのような特別な交信力が本当に働いているというのか。十中八九、眉唾だろうと踏んでいるはずのベルハザードだったが、しかしそうと思わせるだけの鬼気迫る妖しげな殺気が、たしかにボルケイノの全身を鎧のように防護していた。

 戦闘に入るやいなや、ボルケイノは怜悧な理性で煮えたぎる怒りを制御しながら、討つべき敵へ向けて的確な速度で怒りのエネルギーを噴火させていった。腰から生えた二対の怪腕が大気を削り取るかのように滅茶苦茶に唸り、その怒涛の連撃の最中に巧みに織り交ぜるかたちで、右手に生えた銀煙のかぎ爪でベルハザードの首元を狙い穿とうとする。止むことを知らない果敢の攻めで、まずは標的の動きが鈍るのを待とうというのだろう。輝灼弾を撃ち込めるだけの「完璧な時間」を演出するために。鬼血人ヴァンパイアという怪物を相手にしていながら、狩人の群れを率いる長に相応しいだけの技量と膂力、なにより度胸を備えていなければできない戦法と言えた。

 しかしながら、ベルハザードもやられっぱなしというわけではない。相手が魔性の力を振るうのならばこちらもと言わんばかりに、赤黒い触手の群れを蜘蛛の巣がきのように展開して、嵐のような拳打を弾き、かぎ爪の刺突を受け流しつつ、体術を織り交ぜた斧刃の一撃を、ボルケイノの首へ叩き込もうと眼光をぎらつかせていた。

 最上層外縁の際。周囲に建物らしい建物はなかった。そこは市の要人らの居住区画や市政の中枢区域からも微妙に外れた場所だった。都市開発の中でたまたま生じた空白のデッドスペース。百メートルほど進んだところに西洋式の公園がある以外、恐ろしいほど何もない場所で、二頭の怪物は時に踊るように、時に泥臭く一撃を交わし合う。銀煙の拳が耐環境コートのフードを掠め、振るわれる斧刃が真紅のジャケットを浅く斬りつける。

 両者の力量はほとんど拮抗していた。比肩する実力が物語るのは、ほんのわずかな、油断とも言えないような隙が生じたとき、生死を懸けた勝負はあっさりと幕切れを迎えるだろうという革新的な推測であり、その推測はベルハザードにも、そしてボルケイノの胸中にも自ずと芽生えていた。それでいて、この緊迫した戦闘状況の天秤がどのように傾いているのかを冷静に判断するだけの明晰さを、二人とも備えていた。

「(この煙、窒素酸化物系の毒か)」

 果たして、天秤の傾きが己から遠のいているとベルハザードは判断する。

「(以前なら、どうってことない小技と無視したところだが、呪われたこの体ではそうもいかない)」

 鼻腔へとかすかに流れ込む独特の甘酸っぱい臭気を感じ取り、しかめっ面になる。生来の優れた毒物排出機能を喪失した身には、好ましくない事実だった。触手を鞭のようにしならせながら防御に徹しているとはいえ、このままインファイトを続ければジリ貧になるのは明白だった。

「(微量なら問題はない。だがコイツを一度に、それも大量に浴びせられでもしたら……)」

 猛烈に渦を巻く戦闘思考。敵の能力は、おそらくこの毒性を帯びた銀煙を自在に、且つあらゆる形を象らせて操る能力で間違いないと結論を下した刹那、右足で力強く地面を蹴り、後方へと後退。中距離から戦術を組み直そうとするが――

「仕切り直しとは、不粋な真似を」

 まるで動きを読んでいたかのように、ボルケイノが、彼のみに許された特別の移動術で差を詰めてきたので、これには流石のベルハザードも驚きを隠せなかった。彼は腰から生えた二振りの銀腕で地面を蹴るように叩くと、その勢いに乗るかたちで加速。地を這うように鋭く駆けて距離を潰し、たちまちのうちにベルハザードの懐へと迫る。さながら、優れた競走馬が魅せるスタートダッシュめいていた。

