2-45 PM18:10/人食い鰐の牙
「車で行けるのはここまでだ。歩くぞ」
獰猛な骨たちを束ねる脊椎の長の指示に従い、丘の頂上へ続く舗装された林道の途中で、アンジーはワゴン車のブレーキペダルに足をかけた。
真っ先にニコラがワゴン車のドアを開けて外へ飛び出し、うーんと大きく背伸びをする。その間に、ヴォイドたちは後部座席下の収納スペースから必要な物を手早く取り出しにかかった。と言っても、主な荷物は銃器のたっぷり入ったアタッシュケースぐらいなもので、それほど時間はかからなかった。
改めて観察するまでもなく、先の激しい戦闘を乗り切ったワゴン車は、廃車寸前の有様だった。全ての窓ガラスが大破し、あちこちに擦り傷や銃撃痕が刻まれている。ボンネットは完全にへこんで、エンジン部からはほんの少し白い煙がたなびいていた。よくここまで止まらず走りきれたものだと、その場にいる全員が感心する一方、こんな目立つ代物を路肩に放置していては、巡回の警備員たちに早々に見つかってしまうのも予想できたので、ヴォイドとパンクは後ろからワゴン車を押し出し、近くの林の中へ隠した。
「これでいいだろう。早く行こうぜ」
リーダーのヴォイドではなく、なぜかパンクが意気揚々と号令を飛ばした。そのことに多少の反感を覚えかけたアンジーだったが、大人しく彼の言葉に従い、とにもかくにも、三人のハンターと一人の奇天烈な少女は、丘の頂上を目指して静かに夜道の行軍を始めた。
傍から見れば、これほど奇妙な面子もなかった。最後尾を歩くニコラはともかく、彼女の前を歩くパンクの服装は、明らかにならず者のそれだ。剥き出しのサイボーグ・レッグに、ジーンズの短パン。もう二つの腕を収納した肩甲骨の膨らみが赤い革ジャケット越しでも確認できる。中に着込んだプロテクターの黒い光沢具合や、背負った巨大なアタッシュケースが放つ銀光には、隠しようもないほどの兇猛さが発散されている。
パンクの前を歩くアンジーは、黒ワンピースの上にモスグリーン・カラーの機能性重視のダウンジャケットを着込み、黒いパンプスをカツカツ鳴らして歩いている。それだけ見れば普通だが、右肩の骨が破壊された影響で右腕をだらりと下げ、どこか不格好な体勢で歩くさまは、中途半端な出来損ないのゾンビに近い。
先頭を歩くヴォイドに至っては、一張羅のグレー・カラーのテーラード・ジャケットに、キンセンカの模様があしらわれた白いワイシャツ。両手首に巻かれた金色の布製バングルに、黒のスキニーパンツ、大戦時代のブーツという機能性重視の姿もあって、一見して警備員と同種の雰囲気を感じさせるが、顔面に刻まれたガラス片による傷痕の惨たらしさと、その奈落を彷彿とさせる黒目がちの目というのもあって、メンバーの中で最もただならぬ気配を醸し出していた。
中層唯一の高級住宅街で知られるイースト・エッジサイド。わけても、ここが真の地面だという意味を込めて名付けられたグラウンド・ヒルと呼ばれる一画には、そこで暮らす者たちが自然に学ぶルールが存在する。家々のブロック塀は一般的なそれよりも高く造られており、防犯カメラはもちろん、民間警備会社を通じて雇ったボディーガードが、玄関口付近を隈なく巡回する。それこそ、具体的なかたちを伴った――邪な企みを火種に銃をぶっ放す不逞の輩を追い払うために生まれたルールそのものと言えた。
グラウンド・ヒルの治安が特別悪い、という話ではない。むしろサウス・ストリートと比較すれば、犯罪発生率の違いは明らかだ。それでも彼らは常日頃から用心したものだった。祖父の代、あるいはそのずっと前から。大陸間戦争時に守り抜いた先代の遺産を引き継ぎ、それを拡大するのではなく、守護することに特化した人々の住居で、土地は埋め尽くされていた。
そんな守りの姿勢に入る金持ち共の中で、今もなお投資家の世界でスリルたっぷりのディールに興じるギュスターヴは、変人として見られていた。彼だけは、明確な意思の下に事業の拡充に務めており、一方で何を目的としてそんなことをしているのか、決して自分から他人には話そうとせず、聞き出そうにも上手い具合に話を逸らしてしまうのだ。