 ボルケイノに備わった銀煙の具象化能力は、ヒト以外の実在する生物の機能をそのまま己の身体へ投影することはできない。「鞭」のように「龍」を造形して操ることはできても、例えば腰から「鳥の翼」を生やし、そのまま「鳥の翼」としての機能を持たせて飛翔することなど、彼にはできない。なぜなら、翼を動かすための神経系統も筋肉も、ボルケイノの肉体には存在しないからだ。それを可能とするには、デザイン元となる生物由来のニューロン、ないしそれに準じる動作制御モジュールを中枢神経に埋め込む必要があったが、それは人体跳躍技術ゲノム・ドライブの成果を司る特殊臓器のキャパシティや、行動処理に費やされる脳領域を圧迫する恐れがあるという問題から、施術時に却下された。

 だが、そんなことはまるで問題ではなかった。いかに使うか、いかに造形するか。与えられた能力をデザインし、応用するセンスを、彼は怪物相手の戦場で磨き上げてきた。立体的且つ面制圧に長けた彼の手管を初見で見破り打開策を練るのは、並みのハンターや鬼血人ヴァンパイアにとっては、まず困難を極めるだろう。

「(まずい――ッ!)」

 危険を察知すると同時、デフォルト・モード・ネットワークの恩恵をいかんなく発揮。全環境知覚による神経伝達の信号速度が、これまで以上に神懸かる。反動、肉体に掛かる猛烈な負荷。神経がささくれ立つ。体中の血管が引きちぎれるかのようだ。頭蓋の裏で鳴るのは得体の知れぬ爆発音。両耳から垂れる粘ついた黒血。全身を襲う痛撃に対し、奥歯を深く噛み締め気力で堪えながら、完全に懐へ潜り込まれる直前、ベルハザードは引き絞るようにして腰を捻り、右の軸足へ即座に重心を移動。瞬発性を生かした後ろ回し蹴りが、叩きつけるように振り下ろされた右腰・・の銀腕を弾き返す。

 よもやの反撃にボルケイノがたたらを踏んだところへ、ベルハザードはすかさず触手群をお見舞いした。半身に隠した左手の平を起点として展開するそれは、発生点である正多面体がボルケイノの位置から見てちょうど死角にあるため、さすがの彼でも軌道を読んで応じるので手一杯の様子だった。二振りの銀腕を四振りに分裂させ、二本ずつ胸と背中へ回して交差。クロスガードの防御姿勢を取り、驟雨のように降り注ぐ剛槍じみた触手の乱撃を受けきるのに徹した。

 正拳突きの乱打の如く荒れ狂う赤黒い触手。その一発一発が、レンガを軽く粉砕するほどの刺突力を有している。尋常の領域を超えた圧がかかり、足元のコンクリートに続々と亀裂が刻まれていく。だがそれでも、ボルケイノ自身に大したダメージは伝わっていない。

「なかなかの血騰能力アスペルギルムだ。威力、速度ともに合格点をやるとしよう」

 たった数秒のうちに触手の攻撃出力・・・・を見切ったのか、想像していた以上の被害はないと踏んだらしい。触手群の隙間から覗く涼し気なアルカイック・スマイルが、それを物語っている。

「だが、いくら研ぎ澄まそうとも、この凝集の鉄壁は破れない」

 その余裕を匂わせる言葉が決して強がりではないと証明するかのように、腰からの排気量がたちどころに増し、銀煙の四怪腕が丸太サイズにまで増大/頑強になっていく。どうやら一度に凝集/固着可能な煙の総量に、リミッターはないようだった。それにしても、一体どれだけの煙をその体内に溜め込んでいるのか……内心で抱く驚愕を態度に出す代わりに、別の攻撃手段へ打って出るベルハザード。右手の平からさらにもう一つの正四面体を出現。その各面からそれぞれに伸長する触手を一つに束ね、己の背面から巨大なドリルのようにうねらせて銀腕目掛けて突貫させようとするが、その瞬間。

「――ッ!?」

 がくり、とベルハザードの腰から力が抜けた。と同時に、展開していた無数の触手群が、宙に撒かれた血砂のように無散していく。

 血騰呪術アスペルギルムの過剰使用――短時間のうちに、あまりにも血を消費し過ぎたことの代償。加えて、デフォルト・モード・ネットワークの継続も響いた。体の奥深くで澱のように蓄積されてきた疲労が、ここにきて爆発した。

 直後、フード越しに右頬への痛烈な打撃。左腰・・から飛んできた銀腕がクリーン・ヒット。受け身もままならず、ベルハザードは惨めにも吹っ飛ばされた挙句に転がり、うつ伏せの恰好を晒した。

「貴様、ただの鬼血人ヴァンパイアではないな?」

 鉛のように重くなった体をどうにか起こそうとしたときだった。失望の念を少しも隠さない調子のボルケイノの声が、ベルハザードの耳朶を打った。見上げると、それまでのアルカイックスマイルは鳴りを潜め、能面のような無表情が顔に張り付いている。

「日除けのためのフードかと思いきや、己の醜さを隠すためだったとは、興ざめもいいところだ」

「……なんのことだ」

「恥部を指摘されてしらばっくれる気持ちは分からないでもないが、無駄なことだ。私の観察眼を甘く見ない方がいいぞ。いましがた貴様を殴り飛ばした時に、間違いなく見えたのだからな」

 右腰・・から伸びる銀腕。その太い人差し指でコツコツと、自身の右のこめかみ付近を、これみよがしに軽く叩いてみせるボルケイノ。

「そのあばたのように広がる、おぞましい目の存在。作戦中、その手の噂は耳にしたことがある。陽光を天敵とする鬼血人ヴァンパイアの伝承にあるという禁断の秘術。同胞に成り損なった怪物の肉を食らうことで、後天的な日向を歩く者デイライト・ウォーカーへと変貌する代わりに、いくつかの身体的特徴を喪失するという等価交換の伝説、まさか真実だったとはな。どのようないきさつがあったか知らんが、そんなものに手を出すとは、恥晒しも良いところだ」

 地面を這いつくばる手負いの怪物へ、ボルケイノが侮蔑の込められた眼差しを向ける。

 荒い呼吸をどうにか整えながら、ベルハザードはゆっくりと上体を起こして片膝をつき、こちらを見下ろす狩人を鋭く睨み返した。気が付けば、いま己がいる地点は、最上層を支える岩盤の縁も縁。張り詰めている気力をほんの少し緩めただけで、どっと後ろへ倒れ込む予感があった。数百メートル下の奈落の世界へ。

 腰と太腿に踏ん張りを効かせながら、どうにか一息に立ち上がる。さっきまで赤く爛々と染まっていた両目のうち、右の瞳はすでに灰色一色だ。呪われた己の体だ。それは感覚で把握できた。

 これ以上、戦況を長引かすわけにはいかなかった。だから、どうにか手放さずにいられた右手の斧を構えてみるものの、一歩を踏み出せない。脂汗が止まらず、体温が急速に奪われていく。体内の恒常性がバランスを崩し、力の源である血流の巡りが悪化していることの現れだった。この疲弊しきった状態で、一度切れてしまったデフォルト・モード・ネットワークを再展開するのは、相応にに骨が折れる。

 目に見えて急激に弱り果てていく目の前の好敵手の姿に、ボルケイノも感じ入るところがあったのだろうか。羽の折れた白鳥を見るような眼差しで、言葉を続ける。

「人生はギャンブルだ。与えられたカードで勝負するしかない。ゴミのような手札ハイカードを掴まされた者たちの人生は悲惨の一言に尽きる。だがもしも、そいつを奇跡のような手札ロイヤルフラッシュに変える好機が、目の前にぶら下がっていたとしたら? 是が非でも飛びつく。だが貴様はどうだ? 我々人間には決して届き得ない奇跡のような力を最初から持ちえながら、自らそれを捨ててしまうとは……つくづく理解しがたい生き物だ、鬼血人ヴァンパイアというのは。だからこそ、我々クリムゾンの永遠の敵に相応しいわけだが」