そんな腹に一物抱えた《人食い鰐》の、グラウンド・ヒルの一帯にあってやや北側へ外れたところにある邸宅が、林道を切り裂く照明の波に導かれるかたちでヴォイドたちの眼前に現れてきたのは、歩き始めてニ十分ほど経過した頃だった。
プロメテウスが本物の夜に沈み、多くの家々が暮らしの灯を徐々に弱めていくなかで、ギュスターヴ邸の周囲だけは不夜城のごとき佇まいを崩さずにいる。他の追随を許さない、まるで豪奢なカーペットのように敷かれた、広々とした庭園の植え込み。そこに等間隔に設置された照明器具によるライトアップのせいである。
ヴォイドたちは足を止めると林道の影に身を寄せ、観察に徹した。邸宅は庭園を抜けた先に君臨していた。四階建てのモダンなデザイン。中層の一般的な住まいより、何十倍も金がかかっているのが一目で分かる外観だった。あまりにも立派過ぎて、高級車を寝かせたガレージがどこにあるのか、一見では判別できなかった。恐らくは邸宅の裏手にあるのだろう。本命の自家用ジェット機が安置されている場外離着陸場も含めて。
庭園の周囲には三人、玄関口には二人。合計五人の屈強な警備員が、警備すべき各ポイントで彫像のように突っ立っている。彼らにとっては皮肉なことに、ライトアップが功を奏していた。肉眼でも警備員たちの位置がはっきりと把握できるのは、襲撃する側にとって好都合なことこの上ない。
「露払いは俺がやる」
チームのマークスマンとして先陣を切らなければならないという意地と、鉄橋の戦いを乗り切った勢いに
「玄関先に防犯カメラがある。正面突破はリスクが高い。裏口へ回った方がいい。すでにルート構築は済んでいるからな」
「警備員を殺るついでにぶっ壊しゃいーじゃねーか」
ムキになってパンクが反論した。先ほどの鉄橋の死闘を乗り越えて、また一つ自信をつけたはいいが、それが増長と慢心に転じているのがはっきりと分かる、浮ついた声色だった。
「破損が確認され次第、直ちに邸宅に併設された民間の警備室へ緊急連絡が入るシステムになっている。カメラの配置を避けて通るのが無難だ」
「図面にそう描いてあんのか?」
「オーウェルの手柄だ」
パンクは視線を逸らすと大きく溜息をついて、ヴォイドを軽く睨み返した。
「どのみち衝突するんだ。それが遅いか早いかの違いに、どうしてこだわる?」
「余計な被害を出さないのが一番いい」
「最小限の努力ってやつか? なるほど。お前さんらしい理屈だ」
「パンク」
「ヴォイド、何をそんなに怖がってんだよ?」
「怖がる? 俺が?」
「アンタがやらなくても、俺はギュスターヴの寝首を掻くぜ。必要なもんをぶんどったらな」
「だったらなおさら、事は慎重に遂行した方が賢明のはずだ」
「……アンジー、お前はどう思う?」
「ヴォイドの言う通りです」
迷いなく、いつものようにきっぱりと断言した。事態の当事者であるはずのなのに、己自身も含めて状況を俯瞰し過ぎている――そんな違和感をアンジーがヴォイドに対して覚えたのは事実だが、だからと言ってパンクの力づくな方法論もどうかと思った。
「万が一にでもこちらの狙いに気づかれて上に行く手段を潰されたら、目も当てられません。もう少し冷静になってください」
「ったく、しょうがねぇな」
二人がかりの説得に押されて、しぶしぶその場から引き下がろうとパンクが腰を上げかけた。いきり立つ仲間を宥められたことに安堵し、ヴォイドの手が銃口から離れる。
その瞬間、パンクの手に握られていた狙撃銃の銃口が、不意に小さく跳ね上がった。
ほとんど音もなく発射された五つの弾丸が、屈強な男達の脳天を次々に撃ち抜いていった。糸の切れたマリオネットのように、その場に膝から崩れ落ちていく。およそ四秒の間に決行された凶行。パンクはスコープを覗いてすらいない。あまりの早業に、ヴォイドもアンジーも咄嗟に反応できなかった。
「悪りぃ悪りぃ、手が滑っちまった。こうなっちまったら突っ切るしかねぇな」
わざとらしくパンクが
「ちょっと――」
気色ばむアンジーが非難を口にするより先に、パンクは狙撃銃を抱え込んでアタッシュケースを手にすると、身を低く屈めて、暴力的な色彩に満ちる庭園へと走り出した。鑑賞用の歩道に敷き詰められた砂利と、金属製義足の足底とが擦れ合う音が続いたが、いよいよ庭園を抜けるというところで、その音がぴたりと止んだ。