 言って、左手に握る拳銃へ銀煙を纏わせはじめた。それも銃全てではなく、うまいこと引き金の部分だけが隠れるように、それでいて指にかかる力が阻害されないように、煙を固着してみせた。歴戦の狩人たるボルケイノらしい一手だった。これでは、たとえ弾道を見切ろうと銃口に意識を集中していても、発射のタイミングが掴めなくなる。

 ますます状況はベルハザードにとって不利になっていく。それは当人が一番理解していた。いまこうしているあいだも、限界まで振り絞っている気力が精神の汗をだらだらと流していくのを、嫌と言うほど実感している。

 だが一方で、別のことが引っかかっていた。

 ――ゴミのような手札を掴まされた者たちの人生は悲惨の一言に尽きる。

 その言葉が脳裏に食い込んで離れなかった。そこだけが、前後の文脈から妙に浮いているように感じたせいだ。なぜか? その理由は、不思議に感じてしまうくらい、芋づる式にあっけなくベルハザードの中で導かれた。

 鬼血人ヴァンパイアを狩るために、自らもまた怪物へと近づいていった男。精神異常者と化した同胞たちを、そつなく率いるほどの人間離れした指揮能力を持つ男。そんな、人間らしさ・・・・・の欠片もない・・・・・・と思わせるほどの存在感を放つ男の口から出た言葉のなかで、唯一と言ってもいいくらい、あの言葉に人間らしさ・・・・・を感じた為だ。都市という名の農場で飼われる不甲斐ない家畜たちが、一攫千金の夢を見ながら口にしそうな台詞のように感じたせいだ。

 そこまで道筋を立てたところで、まるで活路を見出したかのように、朦朧としていたベルハザードの思考が、刹那の域を超えて急激な稼働を始めた。

 都市という名の農場で飼われる・・・・不甲斐ない家畜――一瞬、思い違いかと疑念が湧くが、むしろそれこそが、この傲然とした狩人の本質のように思えて仕方なかった。

 ――ゴミのような手札を掴まされた者たちの人生は悲惨の一言に尽きる。

 その言葉に込められた意思とは何だろうか。鬼禍殲滅作戦オウガ・バニッシュを成功させ、都市の守護者として崇められるほどの偉業・・を成し遂げていながら、事情は分からずとも、どうみても不遇・・としか言えないような立場に立たされているであろう男と、そんな男に盲目的に従う同胞たち。彼らの願いは、鬼血人ヴァンパイアを復活させること。戦禍の楽園を築き上げること……なぜ、そうしたいと願っているのか? そこにどんな価値があるというのか。

「……なるほど、輪郭を掴みかけてきたぞ」

 ベルハザードの左眼が、爛々と赤く輝く。狩人が必殺の引き金を引くより先に、彼は確信を込めた口調で、喉奥から振り絞るように、一句一言を噛み締めるように、言い放った。

「貴様は今も、ゴミのような手札を掴まされた・・・・・と思っている。だからこそ、自分の価値を証明したくて仕方がないわけだ……牢獄・・のような悪夢から逃れるために」

 その一言が、ボルケイノの氷のような能面に、決定的な亀裂を生み出したのは確かだった。瞠目し、整えられた眉がじわりと歪み、唇の端が異様に吊り上がる。無慈悲な猛禽類じみていたボルケイノの瞳に、その時初めて、人間らしい感情の波が押し寄せて来た事実を、ベルハザードは見逃さなかった。と同時に、手応えを感じてもいた。これまで浴びせてきたいかなる攻撃よりも、鋭く、深く、痛烈に、取り返しのつかない衝撃となって、ボルケイノの心を撃ち抜いたのだ。

 この男の背景バックボーンを掴んだ――家畜の中でも「精鋭」と見込んだ者と一戦を交える際に、それは非常に重要な要素だとベルハザードは考えており、その「精鋭」に見合うだけの得体の知れなさと不気味さを、ボルケイノは備えていた。

 だからこそ、これには効果がある。対象の内的な解像度を上げることは。そうすることで分かることがいくつもあった。着飾った言葉という名の靄を晴らして見えてきた相手の思考や性格の断片。そこから推測される動作の癖、あるいは殺意をコントロールしようとする意志がどのような具体形をとるか。今はそこを感覚するのに全身全霊を傾けて集中するべきだと、ぼろぼろの肉体を鼓舞して、眼光を鋭くする。

「怪物ごときが、人の心を推し量るか」

 低く唸るようにボルケイノが言った。その瞳は相変わらず獲物を狩る意気に満ちているように見えて、それを上回るほどの憤怒の気迫でぐらぐらと煮えたぎっていた。ピアフを殺されたことに対する恨みをヴォイドたちに向けて発散していた時とは、また違った質の怒りだった。それは個人としての尊厳や矜持を激しく傷つけられ、精神の崖下へ蹴り堕とされた者が、蹴り落とした張本人や、それを眺める取り巻き達へ向ける、猛烈な敵意そのものだった。

 その敵意を、これまでにない意志のコントロールで以て、ボルケイノは噴火させた。それこそ、パンクを彷彿とさせる一流のガン・ファイター並みの神速で拳銃の撃鉄を押し上げ、一度に――あまりの速技にそうとしか見えないほどのスピードで――十二発の輝灼弾を撃ち放っていた。

 それは、ベルハザードにとって決定的だった。決定的にわかりやすい・・・・・・攻撃だった。相手の背景バックボーンをある程度掴んだ時点で、次に相手がどんな手札を切ってくるか、感覚する力が彼にはあった。

 血の滲むような修練の果てに掴んだ技術。デフォルト・モード・ネットワーク。それだけの稀有な技術を習得していながら、一族の壊滅も、太母の落命も、そのどちらも防ぐことはできなかった。それでも、ベルハザードは疲弊した我が身に特大の鞭を打ち、新たな目的・・・・・を叶えるために、その力を解き放った。

 大気を切り裂いて飛来する赤い銃弾の群れへ視線を向けながら、肩や膝や肘の位置に神経を注ぎ、筋肉の微細な動きをコンマ数秒以下のうちに自在に調節。最小の足捌きと体捌きが、銃弾の悉くを無力化していく。

 そうして、十二発目の必殺の弾丸が左肩の上ぎりぎりを掠め飛んだのを感覚した直後、ベルハザードは綺麗な放物線を描いて、飛翔するように宙を跳び駆けた――足下から伸びる触手の一本に、靴底を押し上げてもらう格好で。ボルケイノの移動方法にヒントを得た奇襲。さきほど起き上がった際に、コートの裾を影にして、足元へ正多面体を仕込ませていたのだ。

「小癪な真似を――ッ!」

 自らに備わった力を模倣したかのようなその振る舞いが、ボルケイノの怒りをますます買うことになった。

 腰から伸びる二対の銀腕と、左腕を覆うかぎ爪のプロテクターが不意にその形を崩し、次の瞬間には、怒涛の勢いで押し迫る銀色の大波と化した。雲海じみた規模と化し、雪崩の如き勢いでプロメテウス最上層の一角を染め上げる銀煙の大波は、跳び駆け迫るベルハザードをあっという間に飲み込んだ。単なる目くらましではない。これで仕留めるという覚悟が込められた、逃げ場を封じた範囲攻撃である。その証拠に、体内に溜め込まれていた銀煙の九割以上が、この一撃のために消費されている。

 濃度を高めた猛毒の銀海。大型の哺乳類を秒で昏倒させるほどの毒性を持つそれは、通常の鬼血人ヴァンパイア相手では決定打になりえない。だが、呪われた体となったベルハザードに対しては尋常ならざる一撃になるだろうとのボルケイノの見立ては正しかった。わずかでも煙を吸えば、呼吸器系等に甚大な被害を与え、粘膜を犯し、細胞を損壊する。無事でいられるはずもない。