「落ち着け、勝手に飛び出すな……なんだ、どうした急に止まって」
慌ててパンクを追いかけてきた三人のうち、ヴォイドが尋ねる。
「カメラ、壊されてねぇか?」
パンクは声を潜めつつ、目を凝らし、玄関口付近を指差しながら、予想外の事を口にした。
「なに?」
「よく見ろよ、ケーブルが切断されてやがる」
その言葉にまさかという表情を浮かべかけたヴォイドたちだったが、すぐに胸の奥でざわついた物を感じた。先んじた仲間の指摘の通り、玄関口の軒先にぶら下がる円筒型の防犯カメラは、その映像送信用の細いケーブルを壁中に埋めつつも、中ほどからばっさりと切断されていたのである。
ゆっくりと歩を進めて、詳しく確認する。切断面からして、ナイフやカッターなどの鋭利なもので切られた可能性が高い。不可解な状況の最中、それだけは判別がついた。
「なんなの、これ」
アンジーが目を皿にして唖然としていると、耳元でガチャリと音が鳴った。ドアの開錠音だ。もう電子ロックの破壊に成功したのかと感心して振り返るが、そうではなかった。
「オーウェルお手製の
真っ白なドアに取り付けられた真鍮製のノブを握りながら、信じられないといった顔つきで、仲間を交互に見やった。
「不用心という言葉で片づけるのは難しいな」
「先客か?」
「いかんとも判断しがたい。が、可能性はある」
異様な気配を嗅ぎつけて、ヴォイドがいつになく真剣な眼差しで指示を出す。
「パンクはそのまま正面から、俺とアンジーは裏口を攻める。邸宅の全階層図面を直ちに共有する。電子の目と声を常に使えるようにしておけ」
「ちょっと待てよ、こいつはどうすんだ。誰が連れていく?」
三人の輪から少し外れたところで所在なく周囲を観察しているニコラへ、くいっと顎を向けながらパンクが尋ねた。その瞳に、子守なんて御免だという意図が、ありありと含まれていた。
「奇跡の少女のことか?」
「うん? そうに決まってんだろ」
「お前が連れていけ。俺は見ての通り右手のワイヤーが使い物にならない。何かあった時に少女を守れないとなったら困るだろ?」
「え、いや、おい」
「頼みましたよパンク。くれぐれもヘマは犯さないように」
半ば押し付けるようにして、アンジーとヴォイドは颯爽と裏手へ回った。後には、野蛮さを内に秘めた銃撃手と、この状況において、まるで他人事のように振る舞う少女だけが残された。
「誰がヘマなんてするかよ……おいニコラ」
「なんでしょ?」
「ちょっと準備すっからよ、そこに立ってろ。勝手にうろちょろすんなよ」
パンクはニコラを近くに立たせると、装備の再調整に取り掛かった。狙撃銃をアタッシュケースへ戻し、高電磁ナイフを手に取った。最大出力で鋼鉄製のチェーンをたやすく溶断することができる特注製の代物。それを三本、ジャケットの胸ポケットを改造したナイフ・ホルスターへしまい込んだ。それからマガジンを一つ、これまた袖口を改良したマガジン・ポケットへ収納すると、アタッシュケースからメタリックに輝く自動拳銃を手に取った。ケルベルスM73、三十八口径。グリップの感触を右手で確かめつつ腰のガン・ホルスターへしまい込み、左手でケースを閉じる。
再びアタッシュケースを背負い、銃を構えながらゆっくりとドアを押し開く。高級ホテルのエントランスホール並みの広さを誇るロビーへ、一歩足を踏み出す。
離れまいと、ニコラがジャケットの裾をちょこんと掴む。それを煩わしく感じながら、パンクは機械化された眼をチリッと光らせた。
〈状況開始。視界は良好〉
脳裏で電子の声を出す。あくまで軽やかに。静止した空間が放射する、冷え込むような空気に呑まれないよう努めるためだ。
外とは異なり、灯りひとつとしてない暗闇が支配する室内だ。当然、肉眼で判別するには視界状況が悪すぎる。だが機械化された目を起動し、電子的に把握するとなれば、話は別だ。
図面と照らし合わせて確認する。ロビーの右手にはクロークが、左手にはカウンターがあり、その上に分厚い名簿帳が置かれていた。上層から社の方針について意見を乞うために