 煮えたぎる怒りのマグマは怜悧な理性で制御され、狙い過たずに決死の攻撃を噴火する。その自負がボルケイノにはあった。強いて欠点を上げれば、相対する怪物の背景バックボーンを把握しようとしないことだろう。鬼血人ヴァンパイアにとって人間が餌であるように、優秀な狩人であるボルケイノにとって、鬼血人ヴァンパイアは獲物でしかなかった。そのような、単純な二項対立に基づく価値観に固執し、変化を嫌う性格の癖が、「被るマイナス要素を全て覚悟したうえで、相手が挑みかかってくる」という万が一の可能性に思考が及ばなかったことの、最大の原因であるかもしれなかった。

 銀に煌めく毒雲海の奥で、閃光が奔る。ギラリと夕焼け色に光る物体が、高速回転して飛来する。ボルケイノは突然の反撃に驚き、しかし歴戦の反射神経を発揮。上体をわずかに逸らして、迫る飛び道具を躱しながら、明後日の方向へ闇夜を裂くように飛んでいくそれへ視線を動かし、今度こそ驚愕した。

 見事な弧線を描く手斧が、やがて勢いを失い、下の階層へと真っ逆さまに落下していく。

 わずかな間だった。二秒ほどの間。ボルケイノの視線は落ちていく手斧へと奪われていた。その瞳には動揺の色が走っていた。相手がそんな反応を見せるだろうことは、手斧を放った張本人もまた予想するところだった。

 間隙を縫う。分厚い毒の雲海を超高速で突き破り、地面すれすれを滑空するかの如き勢いで、ベルハザードが飛び出す。続いて、上方へと伸びる二本の腕。絶好のタイミング。下からの攻撃に気づいたボルケイノが慌てて防御しようにも、腰の孔から聞こえるのはガスの漏出に似た空しい響き。銀腕形成に回せるだけの煙量は残っていなかった。自らの判断ミスに気付いた時には、すでにベルハザードの右手がボルケイノの左腕を、左手が右腕を完全に掴んだ後だった。

 ボルケイノが青褪める。

 幽鬼のようなベルハザードの右眼が、禍々しい赤光を帯びる。

 必殺の距離――血騰呪術アスペルギルムを展開。

 逃れようもない零距離攻撃。

 ――第三励起段階ドライ

 両手の平から瞬時に湧き出した魔の圧力――幾条もの赤黒い触手が大鉈の如き切れ味で、ボルケイノの両腕を肩の付け根あたりで破壊。血とオイルがない交ぜになった体液が、間欠泉のように吹き出す。ずたずたの両腕が足下へ転がり落ち、右手から離れた拳銃が体液の池へと沈む。

 だが、常人なら即死必至の深手を負いながらも、これで終わるボルケイノではなかった。

 機械仕掛けの肉体を持つサイボーグの特権=痛覚遮蔽システムの起動。肚の底から気を絞り出し、エナメル質にひびが入るほど奥歯を強く噛み締め、獄卒を思わせる鬼気迫る形相で、ベルハザードが突き破ってきた銀煙の雲海を操作/凝集/具現化。毒雲海の一部を、仮初の腕として両肩の付け根あたりに引き寄せ固着。そのまま、ベルハザードの首を両手で絞めにかかった。

 怜悧な思考を欠いた、原始的な殺意の手段。それこそ、名前通りの噴火ボルケイノのように、コントロール不能なほどに高まった怒りの発露だった。

 斃れぬ狩人。その人間離れしたタフさに驚愕しながらも、ベルハザードも攻撃の手を緩めることはなかった。右手に作り出した赤黒い正六面体から、超近距離で四本の触手を射出。さながらショットガンのような勢いで、ボルケイノの腹部と胸部を撃ち抜く。だがそれでも、ボルケイノの銀腕から力が抜けることはなかった。

 もう一度撃ち抜く。まだ斃れない。

 三度撃ち抜く。ボルケイノの眼は死んでいない。

 四度撃ち抜き、辛うじて上半身と下半身が繋がりかけている状態に陥っても、それでもまだボルケイノは彼岸へ渡ろうとはしなかった。口から血とオイルの混じった泡を吹き、涙の代わりに血を流し、耳から得体の知れぬ黄色い液が零れようとも。