ロビー正面の右と左から緩やかなカーブを描いて二階へ続くそれぞれの階段。その対照的なデザインをさらに強調するように、ロビーの中央に白亜色の杖持つ賢者の彫像が門番のように君臨している。見ようによっては、老人にも青年のようにも見える。不思議な存在にやや圧倒されつつも、パンクはハンドガンを構えながら、不審な人物の陰がないかどうか、改めて周囲を確認するのに徹した。カツン、カツン。冷たい足が捉えるのは、大理石の床だ。
ふっと真上を見上げる。飛び込んできたのは、四階建ての豪邸を垂直に貫く、吹き抜け構造の天井。神話の英雄や天使や受胎告知や洗礼やらを描いたフレスコ画の複製品にステンドグラスが、あちこちに飾られている。れっきとしたバロック建築由来の装飾。モダンなデザインの外観とは、あまりにも不釣り合いに見えた。
階段の先を観察する。黄金色の手すりのついた廊下に沿うかたちで、各小部屋のドアが見える。そのドアにも、一級の彫金師の手による精緻な造りのレリーフが彫られていた。どこもかしこも贅を尽くしているのが丸わかりで、パンクは不快そうに顔を歪めた。
〈気に食わねぇ。目に毒なものばかり並べてやがって〉
愚痴を零しながら、視覚野上に《
〈そっちの具合はどうだ?〉
クリアリング完了の意味を込めて、図面上のロビーをマーキングしながら電子の声を飛ばす。
〈予想外に入り組んでいる。俺もアンジーも面食らっていたところだ〉
〈あん?……まぁいいや。こっちはいたって順調、とくにおかしなルートもない。このぶんだと、ギュスターヴの野郎も早く見つかりそうだな。奴のいそうなところは?〉
〈もう七時を回っている。バスルームかダイニングルームか。それともすでに床に就いている時間か〉
〈ベッドルームね……おっと、三階か〉
〈どうした?〉
〈やけにデカいぜ。キングサイズだ。さすが金持ち。壊し甲斐がある〉
〈本当に壊さないでくださいよ〉
アンジーが釘を刺してきたところを、当のパンクはケタケタと電子の声で笑い飛ばした。
〈冗談に決まってんだろ。〉
〈二人とも警戒を怠るな。不確定要素の介入に注意を払え〉
〈
〈
〈少し時間はかかるだろうが、問題ない。パンクはベッドルームへ直行してくれ。忘れるなよ。やるべきことは〉
〈わーってるよぉ。自家用ヘリがどこにあるか聞き出すんだろぉ? ガキの使いじゃねぇんだ。殺すのは交渉が終わってからだってことは承知してらぁ〉
意気揚々と通信を切り、パンクは、ニコラを同伴しているという意識をほとんど忘れかけていた。これから仕事を遂行するにあたって、そういう心になるのも、パンクにしてみれば当然のことだった。
奇跡の少女。確かにそうなのだろうが、現状は敵でも味方でもない、ただの傍観者。言うなれば足手まといだ。足手まといに気をつかう必要がどこにある? 面倒見の良さなど、戦場では糞にも劣る不純物だ。いかに標的を処理するか。どれだけ敵を冥土の旅へ送ってやるか。それが全てだった。
「これから階段に向かうからな。どたどた音立てんなよ」
足手まといに対して口にするのに、これほど適切な言葉もなかった。ニコラは黙って頷くと、相変わらずパンクのジャケットの裾を握りしめたまま、彼の後について、螺旋状の階段を確実に、それでいて俊敏に駆け上っていった。
「(それにしても)」
視覚野上で改めて三階部分の図面を確認する。なんて広さだ。キングサイズのベッドルームと言ったが、よくよく見ればそんな範疇に収まるものではない。なにせ、
二階の探索もそこそこに三階へ。図面と照らし合わせて位置を確認。二つ向こうのドア。門の上に座って地獄を見下ろし、思索に耽る詩人のレリーフが象られている。電子ロック式ではない、古めかしい鍵穴タイプのドアだった。どうやら外観を徹底して現代化する一方で、内装には伝統を重んじた調度品で賄うというのが、邸宅の主の趣向のようだ。
〈目標地点前に到達。そっちはどうだ?〉
〈まだ一階だ。図面と照らし合わせているが、やけに複雑な通路が多い〉
〈みたいだな。こっちからでも確認できるぜ〉
裏口と玄関口からとでは、辿るべき構造に違いが出るようにしているのだろう、とパンクは結論を出した。専ら、侵入者を攪乱するために。なにせこれだけ広い豪奢な邸宅なのだ。中層と言えども金に飢えた強盗集団や不審者は当然いて、彼らの牙から蓄えた財産を守るのに、これくらいの防護策を敷くことは当たり前のことなのだろう。
〈時間がかかりそうなら、先にベッドルームから洗っていくぜ〉
〈そうしてくれ。こっちはまだ時間がかかりそうだ〉
〈心配すんな。ジジイ以外に誰かいたら、問答無用で撃ち殺すからよ〉
〈そうしてくれ〉
通信を切る。ふぅと、パンクは一つ深呼吸した。
「(そうしてくれ……ね。ヤツにしちゃあ、あっさりとした物言いだな)」
パンクは両手で銃を構えつつ、壁を背に、すり足になってドアへ近づいていった。
「おい」
振り返ってニコラを呼び、顎をドアへ向ける。意図を汲んで、ニコラが少し驚いた顔になって、自身を指差した。「私がやるんですか?」と、言いたげな風に。
「確認して欲しいだけだ。ほら、早くしろ。チンタラするな。キビキビ動け」
せっつかれるがまま、ニコラはなるべく足音を立てないよう慎重にドアの前へ移動すると、おそるおそる、ドアノブへ手を触れた。
ガチャリ、と音がして、ドアがわずかに部屋の奥へ吸い込まれた。蝶番が短く奏でたその無機的な響きが、パンクの意識下に戦慄を生み出した。
「(罠か――?)」
冷や汗がこめかみを垂れる。ドアノブに破壊された形跡はなかった。侵入者に先を越されたのだろうか。あるいは、ギュスターヴが鍵を閉めるのを忘れただけか?
どのみち、飛び込まなければ始まらない。罠だったら罠で、その時は対処してやりさえすればいい。それだけの力を備えてきたのだから――経験に裏打ちされた覚悟と自信で自らを鼓舞して、パンクは決断した。
左手でニコラをどかしてドアの前に立ち、右足で思い切り蹴り抜いた。蝶番が吹き飛ぶかのような勢いでドアが押し開かれ、銃を正面に構えながら、即座に身を滑り込ませる。
どこにも異常はない。
安堵の声を漏らしかけた時だった。
突然、目の前で白い光が爆発した。それはほとんど目眩ましとなって、パンクの電子化された網膜に多大なストレスを与えた。
電灯スイッチに手も触れていないのに、部屋中の照明が一斉に点灯したのだ。
電子的な遠隔操作――オーウェルのサポートではない。
危機の襲来を直感するやいなや反射的に頭を下げ、予期せぬ刺激に慌てて目を瞬かせていると、カツンと音が鳴るのを聴覚が捉えた。
正面へ向き直る。ぎょっとした。どこからともなく、銀色の野球ボールサイズの球が、
その得体の知れぬ銀球へ向かって、ほとんど衝動的に、パンクはハンドガンの引き金を引いていた。かつて戦場に身を置いていたものが見せる、反射的行動と言える領域まで昇華された肉体反応と言えた。予想外の事態に直面し、予想外の代物が目の前に飛び込んできたのだから、彼の行動には緊急の事態を持てる力で打開せんとする、兵士としての一貫性があった。
銃弾が真芯を捉えても、銀球は壊れなかった。爆発することも、破片の一つすらも飛ばすことはなかった。銃弾の運動エネルギーをもろに食らって大きく弧を描き、床に小さく跳ね返った。澄んだ音が、広々とした室内に木霊した。
電子の目ですら捉えることのできない
突発的な変調を自覚するや否や、驚きのあまりカッと目を見開くと、パンクはその場に膝から完全に崩れ落ち、冷たい床へしたたかに頬を打ち付けた。起き上がろうとするが、足にも腰にも、床に落ちた銃を拾おうとする手にも力が入らない。力を入れようとすると、その力自身がどこかへ流れてしまう感覚。なぜだ。何が起こった。そう咄嗟に叫びたい恐慌に陥りかけたが、喉が痙攣してそれどころではなかった。
いや、喉だけではない。パンクの意志とは無関係のところで全身が震えに震え、神経の一本一本を金属のヘラで撫でまわされているような、くすぐったい痛みに支配されていた。そのせいで、ほとんど強制的に電子の目を肉眼へ切り替えざるを得なかった。
瞬間、視界に飛び込んできた部屋の様相を目撃したパンクは、全身を蝕む奇妙な痛みが、一瞬吹き飛ぶほどの驚愕を覚えた。
そこは、豪奢な邸宅には全く似つかわしくない部屋だった。四方の壁も、天井も床も、全てが剥き出しの
あって当然なはずのキングサイズのベッドは、
ホログラムか? そう疑いかけたが、頬に伝わるコンクリートの冷たさは本物だ。
「殺風景なのは気にしないことだ。野良犬を閉じ込める檻には、ベッドも、洒落た壁紙も必要ないからな」