 言葉にならないくぐもった声を漏らすボルケイノの瞳には、様々なものが映し出されていた。死神の足音を確かに耳にしながら、目の前で首を絞めている獲物の顔がぐにゃりと変形し、威厳を漂わせる壮年男性のものに……グルストフ・イニィエラビッチの顔になった。と思いきやまたもや変形し、今度はイーライ・サンドリアの顔が浮かび上がり、そこから有象無象の顔がそ次々に浮かび上がってきた。男だったり女だったり、青年であったり老婆であったりと様々だった。知り合いの顔ではなかった。それは大衆の顔だった。誰もが都市の住人だった。十年前の鬼禍に怯えながらも、いざ危難が去ると「人類の勝利」と誇大に吹聴し、その「本当の立役者たち」を労おうとすらしなかった者たち。

 崩落寸前の精神状態が見せる幻覚が、強烈な作用をもたらし、ボルケイノの心の奥底を露わにした。それは、鬼血人ヴァンパイアを復活させ、戦禍の楽土を現出するという願いの「根源」を、深層領域に眠っていた「本当の願い」を、当人に自覚させるきっかけとなった。

 銀腕が消えかかる。雲海が風に攫われる。異能力を司る臓器が、完全に機能を停止した。

 ベルハザードが、五度右手を振るった。この戦いを終わらせる最後の一撃を。

「(労い……それこそが、我らの……)」

 触手が激しく全身を嬲り上げ、今度こそボルケイノは斃れた。上半身と下半身が完全に分断され、ありったけの体液をベルハザードに浴びせながら、がしゃんと音を立てて、仰向けに倒れ込んだ。

 夜の闇だけが、静かにその場を支配していた。

 緊張の糸が弛緩していく。触手の展開を終えたベルハザードは、幽鬼のように佇んでいる。両膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。激しく咳き込み、そのたびに瀉血。取り返しのつかない猛毒に侵され、すでに内臓器官はボロボロだった。左眼は完全に視力を失い、あれほどの輝きを見せていた赤い右眼も、すでに半分ほど灰色に濁ってしまっている。

「なぜだ……」

 ボルケイノが、不意に声を上げた。か細く、だが妙にはっきりと耳に残る声色だった。恐るべきはサイボーグの延命機能か、それとも、意地がそうさせているのか。

「なぜ、手斧を投げ放った……あれは貴様にとって、何物にも勝る誇りではなかったのか? それを、あんな一発限りの飛び道具として使い捨てるとは……度肝を抜かれたな」

「……どうしてそう思う」

 見下ろす形でベルハザードが問い返す。ボルケイノが失笑しながら理由を口にした。

「扱い方を注視していれば自ずと分かるもの……誇りと勝利の証……あの手斧は、貴様と一心同体だったはずだ。それを躊躇なく投げ捨てた。勝利を得るために、誇りを捨てた」

「そうしなければ、前へ進めない時もある」

 倉庫の一幕。エヴァンジェリンの痛切な告白を脳裏で回想しながら、ベルハザードは大きく息を吸って、屹然と答えた。

「必要だからそうしたまでだ。まだ……死ぬわけにはいかない。もう一度、信じてやらなくては気が済まない相手がいるんでな」

「過去を捨てる……のではなく、切り離し、未来を切望するか。やはり、我々クリムゾンとは違うな」

「…………」

我々クリムゾンには、過去の栄光だけが全てだった。過去に得た誇りを胸に、この地獄のような世界を理想郷として塗り替える……我々が生きる・・・うえで、それ以外の選択肢はなかった」

「…………」

「いま、ようやく貴様を理解しかけているよ、鬼血人ヴァンパイア……私も貴様も、牢獄から抜け出せない囚人……私は鉄格子の窓から過去を見た。貴様は未来を見た……だが後悔はない……彼岸に渡ってもなお、我々クリムゾンの魂は……輝き……続ける……」

 声は相変わらずか細く、だが決然とした意志を失うことなく、薄く開かれた唇から最期の吐息が放たれた。

 都市の記憶から忘れ去られた英雄は、静かに眠りについた。

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