部屋の奥に開け放たれたドアがあり、そこから男の足が近づいてくる。
「そうそう、君が撃ったあれだが……神経の電気信号を狂わせる非殺傷兵器だ。君達のようなサイボーグを無力化させるという目的で開発し、近いうちに市警にも試供品を送る事になっている。レーヴァトール社の新たな目玉になる可能性を秘めた製品だ。しばらくそうして、床を枕にしていたまえ」
仕立てたばかりの高級スーツ。その内側に、雪原のような色合いのシャツ。
真っ黒な裾から伸びる、ダークブラウンの高級革靴が、カツカツと音を立てる。
「飼い犬に手を噛まれるのを待っているような私だとでも思ったか、見立てが甘かったな」
見上げることは叶わず、だが声の主が誰なのか、パンクは思い知らされた。
「君達には感謝したい気持ちもあるが、期待外れだった面もある。その目は意外にも曇っているようだ。監視カメラのケーブルが切られていたのに、疑問に感じなかったのか?」
真っ白な口髭を蓄えたギュスターヴ・ナイルが、状況に似合わず、どこか深沈とした調子で問い質した。
「それとも、頭に浮かんだ疑問を『ただの思い過ごし』として振り払ったのか? 常勝組織というのも考え物だな。経験に胡坐を掻き、悪い意味で『慣れて』しまったが故の、早計な判断としか言いようがない。警備兵の死体をよく観察しなかったのが、運の尽きだな」
麻痺に倒れ伏したままのパンクは、言葉の一つすら返せずにいる。それを承知の上で、ギュスターヴはつらつらと喋り通した。ぞくりとするほど淡々とした調子で。目標とする営業利益を達成した事実を、当然のものとして一蹴するような冷たさが滲んでいた。
「あの警備兵たちは死体安置所から引き取ってきた、半分生きて半分死んでいる肉の彫像だ。ダミースキン、遺伝子迷彩技術を用いて肌の色を生者そっくりに変えてある。白人を黒人に、黒人を白人に。肌の色一つで印象は変わる。死せる者を生ける者として偽装できるかどうか検証したい意図も含まれていたんだが、無視されたとあっては話にならんな。ふむ、返事はなしか。効果はてきめん。いいデータが取れそうだな。おい、ロウウェル」
「はい、たしかに」
呼びかけに応じて、ドアの向こうから一人の青年が姿を見せた。上下共に焦げ茶色のスーツで固め、決して主人より目立つことのないよう、目につく箇所に装飾品を全く身に付けていないぶん、その端正な顔立ちがより際立ってしまっているような男だった。その傷一つない優男風の手が、ニコラの肩へ静かに置かれている。
「よしよし、こっちに連れてこい」
若き執事のロウウェル・フェザーハットは少女の肩からそっと手を離すと、まるで最高級の工芸品に触れるように優しく手を握り、主人の側まで連れていった。ニコラは黙りこくったまま、ギュスターヴを見上げた。その幼い顔つきから感情の一切を読み取ることは不可能であったが、結果を手にしたギュスターヴは満足したように一度頷くと、足下に這いつくばるパンクを一瞥して告げた。
「ご苦労だった。これにて、君達の任務は無事に終了というわけだ」
頭上から落とされた突き放す一言を耳にして、パンクの心が千々に乱れる。死せる相棒、リガンド・ローレンツが今朝口にしたばかりの所感が、まざまざと脳裡に蘇った。
投資家性分らしく定石を踏む傾向にある。確かに表向きはそうなのだろう。だが巧妙に隠された本性は、世間で言われる通りの《人食い鰐》で間違いなかった。それもひどく狡猾な類の。ただのこけおどしのネーミングではなかった。身を以て、それを思い知った。
〈パンク!〉
脳裏で響く、ヴォイドの怒号。依然として一階から先へ
〈お前の頭蓋骨にはおがくずでも詰まっているのか! どうして勝手に動いた!? 到着するまで待てと言ったはずだ!〉
〈なんだとテメェその言い草は! んな話、俺は聞いてねぇぞ!〉
急に梯子を外されたショックと疑問符が交じり合い、気付けば電子の大声で怒鳴り返していた。
〈OKを出したのはそっちじゃ――〉
だが言葉の途中で、はっと気付いた。気付いてしまった。
世にも恐ろしい仮説が脳裡に浮かんだ。
完全に足元を掬われたという、恥辱に似た後悔を抱いても、何もかもが手遅れだった。
「さて……」
革靴の先で、床に落ちたハンドガンを蹴る。滑るように部屋の隅へ転がったそれには一瞥もくれず、ギュスターヴは剣呑な眼差しでパンクを見下ろした。
「浅はかにも主人へ噛み付こうとした罪に、いかなる罰をくれてやるべきか、これはとっくりと考える必要がある。が、せっかくだ。ここまで私の思い通りに事を運んでくれた礼に、色々と種明かしをしてやろう。もう感づいているだろうが……君達の回線はすでにこちらで押さえてある。私は今朝からずっと、ここで君達の秘密の会話を、盗み聞きしていたのだよ」
わざとらしく顔を傾け、右耳にはめ込んだ受信機を見せびらかす。
「はは、驚いているようだな。それもそのはずだ。なにせ君達にはオーウェンだかオーウィーだかいう電子兵がいるのだから。なかなか、ずいぶんと厄介なサイバー・ワームを
おもむろに、スーツの懐に手を伸ばす。取り出したのは赤いカバーに包まれた、八インチのタブレットだった。
唐突に、パンクを一つのビジョンが襲った。最悪のビジョンが。
リガンドを亡くした今、最もあってはならない事態。
そんなことにはなっちゃいないはずだ――だがしかし、必死に捻り出す希望的な思い込みも、凶兆の波しぶきを前にしては、あっけなく砕け散るだけだった。
「もったいつけるのは私の性分ではない。事実をしかとその目で確認し、いかような結果だろうと受け入れ、己の中で消化することだ。それが次の機会を掴めるチャンスを産む。君達に『次』があればの話だがね」
ギュスターヴの骨ばった指先が、なんのためらいもなく、タブレットの電源ボタンを押し込んで、スリープ状態から立ち上げた。カバーを操作してスタンドにし、パンクの目の前にそれを置くと、さっと親指をスライドさせて画面をアンロックする。
黒い画面に、突如として映像が現れた。それは言葉よりも雄弁に、事実を物語った。
画面の向こうで、砕かれた骨の一片が、蠅や蛆の来訪を無言で待ち続けていた。
「見事な
パンクの瞳が驚愕に見開かれ、鼻梁は怒りに膨れ、唇は口惜しさに強張った。
ギュスターヴの淡白な声も、無機質なコンクリートの肌触りも、遠くにある。
八インチの映像だけが、パンクの視界と意識の全てを支配していた。
〈ヴォイド……見えてるか……〉
戦場で数多くの人間を撃ち殺してきた男の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
〈オーウェル……オーウェルが……ちくしょうなんでこんな!〉
〈そうしてくれ〉
〈ふざけてんじゃねぇぞ! 何言って――〉
〈そうしてくれ〉
どっと、背中から脂汗が滲み出た。
〈テメェだれだ!?〉
〈天国だよ! 天国だよ! キヒヒヒヒィイイイイイイ!!〉
壊れたラジオスピーカーのような叫び。脳細胞の一片一片を侵していくかのような、聞き覚えのある声。叶うなら二度と耳にしたくないと願った、狂人の勝ち誇るような奇声が鼓膜を撃ち抜き、パンクの顔から、ますます血の気が引いていった。
そこで初めて、鉄皮面を貫いていたギュスターヴが面白そうに口角を歪めた。
「そう驚くな。私のサーバーを散々荒らし回ってくれた、せめてもの礼だ。君達ならそうするだろうと思って、あらかじめ、アクセスした先の回線を片っ端から汚染していくマルウェアを図面に仕込んでおいたのだよ。邸宅の一角が、あたかも複雑な通路と化しているかのように錯覚させる種類の代物だ。機械化された肉体では、生身の肌感覚よりも、より電子的な感覚が優先される傾向にある。特に君達のような、電子的補助を受けて仕事や生活を送る人間には、それが顕著だ。マルウェアを仕込まれているのにセキュリティ・アラームが鳴らなかったのは、君達の回線を提供している協会お抱えの情報サービス会社へ侵入し、ウイルス検知のレギュレーションを最低レベルに変更させてもらったからだ。なぜそんな事が可能なのか? 単純な話だ。
〈天国だよ! 天国だよ! キヒヒヒヒィイイイイイイ!!〉
〈ヴォイド! アンジー! 聞いたか!? 図面は破棄だ! 肉眼に切り替えろ! 回線も侵されている! こっちの声がダダ漏れだ! 早く!〉
しかしその必死の呼びかけもまたギュスターヴには筒抜けであり、回線を捻じれに捻じった張本人の狂声に遮られるばかりで、望む相手には一向に届かなかった。
「何度呼びかけても同じことだ。彼女の力を侮ってもらっては困るなぁ」
ギュスターヴは微笑みを浮かべると、腰を下ろし、再びタブレットに手を触れた。新たな画面がスワイプされた。アンティーク調のタンスやベッド、豪華なグランドピアノに、不釣り合いなほどの威容さを誇るサーバーが立ち並ぶ一室。その中央。一枚板の木製テーブルに置かれた電子機器に向き合う人物。映像のピントはそこに当てられていた。
「隣の部屋にいるんだが、なにぶんシャイな奴でね……人前に姿を現すのは、
重厚な電動車椅子に乗せられた、病的なまでに肌の白い一人の少女。小さな丸顔は
「マーガレット・ナイル。その精錬なる名を捨て『
途方もない衝撃。
その昔に、あの恐るべき
鉄橋で大立ち回りを演じた、あの奇怪な人外集団。彼らとギュスターヴは初めから裏で手を組んでおり、自分達をここまで追い込んだに違いない。こちらに叛意があることを、回線の盗聴や、サーバーへの侵入痕跡でギュスターヴは確信したのだろう。オーウェルの後始末に不備があったわけではなく、
それは正確に言えば
《
そのことを一番知っているのは他でもない自分だと告げるように、ギュスターヴが口を開いた。おぞましいマジックの種明かしを、喜々として喋り出すかのように。
「二重スパイだ。諜報の世界において、最も危険で最もやりがいのある職務に彼女を就かせたのだよ。
なぜ警備の厳重な精神病院から、それも委員会の連中がひた隠しにしたがっている人物を自宅に引き取ることができたのか。それこそ、都市随一の大企業、レーヴァトール社の重役という地位に収まっている者の成せる業と言えた。病院関係者にカネを握らせ、カネで動かない者はエージェントを通じて身辺を調査させ、ゴシップをネタに強請をかける。この都市で限られた椅子に座る者に、やましい過去がないなんてことはないという原理原則を徹底的に利用し、骨抜きにしてから、まんまと娘を引き取った。それが二週間前。ちょうど、ニコラの存在を察知した時期だった。
病院の隔離施設は、放射線すら通さない頑強な鉛で造られており、患者を収容している個室へ面会に赴くのにも何重ものドアロックを解除せねばならない。患者同士のコミュニケーションは全く容易ではなく、そのため、密かにマーガレットことピアフ・ザ・ディーヴァの身元がギュスターヴに引き取られた事実を知る者は、極めて限られていた。
「……自分の娘を」
パンクがうめき声に混じって、何かを口にした。床に這いつくばり、懸命に体を動かそうとしているが、やはり力が抜けていく。それでも声帯部分は――音響装置の移植のために特に入念なシールド処理が施されたそこだけは――正常な働きを取り戻しつつあった。それを見て、ギュスターヴが片方の目尻に皺を寄せて、覗き込むようにして言った。
「これは驚いたな。たった五分でもう喋れるまで回復したか」
「娘を健常者に戻すためか? そのためにニコラを手に入れようと……」
「ほう、ニコラか。ふむ、
わざとらしく肩をすくめると、覚えの悪い学生に言い聞かせる教師のような態度で、ギュスターヴは言った。
「
得体の知れぬ告白をするギュスターヴを、パンクは燃えるような眼差しで睨みつけた。痺れるような痛みを眼球に感じたが、そんな痛みは些細な事だった。
静かな怒りが、体の内側から迸り続けた。憎しみとはまた違う、純粋な『怒り』だった。ある種の傍観や諦めにも似た境地に陥った末に生まれた激しい感情だった。理解できずとも納得してしまったがゆえに生まれた、心の波動だった。
依頼を受けた時から感じていた違和感。なぜこんなにもギュスターヴ・ナイルのことが気に食わないのか。下々の者を見下すような態度のせいだけではないように感じていた。言動の端々から滲み出る老獪な企業人の人となりに、どことなく覚えがあったせいだと、ここにきてはっきりと確信した。
過去の亡霊。とっくの昔に記憶の墓場に葬り去ったはずの屍。
それは絶対に許されない罪であり、ありとあらゆる罰を下してしかるべきという強靭な意志が、パンクの胸中で、激しくも冷たい渦を巻き起こしていた。
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